第36話

目の前にある病院の屋根が内側から破壊された瞬間、龍の目が歓喜に歪んだ。

病院の三階に獲物が居た以上、こちらの罠を読んで屋上に出ようとする魂胆だと直ぐに分かった。屋上へ出る手段は、入院患者向けの部屋に改築した時に塞いである。出るには破壊するしかない、そして追い詰められた、彼らは愚かにもその選択しを選んだのだ。

屋根を突き破り飛び出して来たもの目掛けて、予め用意して置いた小型の氷槍を大量に打ち込む。

即死はしないが、幾ら再生能力を持っていると言っても妹の方は身体強化されてはいないようなので、怪我を負えば動揺し隙が生まれる。

そうなれば拘束することなど簡単だ。

ゆっくりと二人を味わった後で、病院の敷地を覆っている忌々しい結界を張った主を喰らいに行けるだろう。

氷槍は屋根を壊した氷の柱を打ち砕いた、後はこの隙を突いて既に準備してある槍の雨を降らせれば終わりである。

勝利を確信した龍の視界の中で、砕いた氷の柱から人影が飛び出したのであった。

 

夏南は左手に美冬を抱え庇いながら、反対の手で刀ー水風を高速で何度も振り、自分たちを囲う氷の柱を貫いた氷槍を全ていなすと、砕かれた氷柱の破片を蹴って破壊を免れた天井部分に降り立った。

5本の氷柱の内1本の内部に空洞を作り隠れ、外からの攻撃で砕かれた瞬間に外へと飛び出したのである。意表を突かれた龍の攻撃の遅れを利用して、夏南は診察室があった棟の屋根から、ロビーがある棟の三階の窓に飛び込んだ。

窓が枠ごと破砕、夏南は美冬を庇って三階廊下へと着地する。足元の絨毯が二人分の落下の衝撃を受け、土埃を巻き上げそのしたの床板が軋みを上げる。美冬が小さく咳き込む、今まで氷柱から出てここまで息を止めていたのだろう、肩を上下に動かし苦しそうに息を呼吸をしている。

「美冬、一階から援護してくれ!

隙は俺が作る、デカい奴だから直ぐに分かる」

美冬を廊下に立たせると、右手前方に見える階段一口を指さす。急に言われ戸惑った美冬が聞き返そうとするが、龍が放った氷槍が二人が入って来た場所を中心に着弾、轟音を上げ美冬の声をかき消した。夏南は乱暴に美冬の肩を抱いて向きを変えると、その背中を自身の背中で押して階段へ入り口に押し込んだ。

「兄さん!」

「いいから行け!」

夏南は抜刀した水風で飛来する氷槍を叩き落し美冬を守る。美冬は一瞬逡巡したが、直ぐに駆け足で階段を降りて行った。

「兄さん、死ぬときは一緒だから」

背中越しに美冬が何か言ったような気がしたが、刀と氷槍のぶつかる音にかき消されはっきりとは聞き取れなかった。

夏南は美冬の気配が遠ざかるのを確認すると、迎撃した氷槍の一部を掴むと龍の居る筈の方向へ向かって投げ返し、東棟へ向かって走り出す。

後方から氷槍の雨が追ってくる、左手をズボンのポケットに入れ、ある物が無事である事を確認する。

 壊れていない、夏南は迫る廊下の曲がり角を前に急停止すると、氷槍の雨に追いつかれるよりも早く、窓を破って中庭へと飛び出した。

硝子や窓枠の破片と共に自由落下に身を任せる夏南、龍の動体視力は直ぐに獲物を見分け狙いを定めた。回避不可能、氷槍の雨がこちらを捉えひき肉にされる運命に夏南は飛び込んでしまったのだ。氷の槍の雨が急接近、当たると思った瞬間、龍は術識を解除した。

 こちらを捉えていた目が直ぐに、ロビー棟へと注がれる。美冬が居ない事に気付き、術識攻撃される危険に気が付いたのだ。用心深いのも考え物だな、夏南の体は視線が外れた一瞬に中庭へと落下、着地後直ぐに龍へ向かって地面を蹴った。

