第38話
投擲された勢いで石造りの病院外壁は空中で細かく砕け、一つ一つが砲弾並みの威力を持って夏南の背中に向かって降り注ぐ。当たらぬよう背中を低くして走る夏南は、右手に花壇を見つけるとその陰へと滑り込んだ。破壊された病院の壁が周囲に雨のように降り注いぐ、見える範囲の樹木は枝葉を削がれ幹に大穴を開け、歩道として敷き詰められた煉瓦は大きな破片を受ると耐え切れずに砕かれ、その一部を飛散する瓦礫の中へと飛ばす。
夏南も被害は免れなかった。
左肩や左腰に拳程の大きさの石を浴びた、花壇を貫通した破片が後頭部を直撃したが、咄嗟に頭の後ろに回して左手が防いでくれた。代わりに中指の骨が折れたが、直ぐに代謝機能が繋ぎ直してくれるだろ。瓦礫が奏でた雨音は直ぐに消えた、夏南は砂が入らぬよう開けていた瞼を閉じると、周囲がまるで月が隠れたように暗い。
夏南は危険を察知、空を見上げることなく立ち上がり急いで影の外へと転がり出る。
次の瞬間背後で大質量が地面にぶつかる爆音、振り返ると龍が花壇を蜷局を巻いて押しつぶし、更に回転を加え地面に突き刺さした氷の剣で地面を抉っていた。
夏南は立ち上がる、龍が回転を停止、尾をハンマーのように飛ばしてきた。
夏南は刀を構え龍の尾から延びるを受け止めるが、咄嗟の足さばき地面に足を固定することができずに後方へと弾き飛ばされる。
幾つかの生け垣をぶち抜いたところで落下、煉瓦を靴底が擦り急停止、回りに目を向けると背後に2メルトル程の台座が設置されている小さな広場に飛ばされて来たようだ。迷路のような庭園で飽きぬように人工物が配置された空間だろう。制作者の配慮が垣間見得る場所だが、台座の先端は凸凹の断面を覗かせて破壊されており、所有者であるイルタの関心を引くことは出来なかったという一つの事実を物語るだけの存在に成り下がっていた。
緑の垣根の越しに木々や枝葉が薙ぎ倒される音が耳に飛び込んで来た。その音はこの場所を中心に円を描いて移動している。龍だ、視界が効かないことを利用して円上に移動、半径を徐々に縮め獲物を追い詰める気なのだ。
夏南は音を立てぬように後方へ移動、背中からの奇襲を少しでも遅らせる為に台座に背中を預ける形で立つ。
例によって空中を飛べる龍相手に空に逃げるの自殺行為、包囲網を突破しようと下手に動けば高速移動する龍とご対面、音を立てれば広範囲術識が周囲から飛んで来るである。
決して自分が知る場所から出ようとはしない用心深い女だ、周囲に被害が及ばぬように病院に結界を張り閉じ込めたつもりだが、それは自分達に苦戦を強いるだけの結果になってしまったようだ。
破砕音は徐々に距離を縮めてくる、後悔する時間すら残されていないようだ。夏南は刀の柄頭で背後の台座を思いっきり叩いた、そんな怖いなら今すぐ安心させてやる。金属製の柄頭が台座の角を砕く、空いている左手で破片を受け止めるとそれを思いきり地面に叩きつけた。石が煉瓦にぶつかり乾いた破裂音が夜の庭園に鳴り響く、隠す気のまったくない大音響、龍は必ず罠と思うだろう。
夏南は刀を正眼に構えるとゆっくりと目を閉じた。
気配だ、予兆を掴めさえすれば龍は必ず隙を晒す。
周囲を取り囲むように術識発動の気配が発生、次の瞬間高速で中心に居る自分へと迫ってくる。360度からのからの範囲攻撃、今度は円状の檻で押し潰す気か。しかし、迫る術識の気配は速く地面を削る音もない、もう目と鼻の先にまで迫っているが、正体が掴めずに動けない夏南。
術識攻撃が周囲を取り囲む生垣に到達、緑の葉の壁に水平に光る線が見えた。夏南は反射的に体を前に投げ出していた。頭の上で氷と氷がぶつかる音が直後に響く、体を回転させ上を見ると氷の膜が視界全てを覆い隠している。
龍は巨大な氷の円を産み出し武器にしたのだ、獲物の周囲に支点となる氷の輪を生成、その後中心に向かって氷の輪を中心に向かって増殖させ連結たのだ。透けて見える夜空に歪みはみられない。恐らく氷の輪の縦幅は1ミリにも満たないだろう、それが高速で移動すればカミソリ以上の切れ味を誇る刃となる、視界が効かない場所故に仕掛けられた罠である。
真ん中を斬られた台座が崩れ、落ちた上部が氷の輪を砕き割るのを見た夏南は目の前の氷を殴り砕くと直ぐに立ち上がった。俺が龍なら獲物の死体を確認するまで攻撃の手は緩めない、今すぐ移動しなければいけない。立ち上がると同時に術識の浮力を失った氷の輪が地面に落下、至るところで氷が割れる仰々しい音を張り上げる。
上空から僅かな殺気、夏南は後方へ跳ぶと空から大質量の龍が飛来、獲物を逃した鋭い爪は勢い余って台座に振り下ろされると粉々に砕いただけでは止まらず、敷かれた煉瓦に小さなクレーターを産み出した。
「さっきと同じ攻撃じゃ、俺には当たらないぞ」
「余裕ぶる割りには額に汗をかいているわ、医者の目は誤魔化せない」
互いに軽口を叩き合う、龍のもう片方の爪による攻撃を警戒した夏南が後ろに下がろうとすると、龍が術識で強引に加速し距離を詰めてきた。
下から掬い上げるように振られる龍の左手を強引に横へと移動し回避、追撃の右手がハンマーのように振り下ろされるが、夏南はその爪を刀で一度受け止めると切っ先を下げていなした。
地面に突き刺さる龍の右手、人間でいう人差し指と中指を踏み抜き鱗とその下にある肉を潰し骨をへし折る。人間なら致命傷になり得る傷だが、術識で直ぐに治せる龍にとってはボタンの掛け違い程度の些事でしかない。龍はその場で地面に置いた右手を中心に回転、体から生えた氷の刃で夏南に斬りかかってきた。
一振り目の攻撃を受け後ろに下がる夏南、回転しながら遠心力で描く輪を広げる龍、鱗から伸びる刃達の長さ伸び幾ら後退しても追いすがって来る。
刀で氷の刃を受け止めるのが精一杯の夏南視界の端に、一際大きな刃が写り込む。尾の先から鎌のように生える巨大な刃。龍の尾の質量と剃刀以上の切れ味、城壁を砕く槌に稲穂を狩りと取る鋭利な刃が合体した悪夢のような武器が迫る、幾ら龍から移植された治癒能力を持つ身だとしても、脳とそれを維持する肺や心臓を一度に潰されれば即死は免れない。
夏南は足の力を緩めて後方へわざと押されて後退するが、尾の進行速度はそれを遥かに上回っており直ぐに追い付かれてしまう。夏南は防御する愚は犯さず、その場で地面に転がり尾から伸びる刃を間一髪でやり過ごす。直ぐに起き上がろうとする夏南の前で龍が今度は反対に体を回転させ尾を引き戻していた。
背後から煉瓦を砕く音が急速接近、夏南は後ろを確認する余裕の無いまま横へ転がり回避。視界の左隣を龍の尾が地面を切り裂きながら通り過ぎていく。
夏南は立ち上がると同時に龍へ殺到、尾による3回目の攻撃よりも先に仕掛ける。龍は右手一本でその巨体を再び宙へと押し上げると斜めに回転、尾による3回目の攻撃を高速で繰り出す。夏南は跳ぶのを寸でのところで止め、飛来する尾、そして氷の刃を迎え撃つ。
バキン!
