2201/7/21/23:49 ケルスティン

渾身の力を込めて、身体中の気体すべてを吐き出してしまう。

それから、ゆっくり、吸い戻す。

これで気持ちが切り替わる。活動の始めにはそのように深呼吸することに決めている。


「分かってるだろうけど」

ロイは声を潜めて、眉根の寄せた顔を近づけた。

「周囲確認は常に怠らないこと。慣れから来る気の緩みが一番命取りになるから」

じゃ行ってこい、と背中をぽんと叩かれたあたしは軽く頷いて駆け出した。

新しい空気を吸い終えると、静かに梯子を登り始める。仕事の時は正規の出入り口ではなくて、この小さな非常口から出なければならない。出口が近づくにつれ音で雨が降っているのが分かった。

──真 っ 暗。

外はざあざあと雨の音が聞こえるのみで何も見えない。たちまちあたしは全身ずぶ濡れになる。でも、雨の日は却って都合が良い。少ない光量と大きな雨音で人目につきにくいからだ。

周りが見えなくたって問題ない。目的地までの道のりは嫌という程通い慣れている。あたしは殆ど猫のようになって素早く、かつ静かに移動することができるのだから。

夜の街の様子は昼間とは全く異なっている。

街はあたしに対していつだって余所余所しくはあるのだけれど、夜はそこに怖さも加わる。規格住宅各々に付いている同じ形の窓から漏れる光はあたしには拒絶に映る。この街は、この光は、お前のためのものじゃない、お前は入って来てはいけない──と無言で言っているような圧力を肌で感じるのだ。実際街に意思なんて有りはしないのだけれど。

光は、走っていると黄色い線みたいに見える。長く尾を引いて、すん、すん、と目の端から消えていく。走るのは急いでいるからではなくて、その方が安全性が高まるからだ。足の裏が水溜りを踏む小さなぱしゃぱしゃという音が心地良い。その音を聞きながら、蜘蛛の巣みたいに複雑に繋がっている道を右へ左へと進んで行く。今まで何年もそうしてきたから慣れたものだ。これからだって、きっとこの仕事を続けていくのだと思う。

捕まるまで多分──ずっと。


1キロほど先に家具会社の大きな倉庫がある。そこが目的地だ。最後の角を曲がると、黒い大きな影みたいな屋根が見えてきた。

ここの家具会社の売りは、高級木材再現のクオリティの高さなのだそうだ。スギだかヒノキだか知らないけれど、質感や香りまで天然の木にそっくりな『癒しの森』シリーズは本物志向のお金持ちに人気なのらしい。尤も、そっくりなのは表面だけで、中身は天然木なんて欠片も入っていないネオウッド素材なのだけれど。なにが本物志向だとあたしは思う。

あたしは別にここで働いているわけではない。家具に木目が入っていようと内側がネオウッドだろうとそんなことはどうでもいい。仕事相手にとってこの倉庫が都合良い、それだけの話だ。そしてその人はどうも悪い人らしい。あたしの仕事に関わる人は、みんな悪い人だ。

あたしは、悪い仕事をしている。

十二歳にもなるのだからそれぐらいのことは気づいている。


走り始めて十分程で倉庫に到着した。

人影も明かりもない。雨のせいか、いつもより不気味に見える。素早く裏口へ廻る。ポケットから薄くて頼りない小さなカーボン素材を取り出した。仕事用に造られた偽造カード。

翳すと赤いセンサが光り、


──ドアが開いた。






初めて仕事をした日のことは今でもよく覚えている。

空は紫。

月は橙。

月のかたちは半月で、感じる風は生温なまぬるかった。

あたしはロイの後に続いて仕事用の梯子を登り、外に出た。

ロイはあたしが梯子を登りきるのを手伝ってから、眉間に皺寄せた顔で、右手の人差し指を自分の唇に翳した。

静かに、というのと分かってるな、これは遊びじゃないぞ、の意味を込めて。分かっていた。仕事を始めたのは、あたしの意志だ。


まだお前はそんなことしなくて良い、出来ることなら一生しなくていいと反対するロイや大人たちの意見を押し切って、半ば強引にどうしてもやるんだと言い張ったのは九歳のときだ。あたしが頑固なので、そのとき周りはせめて十歳になってからと猫撫で声で諭したのだった。話を先延ばしにして有耶無耶にするのが彼らの目論見だったらしいけれど、十歳になってもあたしの決心は変わらなかった。


