第39話
さよなら冬、今日からロンディニウムに春到来。
今朝届いた新聞は、この島国に住む人々が、冬と春の境を越えたことを告げる記事を大げさな扱いで見出しに載せていた。4大新聞社の一つLDNがこの調子なのだから、他の3社も見出しは同じようなもので、当然事件を載せた号よりは売上が落ちるだろう。LDN社に何人か面識のある人間が居る夏南は、彼らが載せる記事が他に見当ず苦し紛れに筆を取る姿が想像できてしまい、それ以上読まずに新聞をテーブルに置いた。
社会治安の向上に反比例して給料が減る人々がいる当たり、幾つもの海と大陸を超え辿りついたこの島国であっても、人間とそれが生み出す社会というものが抱える問題はあまり変わることはないらしい。
あの国と警察が隠蔽していた連続失踪殺人事件が収束してから1ヵ月。あの夜、龍と戦った者たちはいつもの日常に戻っていた。あの晩に犯人が死亡した為、以後この連続事件に関する新たな犠牲者は現れてはいない。
ミーリを筆頭にこの事件で犠牲になった人々は、野犬や通り魔、変死に自殺という調書が辻褄合わせに作られ、その殆どが衛生法に乗っ取り火葬され身内のある者は遺族へ、無いものは共同墓地へ文字通り骨を埋めた。
事件後、夏南は自分が用意した事件の結末の是非を誰にも聞くことはしなかった。この問いを向けていいのは死者である彼彼女しかいない。死者と語らう術は無くとも許さない人がいるだろう、その想像は罪として自分一人で背負い続けるしかない。
この事件を利用しようとした生者達の末路はクルトから既に聞いている。役人と警察が画策した王族派への追及は、利用しようとした連続失踪殺人事件のカードを切ることができずに頓挫したという。
中心となって動いた人々は本当の黒幕とおぼしき反王党派筆頭国民党が裏で動いた結界異動となり、それぞれが所属していた組織から監視対象という待遇を与えられたとも言っていた。
事件当初に国民党の関与を疑った夏南だったが、事件には直接手出しせず事後処理のみ行うだろうという読みも含めて当たっていたようだ、下手に探っていれば確実に監視対象の仲間入りを果たしていたであろう。
最悪、彼らがわが身を顧みずに計画を進めても、事件に関係する失踪者達の関連性は不透明、犯人に繋がる手掛かりも少ないとあれば、被害者の中に王家派の人間が多く居たからと言って、彼らの内紛が連続失踪殺人事件の正体であると司法関係者が言われても、反対勢力の妄想として取り合ってはもらえないだろう。
彼らの主観でれば悲劇だが、自らが仕掛けた他人の命がチップのゲームで、勝負することなく敗者の枠を埋めたことは自業自得、同情の余地はない。
彼らにどんな大義があるかは知らないが、被害者達を権力争いに利用しようとしたのだ、左遷と自由の制限で命まで取られなかったことを幸運と思い、二度と国民の命を代価に払った暴挙にでなことを誓ってほしいものである。、無理だろうが
「夏南、熱々のトーストが冷めちゃうわ、
漢薬学では朝は熱い者を食べるのが体に良いのよ、い、あーん」
夏南は右淡い期待を胸の底に沈めると、顔の直ぐから口元に差し出されたトーストをにかじりついた、アチッ!跳ねたバターが唇の端を汚すしたが、もう一方の手が藍染の手拭いでそれを拭ってくれた。薬局の手伝いや家事、そして術識道具を産み出すその手はまだ幼いが、動作一つ一つに慈愛が滲み出ている。
「それは代謝の落ちた老人向けの知識です
若い人は体温と同じくらい物を召し上がるのが良いのです」
今度は左からフォークに乗った目玉焼きの黄身が差し出される。出来立てだが、皿から得られた後吐息をかけられ冷まされているので一気に口に加える、アチッ!中は半熟で今だフライパンで焼かれた熱を持っていた、もう一方の手がコップに入った冷水を火傷しかけた口の中へ優しく飲ませてくれた。
多くの患者が薬を飲み込むのを手伝って来たのだろう、むせることなく人に水を飲ませるその手からは気遣いの気持ちがはっきりと感じられた。
「これは、ど、う、い、う、こ、と、か、し、ら」
だが、テーブルを挟み腰に手を当てこちらを睨む女は、この空間には似つかわしくない激しい怒りを体全てを使ってこちらに投げつけて来ていた。
「彼岸堂の食堂の朝食風景だ、どこにもおかしいところはない」
相手を刺激しないように、勤めて押さえた声で答える。
「1ヵ月前に来た時とは、随分変わってる見たいだけどね」
女は明らかに納得していないといった様子で、乱暴に椅子を引くとその上に腰かけた。
「判るのかリリム君!
