2201/7/24/12:26 棗

ケルスティンに連れられるがまま着いたその場所は、空き土地からさほど離れてはいなかった。

けれどもここはどうしたんだろう。

わたしは別の国に来た錯覚に陥った。



センター周辺の地域は住宅区画や商業区画、工業用道路など土地がきっちり分けられている。用途の決まっていない土地といえばいつも行くあの空き土地くらいしか見かけない。公園だって屋内のプレイルームに取って代わられている。

でもここは違う。控えめに言っても、とても手入れをされているような場所には思えない。物がひどく散乱しているわけでも、不潔なわけでもないけれど。

──見放された。

そう、その表現がいちばん近いかも知れない。

もう随分長い間使っていないような手動式ドアのついている古い店──たぶん店──や、割れたボード、旧型のモビリティ。全てがくすんでいる。

今まで画像でしか見たことがない古いものたちに囲まれている。

ケルスティンはそれらを気にも留めずに先へ先へと行ってしまう。そもそも地面がアスファルトで、しかもひび割れていて歩きにくいったらない。必死で彼女を追って何度かつまずきそうになった。そうしてやっと追いついたその先にある物体に、わたしの目は釘付けになる。

屋根が地面から生えていた。

他にどう表現すべきものなのか、わたしは知らない。一メートル程の外壁だけを残して、その昔風の屋根は矢張り生えているように思える。それはこの不思議な場所の中でも特に異様な存在感を放っていた。

「ここ」

ここに住んでる、ケルスティンは歩みを止めずにそう言った。

「ここに、住んでるの? 」

これは、家なのだろうか。こんな家は見たことがない。少なくとも規格住宅ではない。

「ここがあたしらの家」

「あたし──ら? 」

ケルスティンとその家族、という意味だろうか。ああ、とそこで気がついたように立ち止まってケルスティンは振り向いた。

「説明してなかったけど。“地下”って知ってるでしょ」

わたしはぎこちなく頷いた。

「あたしそこの子なんだ。国籍持ってないからここに住んでる」

ていうかここしか住む場所がない、と彼女は笑った。

──地下。

しばし呆然とした。頭の中で数日前聞いた真希さんの声が自動再生オートリプレイされる。

──地下の人たちなんかはそれが出来ないから寿命が短いわけだし。

一日の外出推奨時間を守れないような環境にいるから。それから、公共の医療機関にかかれないから。

「じゃあ、オフィシャルカード持ってないの? カリキュラムは? 」

カードや、少なくともIコードがなければ色々な公共サービスが受けられない。モビリティを利用することも、センターに通ってレクチャーを受けることも出来ない。カードは持ってるよ、返って来たのは意外な答えだった。

「偽造だけど。仕事用だからそれ以外のことには使えないけどね。センターに通うのも無理」

偽造。仕事。

今まで聞いてきた地下──無国籍難民──の噂と、ついさっき聞いたケルスティンの話が混じり合って混乱する。

「わたし、ここに来てよかった? 」

やっと言えたのはそれだけだった。

「あたしがなんとかするから大丈夫。こっから入るよ」

なんとかするから。

──何を?

こちらの不安などお構いなしに、ケルスティンはわたしの手のひらを掴んで勢いよく歩き出した。




四方を囲んでいたように見えた壁は、その一面だけが手動のスライドドアになっていて、出入りできるよう造られていた。

その先には果てしなく長い階段が地面の下へと続いている。


見るものや聞くこと、地下の子──ケルスティンの態度はセンターで触れるものとは全く違っていて、わたしの感覚はそろそろ麻痺し始めている。普段のわたしなら同年代の子と手を繋いで歩く、という行為だけで相当動揺しているはずだ。

最初の長い階段を下りきると、メインフロアのような空間に出た。入口のあの外観からは想像がつかないくらい広い。ケルスティンはそこを突っ切って更に下へと続く階段へと向かった。

