2201/7/23/10:31 ケルスティン
ロイが賢いことはあたしだって勿論知ってる。
だから仕事でもチームの統括役を任されているし、どうすればリスクを最小限に抑えられるか考えるのも得意だ。情報の記されたメモを挟める、隙間の空いた偽造カードを何も加工していないように見えるよう工夫したのだってそうだ。
ロイは国有未成年の誰よりも優秀だろうとみんな言う。もし地下の子じゃなかったら。生まれで惜しいことしたな、そんなふうに言う。
──知ってるよ。
ただ、ロイの賢さは万能じゃない。
あいつは数学的に賢いのだ。文学的な賢さは持ち合わせていない。
大抵、注目されたり褒められたりするのはロイの方だった。
ロイは賢いし役に立つ。大人から期待されて、頼りにされている。でも、あたしは密かに不安に駆られていた。妹のあたしはロイと違って役立たずなのかも知れない。迷惑なのかも知れない。
あたしがいてもいなくても。
そう思われるのが怖くて、だから役に立たなきゃ、とか思う。仕事をしたいと言い出したのもそういう気持ちからだ。居場所はここにちゃんとあるはずなのに、無いような気がして不安になってしまう。
あたしのそういう気持ちはロイには分からない。どれだけ賢くても、分からない。意地悪じゃなくて本当に分からないのだからそっちの方が救いがない。
──と思ったところで考えるのを止めた。
どこかでぽたぽたと天井から落ちる水の滴りが聴こえる。この間の雨水がまだ残っているのらしい。
昼間は手持ち無沙汰だ。こういうときの時間の上手な使い方をあたしは知らない。今の時期、外はやたら暑くて消耗するだけだし、分担制になっている午前中の活動はひと通り終わってしまった。
──つまんない。
何もすることがないので劣化してひび割れたコンクリートの壁を無感情に眺めて座っている。エアコンディショニングがなくても充分に涼しいというのは地下の利点だ。その代わり冬が厳しい。しかも国から供給される暖房燃料はごく僅かだから、出来るだけ工夫しながらみんなで寄り集まって寒さを凌ぐしかない。暖かい自分の部屋を与えられて、心配なく何もかも大人からの世話を受けられるのは、ただぼうっとしているだけのセンターの子どもなのだから世の中は不公平だ。
本当に不公平だ。
あたしとあの子たちの違いといえば、生まれた環境だけだというのに。
ぐるりと首を動かして360度見回す。
太陽から遮られた深い昏い空間。上から下まで覆っているのは厚くてひんやりとしたグレイのコンクリート。でこぼこでひび割れて、ときおり欠片がぼろりと落ちる。
この場所は街から隔離されている。物理的にも、気持ち的にも。
別にここが嫌いなわけではない。あたしは罰を受けて閉じ込められているわけじゃないし。生まれた時からここにいるのだし。でも、どうしてだろう。ほんのたまに後ろめたさを感じたり、するのだ。
昔。
ここは
チカテツ、とかいうその乗り物は中央にあるあの一番窪んでいるところを通って東京中を走っていたのだそうだ。しかも顔も名前も知らない人たちが雑に乗り合わせるスタイルだったらしい。外国みたいに適当でちょっと面白い。
長いこと使われていない、すっかり寂れて遺跡みたいになったその場所に、先代の人たちが住み着き始めたのは四十年くらい前のこと──いつかそんな風にお母さんが教えてくれた。
一般住民にとってあたしたちは多分、昔の人だ。それか外国人だ、この場所みたいに。自分たちとは全然違うルールがあって、生活は原始的で、遠くから見る分にはちょっと面白いけど関わりたいとは思わない人たち。そんなふうに見られているんだろう。
「寝たら? 」
通り掛かった水沢の奥さんがあたしに気づいて声を掛けてきた。隣にリサもいる。間に合わせに着ているシャツはぶかぶかだ。
「昨晩も仕事であんまり寝てないでしょ」
平気とあたしは元気ぶってみせる。