実は私の後ろの棚に、鎮静効果のあるハナサキ草やグリームス科の薬草を並べたんだ
内の従業員ときたら誰も気づかなかった、君は見る目がある!」
夏南とリリムが座っている正方形のテーブル、そのキッチン側で半ば微睡んでいたシィが突如覚醒し、早口で自身のコレクションとその理解者を褒めたたえた。
リリムは続けざまに飛んできた薬局職員の勧誘を微笑んで丁重に断ると、再び俺に殺気交じりの視線を照射してきた。
「この街の何でも屋さんは、朝っぱらから女2人を侍らせるご身分にいつからなったのかしら」
夏南は右を向くとそこには妹の美冬が体を密着させる程の距離で座り、反対側を見ると同じように医者のイルタが腰を掛けていた。
共に顔が上気しているように見える、狭い食堂に人が増えて気温と湿度が上がったことが原因なのだろうか。
この状況を見た彼女の声には、この一ヵ月間、正導教会と父の命に従いシスターうぃお殺した犯人を血眼で追い、満足な結果が出せないまま本部に戻らねばならな不満に満ちていた。
こちらの事情を知らないリリムにしてみれば、一度は事件解決に荷物持ちでも手を貸した俺が、助力を申し出ずにこんな朝食をとっているのが許せないのだろう。
完全な言いがかりだが、使命感の強いリリムは明らかに疲れた顔をしている、不本意だがここは言い返さないでおく。
「リリムさん、そのご様子では朝食はまだのようですね、今お作りいたします」
「夏南さんのお友達の方ですね
それにしても相当お疲れの御様子、何か滋養のある飲み物を淹れてくるわ」
突然の来客者に食事を振る舞うべく、嫌な顔一つすることなく、美冬とイルタはキッチンへと向かう。2人が席を立つ時に夏南の肩を軽く撫でると、リリムの顔が引きつったのは見なかったことにする。キッチンの扉が閉まると、夏南は小さく息を吐くと数十分ぶりに肩の力を抜いた。
女性に囲まれての日常を送り1年経ったが、未だに慣れ切ってはいないのだと改めて痛感する。それを見たシィの口元が愉悦に歪む。責任の半分を持っていることも忘れている、彼女こそ良いご身分だろう。
「美冬と随分仲良くなったみたいね
何かあったの?」
先ほどの怒った顔から一変、いつもの黙っていれば良いとこのお嬢様フェイスへとリリムは表情を瞬時に切り替えた。彼女はこの場に居る大きな変化に初手からは触れない、本題に入る前の軽いジャブか。その証拠に彼女の瞳には相手を探るような鋭さが垣間見えた。
「少し前から、彼岸堂の薬を届ける仕事を2人でやり始めたんだ
外に出る訓練だと彼女も分かってるから、今のは美冬なりのお礼だよ」
「え、あの美冬が外に!?
そんな朗報があるなら、顔を見るなり直ぐ言いなさいよ」
美冬の事情を知るリリムが、まるで自分のことのように喜んでくれた。
リリムとの間の緊張を一瞬忘れて、夏南はその様子を目に焼き付けた。
あぁ、美冬はいつの間にか自分の幸福を祝福してくれる親友を持っていたのだなと。
「美冬を変な所に連れ込んで如何わしいことを一度でもしたら、うちの教会総出で断罪するから覚えておきなさい」
ブホッ!