尾から伸びる氷の刃の一つが、振り下ろされた刀によって根本から切り落とされる。尾から伸びる二本の内、地面を切り裂いた方を夏南は打ち据えたのであった。尾は夏南の左横を通りすぎ刃は右横を通りすぎた、一撃死は避けたが回避不能の状況に陥った夏南は、砕けた氷を右脚全体と右腕全体に浴びることになってしまった。
痛みは直ぐに脳へと達したが、極寒の散弾は直ぐに被弾箇所を冷却、感覚を直ぐに麻痺させてしまった。直ぐにその場から離れようとするが、回転をを終えた龍と目が合ってしまう。龍の並外れた動体視力なら夏南の身に起こった事など、一瞬の内に知られてしまうだろう。龍が右手の爪を伸ばして大鎌のように横薙ぎの攻撃を繰り出してくる。速い、右足は傷口が凍傷になっており再生が始まらない、回避は不能、仕方がないもってくれよ俺の体。
夏南は不退転の決意を固めると、龍の右手を刀で受け止める。金剛石の強度とそれの衝撃を肩代わりする軟性金属を合わせた術識製倶利伽羅複合合金と、タンパク質の一種であるケラチンを主成分に複数の金属成分からなる水龍の爪が激突、夜の庭園にまるで溶接作業が行われているかのような火花を撒き散らす。獲物同士は拮抗したが、龍と人では質量も筋肉量も龍が勝る、直ぐに夏南の体は押し返され始めた。
「はぁぁぁぁぁ!!!」
夏南は獣の如き列泊の雄叫びを上げその場に踏み止まろうとする。戦闘用に術識で編まれた靴底が、煉瓦を踏み砕き龍の攻撃を受ける人の体を支える。振り抜けると思った右手が止まり龍が僅かに眉を潜めると、更に力を入れようとした、その刹那一瞬の隙が生まれたのを夏南は見逃さなかった。
刀を押して龍の爪と刃の間に僅かな空間を作ると、柄を握る手に微力な術力を送り込んだ。ナカゴ部分に埋め込まれた術識統括機関が起動、予めセットされている大気制御の術識を起動させる。刀身の周辺の空気が圧縮され切っ先の向かう先へと解放される、粘性の体液に覆われた人外を斬る際に使う機能だが、刃が食い込んだ状態で使えば龍の爪に更なる傷を付けることが出きる。
夏南の読み通り龍の爪に入ったヒビが大きくなるのが、再度刀と爪が接触した感触で分かった。一気に刀に力と術識を込める、今度は峰に沿って空気が解放され加速を加える。龍の右手人指し指から小指にかけての爪が両断され中を舞う。支えを失った龍の右手が眼前を横切る、返す刀で鱗を裂き骨を削る。これで龍の右手は使い物にならないはずだ、離れようとする夏南の正面から龍の左手が追いすがって来る。
五指から伸びる5本の爪、上半半身の重心が後ろに下がった状態では転がるくらいしかかわす選択肢はない。寝たら煉瓦と一緒に串刺しだ、夏南は上半半身を腹筋と背筋で強制的に起こすと刀を正眼に構えた。龍の爪がこちらはもう目の前だ、夏南は爪に対して体を真横にすると左手を刀の峰に宛、振り抜いた。狙うは爪ではない、親指と人指し指の間に入るよう僅かに移動した夏南は親指を付け根から切り落としたのであった。
一つ間違えば即死の一撃を受ける事になる、夏南の常軌を逸脱した行動に龍が目を剥いた。夏南は龍の手が巻き起こした風に煽られながら龍を臆することなく見上げる。龍の赤い目が一瞬で怒りに沸き立ち溶岩の如き色へと変わる、夏南は追撃をしようと前に出たが、深い傷を負わせた筈の龍の右手が再度迫り行く手を阻む。
右手は体勢が崩れかけた夏南の体を直撃、咄嗟に取った防御の構えをぶち抜き、人間の体をゴミを払うように弾き飛ばした。夏南は回転しながら宙を舞う、咄嗟に全身の筋肉を締めて骨折だけは免れたが、このまま頭から落下すればその努力は水の泡となるだろう。だが姿勢制御しようにも体は高速で回転、星空と地面、草花やその向こうの半球状の建物が視界の中を通りすぎては入ってくる。
何か手はないか、夏南は思考を巡らすが実現不可能な案しか出てこない。お仕舞いか、そう思いかけた瞬間、芝生の中に立つ一際高い木が目に入ってきた。これだ! 夏南は3度柄越しに術識を送ると今度は切っ先から水の刃が伸びる、数秒程顕現する水の刃、それを地面に突き立て無理矢理軌道を変更、先ほどの樹木に飛び込んだ。枝葉がクッションとなるか体を串刺しにする処刑具となるか、一か八かの賭け、純然たる運の領域へと飛び込む。
日頃の行いは・・・・・・良いはず。
シィ女史が隠してチョコを食べた事は、生きていたら謝ります。
自らの罪に気づいた次の瞬間、夏南の視界は暗い緑に包まれると耳に葉が擦れ枝が折れる音が飛び込んできた。そして背中に衝撃、幹にぶつかったのだ。助かった、だが衝突の衝撃で全身を痛みが駆け巡り体の自由が効かなくなった夏南を、重力が捉え地面へと引き摺り降ろした。
ドスンという音を上げ夏南は芝生の上に投げ出される。
「いってぇ!」
続けざまの痛みに夏南は思わず声を上げてしまう。
しっかりしろ俺、戦場で一番危険なのは痛覚が麻痺する程の怪我を負うことだ、直ぐ動け龍はこの隙を見逃さない。立ち上がると左二の腕の裏に痛みが走る、刀を地面に突き刺し手で触れると小枝が突き刺さっていた。枝を引き抜くと直ぐに龍細胞が活性化、テロメアを消費しない自己再生が始まり肉と皮膚を新たに作り出し患部を修復する。
