2201/7/24/10:38 棗
それは、確かに呼んでいた。
気のせいではない。この前感じ取ったのと同じものだ。
わたしを、ではない。そうではなく、その呼び掛けに応える誰か。
誰かを呼んで、誰かを待っている──そんな気がした。
気配の正体を知りたくて、わたしは窓に押しつけていた顔を更に強く押し付ける。
拍子に窓が、かくん、となった。
驚いて顔を離す。ドアも窓も、鍵は全てカードでロックできるようになっている。たしか二日前に真希さんがこの部屋の窓もドアもしっかりロックしていたはずだ。確かめるように手のひらでもう一度窓を押してみた。
──やっぱり動く。
そのままスライドさせるように左側へ力を入れる。
「──あ」
窓は難なく開いた。見ると、ロック部分の金具のツメが欠けていた。夏の熱い風がこちらへ押し寄せてくる。
──どうしよう。
職員に知らせて、修理の依頼を依頼すべきか。それとも。
──今なら。
今ならここから外へ出られる。気配の正体を確認できるかも知れない。職員たちの不穏な空気の理由も分かるかも知れない。
──駄目。
わたしは自制しようとした。今は軟禁中なのだ。何度も、何度も、何度も注意された挙げ句の結果なのだ。今度こそちゃんと決まりを守らなければならないし、守りたかった。分かってはいながらも、わたしは窓に手を掛けたまま閉められずにいる。姿の見えないあの呼びかけはわたしを強烈に惹きつける。
窓は開いている。
行こうと思えば行ける。
今出なければおそらく二度と自由に外へ出られることはない。しばらく逡巡した。
ふと、時間表示を見ると十時四十八分になるところだった。
──まずい。
十一時になれば、清掃担当のヘルパー職員が部屋にやって来る。きっと窓の異変にも気づくことだろう。そして業者に修理を依頼することだろう。そうすれば、この窓から脱出することは出来なくなる。
出るのなら、今しかない。
わたしの部屋は四十階で、最上階の東側に位置する角部屋だった。高さを考えれば身の竦む思いだけれど、窓の下の外壁には足先が載せられる程度の出っ張りがあるし、東側の突き当たりにはメンテナンス作業用の梯子が付いているのも知っている。窓から出っ張りを伝って東に移動し、三メートルほど離れた梯子に辿り着きさえすれば、脱出はそう難しいことではない──ように思えた。
わたしは後ろ向きになり、窓から足を下ろした。思ったよりも幅が狭い。
──うわあ。
バランスを取るのが難しい。つま先にしか足場がない。
足の向きを横に変えて壁と体を密着させ、そろり、そろり、と慎重に進んでいく。
──怖い怖い怖い。
下を見たら駄目だ、とわたしはわたしに言い聞かせた。壁を伝って梯子を目指す、それ以外のことは考えないようにする。
少しずつ。少しずつ。
じわじわと東側の角に近づいていく。
──
なのにわたしは気づくとうっかり余計なことを考えていて、急いでそれを締め出す。なんとか進み続け、やっとのことで壁の角──梯子のある位置にまで到達した。
汗が額を伝って流れる。目に入りそうで怖い。
腕を伸ばし、ぐっと力を込めて梯子を掴んだけれど、汗で少し滑った。
「ひっ」
心臓はばくばく音をたてている。
わたしはなんと無謀な脱走ルートを選んでしまったのだろう。ライフラインの事もそうだし、衝動的に動いた後でいかに危険か気づくなんて本当に馬鹿だ。けれど、ここまでやってしまったからにはもうやり遂げるほかなかった。
強制的に自分を落ち着かせて、わたしはまたそろりと動き出す。なんとか壁から梯子に移って、下に降りるのではなく上へ登る。この梯子は一階にまでは続いていないし、あまり長くここにいたら誰かに見つかってしまうかも知れない。一方、このすぐ上は屋上になっている。そちらへ行く方が手っ取り早かった。梯子は日光に晒されて熱くなってはいたけれど壁伝いより格段に足場が安定していて、けれど油断しないよう確実な動作でゆっくり登った。
そんな調子でわたしはついに梯子を登りきり、剥き出しの屋上に辿り着いたのだった。
着いた途端その場にへたり込んだ。
そっと下を覗くと、桁外れの高さと、自分がそこをさっきまで移動してきた無謀さを思って──気を失いそうになった。
部屋を出てしまえばセンターを抜け出すのは容易い。ここは規模が大きくて広すぎるし、人が居すぎるのだ。オフィシャルカード不携帯のわたしは同じユニフォームを着た他の子供達に混じってしまえば、どこの誰だかわからない子になる。GPSで居場所を特定されることもない。
あとは警備の緩い南口から簡単に外に出てしまえる。
不思議な呼びかけの気配はもう感じなかったし、どこから発しているのか分からなかった。どこから、という場所なんかないのかも知れない。どこか分からないのなら好きなところへ行こうと決めた。
こうしてわたしは、センターから家出した。
*
空はいつもと同じ色だった。ぼんやりとしたホワイトグレイ。雲が空全体を覆っていたけれど、光が透けるので太陽の位置は真上辺りだと分かった。そんなつもりは無かったのだけれど、気を抜いて歩いているうちいつもと同じ散歩ルートを辿っていることに気づく。急激に自由を得てしまったら、却ってどうしたらいいのか分からなくなった。
そうして。
結局また来てしまった。またいつもの空き土地に。
──馬鹿みたい。
わたしはどうしてあんな命懸けで外の様子を探りたいと思ったんだろう。結局正体もなにも分からなかったくせに。この後どうするかも考えていなかったくせに。
風にさわさわと植物が鳴る。その葉や花が脛を撫で続けるのを気にも留めずに、わたしはただ痛いほど刺す陽を浴びて、途方に暮れて立っていた。背後からケルスティンがやって来たことにさえ気づかなかった。