思い当たる行為を思い出して、夏南は飲みかけた紅茶を思わず吹き出しそうになり、空いている手で慌てて口を押さえた。
キスだ、美冬とのキスは外国の挨拶ごっこから半ば日課となって現在も続いている、それを思い浮かべてしまった。リリムの冷たい目がこちらの出方を伺っている、バレたら帰還返上で吊るし上げにされてしまう。
「朝っぱらから物騒なことをいうな
証拠もないのに教会動かそうとして、親父さんが体を張って止めるとこ思い浮かべて笑っちまったじゃないか」
半年前に北部のヤルド地方のある農村で、子供のイタズラを悪魔の仕業だと誤解して大騒ぎして新聞に乗った前科がリリムにはあった。そのことを今だ覚えているのか、リリムが耳まで真っ赤にした。集まり経由で聞いた話だが、リリムの父は事件の沈静化の為にヤルド州の知事に頭を下げたと聞いているので、今度は本当に娘にすがり付いて止めることは用意に想像できる。
「いいわね、くれぐれも間違いは起こさないように
い、い、わ、ね」
話の矛先が自分に向きそうなので、リリムは話を勝手に切りげた。残念だが、この危機管理能力が普段の仕事にまったくと言って反映されることはまったくない。夏南は紅茶を一口飲み込む、このまま馬鹿話でこの時間が終わればいいのに。
「あの金髪の女性、例の事件で過去の記憶を失った女医さんでしょう?」
希望はあっさり砕かれた、シィが新聞の陰から上手くやれと目で訴えてくる。そんなへまはしない、胸中で反論し夏南はリリムの目を見て静かに頷いた。
早朝、街外れである医師が経営する病院の地下で、かつて建物を所有していた貴族が不法所持していた火薬搭載兵器が突如起動、その上に建てられた古い木造の建物は、その衝撃と保管されていた薬物の炎上と爆発により大半が崩壊、明け方まで診察室で仕事をしていた院長兼医者が巻き込まれて頭を内記憶喪失となったのである。
あの夜起きたことから夏南達は龍の存在を抹消、連続失踪殺人事件は術識を使う知性を持った犬科の化け物として事件を引き継いだ「集まり」がでっち上げた話に合わせて後始末を行った。その後、作り話は政府や報道機関に渡り、最後に何も知らない庶民が新聞で知ることになったのであった。この所起こった数件の失踪事件とイルタを結びつけて犯人とする声も上がったが、日頃の善行に彼女を指示する人々の反論と、事情聴取をした警察が記憶喪失の診断結果を認めたことでそれは1週間も持たずに忘れ去られていった。
そして現在、イルタは病院が改築中の為、同郷かつ同じ医療関係者であるシィが保護して彼岸堂で暮らしている。
「華国は未だに紛争がある国だ
それでどうやら爆発が切っ掛けで嫌な過去の記憶が蘇ったようで、脳が自分を守る為に日常生活と医療の知識以外思い出せないよう蓋をしったっていう診断結果が出た」
だからあまりつつくなよ、と夏南は言葉の最後に釘を刺して置いた。
リリムは巷を流れる噂に煽られ余計な事をしかけた自分に気付いたようで、気まずそうに目をそらした。医者の診断結果、イルタの過去は本物、だが夏南はリリムの様子に嘘をついたような居心地の悪さをはっきりと自覚する。最悪の中から少しでもマシな結末を選んだ、だがそれは連続失踪事件は未解決に終わり、被害者の遺族は犯人に向けるべき怒りの矛先を失い、イルタの患者達は一歩間違えれば死んでいた事実に気付かないことが引き換えだった、これはその代償なのだ。
「そう言えばイルタ先生はもう診察を再開しても大丈夫だと、シィがいっていた
疲れてるみたいだから一度見てもらえば、東洋医学に精通した凄い先生みたいだからな」
西洋文明にどっぷり浸かったリリムにとって、科学的分析に立脚している西洋医学は信用がおけるものだが、膨大な経験則を根拠とする東洋医学は邪教に限りなく近いものという認識だ。
リリムが絶句して首を横に何度も振るう。
これでもう余計なことは言わないだろう、夏南は笑いを噛み殺した。
会話が途切れるのを待っていたかのようなタイミングでキッチンの扉が開く、すると手にトレイを両手に持った美冬とイルタが姿を表した。トレイの上にはホームパーティーが軽く開ける程の山盛りの料理、美冬はサンドイッチにサラダ、イルタはスープにハムエッグ。朝食の概念が無いのか、思わず叫びそうになった夏南だが、それよりも早く二人は料理皿と食器を人数分並べ終えると、最後に一瞬互いを見て火花を散らした。