内蔵の損傷は不明だが、腕以外に目だった怪我はない、忌まわしき己の体に今だけは感謝しておく。
高速で飛来する気配を感じ、刀を抜き構えを取る。
生け垣や樹木を薙ぎ倒しながら龍が姿を現し、投槍のように一直線にこちらに向かって来ている。龍の右手と左手、更に尾から伸びる氷の刃は遠目でもはっきり分かる程、元通りになっていた。その気になれば人知の及ばない深海へと逃げることが出きる水龍は、本来治療は他に比べて苦手とする生き物だが、人として学んだ医学知識と研究で得たイルタは水龍戦の定石を覆す厄介な存在であると、夏南はここに来て認識を変えざるを得なかった。
夏南は迫る驚異に背中を向けると、脇目も降らずに走り出した。
「臆したか!」
龍殺しの矜持を忘れ敗走しているように見える背中へと、龍の容赦ない侮蔑の言葉が刺さる。
好きなだけ罵るがいい、侮辱も白い目も幼い頃より浴びつ続けた人生、その程度のことで我を忘れて目的を見誤ることはない。
芝生を抜け庭園の奥へと伸びる歩道を全力で走る。
先ほど獲物を吹き飛ばしたことで力で勝ると確信したのだろう、龍は執拗に追い縋り、術識で産み出した氷の槍や剣を大量に発射して来る。
夏南はランダムに左右に動きながらそれらを回避、視界の端で氷の武具を叩きつけられた煉瓦や木々が弾け、後方へと流れていく。それでいい、お前の頭の中は俺で一杯だ、そのまま着いてこい。夏南の想定通りことは進むかに見えたが、氷の破片が右脹ら脛を削ぎ転びかける。
狙いが俺に追い付き始めている。
歩道と言っても人が4、5人並んで歩ける程度の幅しかない、幾らランダムの動きでも、いずれは癖を読まれて撃ち抜かれてしまうだろう。
夏南は音と勘を便りに避け続けるが、脚や腕そして背中を氷の武具達は時間が立つごとに深い傷を追わせていく。
夏南の移動先を氷の槍がえぐり慌てて反対へ跳ぶ。動きが読まれた、もう持たない。絶望的な状況、だが諦めずに顔を上げると木々と煉瓦の果てにガラスと梁の半球が見えてきた。
間に合った!
夏南は更に加速すると、刀を温室の正面扉の直ぐ上にあるガラスへと投げて割ると、一飛びにそこへ飛び込んだ。
空中で体を回転、足から地面に降りる、靴底と煉瓦に挟まれたガラス片が奇妙な音を立て砕けた。
衝撃吸収の為に畳んでいた膝を伸ばす、龍はどうした、顔を上げると温室のガラス越しにこちらを見下ろす龍の姿が伺えた。貴重な草花、幾ら目的に目が眩んだイルタでも、破壊するのを躊躇しているのだろう。予想通りだが人質を取ったような罪悪感が込み上げて来る。
夏南はそれは感傷だと強引に振り払うと、床に転がる刀を拾う、彼女なら直ぐにこの温室内の草花を切り捨てるはずだから。
温室上空を浮遊する龍の周囲に術識反応、次の瞬間氷の槍が幾つも発射され温室の硝子を砕いていき、最後に深緑色をした龍の巨体が温室内部に侵入して来た。夏南はその光景を半ば見たところで反転、扉を蹴破り奥へと走る。部屋を仕切るガラスと鉄骨をぶち破り龍が追ってくる、衝撃で鉢が倒れその巨体が木々なぎ倒す、その姿に診療を合間を縫って育て上げた植物への慈悲の心は見られない。
「そうやって利用する瞬間に患者も捨てたんだろう!」
温室を逃げながら夏南は叫んだ、龍の耳に届いた筈だが彼女は躊躇する素振りも見せず攻撃を繰り出してきた。術識の氷が打ち出され、その体から伸びる刃が温室内の植物を地面や温室の鉄の支柱を切り刻んでいく。夏南は術識も破片も構わず刀で叩き落としてはかわしていくが、やがて進行方向へと回り込まれ足を止めることになった。
現在地は温室中央の建物内で一番広い空間、既に龍の攻撃により育成されてた植物は地面事破壊され尽くしている。夏南の周囲を龍が廻る、手には切り落とされた温室の支柱が二本、四方の逃げ道を塞がれ逃げれば背中に支柱を投げつける気だろ。囲まれたのだ、この包囲を突破するにはもう一度正面からやりあうしかない。
空を駆る龍を狭所に閉じ込めるのは有効だが共に入ってはないらない、対龍戦闘の禁忌を夏南は犯すかたちとなった。龍の質量と術識能力なら、怪我を気にすることなく立ち回れるからだ。落石一つ頭にあたれば人は死なないまでも大きな隙を晒す、イルタはそのことを既に気づいているのあろう、どう殺して楽しむか、こちらを見るその目に生殺与奪権を握った驕りの色が浮かんでいるのがはっきりと見えた。
「最後に教えてくれ
故郷を追われた過去に追われ、やがて来る赤き龍の復活に怯えるあんたの一生って、一体何なんだ?」
夏南は構えていた刀の切っ先を無造作に下ろした。
言葉だけでは時間稼ぎと思われ直ぐに攻撃されるだろうが、絶対的に不利な状況で隙を晒せば罠と見て下手に仕掛けては来ないだろう。
夏南の読み通り、龍はいぶかしがるような目をして遠巻きにこちらの出方を伺い始めた。
「これから死ぬお前がそれを聞いてどうなる?
