2201/7/24/20:54 棗
「こんなに地球が壊されてるのにさ、夜にはちゃんと星が見えるってすごいと思わない? そこだけ昔と変わらない、大自然みたいで」
すでに日は暮れて、夜の世界が台頭していた。
わたしはケルスティンの“夜のお気に入りの場所”に案内され、彼女と並んで錆びたフェンスに
*
地下の先代の人たちはホームレスと呼ばれていたそうだ。その名の通り住む家を持たず、路上暮らしをする人たちだ。やがてそこに、日本に来たけれど何かの理由で居場所のなくなった外国人も混じって、ひとつのグループみたいになった。地下はその子孫なのだという。
地下の人たちは働いていないし、国民として登録されていない。存在は前から知ってはいた。レクチャーで扱われたことはなかったけれど、ニュースで時折取り上げられるし、職員同士の会話で話題にしていたのを聞いたこともある。社会問題、などと言って誤魔化すけれど、大抵の大人は地下の人たちのことを快くは思っていないようだった。あからさまに言わなくても、そういうことは言葉の響きから子どもでもなんとなく分かる。彼らには道徳感覚がない。不潔である。そして何やら良からぬことをしているらしい。出来ることなら関わりたくない、ワンランク下に見られている人たち──わたしが今までに得た、地下についての情報だ。
ケルスティンの兄と別れたのち、少し不機嫌になったケルスティンに地下の隅々まで案内してもらった。内心、時時どこからともなく聞こえる音や薄暗さが怖かったし、おまけにわたしはまだケルスティンの兄に与えられたダメージから立ち直っておらず、地下の他の人たちにこれ以上会いたくないと思ったのだけれど、ケルスティンがわたしの手をぐっと掴んでずんずん歩くので自己主張の苦手なわたしはただ為すがままに彼女の後に従う羽目になった。
最下スペースの大半は、細長く地面をくり抜いて内側をコンクリートでコーティングしたような空間だった。無骨で、不思議で、見慣れない。
──外国みたい。
実際、ここは外国なのだ。東京の地下にある、わたしたちとは全然別のルールで暮らしている小さな共和国。
細長い空間は果てしなく続いているように思えた。わたし達は奥へ奥へと進む。
進むにつれ、ちらほらと人がいた。その度わたしの体と表情は硬直する。ケルスティンがわたしにはよく分からない説明をして相手にわたしの居住を納得させる。リサと同じなら、そんな言葉が耳に残った。リサと同じなら、仕方ないね。
もっと拒絶されるかと思っていた。ケルスティンの兄みたいに。でも実際は全員がわたしのことを不快に思っているわけではないのかも知れない。
──仕方ないね。
わたしは何らかの理由で許された。“リサ”と同じ理由で。リサとは誰だろう。ケルスティンは事情をどう説明したのだろう。
地下の人たちは大抵三、四人かたまって何かをしていた。話し込んでいる人、小さな子どもをあやす母親、それから繕い物みたいな事をしている人たちもいる。寝ている人もいた。
イメージしていた地下とは、かなり違っていた。地下は不潔、地下は野蛮、地下には秩序がない──それは大人たちに植え付けられたイメージだったのかも知れないけれど。
そう、ただ避けているだけで実際に足を踏み入れて地下の様子を見た人なんてセンターには一人だっていないだろう。いないけれども、全部知っているような気になって、見てきたような気になって、彼らを馬鹿にしてしまうのはどうしてなんだろう。わたしの目に今映っている地下の人々は、センターで見る人と何も変わってはいなかった。
ただ、生まれ育ったのが地下だったというだけだ。国籍のない親から生まれたから国籍がないというだけだ。
わたしが、センターに
ケルスティンはあの人達に、わたしがセンターの子だという事は告げたのだろうか。知らないからあんなに寛容な態度なのだろうか。わたしがセンターから来たと知ったら、さっきの人達の態度は変わったりするのだろうか。