「今だ、術識を使え!」

夏南は叫ぶ、龍はこちらを一度ちらりと見たが、直ぐにロビー棟へと視線を戻した。夏南は加速、美冬の耳に届いていてもいなくても、狙いは一つ。氷の雨に外壁と支柱を砕かれ、今にも崩れそうな診察室がある棟へと狙いを定めて跳び、破壊を免れた僅かな部分を蹴り龍へと一直線に向かう。

美冬の援護術識は来ない、夏南は水風を構えると間近に迫った龍の顔目掛けて、刃を振り下ろした。術識攻撃を警戒した龍は回避する期を失い、左腕を上げ刀を防ごうとした。高速で振られた刃と高硬度鉱物に等しい鱗がぶつかり火花を散らす、夏南は腕に力を籠め刀を押し出した、耳障りな悲鳴が龍の口から洩れる、鱗や筋肉、そして骨を断たれ腕が赤い血をまき散らしながら中庭に落下。

腕の一本や二本、龍なら直ぐに再生できる、この期を最大限に活かすならこのまま首を切り落とさねばならない。しかし、腕を斬った瞬間、勢いを失った夏南の体は龍の首から離れた同へと接触してしまう。龍が殺気に満ちた目をこちらに向けると、その右手が高速でこちらに振られるのが視界の端に映った。

夏南は龍の胴を蹴り鋭い爪から逃れ中庭へと向かうが、龍は術識を使いその後を直ぐに追う。絶体絶命、地面に降りた瞬間、龍の体当たりを食らうのは火を見るより明らかだ。しかし、夏南は慌てることは無かった、諦めたのではない、この状況こそが夏南が美冬に言った隙なのである。

夏南が体を回転し中庭に着地、膝を折ろうとした瞬間、龍の右手に捕らわれてしまった。龍は夏南を捕まえると術識を使って中庭上空へと急上昇、捕らえた獲物を顔の前持ってくる。龍が使う飛行術識には慣性軽減は含まれてはいない、その必要がない体なのだ、だが人の身で急激な慣性の変化に晒された夏南は思わず苦悶の声を漏らしてしまった。

それを見た龍の目が嗤う。

「狙い損ねた首はここよ、今なら斬らせてあげるわ」

「なら手を緩めて欲しいな、これじゃ斬りたくても斬れない」

龍の右手の中に夏南の両腕は収まっている、刀は落としていないが手を出そうにも、龍の強力な握力がそれを許してくれない。

龍の手に力が籠められ夏南の体中の骨が軋みを上げる。どうやら答えが気に入らなかったようだ。龍は夏南を握る手に力を込めては緩めることを何度か繰り返したが、苦悶の声を上げるどころか顔色一つ変えずにいると、飽きたのか止めてしまった。

「人が苦しむ顔を見るのが趣味じゃなかったのかい」

「そんな物、当の昔に見飽きたわ

あなただって龍を殺すたびに、死に顔を見ても何も感じなくなっていったでしょう」

龍が赤い氷点下の瞳でこちらを見下ろす。

答えによってはこのまま捻り潰されるかもしれないが、夏南は理性が止めるよりも先に声が出ていた。

「勝っても負けても怖い思いしかしてこなかった

何かを感じる余裕なんて俺にはなかった、あんたと違ってな」

そう言って龍を睨んだ。

里には使命以外にも報酬や名誉を手に入れる為に龍と戦う者が少なからず居たが、宗家に生まれ龍の力に手を染めた瞬間に、彼らと自分の境界線は薄れたのだ。

戦い勝つたびに人の力の小ささに打ちひしがれた。龍と人との戦いの多くが生存圏の侵害と知り、美冬を救うために剣を振るう自分に浅ましく思えた日々もあった。その経験が龍を崇めることも蔑むことも許さなかった、命がけで戦う相手を軽んじたと思われたくはない。

「獲物を自分と同格に扱うなんて龍殺しの一族失格よ」

龍の口の端が笑った、しかし微動だにしない目に一瞬、慈愛に満ちたイルタの光彩を写したような気がした。

いけない、夏南は首を横に振い感傷を振り払う。

目の前の龍はこれから倒す相手、以前仕掛けた種を使い、控えている美冬と呼応して倒さねばならない。

龍に気取られぬよう、横目で自分が飛び出してきた東棟の一階を確認する。息を潜めているのか、それとも準備がまだ終わっていないのか、美冬の姿も気配も確認できない。アイコンクトで互いの準備完了を知らせると、氷柱の中で伝えたが、ワザと捕まるとは時間が無くて言えなかった、多分助けようと機会を伺っているのだろう。