死を前にして質問の答えなど用意に想像できよう、それともまだ生き延びられるとでも思っているのか?」
龍が威嚇するように手に持った温室の支柱で、地面の煉瓦を擦る。煉瓦が削れる耳障りな音が響くが、夏南は耳を澄まし答えを待つ。彼女は己の生に以上な執着を見せている、それは死ぬのが怖いでは説明が付かないほど執拗で熱狂的でだが、夏南の目には見渡す限り水平線の海原で一人助けもなく、浮かぶ廃材にしがみついている生き物のようではないか、そう思い始めていた。
無論犯した罪は消えないが、苦悶を抱えた相手を前にしてそれを無視することなど夏南には出来なかった。
「本当に心当たりがないのね、それともそんな繊細なことを感じない人だから、妹と二人で幸せに暮らす為に故郷の全てを捨てることを平気でやる人なのかしら?」
龍が頭を地面すれすれの高さに置くと、被告の罪を告発する検察官のような刺すような目を向けてきた。機にするな夏南、痛い腹を探られた腹いせにこちらを攻撃して来ただけだ。自分にそう言い聞かせるが、刀を握る手にが僅かに発汗して何の助けにもならない。
自身の美冬へ抱く感情を夏南は薄々感づいていた、イルタが言うように二人で慎ましく暮らしと周囲の全てを秤にかけた罪悪感は今も残っている。
言い返す言葉はない、だが思考は何かを探そうと頭の中をを走り回ると、ある一つの可能性に行き着いた。
「あんた、妹を囮にして生き延びたんじゃないのか!」
龍の動きがピタリと止まり、鉄と煉瓦の狂想曲が終わり温室が侵入者によって奪われた静寂を取り戻した。強い夜風が吹き、ガラスの半分以上を失った天井から入り込むと破壊を免れた木々の枝葉を揺らし四方に消える。答えを待つ、予想通り彼女がもし過ちを犯したのなら、逃げずに正面から受け止めなければならない、そうあって欲しいと夏南は自らの感傷を自覚しながら龍を見据える。
自身は絶対に生きねばならない、犠牲にしたものの大きさから罪を肯定する為に罪を重ね生にすがる。一歩間違えば里を捨てた夏南も同じようになっていたのかもしれない。同情はする、許しはしないが。
龍は微動だにせず宙に固定されたように微動だにしない、自らの胸の内を気付かされた戸惑いの沈黙か、それともひた隠しにしていた過去を暴かれ戸惑いの沈黙か、夏南には知る術はない。彼女の答えが何であってもこの戦いの勝者は一人だろう、そこが覆ることはない。だが、もしも彼女が自身の罪からの逃避を自覚すれば、殺された人々が生きる為の道具ではなく犠牲にした命であったと後悔出きるかもしれない。
だが、龍の体から膨大な術識が渦巻く気配、その赤い瞳には触れるもの全てを燃やし尽くす極寒の殺意。
夏南の淡い期待は裏切られた。
勝手に俺が期待しただけだ、自身を鼓舞し夏南は刀ー水風の切っ先を罪人へと向ける。
ここで逃せば、何れ軍や教会に殺されるか、研究材料になるかの未来しかイルタには残されていないだろう。
そんな結末にはさせない、夏南は渾身の力で敷かれた煉瓦を足で叩いた。バキンと足下に並んだ煉瓦が弾けると、夏南の体は龍へ向かって放たれた。龍は瞬時に身体強化術識を発動、龍の二本の腕が4倍以上の太さとなり、巨大化した指が鉄の支柱に食い込んだ。
大切な者を切り捨てるか否か、これまで平行線を辿っていた両者はここに来て一つの結論に達しついに重なったのだ、自らの手で相手を倒すという唯一点において。
夏南が一早く動いた、初速を付け一気に龍へと肉薄、龍の手が横に振られ鉄の支柱がそれを迎え撃つ。術識で強化を受けているだろうが所詮は鉄の支柱、刀で斬ることはできそれをすれば動きが止まり、もう一本の支柱を食らう羽目になる。夏南は支柱の長さから間合いを瞬時に把握、寸前で止まり横移動の動きに切り替える。
鉄の支柱の切っ先が鼻先を掠める、龍のもう片方の手が動く前に間合いを詰め斬る、夏南は刀を構え直す。その直後自身を取り囲むように術識の気配、その正体を探ろうと素早く周囲に目を走らせるが目立った変化はない。こちらが術識の発動を察知できることはイルタも気づいているはずだ、罠か、夏南はそう断定し龍へ向かおうとした瞬間、足元で起こる僅かな振動を感知、後ろへと下がっろうとする。
逃すまというかのように、振動は一気に膨れ上がると、剥き出しの土や破壊を免れた煉瓦が破裂、中から氷の刃が無数に生まれ襲い掛かってきた。夏南は高速で回転、自身へ伸びる氷の刃を次々斬り落としていく。夏南の回転は駒のように高速で、龍と同等の動体視力は直撃する氷の刃を正確を正確に捉えていたが、氷の刃の量は予想以上の量で幾つかはその網を掻い潜り目標へと到達する。
右太腿、左上腕、左脇腹の計三か所に氷の刃が突き刺さり、刺突とその周囲の細胞が氷結する痛みが一瞬にして脳へ到達する。
顔を上げると、鉄製の支柱による突きが鼻先まで迫ってきていた。右太腿、左上腕の刺し傷は動脈や神経を切断してはいない、左脇腹の傷も臓器には達していない、これなら動ける。夏南は体をよじり氷の刃を無理やり折って拘束を抜けると、その場でジャンプし突き出された支柱の上に着地する。
龍は夏南を振り落とそうと、支柱を握る左腕を上へと振り上げた。夏南の視界に映る全てが物凄い速さで下へと流れていく、これが終われば自分は空中に投げ出され、そこを龍に攻撃され死ぬ運命が待っているだろう。鉄の支柱にこのまましがみ付くか、それとも、空を見上げると所々ガラスが抜けた鉄の梁が空と自分の間にあるのが目に入った。
夏南は屈めていた膝を開放、鉄の支柱を蹴り一直線に温室の天井へと到達、鉄の支柱を掴むとその上へとよじ登った。乾いた夜風が汗ばんだ額を撫でて行く、どうやら温室内の湿度は高く美冬の罠が既に発動し始めているようだ。後は龍を温室内に閉じ込めるのみ、眼下に目を落とすと龍が放った鉄の支柱が二本こちらに目掛けて飛んできていた、夏南は天井の頂点へ向かって直ぐに移動、目標を外れた支柱は天井を支える支柱を擦り火花を散らしながら夜f空へと飛んで行く。
夏南は直ぐに足下に目を向けると、龍がこちらに向かって一直線に飛翔、両手の平から鉄の支柱と同程度の長さの氷の剣が生成されている。
天井ごと俺を切り裂くつもりか、夏南は刀の刃を返し防御の構えを取る。下からの攻撃をまともに受ければ踏ん張る足場などないので、吹き飛ばされるだろう、危険でもここで龍を叩き落とさなければ仕掛けた罠が無駄になる。
接敵に備えて夏南は息を飲んだ。
龍の間合いがこちらを捉える、次の瞬間龍の双剣が高速で軌跡を描くと、夏南の足場が揺れ転びそうになった。
龍が夏南が立つ支柱を切断、逃げ場の無い空中へと落とし入れたのだ。
空中に放り出された夏南、龍の双剣がそこへ迫る、刀の刃に左手をあてがい受け止める。術識で強化された氷と対龍用合金がぶつかり、耳障りな金属音を打ち鳴らした。氷の刃を防いだ夏南だが龍が腕に力を込めると、足場を失った人の体は成す術もなく空へと高く弾き飛ばされてしまう。
