ピーセス,インスモール

モノ カキコ

2201/7/21/15:23 棗

天に掛かる綺羅星は薄織の如くに









誰かが呼んだ気がした。ひどくか細い──男なのか女なのか、子供なのか大人なのかさえも分からないようなおぼろさで。



わたしは振り返る。

真っ白な昼下がり。

白飛びしたスクリーンみたいな陽の光が痛くて思わず目を細めたけれど、残光はまぶたの裏に強烈に残って絡まった。もう一度草陰の間にまで目を凝らして見回したときには、すでに人らしき姿は確認出来なかった。

──気のせい。

思わずため息が漏れる。こんな場所に人なんかいるわけが無いのだ。

いまどき徒歩で外出する者など殆どいない。それにこの日射し、この気温である。生身で散歩なんてする変わり者──もとい問題児はわたしくらいのものだろう。

不意にふわふわと軽いめまいを感じたわたしはその場にしゃがみ込んだ。それだけで子どもで小柄なわたしの姿は雑多にはびこる植物にすっぽりと覆い隠されてしまう。夏は、人間には厳しいけれど植物には嬉しい季節らしい。ここに来ればそれが良く分かる。この、区画の端にある余ったスペースは今や植物で余すことなく埋まっていて、その密度は先月よりも濃く、丈は二倍にもなっている。

誰もいない。本当のひとり。

ここに何があるでもないし、何をするでもないけれど、気が済むまでこの場所で周りの景色を眺めている。素朴で自由に伸びる緑の草たちは、なぜだかわたしの気持ちを落ち着かせてくれた。蹲み込んだそのまま目を瞑って、音を聴く。文字で表記できない葉擦れの音や正体不明の虫の声。柔らかい地面。ときおり動く熱風。そして、わたしの心臓の音。

──あれは雑草だよ。

いつだったか、ここの植物のことを保護職員の誰かはそう評した。その言い方は、まるでそれが正規の植物ではないというような口振りだった。

──雑草と、そこの鉢植えはどう違うんですか。

わたしはそう返したと思う。別に反抗的な気持ちからではない。純粋に分からなかったからそう返した。相手はなんと答えたのだったか。その先のやり取りを覚えていないことからすると、きっとあのとき答えは得られなかったのだろう。大人の基準は難しい。難しいけれど、わたしはそれを覚えなくてはならない。それを信じて、守らなければならない。


目立たないように元来た道を辿りながら、こんなに暑いのならば帽子を被ってくれば良かったな、と思う。太陽は灼けつくように熱い。その光線は攻撃と思えるほどの強さでわたしの皮膚を刺してくる。それに、シューズがかなり汚れてしまった。屋内と屋外では汚れ方が随分と違う。わたしはルームシューズのまま外に出て来てしまっていた。

右に進んで、しばらく直進して、三つ目の分岐点を左に折れる。網目のように細かく張り巡らされた道をどう進めばどこに突き当たるか、わたしはもうすっかり把握している。街路樹の種類や家の素材まで指定されている住宅区画の景観なんてどこも似たり寄ったりだし、たぶん普段オートモビリティで移動しているここの住民よりずっと詳しいはずだ。しばらく歩くと工業用の道路とぶつかる。一般道路とは明らかに分けられているのだけれど、私はフェンスの隙間を抜けて中に紛れ、その端を歩く。かたわらを猛スピードで走り去る業務車両が爽快で、つい近くまで行きたいと思ってしまうのだった。

わたしは保護職員の目を盗んでは時時こうやってこっそり散歩をする。

今まで知らなかった道を知っている道にしていく作業は、愉しい。自分がどういう環境に住んでいるのか把握して、まだ見ぬ世界に触れるのはわたしにとって最もわくわくする体験だった。





なつめさん! 」

センターに戻るなり待ち構えていた日菜子ひなこさんに捕まってしまい、わたしは早速窮屈な思いをすることとなった。

わたしの担当保護員である日菜子さんは背が高いので、眉間に皺を寄せて正面から仁王立ちされるとかなり迫力がある。そのポーズのまま腕組みした彼女は目だけでわたしを見下ろした。

「私、ずっと言ってるよね、無断外出しないでねって。体に悪いし危険だよって。今月だけで何回目 」

完璧にカールした髪を搔き上げる。この空気は何度経験しても慣れない。

「ごめんなさい」

「“ごめんなさい”って」

彼女は苛苛いらいらとため息を漏らす。

「この前もその前もそう言ったよね」

日菜子さんはわたしの目を見ない。ただ漠然と、わたしのユニフォームのセーラーカラーのあたりに目を落としている。あなたのせいでみんなが迷惑してるの──という言葉を日菜子さんは言いかけて、飲み込んだ。職員の個人的な思想は子ども達に押し付けてはいけない規約になっている。