こんなことなら、美冬が参戦する時点で作戦の決行を一日送らせて、作戦の練り直して十分な時間を取って伝えるべきだった。

事件解決を急いだツケがここに来て廻って来たのだ。

龍はこちらをいつでも好きな時に殺せる。

龍の傲慢な性格を利用し敢えて捕まりその隙を突く作戦は、一転して勝機を自ら投げ打つ結果を招きかけている。

隙だ、兎に角相手に付け入る隙を作らせるのだ。こちらから強引に誘導すれば警戒されてしまうだろう。それには、本人自らがそれに没頭し意識を現実から離してしまう程のものが必要だ。

「なぜ、自分が龍だと俺に明かしたんだ、イルタ先生」

少しの逡巡の後、夏南はこの事件に未だ残る大きな疑問の一つを口にしていた。

「あら、折角地下で見るのを邪魔しなかった実験室について、聞かなくていいのかしら?」

些細な主導権も相手に握らせたくは無いのか、龍ははぐらかして話題を逸らした。だが、答える一瞬前に赤い瞳が揺らいだ事までは隠し切れなかった。龍、彼女は秘密を抱えている、それは隠したいと同時に知って欲しい類のものだろう。

「それは、あなたに最高の餌を私の前に届けさせる為よ

美人に秘密を打ち明けられて、自分が特別な存在だと勘違いしていたみたいね」

イルタが龍殺しの一族の情報を持ち、初対面から匂いで美冬の結晶に感づいていたことは、既に彼女の口から語られている。

だが、それだと一つ辻褄が合わない。

「あんたも勘違いしてるぜ

俺に家族を捨てるよう誘導して、もしそれが成功していたら、今夜ここに1人で来ていた

そうなれば餌を連れなくなっていたはずだ」

囚われの身であることなどお構いなしに、プライドの高い者の言動の矛盾を突きつけた。すると龍の目の険しさが増し、帯びた冷気が一気に下がった。

「自分以外の者を大切にしているお人良しをからかっただけよ

何を勘違いしているかもしれないけど、あなたのむっとした顔がみたかっただけよ」

これ以上喋るな、そう言わんばかりに龍の手が締め付けられ、夏南の体が再び軋みを上げる。

「医者ってのは、自分で自分正確に診断できないって、前に聞いた事があるが本当らしいな」

 気を抜けば悲鳴を上げそうになる痛みに抗い、夏南は呻くように吠えた。

「何を言っている?

余りの痛さにおかしくなったか」

龍が更に夏南を握る手に力を込めようとしている。

「い、妹を助けられなかったのが辛いって……言いたきゃ言えよ

俺なら陽が登まで聞いてやるから」

夏南の脳裏に龍を殺せるようになれば妹を救える、そう信じていた自分の姿が浮かぶと、悪鬼の如き形相でこちらを睨んだ。

好きなだけ睨め、龍と殺しに歪められたままじゃ、何処に行っても何も変えられない俺よ!

「馬鹿にするな!」

龍が激高、夏南を握る手の上にもう片方の手を重ね、更に力を込める。体のあらゆる箇所から痛みの信号が脳へと送られ、今にも意識を失いそうになる。しかし、夏南は屈しない、ここで気を失えばあの晩、自分たちを殺そうとした龍を助けたいと言った美冬に向ける顔を永久に失くしてしまう。

「下賤な人間が土足で龍の心に踏み込んで、勝手な事をぬかすな!

お前は女に踊らされ家族を捨てて、惨めな姿を晒して私を楽しませればいいんだ」

言葉の途中で龍特有の重低音の声が女の声へと変わる。やはり彼女は身内の死に深い負い目を感じている。それから逃れるために人を揺籃機にした同族を喰らう凶行を行っているのだ。

 その狂気は決して出会ってまだ一週間も経っていない自分の言葉では、日の出までに止めることは不可能だろう。

 だが、過去に囚われているのなら必ず止めなければならない。

 例え誰であれ自分の生を生きる権利は持っているのだから。 

 夏南は自分の体と龍の指の間で左腕を動かして、ズボンのポケットから一枚の符を引き抜いた。仕掛けた罠を使えるのは一回きりだ。もう一度挑発して術識を使わせれば隙は必ず生まれる。