三半規管は体の回転で撹拌され平行感覚は失われる、次に自分の意思とは関係なく地面の存在しない場所に置かれた恐怖が襲いかかってきた。何とか耐えて手足を使い体の回転を無理矢理止めるが、推力を失った体が下で待ち構える龍へと落下していくのを止めることは出来なかった。
天井が落ちた温室を背景に、二振りの氷剣を構える龍の姿が視界の中で高速で巨大になっていく。次の一撃は防いだら今度は横に飛ばされ地面に叩きつけられるだろう、しかしその未来はやってこない。夏南は体を腰から畳んで回転して頭を地面に向ける、自らの足を見上げると読み通り龍が投げた支柱の一つが落ちている真っ最中であった。
刀へ術識を送り地面に向けた切っ先から圧縮空気を発射し減衰、両足を支柱に着け一気に蹴り真下に向かって加速する。夏南の罠だと悟った龍が逃げられないことを悟り、氷の剣を顔の前で交差させる。それも狙いの内だ、夏南は空中で体を回転させ氷の剣へと刀を叩きつけた。
もう一度、氷と金属が打ち合いその高音で空気を震わせた。
「グワァー!」
続く龍の咆哮が大気を震わせ、無機物が奏でた音を一瞬にして塗り替えていく。夏南が死の淵から繰り出した一撃は、二振り氷の剣を砕くと龍の左顔を斬っていた。龍の目が驚きから怒りへ瞬間沸騰、人が手を伸ばせば届く距離で夏南は感情の本流を真っ正面から浴びることになった。
龍との接近は死に等しいことは龍と戦う者の殆どが知っている、そこから生還できたとしても沸き上がる恐怖に屈指し二度と戦えなくなる者も多い。
それがどうした、美冬を失うことに比べればどうってことはない。
夏南は龍、そして自らが捨てた故郷に向かってそう嘯く、そして右手を刀から離すと後ろへと引く。視界の両端から龍の両手が迫る、体に集る虫を押し潰したいのだろう。左足は宙にあり右足が辛うじて龍の顔を踏んでいるが膝は伸びたまま、左手は刀を握って自由には動かせない、圧死の運命から逃れるかどうかは右手にかかっている。
「これで終わりだ、先生!」
力の限り右手を前に、地面に向かって突き出す、渾身の拳、岩を砕き戦車の装甲を歪ませる程の破壊力が龍の頭部を遅い、鱗と頭蓋骨に覆われた脳を振動させる。
龍の二度目の咆哮、刀傷の直ぐ横を殴られ一度目とは比べられない程の爆音、鼓膜どころか内蔵が直接音に晒されたかのように震える。
夏南は龍に打ち付けた拳の反作用で空中に舞い戻ると、丁度降りてきた鉄の支柱をもう一度蹴り、切断を免れた天井の梁に着地する。龍は脳震盪を起こしたようで、術識制御が乱れると浮力を失い温室へと落ちていき、その後を自らが放った鉄の支柱が二つが追うように後に続く。大質量の有機物と無機物が地面に激突、月光を背にしているお陰で温室内は良く見えないが折り重なるように倒れているに違いない。
終わったー訳ではない、龍は脳や重要な臓器を破壊しない限り術識で再生し直ぐに襲いかかって来る。龍との戦い、手傷を追わせて見逃せばもう人を襲わないという結末はありえない。
その証拠に足下で龍が動き、術識を紡ごうとする気配を感じた。
「美冬! 檻を起動させろ!」
夏南が叫ぶと、温室を取り囲む輪状に仕掛けられた符が一斉に発動、一つ一つが膨大な水を産み出し球状の水の玉を形成し温室をその中に飲み込んだ。
夏南は水の球体がういhouいる前に地面に飛び降りると、近くの生け垣の陰から美冬が出てくるのが見えた。夏南は直ぐに駆け寄りたい衝動に駆られたが美冬の仕事はまだ終わってはいない。美冬が目の前に突き出した府に更なる術識が送り込まれると、火の粉の如く風に大気に溶けていく。
轟音、温室を取り囲んでいた球体の水の檻を成す水が渦巻き荒れ狂う潮流となる。水は瞬時に透明度を失い、白い飛沫の中に温室を隠すと、今度は中心に向かって一斉に進み始めた。水の檻は凄まじい速度で範囲を狭めていく、温室下の地面は既に半球状に切り取られ檻の収縮に合わせて削られ、徐々に水を茶色に染めていく。
水を使った拘束用の水球だ。
龍が氷の檻を使うのを見て咄嗟に思い付き、囮となって時間を稼いでいる間に美冬に用意して貰った罠である。難しいかと思われたが美冬は迷うことなく首を縦に振り、実際にやってくれた。美冬はには自分は愚か本人が知る以上の才能があるようだ。
「美冬、俺が合図したら急いで逃げるんだ」
夏南は美冬と水の檻の間に立つと、ゆっくりと刀を握る両手を腹の前に移動させ、その切っ先を檻へと向ける。
美冬は一度だけ声を上げ答えた。
兄の自身を問うことも励ましの言葉も口にはしない、その沈黙は共に戦う者に対する信頼の明かしであることを夏南は背中で悟っていた。
イルタは水龍、この檻で死ぬことはない。
小さく腰を落とすと、目の前の水球の変化を逃すまいと目を凝らした。
彼女は必ず、この機を利用して反撃に転じてくるはずだ。
水球は温室を飲み込むと、鉄製の支柱とガラスに煉瓦、そして中の植物全てをバラバラに砕き水からの中に取り込んでいく。
高速で渦を巻く水、砂から千切れた鉄の支柱まで内包されたその中に生き物が入れば、人間程度なら一瞬でバラバラにされてしまうだろう。しかし相手は龍だ、これで殺せるとは夏南も美冬も思ってはない。やっかいな足止め、これを破るには術識を使うか無理矢理突破するしかない、さぁ選べイルタ!
夏南はその時を待つ。
やがて水の球体が龍を落とした中央の大部屋と同程度の大きさになった。その中心から僅かな術識が発動する気配。夏南は逃げろと叫ぶ、背中越しに感じてた人の気配が遠ざかる、水の球体、丁度正面に位置する部分がこちらに向かって一際高い波を打ち上げた。
龍だ!
夏南は地面を蹴り一気に前へと加速、自身の全てを龍を殺すための一撃へと託す。
高速で飛来する龍の体に氷の刃は一本も無い、唯一の武器は両手の指先から伸びる爪のみ。それを振りかぶらずに、脇を締め腕を折りたたみ頭部を狙う人間を迎え撃つ姿勢でかませている。龍もこの攻防に賭けているのだ。
迫る夏南へ龍の右手爪が伸びる、夏南は刀を振り5本の爪を切断、続く左手詰めの横なぎを体を屈めて潜り回避する。龍の手は万策尽き、刀に切り裂かれるのを待つだけかに見えた。龍が大口を開け鋼すら凌駕する歯、それに槍のように上下から突き出した4本の犬歯を構えた。
夏南が龍に喰われる、迫りくる龍の軌道から外れた歩道の上でその光景を見ていた美冬は、思わず目を閉じそうになったが必死に堪えた。
夏南が戦う理由に少しでも自分が入っているなら、目を背けてはいけない。
それに大丈夫、なんたってあの夏南なんだから。
龍の口が迫る直前、夏南は跳躍すると龍の上唇の先を掠め危機を脱する、しかし、龍の口の向こう側の光景を目にして思わず息をのんだ。龍の尾が高速で迫って来ていた、回避は読まれていたのだ、爪も口も本命を叩き込む為のブラフ。
眼下の龍の赤い目が月明りを反射して笑ったように見えた。
勝利はつかみ取るまで自分のものではないぞ、龍よ!
