2201/7/22/14:46 棗
スカイブルーのテクスチャを一枚、上掛け乗算したような見事な空色だったから、わたしは散歩途中の空き土地の中で立ち止まり、しばらく上を眺めていた。
──こんなに青いんだ。
今まで見た中で一番青い空だった。
空はここまではっきりと色付くものなのか。そういえば以前テキストで、空気が澄んだ状態になるほど空の色は濃く見えるというような情報を目にした気がする。
──じゃあ、今日の空気はいつもより澄んでいるんだ。
恐る恐る空気を吸い込んでみる。空気を吸おう、と思って空気を吸い込んだのは初めてだ。なんとなく目玉の隙間からそれらが漏れ出てしまう気がして目を
情報を知るのはいつもスクリーンから。知りたいことがあれば大抵オフィシャルカードのスクリーンモードから検索する。センターの職員はレクチャーで扱う内容や生活上のルールしか教えてくれないし、わたしの方もなんだか訊けない。空気の澄み具合と空の色の関係ならば、DI《デジタルインフォメーション》が答えを教えてくれる。けれど、もっと言葉にするのさえ難しい疑問──例えば、大人が雑草と鉢植えの植物を区別するのはなぜなのか──というような疑問の答えはDIにもない。
わたしの気持ちや、ふと引っ掛かる事や、そういうことは何に、誰に訊けば良いんだろう。
親、だろうか。
わたしは両親を知らない。センターにいる大抵の子がそうであるように、名付けとIコードとオフィシャルナンバーの発行手続き、新生児スクリーニングを済ませて健常児であることが証明されたのち、出生十四日後に国に寄付されたらしい。
カリキュラム4に進級して十歳になったとき、提供者の情報を知りたいかどうかのアンケートが配信されて、わたしはよく考えもせず「はい」の項目を選択した。そうしたら後で個別に面談室に呼び出されて、保護職員が生みの親のデータを見せてくれたことがある。でも結局ほとんどの情報は忘れてしまった。どのみちプライヴァシーの問題だとかで大したことは載せられていなかったのだけれど。
──夏目。
その二文字だけ、明確に覚えている。
──この漢字は何ですか。
保護職員に尋ねたら、昔使ってたミョージだね、と素っ気なく言われた。オフィシャルナンバーが普及する前に使われていた一種の記号のようなものらしい。名前がふたつあるようで、なんだか外国みたいだと思った。ミドルネームとか、そういう感じの。
──なんて読むんですか。
保護職員は同じように素っ気ない態度で、ナツメ、と言った。
──ナツメ。
だからわたしは
適当に付けられた、名前。
わたしは物心がついた時からここ、就学期未成年育成センターにいて、ここの生活しか知らない。
不幸ではないと思う。こんなものだろうと思う。
昔は、親のいない子どもはコジと呼ばれて偏見を持たれたそうだし、住む場所もシセツと呼ばれる小さくて不衛生な建物だったそうだけれど、今はそんなことはない。日本の子どもの三十パーセントはセンターで暮らしているのだそうだ。
──あと七年。
少なくともカリキュラム13になるまで──十九歳になるまで──はセンターにいなければならない。
──そうじゃなくて。
十九歳になるまではセンターにいられる、だ。十九歳ってどんな感じなのだろうと思う。ちょっと怖い。わたしは今までもずっとこんなに生きているのに、それなのにまだ子どもだというのが時時不思議だ。先はまだ分からない。大人になったわたしはもっと分からない。“ちゃんと大人”になれるかどうかについては怖いを通り越していて──。
肌が焼ける。足元は草で蒸れている。また帽子を被ってくるのを忘れてしまった。
わたしはもう一度空を見上げた。
「珍しいな」
突然。
後ろから声がしたのでわたしはどきりと振り返った。昨日と違って声の正体はすぐに知れた。
──大きな目。
真っ直ぐな栗色の髪を綺麗に顎のあたりで切り揃えた、はっきりとした顔立ちの少女がそこに立っていた。
年齢はわたしと同じくらい──十二歳くらい──に見える。
「空」
彼女は聞き取りやすい声でそう言って、わたしがさっきまで見上げていたスカイブルーを目線で示した。
「こんな青いの。変わったことが起こりそう」
ま、起こってるけどと軽く笑ってわたしの顔を直視する。明らかにわたしに向かって話しかけている。
「そのユニフォームのカラー、センターの子でしょ。何、家出? 」
わたしの動揺に構わず、少女は初対面のわたしにいきなり無神経な質問をしてきた。こんなタイプの人間は初めてだった。
「──ちがう」
「じゃ何してんのこんなとこで」
べつに答える義務はない。そのまま立ち去ってしまえばそれで済む。
それなのにわたしはどうしたんだろう。
わたしはなぜかそうせずに、
「散歩……」
質問に素直に答えていた。少女はきょとんとした顔になる。
「さんぽぉ? 」
次の瞬間彼女はとても面白そうに笑いだした。まぶたの上で切り揃えた前髪がさらさら揺れて額が覗く。笑う要素なんかないのにどうして笑うんだろうと、わたしは意味が分からずただそれを見ていた。
ひとしきり笑った彼女は「笑ってごめん」と言いながらまだ笑っている。
「別に馬鹿にしてるんじゃないよ。じゃなくて、なんか、意外な答えだったからさあ」
センターって結構自由なんだ、と少女は目尻を拭う。
「一人で散歩させてもらえるとか知らなかった。もっとキュークツなとこかと思ってて」
「窮屈だよ」
少なくともわたしはそう感じる。
「え? だって」
「無断で、出てきたの。本当は散歩なんか許可されてない。この後帰ったら、きっとまた怒られる」
「へえ」
少女は目を丸くした。
「ルール破って出て来てんの? で、怒られるって分かっててまたそこに帰るわけ」
「帰る場所、そこしかないから」
窮屈だけれど、あそこを出てもわたしはどうやって生きてゆくか分からない。あそこを出て他で暮らしたいわけじゃない。
嫌なことを思い出してしまった。せめて散歩中はそんなこと考えずにいたいのに。日菜子さんの、あの冷ややかでうんざりとした表情と目をまた見なければならないこの後の現実を思ってお腹が痛く苦く感じた。わたしが勝手に外へ出るから悪いのだけれど。
なのに、どうしてだろう。わたしは無断外出をやめることが出来ない。どうしても外に出たくなる。その疑問にもまた、DIは答えてくれない。
「──ケルスティンていう、あたし」
怖いほどダイレクトにわたしの顔を見て、少女は突然そう言った。
「ケルスティンていうんだ」
他人からはっきり見られることに慣れていないわたしは戸惑って、思わず半歩後ずさった。
「ケルスティン?」
「そう」
聞き慣れない響き。
「外国人? 」
違う違う、と彼女は笑う。
「ご先祖様の遺伝がなんか色々混ざってるみたい。ルーツはどこか知んないけど」
ご先祖様なんて言葉使う人初めて見たな、と変なことを思った。
「適当に付けられたの、名前。周りが勝手に盛り上がって、ケルスティンが一番可愛いだろうって。生まれも育ちも日本なのにさ」
笑いながらブルーグレーがかった黒い瞳をくるんと動かす。
「そっちは? 名前」
そう言われるのも初めてだった。
「棗」
ふうん、ナツメ──口の中で繰り返したらしい彼女──ケルスティンは唇をみっと上げて歯を見せた。
「変な名前ぇ」
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