 夏南は龍にもう一度声をかけようとしたが、相手はこちらの胸の内を見透かしたかのように口の端をつり上げたのであった。

「わざと捕まって何かの時間稼ぎをしたつもりでしょうが、その時間はあなたを有利にだけはしなかったみたいね」

 意図の分からない龍の言葉が吐かれると、不意に人の気配を感じた。数は二つ、一つは美冬のものだ。弾かれたように自分が飛び出した病棟を振り返る、そこにはイルタに腕を拘束された美冬の姿があった。

「兄さん!」

「美冬!」

 互いが置かれた状況に思わず声を掛け合うが、言葉だけでは現実は変わらず、だた二つの命を握る龍に被虐心を満たすだけであった。

「あなた達の作戦はお見通し

チェックメイト、いえあなた達の国では王手と言ったかしら」

 龍の言葉に呼応するかのように、美冬を拘束した人間形態のイルタが瓦礫を乗り越え中庭に出てくる。

「自分を複製したのか!?」

「あなたに切り落とされた腕を使っただけよ、私に歯向かうようなら直ぐに処分するわ

倫理感なんて下らないものを持っているから驚くのよ

あなたも私以外の龍も全員臆病者よ」

 龍が嫌悪感も隠そうともせず、人と同族である龍を見下す言葉を吐いた。

 両手を後ろ手にされ苦悶の声を感じているはずの美冬が、肩越しにイルタを驚愕の目を向けるのが見えた。

 膨大な術識力と強靭な体を持つ龍族なら、切断された体の一部から自己を復元するのは可能だ。だが脳と言う複雑な機関の複製は難しく、更に自分と同じ記憶を持たせようとするなら成功率は格段に下がる。高登域術識者なら成功率は上がるだろうが、何らかの失敗を内包していた場合は発狂するか、最悪狂った術識使いを産み出すことになる。

 それが国一つ滅ぼした歴史を人も龍も知っている。

 そんな凶行を目の前の龍は、自分を狙う術識使いを捕まえる為にさらりとやってのけたのだ、美冬が声も出せないのも無理はないだろう。

「美冬を放せ!

結晶が欲しいなら俺が取り出したものを必ず渡す」

「私ですら知らない事よ

人間のあなたに出来るとは思えないわ」

 美冬を救おうと頼った幾人かの人間が吐いた言葉を龍も口にした。人よりも結晶に精通している龍の言葉は夏南の心を鋭く抉った。

「兄さんはやると言ったら必ずやります!

医者を騙って人を食べている卑怯者に何が分かるの!」

美冬が龍に食ってかかろうとするが、直ぐに人間態のイルタに腕を引かれて中断させられてしまう。

「止めろ!

これ以上美冬を苦しめるな、食らうなら俺を食え!」

 堪らず夏南が叫んだ。

 美冬は自らの不甲斐なさに顔を落とした。

 こんな二人を手中に収めて龍はまた笑うのだろう。

「私の目的が結晶を食らうことだと本気で思っていたの?」

 夏南の予想に反し、龍は憐れみの目を二人に向ける。

「妹さんの年齢から換算してざっと15年も特殊な術識で練られ続けたものよ

最終成長も終えていない龍が口にしたら内蔵が溶けてしまうわ」

 一瞬龍の目に恐怖の色が浮かぶ。

「溢した餌に釣られて赤き龍がこの世に出て来るかもしれないしね」

「赤き龍は当の昔に封印済みだ、怖がる必要はないだろう」

「裏切り人間に着いた実の娘の力を持ってしても殺せない龍だ

100年も生きれないお前には関係ない話だろうが、我々は生きていればそれと何時か顔を合わせることになるのだぞ」

 そこまで言うと龍は美冬を見て恐ろしいことを告げた。

「その娘にはその時が来たら献上する貢ぎ物になってもらう

その為には栄養さえあれば生き続ける細胞に全身なってもらう必要があるがな」

 医療に関する知識を持つ美冬がその言葉に顔を上げた。

「私の全身を癌化させる気なのね」

 気丈に振る舞おうとするも声は夏南が耳を塞ぎたく程、掠れ

震えている。

「そうだ、肉の包みとなって私が生き延びる為の切り札として生きるのだ

光栄に思うがいいわ」

 龍が笑う、だが夏南の目にはその姿は恐怖から解放された者の溜め息にしか見えなかった。

 龍、いや彼女は死ぬことを恐れ悲壮なまでに生に執着しているのだ。同族を喰らい自らを強化しながら、より力の強い者へ命乞いをする為の貢ぎ者を手に入れ安堵する。次代に自らの遺伝子を残す生物としては正しい行為だろう。