夏南は迫るしを前に目を閉じて運命を享受する真似は、今まで一度もしなかった。
美冬を一人残して死ねるか!
胸中で叫ぶ、刀の切っ先を空に向け術識発動、瞬時に圧縮空気が解放、刀と持ち手を強制的に地面に向かって押し出す。狙いは龍の頭、その何かにある脳。
龍の赤い目が驚きに揺れる、術識を発動し終えた刀の切っ先を龍の目と目の間に狙いを定める。尻尾は未だ遠く、軌道を曲げた夏南を叩き落とすことはできない。これで終わりだ、夏南が握る刀、その刃が龍の鱗、頭蓋骨を突き抜け、龍の最重要機関である脳に打ち込まれる。
龍の絶叫、直後にその巨体は術識による浮力と推力を失い地面い落下、温室を取り囲む歩道に激突、腹面で煉瓦を削りながら頭で生け垣を薙ぎ倒してようやく止まった。
落下の直前に温室と歩道の間にある芝生へと転がり落ちた夏南は、その一部始終を目に焼き付けていた。刀を握る右手は生暖かい龍の血で濡れ、頭部から抜く際に90度捻り破壊した脳の感触がはっきりと残っている。慣性を失った龍の体はピクリとも動かない、龍との戦いが終わったのだ。
最初は互いに手加減をしていたが、最後は死力を尽くして戦った、そして経験に勝る自分が勝った、その結果を夏南は僅かな達成感と共に受け入れた。龍を知らぬこの国には龍討伐を終えた者への称賛などありはないない、もっともそんなものを一度たりともほしいと思ったことはないが。夜風が吹き木々を揺らす、すると自分と龍を中心に絞られていた世界が一気に広がりを取り戻していく。
夏南は傷を癒し集まりの依頼が終了した事を告げる為に、ことの顛末を報告書にまとめて提出する地味な作業と僅かな報酬が待っている。
そしてイルタは死に、このロンディニウムは患者を食い物にする医者と、階級や収入で患者を差別することなく治療する名医を同時に失うのだ。
「兄さん!」
消沈する気分を吹き飛ばす美冬の声が響く、振り替えると背中から抱き締められていた。
「あぶない!俺はまだ刀握ったままだぞ」
「・・・・・・終わったのですか?」
初めての龍討伐、怖かったのだろう、彼女の腕は震えもう離れないでと言わんばかりにキツく腰を締め付けてくる。
「まだ終わっていない、止めを刺さなくちゃいけない」
その瞬間、龍の首が動いた。
龍は首から上を引き摺り顔をこちらに向ける。
赤い二つの目には致命傷を受けても尚、翳りを見せることのない憎悪。その憎悪の固まりの真ん中には鮮血を流す赤い穴が見えた。脳を破壊されて動ける凄まじい生命力、背中越しにそれを見た美冬が思わず腰から手を離して後ずさった。
「後は俺一人でやる
美冬にはそこで見てほしい」
美冬の頬を撫でると夏南は龍へと近づいていく、そして両手の爪の間合いに臆することもなく入り、刀を下ろしたまま立ち止まった。
「私が腕を振れば、どうなると思っているの?
それとも久しぶりに龍に勝ったからって、判断が甘くなったのかしら」
「瀕死の龍に殺される程落ちぶれちゃいない」
「その割りには私を即死させられなかったじゃない
刀をもう少し奥に刺せばできたのにしなかったのは、こういう趣味があったてことで良かったのかしら」
龍は口の付け根の片方を持ち上げ、そこから血を滴ながら勝ち誇った笑みを浮かべた。生きるために殺し続けた自分と、死に行く者を見る為に殺したお前とは違うと糾弾するように。夏南は何の反論もすることなく、龍の避難を真っ正面から受け止めた、いかなる理由があれど即死を避け苦痛を与え続けるこの行動は誉められたものではないからだ。
沈黙から何かを察したのか、無反応故に興味を失ったのか、それとも脳をやられ術識を紡げず死を避けられないと悟ったのか、龍が笑みを消した。
「お前がしたことは許されない、国や教会に引き渡せば研究材料にされ兵器に利用される恐れがある
故にここで殺す、人以外を裁く法が無いので俺が裁きを下す」
夏南は自身の行いの理由を龍へと告げる。
「随分傲慢ね
龍を殺せるからって、自分に命を奪う資格があるというのは驕りよ」
「罪は背負う、お前みたいに自分の為だと割りきって救いを求めて来た患者を簡単に殺す真似はしない」
龍が押し黙った、殺人に対する罪悪感に自分の命という優先事項で無理矢理蓋をしていた見立ては、どうやら当たりのようだ。
もっともどちらも殺しには代わり無く、勝者と敗者が逆であったなら夏南も非難は言い返すことは出来なかったであろう。
「お前に聞きたい事は三つ
妹を囮に自分だけ逃げたのは本当か?」
まるで微睡むかのように生気を失いかけていた龍の目が、一瞬だけ大きく見開いた。何か言おうとして咳き込み、口から血の泡を飛ばす。脳に与えた傷が本格的に龍の命を削り始めている、後10分もしない内に死に絶えるだろう。
「そ、その通りよ
人間たちに棲みかを追われた時に、怪我をしたあの娘を置いて逃げたのよ
今でも私の名前を呼ぶあの断末魔で目を覚ますことがあるわ」
龍が大きく息を吐くと赤い目から殺気が消えた、死に行く体から意思が失われたのではなく、人に話せた安堵から来ているようであった。
「二つ目は結晶についてだ
人の体を傷つけずに取り出す方法に心当たりはないか?」
龍の顔が僅かに左右に動いた。
本当に知らないのだろう、知っていれば美冬と会った直後に誘拐して結晶を取りだし、外身は直ぐに処分し痕跡を消すはずである。
夏南の左手に人の手が触れた。
横を見ると美冬が「私は大丈夫」と呟くのが見えた。
命がけで倒した龍から何の情報も得られなかったが、落ち込んでないことを伝えにきたのだろう。
空振りは馴れている、そう言おうかと思ったが今はその気持ちを素直に受け取り黙ってていることにした。
「あぁ、目が見えなくなってきた
息をするのにも疲れてきた、龍殺しーいや、夏南さん
どうか止めをさしてください」
会話の途中から龍の野太い声から女医の優しい声音に変わる。
まだだ、まだ貴女は知らなければいけないことがある。
それをしないまま死んでは、殺された被害者達は本当に誰の記憶にも残ることなく闇に葬られてしまう。
「最後の一つ
貴女は助けた患者にお礼を言われたことがあるはずだ
彼らには助けが必要だったんだ、故郷を追われた貴女の面倒を見てくれた医者のような存在が!」
人を救う存在になれたのに、続く言葉を夏南は飲み込んだ。
それは未だに龍や化け物を殺し続けている自分では到達できない存在だ、飲み込んだ言葉は単なる妬みでしかない、イルタには何の関係もない。
龍の体が電流が走ったように痙攣すると、赤い深紅の瞳が僅かに濡れた、だが猟奇的なまでに生へと執着し罪を重ねてきた意思の強さが落涙を許さない。
「もう話すことはない
教会の信者のように懺悔も許しも乞わない
さぁ、龍殺しよ、私をその手で裁くのだ」