「この辺りは後でゆっくり案内する。まずはロイのところに行かないと。あたしの兄貴」

あいつがきっと一番頑固だから──そう言いつつもケルスティンは何だか楽しそうに見えた。

沈殿しているようなひやりとした空気が肌を撫でる。外の暑さが嘘みたいだ。ケルスティンが言った通り、ここはセンターとは何もかも違う。

フロアも。壁も、天井も、灯りも匂いも──。

どこかから聴こえる水の滴りと、湿った匂い。

──ここが地下。

センターの職員たちが忌避し軽蔑している場所。

直後、背後で声がした。

「ケル」

わたしは驚き肩を震わせた。恐る恐る振り返る。

──高い。

背の高い、鋭い目つきの若い男の人がこちらを見据えていた。その咎めるような視線はケルスティンを捉えている。

ケルスティンを「ケル」と呼んだその人は、ロイとかいうケルスティンの兄なのだろうとすぐに分かった。ケルスティンと同じ目の形をしている。

──怖い。

わたしは身をすくめた。この人がわたしのことを見て何かを言おうとしているのは明らかだったし、わたしの存在を快く思っていないことも感じ取った。その顔はにこりともしない。

いつかどこかのコンテンツで観た、強い肉食獣に睨みつけられた小動物みたいに、わたしはその場から動けなくなってしまった。

「誰、その子」

「ナツメ。センターの子。お嬢様だよ」

ケルスティンはけろりとした顔でそう言ってのけた。

「わたし──お嬢様じゃない」

「ちょっと外出するだけで騒がれるんだからお嬢様でしょ。大事にされてるんだよ。国から」

国って誰よと思う。

「しかも変わってんの」

家出して来たんだって、ケルスティンは兄の方に向き直ってさも楽しそうに続けた。

「ここで暮らしてもいいでしょ」

その口振りに、“なんとかする”というのはこれのことか、と得心する。物事の決定権は彼が有していて、わたしがここに受け入れられて暮らすには彼の承諾が必要なのだろう──なんとなくそう思った。多分、当たっている。ケルスティンの表情がそう物語っている。対する兄の方は感情がないみたいに無表情だ。

「家出して来たんなら自分の力で生きればいい。ケルが世話を焼く必要ない」

彼は冷たく言い放った。終始ケルスティンに向かって話し、わたしのことを見ようともしない。その態度は、センターで子どもたちがお互い無関係を装う態度とはまた違う。先ほどの言い方にしてもそうだけれど、まるでわたしが話すことの出来ないかのような──犬や猫でも見るかのような、そんな態度だった。

──人として見られてない。

体のなかの何かがひやりとして、内臓を手のひらで圧迫されるような苦しい感覚をおぼえる。こんな接し方をされるのは初めてだった。

「ケルスティン」

わたしは彼女と繋いでいた手をそっと解いた。

「もう、いいよ。ひとりで大丈夫だから」

ほんとうは不安だったけれど。でもわたしは確かにさっき自分の力で生きると決めたのだし。それに、この内臓の感覚は耐えられないと思った。

ケルスティンはすごく嫌そうな顔をした。どうして彼女はこんなに気持ちと表情をリンクさせることが出来るのだろう。わたしの方は、傷付いたって悲しくたって、どういう顔で他人に表現したらいいか分からないのに。

「ナツメは良くてもあたしは嫌なの」

加えてケルスティンは言葉ではっきり自分の意見を言って、まっすぐわたしの顔を見た。この視線はわたしにとっては半分攻撃で、そうやって見られると彼女に上手に逆らえなくなる。

しばらくは誰も口を開かなかった。

やがて沈黙を破ったのは、ケルスティンの兄だった。

「勝手にすれば」

呆れたようなニュアンスだった。

「どうせ足手まといになる。気も利かない、仕事も出来ない──ケルが全部責任取れよ。俺は知らない」

お前が拾って来た動物なんだからお前が面倒をみろよ──わたしにはそう聞こえた。

「勝手にするよ」

ケルスティンも言い返した。

「ナツメはここに住むから。ロイなんか知らない」

行こ、と言ってケルスティンは離していたわたしの手を勢い良く引っ張って歩き出す。

うしろからケルスティンの兄の静かでよく通る声が追いかけてきた。

「お前、センターの子は嫌いだって言ってたじゃん」

うるさいよ! 」


その大きな声は、地下中に響いてこだました。

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