けれどもその日、あたしはやっぱり楽しかった。それまでは夜中に外に出ることは許されていなかったし、周りの景色が昼間とは全然違うのが珍しかったから。大人の仲間入りが出来たと思った。危険な仕事だと教えられてはいたものの、そういう実感がまだなかったからというのもあると思う。

ロイは訳が分からなくなる程枝分かれの多い道を少しも迷わずに素早く走り抜けていく。見失わないようにとあたしも必死になってその後を追いかけた。

仕事の時は走れ、走る時は裸足になれ、というのはロイの教えだ。走ればそれだけ街に留まる時間が短くて済む、つまり一般住民に目撃される危険を少しでも減らす事が出来る。そして裸足になれば靴音をたてずにより静かに走る事が出来るというわけだ。

その日感じた夏の夜風の心地好さ。ロイの背中。倉庫内の匂い。特有の緊張感。カードで開くドア──。

とにかく全部が新鮮で、その日仕事を終えた後も興奮して眠れなかった。



倉庫内は薄暗く、かろうじて小さな明かりが灯っている。奇妙な木目調の家具たちはいつものようにひっそりと整列している。テーブル、ベッド、棚──梱包されているものもあればされていないものもある。

所狭しと、ひっそりと、冷たく。

それはこの明かりのもとで見ると妙に不気味で、今にも動き出しそうな雰囲気を醸していた。

「なんだびしょ濡れだな」

目が慣れてきた頃、ぼんやりとした灯に浮かび上がるように立つ仕事相手が開口一番そう言った。

「雨だったから」

私は顔の滴を雑に拭う。仕事相手の気味悪さは所狭しとそこらに置いてある家具とそう変わりなかった。

面長の輪郭。濃い眉。ずんぐりとした背の低いいつもの男。

初めて仕事をした日にここに立っていたのもこの人だったろうか。ここはいつも暗いし、覚えていない。年齢も分からない。大人の年齢は、よく分からない。

「情報、滲んで読めないんじゃ話にならないぞ」

男は早口で急かした。彼はいつも落ち着きがない。気持ちは分からないでもない。違法取引だ。こんなところを誰かに目撃されてしまえば只では済まされない。

「あのさおじさん」

もう少しさあ──私はわざと間延びした声を出した。

「もう少し地下の人間のこと、信頼すれば? これだって信用ビジネスなんだよ」

たぶん、彼の目に私は生意気な子供に映る。それでいい。

「そっちが先に渡してよ。情報は無事」

この仕事には押しの強さも大切だとロイに言われている。隙を見せると甘く見られてしまうから。

男の言う“情報”は道中で多少のトラブルがあっても対応できるように偽造カードの隙間に挟み込んである。誰かに見つかっても、悪天候でもこれならひとまず平気だ。彼は舌打ちをひとつして苛ついた様子でポケットを探った。


一通りのやりとりを終え、あたしは元来た道を注意深く窺いながら素早く走った。

あたしがあの仕事相手に売っているのは何か──ということはなるべく考えないようにしている。

それによって人がどう動き、どんなやりとりがなされ、どんな結果になるか──などということはなおさら頭から払拭する。

実際、あたしは自分がなんのやりとりに関わっているのか本当に知らない。

あたしはただお使いをしているだけ。

言われたことを言われたようにやっているだけ。

雨は、弱まるどころか更に激しさを増しているようだった。この様子だと朝まで降り続けることだろう。



帰ったら身体を拭いて服を乾かして──大粒の雨に当たりながら、敢えてそんなことを頭に満たして走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る