龍が目を閉じる、夏南は刀を握る右手を上げた、横で見ていた美冬が離れる。
この場に居る誰もが血と刃を持ってのみ、この闇に葬られる連続誘拐殺人事件が結末を迎えることはないと確信していた、夏南ともう一人以外を置いて。
「話は終わったようだね
次からはもっと早く龍を倒してくれないか、限りなく助手に近い居候君」
死刑場のような重く張り詰めた空を、場違いな女の軽い声が一瞬にして打ち砕いた。その場にいる全員が声のした方向を見ると、病院棟へと続く歩道を刀を持った華国の民族衣装を着た女がこちらに歩いて来ていた。女は気だるそうに夏南の横まで来ると、汚れた物でも押し付けるように刀を夏南に押し付け、替わりにキセルを弄び始めた。
「遅かったじゃないか、シィ先生
診察はもう終わったよ」
「何が診察だ、お前が聞きたいことを聞いただけだろう
私に頼んだことをもう忘れたか」
突如現れた先生の登場に生徒である美冬は目を剥いた、彼女は戦闘用術識が一切使えない身だ、終わったとはいえ戦場に足を踏み入れているには、美冬には到底受け入れられない光景であった。
「先生!龍はまだ生きております
早く離れてください」
シィは駆け寄ろうとする美冬を片手で制すると、死に行く龍の鼻先に歩み寄った。
夏南はその光景を何もせず見守る、美冬はもう一度シィに駆け寄ろうとするが、龍の顔を見て足を止めた。
あれほど穏やかに自らの死を受け入れようとしいた顔が、シィを前にした途端、目を見開き口を震わせ怯えているのである。
「お、お前はまさか!」
「ストップ、今頭に浮かんだ名前は口にするな
でないとこれからお前にかける術識を盛大に失敗してやるぞ」
シィの言葉に龍が明らかな怯えを見せた。
「あのこれはどういうことですか?」
シィは結界を張るだけと聞かされていた美冬が、夏南とシィの顔を交互に見る。
「助手よ、私は・・・・・・」
そう言いかけてシィが目配せを夏南に寄越した、首を振って否定する夏南。
「華国の龍研究家の一族で地元で、その筋ではそれなりに有名なんだ
攻撃用の術識が使えないのも遺伝だよ」
シィは夏南の無言の要求を飲み嘘をついた、自分の正体を美冬に話してもよかったが、久し振りの優秀な助手を居候から頼まれた仕事で手放したくはない。
美冬は渋々といった様子で頷いた、早めに対策を打たなければ。
「それで答えは出たのか、龍殺し」
龍を前にして美冬の事に気を取られていた夏南は、まるで脅すかのような思いシィの声を正面から浴びせられ我に帰った。
「やってくれ、この龍が犯した罪はやはり一つじゃ足りない
自らの死、そしてこれまで通りイルタ先生として患者を救い続けるのが贖罪になってくれるだろう」
シィは「自己満足だな」とだけ言うと、目の前の死に行く龍へと体を向けた。
「き、きさま、私の体を使って・・・・・・」
龍の言葉が終わらぬ内に、シィの体から龍にも匹敵する術識力が放たれ、龍の体の口が止まる。口だけではない、二つの赤い瞳、その真ん中に空いた穴から流れ出る血液も時間が止まったように静止する。夏南はこれから発動する術識の範囲から逃れる為に美冬を伴って移動する。
「せ、先生はこれから何をなさるのですか」
師と仰いだ人が龍に比肩する術識使いと知り驚いたのだろう、普段の美冬なら自分に内緒でシィと二人で決めていたと聞けば腹を立てるところだが、今はそれを忘れてシィを見つめている。
龍の体全体が仄かに白い燐光を帯びると地面から浮かぶ、そして人一人が入れそうな程の高さで止まる。
「龍からイルタを分離する
人として生きるのに必要な知識と記憶を選別して、龍の体から産み出したイルタへ移植する」
シィの目の前ので龍がとぐろを巻き、空中で球体となる。
「俺がシィ先生に頼んだ
もしも、龍に人を殺した罪悪感があったならイルタの部分は残してほしいと」
龍が作る球体は高度を増すと徐々に輝度を上げ、まるで太陽のように輝き出した。
「あ!後悔しているかどうか聞きたくて、兄さんは龍相手に無謀な接近戦を仕掛け続けたのですね」
でもどうしてと、美冬は続けた。
自己満足だよ、夏南は心の中でだけ呟いた。
妹を救う為、強くなる為だと今まで龍を狩り続けた。人に害を加えた龍を殺した達成感に、目的に一歩近づいた手応えを感じることは隠しようがない。だが、龍の大半は悪意ではなく生存圏を侵された報復や、中間を殺された復讐故が動機である場合が多かった、何より事情を抜きにしても命の火を一つ人間の都合で消すのだ、殺しと後悔は常に付きまとってきた。
ならば、龍もそう感じていたかもしれない。
夏南はそう考え、龍が殺した人間を物ではなく一つの命として見ていたのなら、記憶の大半を失っても一人の医者として患者と向き合って行けるのではないかと考えたのだ。
この街の貧者から善良な医者を奪うことへの後ろめたさがあったことは否定しない。それに犯した罪は償えると思いたかった。自分が里を捨てた罪を、赤き龍を殺すことで償おうとしていることを否定しない為に。
シィが口からキセルを離した、肩の力が抜けて両手がだらりと垂れ下がるのが見えた。高登域術識者故に制御の難しい術をリラックスして行使できる、という訳ではない。体の制御を最小限に止め目の前の龍を支配し人へと変える術識発動に脳の大半を割いているのだ、駆け寄って支えたいところだが気が散って成功確率が下がると言われ事前に止められている。
シィの前で浮かぶ光体が発光を止めると、大きな肉の球体が姿を表した。肉お表面に脂肪がまるで風になびく雲のように、無秩序に張り付いて蠢いている。頭部や鱗に爪などは中心部に集められ、既に幹細胞へと変容させられているのだろう、この肉腫から人が生まれる、生命誕生の瞬間だが肉腫はどこまでもグロテスクだ、しかし人化を頼んだ以上、夏南は一部始終を見届ける義務がある。
横を見ると美冬は顔を背け目を閉じている、戦場で飛び散る臓物を見慣れた自分も見たくない光景なのだから、今日戦場に立った美冬には刺激が強すぎるのだろう。
肉腫に再び目を向ける、シィと肉腫を中心に膨大な術識の本流がこの場に渦を巻く。肉腫が内側から押されたように膨らんでは萎む、それが球体の至るところで起こり始める。肉腫で起こった変化は速度を増しやがてピタリと止んだ、シィの長い髪あ一瞬強風にあおられたかのように舞い上がる、術識の本流もそれに合わせて消える、どうやら終わったようだ。
シィが数歩後へ下がる、それと同時に肉腫が下から赤い火の粉へと変わり、地面に落ちる前に消えていく。
「失敗したのか?」
龍の脳を乗っ取り人化の術識を使わせる、しかも記憶を改竄して移植という無理難題のフルコース、人ではないシィの力をもってしても駄目だったのだろうか。
「馬鹿者!