細く長く続いていた地下の最下空間は、その終わり方がとても唐突だった。
ちょうど、筒型の容器に蓋を嵌め込んだかのように、コンクリートの無機質な壁がまだまだ続きそうなその先を塞いでいた。
「ほら、ここ昔はチカテツだったから」
ケルスティンはその壁に寄りかかる。そういえば、昔は地下鉄という乗り物が移動手段として活躍していたという情報を見たことがある。ここがそうなのらしい。
「地下鉄って街のどこにでも繋がってたらしいじゃん。そのままだったらここに住んでるあたし達は街中どこにでも行けちゃうわけ。それは堪ったもんじゃないって政府がね、塞いだの。この先の地下はモビリティのパーキングとかに造り変えられてる」
じゃあ、この壁の先はわたしが今まで住んでいた世界なんだ、そんなふうに思った。
「一番下はこんな感じ。次、上見せてあげる」
ケルスティンは乱暴にその壁を蹴って勢いで軽く走り出す。彼女の不機嫌は大方おさまったようだった。細長い空間を抜けて、長い長い階段を重力を無視して軽やかに駆け上る。スクリーンでしか見たことのない、小さくて素早い野生動物みたいだ。わたしは階段を使うこと自体久しぶりで、滑って落ちそうな感覚になってちょっと怖い。ケルスティンはそうは思わないのだろうか。
階上でやっと追いついたわたしは膝に手をついて肩で息をした。
「体力なさすぎ」
ケルスティンは可笑しそうに笑う。わたしは不服だ。ケルスティンの方が動きすぎるのだ。
「ここのフロアは平らで広いからみんなで集まるときに使うの。あと、料理したりする場所とかシャワーできるとことか。それから奥の仕切られてるとこにはメインスクリーン」
──スクリーンとかあるんだ。
もっと原始的な暮らしをしているのかと思っていた。でも、言われてみればケルスティンはわたしよりニュースに通じていたなと思い出す。シャワールームへと案内するケルスティンについて歩いて、改めてその広さにため息をつく。
「ここ、何人くらいの人がいるの? 」
「七十人くらいはいる」
そうすると、センターのグループの三つ分くらいだ。多いのか少ないのか分からない。でも、この広さなら充分かもしれない。
「子供は他にいないの? 」
「ん──だいたい大人。一番歳が近いのはロイだけど、四つ離れてて十六歳だし。歳下は幼児とか赤ちゃんとかが三、四人と──」
唐突に言葉を切ってケルスティンはピタリと止まった。わたしはすんでのところでその背中とぶつかりそうになる。
「リサ」
彼女は物陰に向かってそう呼び掛けた。
──リサ。
先ほど聞いた名前だ。わたしは目を凝らす。ケルスティンが駆け寄ると、物陰から小さな女の子が飛び出して鳥のように逃げて行ってしまった。ケルスティンは目を見開いてしばらくその後を追い、姿が見えなくなるとしゃがみ込んで、あー、と唸った。
「リサは──あの子はリサって言うんだけど、注意して見てないとすぐああいう隅っこでじっとしてんの。で、癖でかさぶたとか髪の毛とか抜いて食べちゃう」
わたしは一瞬のうちに駆けて行った少女の姿を思い起こす。服がぶかぶかで、痩せっぽちで、何だか目ばかりが目立っていた。あの子が、リサ。
「たぶん六歳」
「たぶん──って? 」
「捨て子なんだよあの子。あたしが拾った」
なんでか知らないけどいつも緊張してびくびくしてる──ケルスティンは立ち上がりざまわたしを振り返った。
捨てられていたというのは本当だろうか。だとしたらなんて時代錯誤なんだろう。というか、そんなこと不可能ではないだろうか。
「それ、ほんとに捨てられてたの? 迷子とかじゃなくて? 」
「あたしが外に出たらリサが立ってて。冬で、しかも夜中だよ。だいたい普通はこんな場所一般住民は近寄りもしないし。帰るところがないとか言うからとりあえず泊まらせて、もう半年くらい経ってる。行方不明情報にも載ってない」