「どうぞ、リリムさん
お仕事が忙しくて満足に食事ができなかったようですから、沢山作って参りました」
「リリムと仰るのですか、その服は正導教会の方ですね
滋養のあるスープを飲んで、人々への奉仕で疲れた体を癒してください」
キッチンで料理対決を始めたなこれは、美冬とイルタは来客に料理を進めると、何事もなかったように呆れる夏南の両隣の席へ座る。
シィは新聞を食い入るように読んでいるので、目の前に料理を並べられたが声をかけらて巻き込まれてることから逃げ続けている。今まで新聞を一度も捲ってないのはお見通しだぞ。夏南は胸のなかで避難して置く。
こうしてリリムを迎えて、彼岸堂の朝食が再開された。リリムは食欲が疲労を上回りサンドイッチをほうばり始め、シィは片手でスープの入ったカップを口に運ぶ。夏南もサンドイッチに手を伸ばそうとするが、美冬とイルタが先回りして取り口へと運ばれるのを食べさせられていく。
正直、餌付けされる雛鳥の気分ですごく恥ずかしいのだが、言っても二人はやめないことはこうして証明されている。
「そちらの先生を助けた東洋人って夏南、あんたでしょう?」
リリムは目の前の状況と巷に流布されている情報から感づいたようで、尊敬と同情が入り交じる目を向けて質問して来た。
相変わらず感だけはいいな、この娘は。
「そうなのです!
運よく仕事帰りの夏南様に助けて頂きこのイルタ、こうして五体満足に生きていられるのです」
イルタが待ってましたとばかりに目を輝かせて答える。そしてそのまま夏南へと、まるで神を仰ぎ見るような熱い視線を向け寄越す。イルタは今彼岸堂の手伝いをしており、夏南が近くにいるとこれと同じことを何度も繰り返しているのであった。
死ぬほど恥ずかしいが止めてとは言えない、その瞬間彼女は生き生きしていおる。それを阻むことはどうしても気が引けてしまう。多分一度彼女を殺した罪悪感がそうさせるのだろう。
「シィ先生と同じ華国出身にして漢薬のプロ
夏南、あなたこうなることを見通して助けたんじゃないの?
まさか、あんたが爆発の原因を作ったんじゃないわよね」
リリムがとんでもない推理を披露した、当たってはいないが事実を掠めている。いや事実を知らないにしても言いがかりレベルの邪推だ。普段から俺のことをそう見ていたのか、咄嗟に抗議の声を上げたかったが、イルタを一度殺した事実が反論を躊躇わせた。
「注文された薬の引き渡しまで期日が迫っていたので、夏南はルコン市から夜通し歩き偶然事故に遭遇した
ここまで偶然が重なったのであれば、人の思惑を越えた神さまの意思が働いたのかと」
美冬が咄嗟に会話に割り込み、助け舟を出してくれた。
神、父の為に仕事をしているリリムでも、その名を出されては立場上、露骨に疑うことはできない。
「あぁ、神さまね
あの、あのお方ならそういう采配をなさるわね、多分」
リリムは苦い顔で力なく何度も首を縦に振るう。それを見ていた美冬の顔には安堵と僅かな罪悪感。嘘をつかせてしまった、夏南はテーブルの下で美冬の膝に置かれた彼女の手を軽く叩き助かったと合図を送る。
「そうです、神のご意志なのです
しかし、私は特定の神を持たぬ身、であれば御恩は助けてくれた方への奉仕でお返しするしかありません」
イルタが再び夏南に熱っぽい視線を向ける。
痛、膝の上に置いた右手の甲を美冬につねられる。
夏南が置かれた状況を理解したリリムがため息をつくと、「調子に乗るな」と言って睨んできた。
粋すぎた恩返しに妹の嫉妬、女二人に囲まれる男に対する怒り、三者三様の感情の渦の中で俺はどうすればいいんだ、一体、本当に、マジで!
これを見通して、生まれたばかりのイルタを俺に助けさせたんだな、シィ女史。
抗議の視線をシィに送るが、彼女は一瞬だけ新聞の端から顔を覗かせ舌を出した。
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