「わたし間違ったこと言ってるかな」

「言ってません」

「誰のために言ってるのか分かってるかな」

「わたしのためです」

大人の言うことはいつだって正しい。そうだよね、日菜子さんは何かを抑えつけたような声音でゆっくり言い含めた。

「棗さんのために言ってるの。勝手にどっか行って、その先で倒れたりしても誰にも助けてもらえないんだから。口ばっかりじゃなくて、本当にもう止めてもらわないと」

日菜子さんはそこでようやくわたしのぼろぼろのシューズに気がつき、また新しいのに替えなきゃならないじゃない──と何度目かのため息をついた。


──あなたのわがままにみんな迷惑してるの。

知ってる。

そしてまた、日菜子さんが本当に心配しているのはわたしではなくて自分の立場なのだということも、知っている。だって、未成年保護法がさらに強化されたのはつい先月のことだし、担当未成年に何かあったら責任を問われるのは日菜子さんなのだ。

──仕様がないよ。

面倒だと思われてしまっても──心の中でそう繰り返す。他の子がちゃんと守れている決まりを、わたしだけが性懲りも無く破っていた。本来自分とはなんの繋がりもない、迷惑行動を繰り返す子どもの責任を取らされるのなんてわたしだって嫌だと思う。言われなくとも迷惑なのは自覚していた。

わたしはひとり、汚れたシューズを脱いだ裸足の足でだだっ広いセンターの館内を淡々と歩く。フロアが素足にひやりと冷たい。途中、スリッパを借りてレセプションエリアから出ると、普段見慣れている廊下がとてつもなく長く見えた。

どこのクラスも受講中だからなのか、子どもは誰も歩いていない。わたしのグループも今は語学のレクチャー中で、日菜子さんは次のレッスンから参加するようにと言っていた。それまでは自室待機するよう指示された。


スクールエリアをやっと抜けて、プライベートエリアである北側のE棟へ繋がるエレベータのドアを開ける。E棟の四十階でわたしはその閉鎖空間から吐き出された。突き当たりまで進んで、首に下げていたオフィシャルカードを手に取る。

6431383NATUME.

裏面の右端には簡素にそれだけ記されている。同じオフィシャルナンバーが掲げられているドアの前に立つ。翳すと中央の赤い光が瞬き、ロックが解除された。

生まれた時からあるのにおかしな話だけれど、わたしはまだオフィシャルカードに慣れない。このカーボン製の薄くて頼りない小さな一片に、わたしの全てが収められているというのはなんだか味気ない。喋るのが得意でない生身のわたしよりも、このカードの方がよっぽどわたしに就いての情報を提示してくれる。

このぺらぺらのカードこそ本物の『棗』──わたしなのだ。

わたしの主体はカードの方なのだ。


室内はいつものように整然と整えられていた。次のレクチャーまでまだ二十分以上ある。それまで特にやる事もない。

ベッドに腰掛けて何気なく窓から外を見下ろすと、街もセンターも呆気ないほど小さくこまごまとして見えた。わたしが一時間ほど前に蹲み込んで葉擦れの音を聴いていたあの空き土地は、建造物に阻まれて一ミリも見えなかった。わたしがあそこにいたのはずっと大昔か、嘘だったのかも知れない。ここに帰ってくると毎回そんな気持ちになる。

そして、あそこで聞いたような気がする呼びかけも、きっと嘘。

だってあれは、声とも呼べないようなささやかなものだった。わたしはただあの時、目の前の植物の葉脈が作り出す複雑な模様に見入っていて、そうしたらなんだか不意に誰かが呼んだ感覚がしただけなのだ。声というより、あれはもっと直感的なものだ。強いて言うならテレパシーとでも呼べるようなもの。

──テレパシー。

可笑しくなって思わず笑った。そんな子供騙しで説得力のない言葉はとうの昔に死語になっている。

──分かってるの。ぜんぶ現実逃避だよ。棗は現実から置いていかれて、空想の中で生きているんだよ。


空想から醒めたわたしは窓の外の景色が様変わりしていることに気づく。空にどんよりと重い雲が垂れ込めて、雨が降っていた。この降りかたはスコールとは違う。きっと夜通し降り続けるタイプの長い雨だ。



屋内だから全く関係ないけれど。

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