「ねえ、ロイ──どこにいるか知ってる? 」
「見なかったけど。仕事の準備とかしてるんじゃない。奥の方覗いてきたら」
「うん、いいや。聞いてみただけ」
分かってる。ロイだって大変なんだ。
「そう」
だったら寝ときなさい、子供は寝なきゃ伸びないよと水沢の奥さんは冗談めかした。リサはあたしたちの会話に加わろうとせず一歩引いたところで窺うように立っているだけだ。
「リサ」
リサは一瞬で反応して目をひと回り大きくした。黒い目が猫みたいにまん丸になる。
「リサはちゃんと眠れた? 」
「はい」
指先まで硬直させて生真面目に答える。敬語が抜けない。年齢に不釣り合いな警戒心を、リサは持ち合わせていた。水沢の奥さんも苦笑いをあたしに向ける。
「そのまま放っておいたらずっと同じ場所に座りっぱなしだからと思って、ちょっと連れて歩いてるんだけど、なかなかね」
「リサは頑張ってるよ」
「そうだね」
「今度またあたしが外に連れてってあげるから」
「はい」
リサがにこりともせず言うのが可笑しくて、なんだよと笑った。
水沢の奥さんとリサが行ってしまうと、また退屈が訪れた。追いかけて行ってリサと遊ぼうか、と思いかけてやめる。あんまり元気じゃなかったからだ。水沢の奥さんに「寝なさい」と突き返されてしまう。試しに丸めたタオルを枕にして横になってみる。
──駄目だ。
横になったら却って頭が冴えてくるようだった。いつもはそんなことないのに、今日は色んなことを考えてしまう。しかも自分ではどうにも出来ないこと。気持ちが後ろ向きになること。たぶん今朝見たニュースのせいだ。寝返って仰向けになったら、天井のグレイが見えた。
ロシアと戦争になるかも知れないらしい。
ニュースでは直接そうは言っていなかったけれど、大人は口々にそんなことを言っていた。みんなスクリーンを真剣な顔で睨んでいて、戦争ってなにと聞いたらちょっと黙ってろと叱られてしまった。国同士で人殺しをすることだと、ロイが耳元で教えてくれた。
もし、そうなると──戦争になると──国から援助されている食糧の供給がストップするかも知れないし、最悪の場合この場所も破壊兵器で攻撃されて全員死ぬかも知れない。
死ぬかも知れない。
戦争で。
「東京は首都だし、重要機関も多いから真っ先に攻撃されるかも知れないな」ともう戦争になるのが決まりきったことみたいな言い方でロイは冷静に呟く。なんでそんなこと言うの、とあたしは子どもみたいに無意味に怒った。
「そういう可能性があるってだけ」
「もう決まったことみたいに聞こえた」
「そんなこと言ってない」
そうじゃない。あたしが怒ったのはそういう事じゃない。違う、そもそも怒っているんじゃなくて、怒っているのはあたしの表側だけで、奥の方の気持ちはそうじゃなくて──。
そんなわけで眠れそうもなかった。
あっさりと寝るのを諦めたあたしは飛び起きて階段を駆け上る。出入り口から外を覗いてみると、空全体を雲が覆っていたけれど太陽がちょうど真上あたりに来ているのがぼんやりとした光で分かった。
今日の空はいつもと同じ色。一昨日はびっくりするくらい綺麗な青空だった。あんな濃いブルーの空は初めて見た。あれを見ることができたのはラッキーだったと思う。
そして、そう、もうひとつ珍しいものを見た。珍しいもの──というか、珍しい人。
センターの子ども。
ナツメ、とかいう名前らしい。たぶん年齢はあたしと同じくらいだ。脱走癖があるとかいう変な子だった。
でも、不思議と憎めない感じがした。センターの子なのに。
──もしかしたら今日も会えるかも。
あの子に会えたら気が抜けて、嫌な気分もどこかへ行ってしまうかもしれない。
大きく息を吸い込んで、あたしは続く階段に足をかけた。
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