「ほんとにいた」
ケルスティンは驚いたような声を上げた。
わたしはそれ以上に驚いて、弾かれたように振り向いた。
ケルスティンは先回と同じような場所に立ってわたしを見ていた。なぜか、懐かしいような感じがした。たった二日前に会ったばかりなのに。
まだセンターはレクチャー中のはずなのにユニフォームすら着用せずに、彼女はどうしたのだろう。訊こうとして息を吸い込んだら、ケルスティンが先に言葉を発した。
「もしかして、毎日来てんの」
「毎日じゃ、ないけど」
そういう時もあったけど──と言葉を濁す。
「すごいな、もうそれ習慣でしょ」
だいぶうんざりされてるでしょ、とケルスティンは大袈裟な顔をする。
そう。うんざりされている。保護職員が痺れを切らす程に。部屋に閉じ込められる程に。今回のことはもう言い逃れが出来ない。平気な顔でセンターに帰ることなんて不可能だ。
ナツメだっけ──と言ってケルスティンはわたしの顔をまっすぐに見た。この視線は苦手だ、と思う。
「──それでも繰り返しちゃう理由とか、あるの? やっぱり窮屈だから? 」
驚いた。わたしがずっと大人に言って欲しかった言葉を、彼女はあっさりわたしに投げかけた。それでもやはり「分かんない」としか答えることしか出来なかったのだけれど。
「あたしもさ、上手く説明できないんだけど。なんか分かるよ、そういうの」
彼女は妙にしおらしく言う。てっきりこの前みたいに笑われるだろうと思っていたわたしは肩透かしを食らったみたいになった。
「でも相当問題児だよね」
「そうなの」
何だろう。なぜか彼女には素直に本当のことを言いたくなった。
「家出、してきたの」
一瞬間が空いて。
「嘘ぉ」
ケルスティンは目を丸くした。突如雲が途切れて夏の光が強くなる。彼女の着ているワンピースのチェリーレッドが痛いくらいに目に沁みた。
このタイミングで、とケルスティンは言った。
「家出するにしても、このタイミングで? 」
わたしは返答に窮した。家出するのに良いタイミングとか悪いタイミングなんてあるのだろうか。
「タイミング? 」
「そう」
センソウになるかも知れないじゃん──ケルスティンは顔をしかめた。
「センソウ? 」
それは、戦争のことだろうか。
「第二次世界大戦とかの、戦争? 」
「多分そうでしょ、昔のことはよく知らないけど。国同士で殺し合いをするやつでしょ。兄貴はそう言ってた」
「殺し合い?──今から」
「分かんないけど」
「日本が? 」
「もしかしたらの話」
──知らない。
そんな話、聞いていない。そんなの。
「どういうこと? 」
ニュースとか見てないの、ケルスティンは怪訝な顔をする。
「最近ロシアとの関係が不安定になって来てたじゃん。それが本気で危なくなって来てるらしいよ、あたしもそんなに詳しくないけど。でも大人はみんな戦争になるとか言ってる。もしそうなったら東京は最初に攻撃されるって」
そういう時に家出っていうのもどうなのって思ったわけ──言いながら彼女は顔の前に手を翳してひさしを作った。眩しかったらしい。
そういえば部屋の固定スクリーンはずっとスリープにしていてニュースも何も見ていなかった。
歴史のレクチャーで、戦争については少しだけ学んでいる。DIで検索すれば、把握しきれないほどの情報が集まってくる。過激画像は規制されているけれど、大昔のモノクロ画像だったりすると案外屍体も画像処理されずに写っていたりする。
でも、わたしはどこか戦争というものを現実のものとして捉えられない。
戦争は恐ろしくて、悲惨で、決してあってはならないもの──そこまでは分かっても、それとわたしの世界とは結び付いていない。過去に日本も戦争をしたなんて言われても、分からない。
戦争は歴史の中だけのもの。
ずっとそう思っていた。それなのに。
日本が──戦争をする。
この国の人がよその国の人と殺し合いをする。
死ぬ。
「戦争になったら、みんな死ぬのかな」
わたしも死ぬのだろうか。
「戦争って何のためにするのかな」
それはレクチャーで学んだはずなのに。ケルスティンは手元の植物をむしって放った。
「そういうのって考えても分かんないんじゃない。あたしも不安だけど、不安がったってどうにもならない」
「どうにもならない──」
「子供にそんな大きな力はない」
悲しいけれど、それが現実なのだろう。どこにいれば安全とか、何をすれば助かるとか、戦争はそういう選択的なものではないのは分かるから。センターで職員に守られていても、たった一人でここにいても危険なのに変わりはない。
──だったら。
「わたし」
手のひらに力が入る。
もし、この国が戦争を始めるのだとしたら。明日自分の命がどうなるのかも分からないなら。
「わたし、やってみる。ひとりで生活してみる。センターにずっと閉じ込められてぼうっとしてる内に死ぬよりも、きちんと自分の頭で考えたい」
子供の考えることだって大人は言うかも知れないし、これからどうすれば良いかなんて全く分からなかったのだけれど。でもきっとその方がいい、そう思えた。
おかしなものだ。
そう考えたら、いつも付き纏っている苦しさも、さっきまでの不安もすっかり消えていた。埃っぽい灼熱の街も、植物も空もワントーン明るく見える。わたしは初めてちっぽけな希望と自由を見出していた。
「変な奴」
ケルスティンはにやりと笑い、
「ねえ、あたしお前のこと気に入った」
偉そうにそう言った。
「どうせ行く当てはないでしょ。だったらあたしんとこ来いよ。まあセンターの環境とは大違いだけど──ここよりマシだろ」
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