少し背中がぞわぞわとした。ケルスティンはわたしの目を無遠慮に覗き込む。
「ちょっとナツメと似てた」
──リサと同じなら、仕方ないね。
他に行くあてのないリサ。そしてわたし。
わたしは地下の無国籍難民に拾われた。そしてここで、暮らす。
*
夜。
こんなに改めて、じっくりと星を眺めたことは今までなかったように思う。見ようとしてもライトのたくさん灯ったセンターからでは殆ど見ることが出来なかった。
「いつも思い出すの。星を見ると」
体重を乗せたフェンスをケルスティンはぎいぎい軋ませる。
「宇宙なんだなって」
「宇宙? 」
問うと、彼女は夜空に向けた目線を一瞬だけこちらに寄越して笑った。
「ここは東京だけどさ、東京である前に日本で、日本である前に地球で、地球である前に宇宙なんだなって」
ここは宇宙なんだなって。
「あたし達が今見てるこの黒いのは宇宙だし、光ってるのはすごい遠くのでっかい天体だし。天井のライトとかじゃないの。本当は全然、手も届かないくらいの遠くて壮大な景色なの。全然小さいかけらとかじゃないの」
言われた途端なんだか自分の重みをはっきり感じ取った気がした。ここが本当は宇宙だなんてこと、わたしが思っても思わなくても変わりはないのだけれど。でも、センターにいたらそんなこと考えつきもしなかった。なにしろあの小さな自室ですべて事足りて生活出来てしまっていたのだから。
夜は──不思議だ。
夜は、昼間だったらとても言えそうもない素直な気持ちも力を込めずにするんと言えてしまったりする。そういう力が確かにある。
「──わたし、こういうの初めて」
ケルスティンが顔を向ける。暗さのせいか昼間と違って脅迫的には感じない。
「こういう風に同い年の誰かとお喋りしたりすること、今までなかったの」
センターにはあんなに溢れ返る程の子ども達がいるのに。それなのにルールが厳しかったりみんながみんなバリアを張ったりして、結局全員が独りぼっちだ。
だから、空き土地でいきなりケルスティンが話しかけて来たときは、怖かったけれど新鮮だった。
「あのさ」
ケルスティンの声のトーンが少し下がる。
「最初はあたし、ナツメのことからかおうと思って話しかけた」
──センターの子は嫌いだって言ってたじゃん。
「何かおどおどしてたし、困らせようと思って。そしたら思ってた以上に変わってたから、笑っちゃったけど」
「嫌いだった? センターの子」
うん、とケルスティンは素直に肯定した。
「でも、改めた。今まで嫌いと思ってただけで実際に話したわけじゃなかったし。ナツメと話してみたらそんなに嫌な奴じゃなかったし。思い込んでただけなんだなって」
「わかるよ」
わたしもフェンスを鳴らす。
「そういう思い込み、センターの側にもある」
だからなのだろうか。
だから本当はお互い仲良くできるはずなのに出来ないのだろうか。要するに、そう──コミュニケーションの不足。
「本当はお互い近づかなきゃいけなかったんだよ」
頷いたケルスティンはため息を漏らして「ロイなら分かってくれると思ったのに」と少し顔を歪めた。
ロイ。同じ親から生まれたケルスティンの兄。兄弟がいるというのは一体どんな感じなのだろうと思う。けれども親も兄弟もいない──いるとしても会ったこともない──わたしにはその感覚がよく分からない。
「あ、それと」
そう言ってわたしに向けられたケルスティンの表情はもう元に戻っていた。
「あたしのことはケルでいいよ。そう呼んで。ケルスティンじゃ呼ぶ方も呼ばれる方も面倒だし」
「じゃあ──、そうする」
初めて自然に笑えた気がした。
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