2201/7/21/16:52 楠木修治
雨の匂いがする。
街全体が薄暗く湿気を纏っていて重く、もうすぐ降るな──と見上げた刹那、最初の一粒がつっと鼻先を掠めた。
自然と共存するのは難しい。近頃よくそんなことを考える。雨を疎ましく思うようになったのはいつからだったろう。少なくとも子供の頃はそんな風に感じなかったように思う。地球のメカニズムは人間の変わらぬ無力さを思い出させる。自然災害ほどの大げさなものに限らず、こうした気象現象だってそうだ。
二十三世紀。大昔の人たちは無責任にも、この時代に魔法のようなハイテク未来都市の夢を託していたようである。けれど、出来ることと出来ぬことの境はある。どんなに時代が流れたとしても人間は所詮人間である。
実際は、雨が降っただけでこんなにも弱い。
ただ成すが儘に身を任せる事すら出来ない。濡れるのは嫌だと思うし、そのままでは風邪をひいてしまう。
じかに外に出なければならぬときは未だに傘やレインコート、レインブーツを使用する。精々生地が汚れにくく丈夫になったとか、撥水技術の向上といった細かな改良がなされた程度である。空中にふわりと浮いて自動で人の動きについて来る未来型レインカプセル──なんて無いし、月に人が定住出来るようになったわけでもない。昔のSFコミックのようなてらてらとした『未来服』なんて誰も着用したいと思わず、フィクションが過ぎるタイムマシーンの開発なんて論外だ。そんなものだろう。実際の未来人はもっと堅実で、彼らと同じく日々に追われて生きているのだ。
でも──やはり比べてみれば昔と今は確かに大きく変わったのかも知れない。そもそも雨に頻繁に困るほど大抵の人間はわざわざ外へ出る必要がない。今の時代、草木に触れることすらおぼつかない。虫を見つければ真っ先に駆除しようとする。空を見上げることに就いては殆ど忘れかけている。
昔の人間が今の時代を夢見たように、私もまた昔の生活の
「なんだびしょ濡れだな」
様子を見にバルコニーに出てきた友人の
「わざとやってんの」
「考え事をしてただけだよ」
何をそんなに考えてたのさ、彼は面白がる風に続ける。
「普通は雨を忘れる位没頭するなんてそうないって。俺なんかは凡人だから全くお前の行動の意味が汲めない」
「別に──昔の人はお気楽で良かったなって考えてたんだよ。今は窮屈だからさ」
白石のからかいを聞き流して彼の脇を通り過ぎ、私はドレッシングルームに向かう。衣服が皮膚に張り付いて脱ぎにくい。私の嫌う、不潔で有機的な匂いがする。気持ちが悪いのでそのままシャワーを浴びることにした。
──何が“俺は凡人”だ。
仮に私が変人に分類されるのなら、白石だって同じカテゴリに入るはずだ。確かに、細かい事を更に一々細部まで思案した挙げ句、結果として他人がまるで理解出来ない様な行動も平気でしてしまう性質が自分にあるのは、自覚している。疑問に思った事はとことん分析して突き詰めてしまわなければ気が済まないのだ。そして私のその性質は、この時代の合理的で淡白な流れと逆行している。
タオル片手にリビングに戻ってみると、白石はまるで自分の家にいるかのように寛いでソファで伸びをしていた。細長い身体とシャープな輪郭が相まって
「雨、夜までには止まない予報だった」
子どもみたいな言い訳を述べてからりと彼は笑った。どうやら泊まり込む気でいるらしい。
「車なんだから関係ないだろうに」
「
にやりと白石は笑って、本題と無関係なところで修正される。
「意味は間違っていないんだし、同じことだよ。年配者がシューズボックスのことを下駄箱と呼ぶのと同じで」
良くないなあ、彼は私との生産性のない議論をむしろ楽しんでいる。私たちはいつもこうなってしまう。
「良くないって何が」
「
小説家なんだから──諦めて一緒に夕食を摂ろうとキッチンに向かいながら、私はその言葉を背中で聞き流した。
*
私と白石の付き合いは長い。長いというより腐れ縁である。
彼と私は元々クラスメートだった。当時まだ未成年教育制度は改編されておらず、通っていた高等学校で知り合った。
在籍当時は特に親しいわけではなかったのだが、卒業後なぜか外出先で鉢合わせしてしまうことが多く、互いに無視するわけにもいかず──二言三言会話を交わす内にいつのまにか親しくなってしまった。実際、白石の着眼点と発想の面白さには目を見張るものがあった。後に、よく出会ってしまうのは二人の生活圏が重なっていたからだと判明し、それならばと互いの家に尋ねて行く仲になり、なし崩し的に今の状況に至っている。
白石はDエリアにあるSINAGAWA産業技術ラボラトリーの
研究員として働けるくらいだから優秀なのに違いはないのだろうが、そういった人間は往往にして能力の偏っている者が多い。白石も例に漏れずその部類である。とはいえ対する私も小説家なのだから大きなことは言えない。一般職とは言い難い小説家もまた、昔から偏屈な人間が多いことを知らないわけではない。
「もう二十年経つんだよな」
夜も更けた外の暗い雨を眺めて、氷アイスの角を齧りながら白石は唐突に切り出した。ほら、夕方修治が今は窮屈だなんて言ってたからさ、と後付けで説明される。
「確かそのくらい経つんだ、センターが出来てから。俺なんかはあれこそ合理主義社会の象徴じゃないかと思うよ」