私を誰だと思っている」
シィがこちらを見て非難の声を上げた、口調からすると成功したようだが、術識は専門外である夏南には判断が着かない、彼女を信じるしかない。
もっとも龍の処遇を相談すると、2、3ヶ月は術識を使えなくなると言ったが断らなかった彼女が失敗したとしても、夏南は決して非難しないことを決めていた。
だが疑念とは知らず知らずの内に芽生えるもの、夏見はちらりと横に立つ美冬を盗み見た。突然現れた師と相手の能力を操る精神支配に口をあんぐりと開けていた彼女だったが、シィを見て今は安堵の笑みを浮かべている。人化の術は成功したのだ、後は肉腫が消え中からイルタが出てくるのを待つだけである。
待つ?シィはこちらに向かって歩いて来ている。
彼女は術識を終えた、肉腫の中のイルタにもうは術識の知識も扱う技術も存在しない。
隣で同じく事態を察した美冬が「あぶない!」と叫ぶ、同時に肉腫が火の粉となり全て消える。中から人影が現れた、地面との距離は5メルトル、そして糸の切れた人形のように落下を始める。夏南はその光景を見た瞬間、刀を捨て人影に向かって駆け出していた、4、3、2、1、人影が下の煉瓦に叩きつけられる直前、夏南は煉瓦と人影の間に割り込みクッションとなっていた。
「あ、危ないだろう!」
予想外の事態に言わぬと決めていた悪態が口から漏れる。
「人にするまではやると言ったが、地面に降ろすとは言ってない
お医者さんは無事みたいじゃないか、何も問題はないだろう」
シィは悪びれる素振りも見せずに、民族衣装の胸元からキセルを取り出した口に咥えた。キセルの切っ先が震えているのがはっきりと分かった。下ろす余力がないことを悟られたくなかったのだだろう、誤魔化すならもっと穏便にしろ!
夏南は文句と飲み込み、煉瓦に打ち付けた尻と脚の痛みを耐えた、自分で頼んだ以上終わりは自分で引き受けなければならないからだ。
腕の中のイルタの瞼が震えゆっくりと目を開いた。
「あ、あの私は・・・ここは・・・」
口びるが小さく動き怯えた声を漏らす、良かった喋れるようだ。損傷を受けた脳で人化の術識の強制発動、上手く言っても意識は戻らない可能性が高いと聞かされていたがその心配は無くなったようだ。医者として再び働けるかはまだ分からない、それはこれからの話だ。
「あ、あの、どちらさまでしょうか?」
イルタの意識が覚醒し徐々に置かれている状況を飲み込み始める。事故に巻き込まれていたところを助けた、とでも言っておこう。夏南が喋るよりも早く、イルタは自身が裸である事に気づくと取り乱した後に気を失ってしまった。
しっかりしろ、夏南はイルタの体を揺さぶったが起きる気配がないまさか死んだのか。胸に耳を当てると心臓が脈打つ音がはっきりと聞こえた。よかった、そう思った刹那、肩をがっちりと掴まれた、振り替えるとひきつった顔の美冬が立っていた。
これは怒っている顔だ、それも物凄く怒っている時の顔だ。
無理もないだろう、人に仇なした龍、それを命がけで止めたことは理解してくれたのだろう。しかし、体と人格の一部を人の体に移植し、罪滅ぼしの機会を与えることなど信じられないのだろう。龍の為に死の運命を背負わされた彼女が怒りを露わにするのは当然である。
「命がけで美人のイルタさんを残した理由、後できっちり話を聞かせてもらいますからね」
やけに美人を強調した脅し文句、龍絡みとは何処か遠い響きに、夏南は半ば理解できないままとりあえず「ごめん」と素直に謝罪の言葉を口にした。美冬は頷いたが、目は許した相手を見るそれとは明らかに違っていた。 この分だと、今まで隠れて術識や化け物が絡む事件に首を突っ込んで来たことも含めて、根掘り葉掘り吐かされるのは免れないだろう。
集まりやシィの正体を話すのはまだ早いので、どう言い逃れるかを考えると頭が痛い。
美冬はそれ以上は何も追及することはなく、気を失ったイルタを強引に夏南から引き離すとそのまま介抱し始めた。夏南は手伝いを申し出たが、女性の裸を見せる訳にはいかないと追い払われてしまった。仕方なく夏南はその場を離れると、地面に捨てられていた自分の刀二本を発見、広い上げると鞘に納められていた雷火はそのままベルトに帯び、抜身の水風は未だ月が残る空に向かって掲げ目を凝らす。
ポケットに入れた布で表面にこびりついた血と泥を払う、鋼鉄を遥かに凌ぐ強度を誇る刀身は今回も歯溢れ一つすることなく、俺の無謀な戦いに付き合ってくれた。感謝の念を抱けど刀は何も返してくることはない、夏南は肩越しにイルタを介抱している相棒に目を移した。一人で龍と戦い始めてから得た久しぶりの戦友、頼りない部分が多いが彼女が後ろに居てくれたから龍に問い質すなんて無謀な事が出来た、かなり心配をかけただろうからお礼はしっかりとしなければならない、無論怒られた後での話だが。
そこまで考えて、やっと龍との戦いに勝ったのだという実感が喜びとなって胸に込み上げて来た。実験室の後始末にイルタの処遇と問題は山積みだ、夏南は夜空を見上げ夜風に身を預けて勝利の酔いが抜けるのを待つ。夜空の中では、今地上で起こった事など気にも止めない月と星ぼしが瞬いている、2、3時間後の夜明けを迎えても、いやこの星が終わりを迎えてもきっとそれは変わることはないだろう。
今回の事件は美冬を救う手立ては得られなかった、だが多くを成せたと思いたい。
ロンディニウムの人々、そして龍を救えたのだろうか?
美冬は、龍と立ち向かう事で龍の恐怖に少しでも立ち向かえるようになったのだろうか?
俺は龍を殺すだけの運命から僅かでも抜けられたのだろうか?
何より、この結末は亡くなった犠牲者や傷ついた人々の望むものなのだろうか?
答えはわからないが、何が帰ってきても受け止める覚悟だけはしておかねばならない。
「何を満足げな顔をしている、バカ者
早くあの医者を車に運べ、病院の後始末、夜明け前に方をつけるぞ」
束の間の休憩で体力を取り戻したシィが、夏南に近づくと思いきり肩を叩き意識を現実へと無理矢理引き戻すのであった。
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