 ならば誰にも知られずに美冬を拐えばいい、わざわざ俺を挑発してここに越させる必要はないはずだ。いま言った事が彼女の生存をかけた計画の全容とは思えない。まだ何か隠している。

「赤き龍は俺が殺す」

 俺は かつてシィと交わした言葉と同じ事を口にした。

 竜は一瞬目の前の人間が何を言っているのか分からないと言った表情を見せた後、今までに見せた以上の声で笑い、美冬を拘束している人間態も直ぐにそれに声を合わせた。

 今言ったことは、人間にしてみれば1000年以上前のお伽話の中の邪竜を倒すと言った酩酊した人間の吐いた戯れ言で見向きもされないが、人よりも長い寿命を持ち術識を使った記録媒体を持つ龍にしてみれば、この星一つ滅ぼしかけた自然現象を一人で止めると言う身の程知らずを目にしたに等しい。

 きっと目も耳も付いてはいるが形だけだと思われているだろう。

「龍と人、それ以外の生き物達が束になっても叶わなかったあの龍を殺すとほざくのか

記者を語るにしては、少々教養が無さすぎるのではないか」

 案の状、夏南の言葉は龍の恐れを払拭するどころか、こちらをはっきりと格下と思わせることになった。絶体絶命のこの状況、言葉と言う抵抗も無惨に潰えようとしていた。

「何でそんな危険なことをなさろうとするのですか?」

 龍と人の哄笑が終わると、眼下で青い顔をした美冬が喉からか細い声を絞り出した。

 夏南が化け者が関わった事件に関わり続ける理由は、美冬の中にある龍の餌を取り除く為だけではない。美冬の自由と引き換えにシィと封じられた赤き龍を倒すことを約束しており、その手段を同時に探していたのだ。無論、このことも取引相手の前以外では口にしたことはなく、美冬は今初めて聞かされたのだ、驚くのも無理はない。

「俺の勝手で里を飛び出したんだ、龍殺しの使命の一つ位やっておかないと示しがつかない」

 東国では赤き龍の言い伝えが今も残っており、龍殺し御三家が帝の直属として庇護を受けているのは、復活の折りにもう一度封印する為に命を捨てる為でもある。

 美冬に知られた時の為に用意しておいた嘘で答える、しかし彼女は首を何度も横に振って否定する。

「兄さんは里を憎んでおられます、だから一番危険な使命をわざわざ引き受けたりはしません」 

 シィすら信じた嘘は、誰よりも傍に居て誰よりも俺を知る美冬にあっさりと見破られてしまった。

「私の為ですか?

間違いなら傲慢な女と笑ってください」

 美冬が射るように真剣な目でこちらを見つめる。お願い、笑って。語尾にそう小さく付け加えるのを、強化された夏南の視力は見逃さなかった。

 実の兄が自分が思う以上に自分の人生を自らの為に捧げてきた。頭では分かって居ても、自分達の人生を生きようと誓った相手が自分を偽っていたことが信じられないのだろう。嘘か誠か、夏南は選択を迫られる、沈黙という手もあるがそれは必ず彼女を傷つける、互いに優しい言葉など夏南は持ち合わせてはいない。

 見上げると煌々と輝く月が、眼下の人間の営みなど見向きもせずに浮かんでいる。

「俺の為だ

もしも龍という存在が人の人生を歪めるなら、例え赤き龍でも容赦はしない」

 龍とはもう戦わない、一年前に柔らかな手を握り語った口から、その時とは反対の意味と温度を纏った声が出た。頼む、嫌ってくれ。別離すら覚悟した告白、だが美冬は何も言わずに嗚咽を漏らし始めた。

 互いに未だ、龍に縛られている。

 消えた筈の呪いが絶体絶命の危機に陥っている事実よりも、重く夏南の胸に広がっていった。

「兄妹喧嘩はそこまでよ」

 二人の剣呑な空気に龍が陽気な声で割り込んできた。

「あなたたち、今自分がどんな状況に置かれているか分かっているの?」

 人間態のイルタが膝を折りかけた美冬を無理矢理立たせると、大袈裟にため息をついた。

「仲間割れをしてこちらの注意を逸らして逃げ出そうなんて、私には通じないわ」

「その割りには途中まで何も言わずに見ていたのは誰かな?」

 本気で兄妹喧嘩しかけたと龍に思われるのは癪だったので、作戦の一貫と見せかけ煽ると、龍と人、それぞれのイルタが不快そうに目を細めた。

「可哀想に今のが兄妹最後のスキンシップになるのに」

「俺を切り刻んで実験に使うってんだろう、やるならやれよ」

 夏南は改めて挑発する、これ以上美冬を傷つけさせる訳にはいかない。

「そんな事はしないわ

私が欲しいのは貴方の龍と人を掛け合わせた体、そこから産み出される遺伝情報がほしいのよ」

 龍の深赤の瞳に一瞬、怪しい光が宿る。

 遺伝子が欲しいだと!?

 医療に詳しい龍のことだ、何らかの術識で俺を遺伝情報まで分解して保存しようというのだろうか?

「キャ!」

 突如聞こえた美冬の悲鳴が思考を中断、肩越しに振り返ると美冬が地面に倒れており、人間体のイルタが彼女を放り出した姿勢のままそれを見ていた。

 美冬の細腕ではイルタの拘束を解くなど不可能、術識発動の気配も無かったので意図して離したと見て間違いない。

「美冬、走れ!」

 龍の思惑は分からないが好機である事は間違いない。

 彼女の術識なら相手が龍でも、自分が逃げる隙を産み出す程度の事は可能だと、先ほどの戦闘を見て断言できる。

 走るんだ美冬、術識反応が近づいてくれば異変に気づいたシィ女史が駆けつけてくれる、そういう手はずになっているから走るんだ。

「嫌です、兄さんを置いて一人で逃げる訳にはいきません」

 だが、夏南の重いとは裏腹に美冬は立ち上がり符を構えて龍を睨んだ。

 無理だ美冬、術識を使う前に龍か人間体のイルタの手がお前に伸びること位分かるだろう。

 夏南の苛立ちを嘲笑うかのように、二人のイルタは声を合わせて無謀な挑戦者を鼻で笑った。

「可哀想な美冬さん、そこから一歩でも動いたらあなたの兄さんを殺すわ」

 人間体のイルタが深いな笑みを浮かべながら、泥で汚れた美冬の肩に手を置くと甘ったるい声で信じられないことを呟いた。

「でもね、これから起こることを見ていられたら自由は無くなるけれども命は保証してあげる」

「私だけ、助かりたいとは思いません

兄さんを殺して遺伝情報に変えるなら、命と引き換えにあの龍の腕を術識で吹き飛ばします」

 美冬はイルタを睨み返した。

 巨大な術識を制御せずに発動させれば、美冬がいま言ったことは彼女の術識力では可能だろう。

 この流れはまずい、何とか俺に攻撃するよう龍を誘導しなければならない。

「遺伝子を手に入れても、龍と掛け合わせるには時間と手間、何より施設が必要なのよ

全部あなたたちが壊したから、直ぐに用意できないのよ

そ、こ、で、」

 人間体のイルタは自らの腹の上に両手を重ねた。

「人に備わった繁殖機能を今回は使うのよ」

『な!』

 夏南と美冬は声を合わせて絶句した。

 イルタは夏南と子供を作ると恥ずかしげもなく語ったのだ。

 夏南を握る龍の手が地面に降りると、人間態のイルタが美冬に手を振って離れ目と鼻の先で止まる。イルタが白い手を伸ばしこちらの顔に触れようとした。夏南は拒絶しようと首を後ろに下げようとするが、肩から下が龍の指に固定されている為に僅か数サンチ程の抵抗しか出来ず、両の頬を直ぐに挟まれてしまう。

「二人の遺伝子を持つ生き物が代を重ねれば、赤き龍を殺せるかもしれないわ」

 細くしなやかな指が頬の上を撫でるように這う、そこに殺意は感じられなかった。

 本当に子を作るつもりだ。

「それはあんたにとって笑い話じゃなかったのか」

「可能性があるならするだけよ

無いなら数を揃えて手駒として差し出すわ」

 女は生き残る為に家族すら商品として売り渡す気だと、何の後ろめたさも感じさせずに言ってのけた。

 同じだ、この女、いや龍も九頭龍家とその回りで生きる連中と同じく生き残る為なら平気で犠牲を差し出せる者達だ。

 畏怖、憐れみ、そして幾ばくかの尊敬、夏南の胸の中でイルタに抱いてた感情の合間に怒りが加わる。

 この状態でも首は回る、指を噛みきってやろうか、一瞬そんな考えが頭を過ったが、女の頭越しに苦しげな表情でこちらを見守る美冬の姿が目に入り打ち捨てる。

 今抵抗してはいけなない、この後に必ず来る機会が無くなってしまう。

「俺がこのままじゃ、あんたのやろうとしていること不可能だろう

美冬を人質に取られているから逃げやしないぜ」

 美冬に動くなと言ったのは、夏南に対して変な気を起こさせない為であろうことは明白だ。美冬同様、夏南が妙な素振りを見せれば、龍の尾か手が即座に彼女の体を肉片に変える。この状況であれば拘束を解いても龍に取っては安全なのだ。

「そんなこと言って、妹さんを逃がす為に自爆特効する気なのは分かっているわ」

 遥か未来の危機に怯える龍は目の前の小さな可能性も見逃すことはなかった。

 龍が頷くと、人間態のイルタの手が夏南の頬を放して彼女は数歩後ろに下がった。

 空いている龍の左手が上がり夏南の視界に入る、僅かに開かれた五指の間から術識の気配が漏れているのが分かる。

「お願い、止めて!」

 術識の構成が読めるであろう美冬が悲鳴を上げ哀願するが、龍もイルタも一瞥すらくれない。

「この拘束術識に囚われたら最後、もうあなたの体は動かない」

 僅かに橙色の火の粉を帯びた龍の左手が、静に夏南に近づいて来る。

「あなたはもう何も考えなくてもいいの、快楽の海に溺れ続けれて全て忘れなさい、元龍殺しさん」

 龍の左手が開く、術識顕微鏡でしか見ることの出来ない素粒子や分子の世界が術力で強制的に組み替えらた「結果」が、幾つもの光の球を内包した正四角形の立方体、泡で作られたように見える箱を産み出した。

 人間の医者が使う重傷者固定用の術識に酷似している。

 龍と戦う者は身体能力は常人以上、それに術識が加われば幾ら術識を使える医者とはいえ暴れられては治療は難しい。その為に産み出された拘束術識を、夏南は戦場で何度か見かけた事がある。無害だが目の前にあるのは龍の術識で産み出され性能も桁違いに向上しているだろう、何よりこのイルタが作ったのだ、恐らく自身の術識を恒常的に送り永続起動、夏南の体に施された術識拘束を補強し、解除術識を食らうことすらやってくるだろう。  

 夏南の想像を裏付けるように司会膜の中で、光の数以上の目に見えない気配を感じる。

 美冬も止めてと叫び続けているので間違いないだろう。

 龍の左手が更に側近、人間態のイルタが術識に巻き込まれないように後退する。

 月と星の光に照らされたシャボン玉の檻はもう眼前に迫っている。ゆっくりと体を拘束していた龍の指が開く、牽制するように人間態のイルタが美冬の隣既に立ってた。龍の手の中で僅かに汗ばんでいた肌を吹き抜けた夜風が急激に冷やした、人としての終わりが形となって迫る恐怖が一瞬小さくなる。

 今だ!

 夏南はだらりと左脚の隣に投げ出した拳の中の符を指で破った。龍も人間態のイルタも気付いた様子はない。自らが産み出した術識が獲物を捕らえる未来を信じ、その光景を見逃さないよう微動だにしない。

 夏南は一呼吸置くと龍の手から転がるように飛び降りた。

「抵抗する気か!」

 美冬を人質にしていた人間態のイルタがいち早く反応、伸ばした右手で美冬の喉を狙おうとする。

 美冬は静かに目を閉じる。

 そしてこの場に居る全ての者が白の中に沈んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る