側から見るとあそこはだいぶ窮屈そうだと続ける白石の言葉に曖昧に相槌を打ちながら、私は教育機構の再編成案が出た当時の騒ぎを思い出す。メディアは過熱報道により国民を煽りたて、教育専門家やら父母の会やらによるデモが盛んに行われていた。当時の教育省代表者の強い提唱が印象的だった。名前は何と言ったのだったか。
「意外と続いてるんだな。最初から無理があるからすぐに廃止になるかと思ってた」
「無理は、あるよなあ。確かに」
意外にも白石は肯定した。
「でもあれだけ騒いで一大プロジェクトを立ち上げたんだしな。関わってるのは人生を預けられた人間だし、実質は止めたくっても止められないんじゃないか」
泥沼だと白石は苦笑した。
センター──正式名称就学期未成年育成センター制度──は考えてみれば奇妙なシステムである。
私には子供はいないのであまり詳しく覚えていないのだが、要は日本国籍所持者は子を出産した際、養育を自分でするか国に寄付するか選択できるという制度なのだ。寄付された子の親権はその時点で国に移り、国が養う。就学期未成年育成センターは、その子ども達が居住し教育を受ける施設として使われている。同時に既存だった小、中、高までの義務教育制度は廃止され、それらが一括してセンターに託されるようになった。
今や国有未成年はステータスである。一般家庭の未成年も週に三日そこに通ってきているが、受けるレッスンの量や生活の質のきめ細かさのレベルが国有未成年は遥かに異なるのだという。
全国に二万を超えるセンターが設立されており、就学期未成年のうち三十パーセントは国有未成年なのだと──どこかのニュースコンテンツで目にしたことがある。
「なんでこんな事を話したかっていうとさ、入ったんだ今期」
ラボに──そこまで言って、白石は溶けかけのアイスを一気に口に押し込んだ。腹壊すぞ、と私が言うと冷たいものは割と平気なんだとけろりとしている。彼は自分がもうあまり若くないという事を認識していないらしい。
「入ったって、センター出身者が? 」
「そう。待望の一期生」
私は意表を突かれた。噂程度と思っていたが、センターの子ども達が優秀だというのはどうやら本当なのらしい。
「企業審査もあるんだけど、国有人材を雇うと資金援助もあるからさ。まあその代わり年間利益の10パーセントは国に納めることになってて。それを差し引いてもお得なんだよ色々」
そういう仕組みになっていたのか。
下品な言い方をすれば、国有人材は企業にとっては
「で、どうなの実際。“一流の教育を受けたセンター出身者”っていうのは」
「まあ優秀だよ」
そう答えたものの、白石は顎を撫でて暫し考え込んだ。
「そう──礼儀も弁えてるし技術も知識も申し分ない。そういう教育を受けたんだろうな。ただ何だろう──ああうまく言えないな」
珍しく歯切れが悪い。
「単純に親なし子っていうのとも違うんだよな。親なし子は昔からいただろ。俺は部門が違うからしょっちゅうその子と関わるわけでもないけど、ただ何となく──センターは窮屈だったんだなって思ったんだ」
結局そこに行き着くわけか。
「考えてみれば、センター制度の成否判定はこれからってところなんだろうな。子ども達が成長して社会に出て初めて実態が分かる。国有未成年どころか、私は普通の家庭の子どもが今どんな風なのかさえ知らないよ」
白石は尚も唸っている。
日常では殆んど他人と接する機会はない。接したとしても極めて事務的なものだ。大抵の事は自宅で出来るし、出掛ける時はモビリティで移動する。誰かに会おうとする時は意図的にそうしようと思わなければ会えない。子どもなんていえば尚更だ。スクリーンのコンテンツに映る子どもを見て、彼らを知っている気になっている。
「そういえば」
白石は突如思い出したようにこちらに顔を向けた。
「お前、昔そういう小説書かなかった? 」
「書かないよ」
「書いたよ。イメージとしては今のセンター制度と似てると思ったんだけどな」
「覚えてない」
そう言った瞬間、彼の言う“昔書いた小説”が何を指すのか思い当たったのだが、敢えて撤回しないことにした。白石は惜しそうな顔をしている。
「俺、結構あの話好きだったんだ」
「好きなのはバイオロジーが出てくるからだろ。現実と小説は一緒にしたら駄目だよ」
なんだやっぱり覚えてるんだと白石はぼやいた。
「褒めてるんだって。あれは中々良かったよ。切り込み方も鋭くて」
私は──。
あの小説は失敗作だと思っている。すぐに思い出せなかったのも、意図的に忘れようとしていたからなのかも知れない。それなのに白石の不用意な言葉で私は再びあの小説の内容を隅から隅まで思い出してしまう羽目になった。少し彼を恨んだ。
ふと点けっぱなしだったメインのスクリーンを見ると、観ていたコンテンツは会話に夢中になっている内にとっくに終わっており、ニュースコンテンツに切り替わっていた。それ以上小説の話をしたくなかった私はわざと音量ヴォリュームを上げた。小さな島島の地図画像がスクリーンいっぱいに映し出されている。
──また北方領土問題か。
このところ
最近、なぜか北方領土問題が再燃しており、日露関係も次第に険悪になってきているのだった。
アナウンサーが地図をバックに原稿を読み上げる。
〈──
「まずいな」
白石の顔つきが険しくなる。
「これ、多分近い内に──」
結句は言われなくても想像がついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます