第34話
「兄さん、あそこから明かりが漏れています」
美冬が廊下の奥を指さした、そこは以前イルタにインタビューした診察室だ。コの字型の屋敷の西側一階、東の倉庫へ出入りの際に確認したが暗いままだった。東の廊下から診療所は伺えるが、ロビーに入ってしまうと中庭の樹木や生垣が死角となって見えない。
つまり、二人がロビーから西側の廊下へ入り行き止まりを右に折れる僅かな1,2分の間に明かりが灯ったのだ。
「寝ている内に捕まえようと思ったが、どうやら俺たちの行動は筒抜けだったようだ」
証拠が揃ったあとは集まりに突き出して終わり、という楽な結末はこれで消えた。元から彼女は露骨に情報を渡し、一介の雇われ記者が罠にかかるのを待っていたようだ。目的は直接聞くしかない、多分彼女もそれを望んでいる。
二人は明かりの誘いに導かれるように、診察室へと足を進める。部屋の前まで来ると扉が僅かに開いて、明かりとはっきりとした人の気配が漏れている。室内から殺気は感じない、緊張した顔で符を構える美冬にそこで待つように伝えると、いつでも抜けるよう水風の柄に手を掛けながら、もう一方の手で診察室の扉を開けた。
「本日の診察はもう既に終わっておりますよ、秋さん」
幾つものランプが灯る診察室の中心で、イルタが椅子に座ったままで迎えた。
「取材の続きですよ、プライベートも伺おうかと思いまして
部屋ではいつもその恰好で?」
夏南は平静を装ったまま軽口で返したが、内心目のやり場に困り困惑していた。
イルタは何も身に着けていないのだ、つまり裸なのである。デスクに背を向けた姿勢で、ひじ掛けに肘を付き足を汲んでいるので下部は見えない。しかし、ランプの明かりに揺れる豊かな胸を遮るものはなく、見ている夏南に出所不明の羞恥心を煽った。
「夜寝る時は服を着ないの
秋さんも寝る時ぐらい裸になってみたら、本来の姿に戻る時間は必要よ、あなた達人間にはね」
イルタは恥じることなくさらりと言うと、微笑み次いで脚を組み替えた。馬鹿にされているのだろうか、それとも自分の力に絶対の自信があるのか。事件に関する重大な証拠を見せ、今度は自らの正体に関するヒント以上の情報を開示したというのに、何処までも突き抜けたこの余裕。
つまり俺たちなんていつでも消せる、ってことか。夏南は水風をしっかりと握り、何時でも駆け出せるよう脚を開いて、重心を少し前にずらした。その時、後ろで美冬が動いて診察室に入ろうとしたので、片手で遮り止めた。
「下がっていろ!」
「待って兄さん、この声に聞き覚えが……て何で裸?」
横目で美冬を見ると、その表情は驚愕一色に染まっていた。
「やはり美冬さんだったようね
はぁい、私の病院に勤める気になってくれたのかしら」
美冬とは対照的にイルタは軽く手を振った。
「もしかして知り合いか?」
「いえ、数日前に彼岸堂の店先で無理やり誘われただけです」
当時の事を思い出したのか、美冬が顔を伏せた。
何だって!
思わぬ事実発覚に、夏南はイルタを睨みつけた。こちらの心中を察したのだろう、イルタがもう一度手を振った。怒りが込み上げる、自分の与り知らぬ所で美冬の中に結晶があることを、あの女は既に知っていたのだ。
「匂いを嗅がれたか」
「は、はい
怖い年配の警察の方が助けてくれるまで、抱きつかれておりました」
イルタはその時、美冬とその中の結晶の匂いを嗅いだのだろう。だから初めて会った時に、俺に良い匂いと言ったにだろう。その瞬間か取材の最中に、俺たち二人を誘い出す案を思いついたのだろう。
彼女の狙いは美冬の結晶だ、それを確実に手に入れる為に自らが事件に関与している事を示唆し、獲物とその護衛をこうして自らのテリトリーに誘い込んだのだ。
メスの一件で東国の事情に確実に精通しているイルタは、俺たち二人の素性も大半掴んでいると見ていいだろう。
美冬の言う警察の方とはクルトだろう、助けてくれたのはありがたいが、もっと早く止めてくれれば、功罪消滅で礼は無しだ。
「残念だったな、犯罪まで犯して龍を使った実験をしていたようだが、卵は全て破壊した
それを餌に結晶を手に入れようとしたが、それもあんたがその手に掴む事は無い、欲張り過ぎたみたいだな」
「私は欲しいものは何としても手に入れる質なの
こうして獲物が目の前にある以上、力づくで私の物にするわ」
イルタは勢いよく椅子から立ち上がった。
夏南は牽制しようと腰の水風を抜いたが、彼女は怯む素振りも見せない。
「美冬援護を頼む
相手は形態変化を得意とする高登域術識使いだ、本気でやらないとこっちがやられる」
美冬は頷くと一歩引いて符を構えた、裸の女性と戦う事に抵抗があるのだろう、初陣の緊張感と相まって腕が傍から見える程震えている。
「あら私の相場はその程度なの?」
彼女は構えも取らず腕を組みをして、こちらの準備が終わるのを待つつもりだろう。舐められている、生殺与奪権を既に手中に治めたと思い上がっているのだ。普段の夏南なら少なからず怒るところだが、今回が美冬と組んでの初戦闘なので、付け入る隙を一つでも増やしてくれる以上飲み込むしかない。
「その程度で終わりたくないなら、直ぐに被っている猫を脱いだ方が良い
全裸で監獄にぶち込まれることになるぞ」
夏南は腰の水風を抜いて、美冬を残して一歩前に出る。
ここまで被害を出した以上、集まりが所有する監獄に送られることは無く、死刑にされる可能性も高いが、ここで抵抗されては困るので口には出さない。
「このままで十分よ、傷はもう殆ど癒えたのだから」
イルタも一歩前に出る、両手を広げ夏南を受け入れるかのように。
傷と言ったが彼女は病み上がりなのだろうか、真意は分からないがこれも彼女の罠なのかもしれない。
その時、抵抗する素振りも見せない相手に、後ろ隣の美冬が後ずさりする気配を見せた、いけないこのままでは相手に飲まれてしまう。
「美冬、行くぞ!」
夏南は声を張ると診察室の床を蹴り、丸腰のイルタへと斬りかかった。
「夏南ダメ!」
水風がイルタの首に限りなく近づいたその時、捕まえるとしか聞かされていなっかった美冬が叫んだ。
「ありがとう、美冬
こんな私を心配してくれるなんて」
イルタの首は落ちなかった。
代わりに膨大な術識が触媒もなく発動、彼女の右手の人差し指と中指から噴き出した血液が長剣へと変化して、迫りくる刃を受け止め火花を散らした。
「形態変化術識以外にも水系術識が使えるなんて、隠すことないじゃないですか、先生」
「弟じゃなくて妹さんが居て、おまけに偽名を使った人が言える台詞じゃなくてよ、夏南」
夏南は奥歯を噛み締めイルタは口の端を僅かに釣り上げた、そして二人は一端離れ再び肉薄すると暴風の如き勢いで斬撃を繰り出し始めた。
術識製倶利伽羅複合合金の刀身を、イルタの血剣は欠けては直ぐに直るを繰り返しながら、折れる事無く受け止め続けた。どうやら血剣は、恒常的に働く術識により硬度と柔軟性を確保する為の金属を添付した血液で出来ており、倶利伽羅複合合金に対抗できる武器となっているようだ。夏南の目は飛び散る血に混じる、金属片の姿を逃さず捉えていた。
剣術の腕も里の手練れに匹敵している、これならあの余裕も頷ける。
ならば、夏南は弾かれた水風を手首を返しすと、柄頭をイルタの胸へと突き立てた。意表を突いた攻撃を受け彼女は重心を崩す。夏南は追撃の蹴りを繰り出すが、脚を振る動作で察したのかイルタは後方へ跳び回避。
「美冬、撃て!
相手は高登域術識使い、手加減して勝てる相手じゃない!!」
未だ、夏南がイルタに殺す勢いで飛び掛かったことに動揺している美冬へ、指示を飛ばす。
美冬は目の前の状況をその一言で理解すると術識を発動、精製された3条の水槍がイルタへと襲い掛かった。
イルタは迫りくる水槍の間を身を屈めて潜り抜けた。手足を狙ったのだろう。水槍の中心に空白があったようだ。
夏南は態勢を立て直す前のイルタへ肉薄する。元より援護術識の直撃は期待していない。
夏南は掲げた水風を振り下ろす、イルタの身を起こしながら跳ね上げた血剣とぶつかり弾かれる。
その時、血剣の刃先が一瞬にして半分になり、代わりにこちらに突き出されたイルタの右ひじが避け、血剣が飛び出してきた。
全身どこからでも出せるのかそれ、夏南は体を右に逸らして血剣の切っ先を回避、右手を刀から放すとカウンターの掌底を相手の胸へと放つと女の体が後方へ押し出され距離が離れた。
「私の胸、そんなに触りたい」
イルタが身を僅かに屈めて挑発してくる。
「そんなこと言って手を伸ばしたら、胸から剣を出してグサリだろう」
軽口で返すが、正直肋骨を折る気で放った一撃を受け止められ、少し動揺している。
決して手に残った柔らかな感触のせいではない。
「兄さん!」
美冬の怒号が響く、横目に小さな水槍の群れが飛来するのが見えた。
俺にも飛んでくるだと!
慌てて夏南は後方へ跳び回避、イルタは血剣をしまうと術識で氷の防壁を発動させ受け止める。
「危ないじゃないか美冬」
近くに駆け寄って来た美冬に怒るが、彼女は頬を膨らませて首を横に振った。
「危ないのは兄さんの方です
さっきからイルタ先生、いえあの女に挑発され続けております」
素人じゃあるまいし、誰があんなあからさまな房中術に乗るか!
「あんな手に俺が引っかかると思っているのか」
「なら口元を引き締めてから物を言って下さい」
指摘を受け頬の緩みに気付いた夏南は、前を向くいて美冬から顔を隠した。
「あら兄妹仲が良いようね
でも、私とお兄さんの関係に嫉妬するなんて」
何かを察したのかイルタは含み笑いを浮かべると、
「まるで夏南さんに恋をしているみたいね」
カラカラと乾いた笑いを浮かべた。
薄々気付いている美冬の気持ちを他人に指摘され夏南は、ドキリとしたが顔には出さなかったが、馴れない敵の挑発に美冬は怒りと羞恥心で顔お真っ赤にした。
「落ち着け美冬、俺が今から仕掛ける、もう一度援護を頼む」
美冬がぎこちなく頷くのを横目で確認すると、夏南はイルタへ接近する為に床を蹴ろうとした。だが、それよりも速くイルタが動いた。血剣を構えた彼女が一瞬にして距離を詰める、夏南は水風でその後に来る斬撃を受け止めようと構えたが、それを見た相手が軌道を変更した。
「美冬!」
夏南は横に跳び、イルタと美冬の間に割り込む。女が床を這うように身を屈め、横に振った水風の刃から逃れる。眼前の光景に美冬が気づいて後ろへ跳ぶが、イルタの血剣が下から迫る、夏南は刀を振った姿勢から体を捻り左手でイルタの片足を掴むと力任せに放り投げた。
血剣は美冬の着物の帯紐を掠めると、驚愕の表情を浮かべた持ち主と一緒に部屋の反対側へと飛んでいく。それを見届けた夏南は床に倒れ込んだ。しかし、イルタは床に倒れる直前にサーカスの軽業師の様に体を回転させると、音もなく床へと降り立った。
「当たって!」
美冬が術識を発動、触媒として役割を終えた符が塵へと変わると、大人が両手で作った輪と同等の直径を持つ水の柱がイルタへと迫った。もし戦闘になったら相手の隙を突いて術識で攻撃。彼岸堂を出る前に言ったアドバイスを美冬は忠実に守ってくれたのだ。
イルタは術識を使い、今度は氷ではなく不可視の壁を眼前に生み出して水柱を防ぐ。イルタに足が止まった、夏南は素早く立ち上がる。追撃しようと思った瞬間、イルタが術識を重ねて発動、不可視の壁の中央が前面に突き出しまるで船の先端の如き計上へ変化、更に術識を発動させるとそれを撃ち出した。
「三重発動!?」
初めて高登域術識者が見せた攻撃に美冬が、驚きの声を上げると制御を失った水柱が消えた。触媒も補助器具も用いずに、自身の脳だけを使った単独発動。夏南も初めて目にして驚いた、戦闘でアドレナリンが出ていなければ美冬と同じく動揺していただろう。
夏南は地面を蹴り拘束で移動、美冬の体を抱えて横へ跳んだ。不可視の船先は二人を掠め、本棚に激突し後ろの壁ごと粉砕する。
破砕地点を中心に木片と紙片が宙を舞い視界を遮った。その中に黒い人影が映り込む、胸の前で交差させた両手十指が一瞬で伸びた。夏南はまだ残る慣性に従い後退、美冬の呻き声が鼓膜を揺らすと同時に、目の前の床が天井を蹴り落下して来たイルタの足と、指から生えた10本の血爪によって砕き切り裂かれる光景が目に飛び込んで来た。
破壊された床に四肢を着いたイルタが、逃げた獲物を追うように顔を上げた。笑顔が消えた顔からは殺気で歪み、その目は爬虫類などが目を保護する為に持つ瞬膜で覆われ、白一色に染まっていた。彼女が笑った、夏南は着地と同時にイルタへ飛び掛かるとその横顔を蹴り飛ばした。
龍は殺せても人は殺せないだろう、出会いから今までこちらの素性を感づいていた彼女の言動は、多くがこちらを煽り侮っていたものだった。
女の体が仰け反った姿勢で勢いよく吹き飛ばされると、診察室の中心に置かれた金属製のデスクに受け身を取ることも出来ずに激突した。
美冬を床に降ろすと、彼女は先ほどの回避行動で三半規管が乱れたままのふらふらした足取りで、倒れたデスクの上で仰向けになっているイルタへ駆け寄ろうとした。
「待て美冬!」
「離してください!
捕まえると言っておきながらこの仕打ち、あの人はこのままでは死んでしまいます」
デスクにぶつかる直前に、イルタは防御術識も身体強化術識も使わなかったことを心配しているのだ。横倒しになったデスクの上で仰向けに倒れている女の姿を見れば、大半の人間は美冬と同じような反応をするだろう。イルタの正体を今美冬に教えた方がよいだろう、正直こちらを舐めて居るうちに倒したかったが、一々注意を受けては戦いずらい。
「あの女は実は……」
夏南の言葉を遮るように膨大な術識が発動、慌てて発生源に目を向けると、イルタが上半身を起こして右手の人差し指と中指を銃口のようにこちらに向けていた。
狙っているのは美冬だ!
夏南は美冬を抱えて横に跳ぶ、イルタの指先から細い水が照射、二人が消えた空間の背後にあるキャビネットに突き刺さった。夏南は視線を水線からイルタへ向ける、彼女がこれで終わりではないと言いたげに笑う。そして、水線を照射し続けている右手を横に薙いだ、夏南が急ぎ伏せると頭上を水剣が棚や壁に硝子を切り裂きながら通り過ぎ霧散する。
「美冬、俺とイルタの間に防御術識を沢山だしてくれ」
「はい、ですが巻き込まれたら兄さんの体は」
「気配で分かるから安心しろ」
立ち上がる動作の中で手短に作戦を立てると、腕の中の美冬が符を胸に抱き術識を発動させた。イルタと二人の間に不可視の壁が現れ、水の細剣を防ぐ。夏南は美冬を降ろすと壁を飛び越えへイルタへと体重を乗せた蹴りを放つ。
倒れたデスクに夏南の足が当たりひしゃげる、イルタは攻撃が当たる直線に体を丸めて後方へ転がり回避していた。夏南は急ぎ立ち上がろうとするが、相手の方が早く指をこちらに向け攻撃態勢に入った。
水線が夏南に向かって発射、身体を逸らして回避しようとするが途中で不可視の壁に阻まれ飛散する。何時の間にか、二人の距離が分かるよう横に移動していた美冬が符を構えていた。イルタの水線を発動している右手が横に振られる気配を察知すると、夏南は床を蹴り不可視の壁を高速で回り込むみ斬りかかった。
水線を解除した指先に血剣が再び現れ、水風の刃と切り結んだ。互いの剣が常人の目には見えない速度で幾度もぶつかり合う。それに連動した足さばきが、診察室の床にまき散らされた書類や木片を巻き上げ徐々に視界を濁らせていく。
「今だ!
ありったけの水槍を打ち込め!」
夏南が叫ぶ、美冬は一瞬躊躇したがこれまで戦いを目の当たりにして言われた通りの術識を発動させた、今は二人を信用するしかないと覚悟を決めて。
両手に持った符の片方が、術者の脳に掛かる不可の身代わりとなり塵とへと変わると、美冬の前に掌大の水槍が無数に出現し、刃を交える二人へ一斉に襲い掛かた。
夏南はイルタの体を盾にする為に徐々に詰めていた距離を一気に詰めようとしたが、女が放ったカウンターの一閃を飛び退いて回避してしまい目論見は崩れてしまう。
術識を使えない夏南がこれから迎える運命に、イルタが勝ち誇った笑みを浮かべた。そして、血剣を仕舞わずに術識を発動、イルタの前から紙や木片が飛散し不可視の壁が生み出される。夏南は床を蹴り高速で移動しもう一度イルタへ向かうが、美冬の放った水槍をモロに浴びてしまう。
狙いを定めない広範囲の水槍の攻撃は戦う二人の他に、床や天井に周囲に置かれた医療用の備品の区別なく襲い掛かった。水の暴力に晒されたそれらは宙に舞い、飛散した水しぶきと共に宙へと舞った。美冬は自らの行いに驚き膝を折りかけた、兄がイルタを盾にしようとしたことは分かったが、間に合わなかったのははっきりと見えたからだ。
「目の前に氷の壁張れ!」
死んだと思った兄の声に美冬の体は無意識に反応、片方の手に残った符と引き換えに数歩先に氷の壁が現れる。
バリ!
次の瞬間、何かがぶつかった。
人だ、誰かがもの凄い勢いで氷の壁に衝突したのだ。
バリバリ!
更に何かがぶつかり氷の壁全体に亀裂が入り、高速発動の為に強度不足な壁が打ち砕かれた。
「兄さん!」
美冬は目の前に現れた男の顔を見て、歓喜の声を上げた。
夏南は氷の壁に叩きつけたイルタの脚を掴むと、後方に並ぶ診察室の窓に向かって投げ飛ばした。女の体は窓枠毎硝子を砕き診察室の外へと消えた。
「ありがとうな美冬」
「しゃ、喋らないでください!」
夏南は術識の礼を言うとその場に膝を着き、慌てた美冬が駆け寄る。
夏南の首から下の至る所の服に穴が開いて、そのしたから肉や骨が露出していた。
「気にするな、こんなの放って置けばすぐ直る」
この世の終わりのような顔をして、駆け寄って来た美冬を押し戻そうとしたが手で払われてしまった。
「かわせないのなら、こんな攻撃はさせないでください」
「結果的に重い一撃をお見舞いできた、これは成功だ」
夏南の物言いに信じられ無いといった目で答えた美冬だが、直ぐに符を出して治癒術識を発動しようとしたのだが、
「えっ、どうして!?」
服の下から覗く傷口の様子を見て固まってしまった。
視線の先には右わきの皮膚が破れ露骨が見えていたが、周囲の肉や皮膚が蠢きそれを覆い隠そうとしていた。
細胞寿命を消費しない自己治癒能力、夏南が人体改造手術で手に入れた龍の機能の一部である。体内の栄養を著しく消費するので、人の身で頼り過ぎれば動けなくなる弱点がある。しかし、この力のお陰で夏南は多くの龍を単独で狩ることができたのだ。
傷の痛みと再生の痛み、そして完治までのグロテスクな光景。
既に馴れ感覚が麻痺して何も感じないが、美冬にとっては初めて見る光景、絶句するのも仕方がない。
「術識を使います」
有無を言わせぬ剣幕で美冬がそう告げると、夏南の体にある全ての傷口に変化が起こった。
傷口周辺の一部の細胞が未分化の幹細胞へと変化し増殖、それぞれが失われた肉、血管、骨、皮膚へとその姿を変えていった。再生の間痛みは感じなかった、術識の中に局所麻酔も含まれていたのだろう。周囲の人間や自分を害さぬよう、そして龍の餌になるまで自らを生きながらせる為に、美冬は術識習得時間の殆どを治癒術識に費やしてきたので、熟練者でも難しいことまで出来るのだ。
ありがたい、反吐が出る程に。
「勝手に治るようでしたが見ていられなくて
出すぎた真似をしました」
夏南の体の事を知っている美冬は、傷を治したというのに頭を下げて謝った。
「いや助かった
自力で治ると言っても、痛いし栄養を全部持ってかれるんで腹が鳴って恥ずかしい」
これ以上気遣いされないよう、笑って自分の腹に手を当てた。
美冬は笑わなかったが、その顔から幾分陰りが消えた。
「あのイルタ……先生も兄さんと同じ体なのですか?」
連続失踪殺人事件の犯人ではあるが、面識のある人間を邪険に扱う事にまだ抵抗があるようだ。だが、それが躊躇いを生む可能性がある以上、ここはきつく言った方がいいだろう。
「いや、あの女の体は……」
「だめよ、女の秘密を勝手にバラしちゃ」
不意に二人の会話を遮って、窓の外からイルタの声が割り込んで来た。
美冬が弾かれたように窓の外に顔を向けると、大きく目を見開いた。既に立ち上がりこちらの様子を窺っていた気配を察していた夏南は、ゆっくりと顔を動かし窓の外に目を向けた。窓枠を突き破り吹き飛ばされたというのに、白い肌に怪我や血痕どころか泥やほこりすら見当たらない全裸のイルタが、腰に手を当てて怒る身振りをしているのが壊れた窓越しに見えた。
夏南は美冬を伴って窓の傍に立ち裸の女と対峙する。
「まだ続けるつもりか、その姿で」
「あらそんなにアレとやりたいの?
私はこのまま朝までやり続けたいのだけれど」
イルタが前かがみになって胸を揺らして挑発する。美冬は羞恥心に負けて顔を背けてしまった。正直夏南も恥ずかしかったし、美冬の手前顔を背けたいところだが、相手の思うつぼに自らはめまりはしない。
「陽が登れば人が来て、強盗兄妹から命からがら裸で逃げまわった女医になりたいようだが、残念だがそれはこの街の新聞に載ることは無い」
夏南は腰のポーチの底から小さな筒を取り出すと、イルタの頭上に広がる澄み渡った星空へ向け備え付けられた紐を引いた。
パシュ!
包先から鋭い閃光を発する小さな火の玉が夜空に向かい、数秒間新しい星を作り消えて行った。
何かあった時の為に忍ばせていた信号弾だ。
「救援でも呼んだのか?
残念だが幾らお前のような龍殺しが来たと……」
「何を勘違いしている
これから本気を出すんで、その準備をしてくれと合図を送ったんだ」
夏南の言葉にイルタの笑顔が一瞬凍り付いたが、何かのブラフだと受け取ったようでその後すぐに高笑いへと変わった。何も聞かされていなかった美冬は、本当かと疑念が浮かぶ目でこちらを見る。夏南は何も言わず頷いて答える、何が起きるかは直ぐに分かるさ。
「今の私とほぼ互角の夏南さん
そういう冗談はインタビューの時に……」
その瞬間、膨大な術識の発動する気配が暴風のように吹き荒れ、3人の間を吹き抜けていった。イルタは空を見上げ、美冬は恐怖に縮こまり、夏南は一瞬拳を握りしめた。
「今のお前と同程度、いやそれ以上の術識を使う者は軍や教会にしか居ないと思っていたのか」
夏南は一歩前に出ると壊れた窓枠から空を見上げた。
先ほどとは変わらない星空、などでは既になくなっていた。星々の間を夜風に乗って流れる雲よりも手前に、シャボン玉のような薄い皮膜一面に広がっていた。美冬は狼狽した様子で同じ空模様を眺めているが、夏南はそれがこのイルタ医院の敷地全てを覆う半球状の壁だと知っていたので眉一つ動かさなかった。
「お前専用の檻だ
解除するには俺を倒すしかないぞ」
前半は本当で後半は嘘だ、さてイルタはどう出るか。
彼女は空を見上げたまま片手を掲げ術識を発動、氷の槍が星々へ向かって放たれた。一直線に上昇する槍、しかし皮膜に触れた瞬間ピタリと動きを止めた。氷の槍周辺の皮膜が震え向こう側の景色が歪むと、その周辺の術識気配が濃くなりその後槍は飛散し、氷は雪のように放った術者へと降り注いだ。
「嘘を着くな人間、これ程の檻を造れる者が人間という脆弱な存在を術識に組み込むことなどしない」
今まで誘うような甘ったるい口調が一変、こちらを下に見る尊大さを備えたものへと変わった。ゆっくりと顔をこちらに向け、掲げた手をだらりと振り下ろすイルタ。抵抗を諦めたのではないことは、その体から膨れ上がり放たれる殺気が雄弁に語っている。
「嘘かどうかは俺を倒せばわかる」
夏南は余裕の態度を崩さない。
イルタはこちらを見下している、なら立場が逆転したと思い込んだ格下相手に取る行動は一つしかない。
「私を閉じ込めたくらいで、どうこうできるとは思い上がるな!」
とても人の声帯から出たとは思えない低い声が弾け大気を揺らす。
後ろの美冬が後ずさりする、正直夏南も出来ることならやりたいが、彼女の手前が我慢する。
叫んだイルタの体の中心で膨大な術識が発動、その全身が一瞬激しく痙攣しると、空中に固定された操り人形のような異様な格好で止まる。そして、全身の皮膚が一斉に避けると剥き出しの肉が一斉に飛び出した。皮膚を脱ぎ捨てた肉は湯気を立てながら膨張、術識で体組織を増やし成型しながら宙に渦巻く一本の肉紐へ変化する。
そして肉紐の表面は鱗や毛へと変化し、最後に紐の先で大きな塊となっていた肉腫から鰐のような頭蓋骨が飛び出すと、それを追うように肉腫から神経と筋肉組織が伸びて骨の内外を覆う。最後に肉腫がその上を一気に覆い、顎、鼻、頬、額、頭部、そして燃える深紅の眼球へと姿を変え食物連鎖の最上位に君臨する生き物に相応しい獰猛な顔を顕現させる。
「龍!?」
美冬が裏返った声で言った。
初めて見る天敵、里ので使われている外観計測方法にして推定500歳の大物だ無理もない。1000歳の脱をm迎えていないのであれば幼体なのだが、今の彼女に言っても余計に怖じ気づかせることになるので黙っておく。
「水龍だ、水の他にも毒や氷を術識で操ることに長けている」
夏南は攻撃方法に関する情報だけを伝えた。
術識使いは、自分の得意属系であれば初見でもある程度対処できる、美冬は夏南の意図にを汲みむと、やれると頷いて返してくれた。
「離れて術識で援護してくれ、攻撃方法は術識に詳しい美冬に任せる」
そう背中を預ける相棒に告げると、夏南は壊れた窓を飛び越えて外に出た。
「あなたたちを倒した後で、この結界を張った本人も喰らってあげる
これ程の術識が使えるのであれば、きっと味の方は期待できるわね」
見るも者を一瞬にして極寒の海へ叩き落とす血色の宝石が、これから自らが味わう嗜好の美味を想像し歓喜に震える。
「それはどうかな、案外若作りが上手い年寄りかもしれないぜ」
砕けたガラスや窓枠の残骸が降り注いだ地面を踏みしめて、夏南は警戒する素振りがみられないほど堂々とした足取りでイルター龍へと近づいていく。
龍との闘いは相手の異形に憶えた恐怖を踏破した先、更なる脅威との命が尽きるまで闘争だ。
災害にも等しい存在と相対する時、ある物は命惜しさに逃げ出し、ある者は恐怖の先にある栄光に引かれ命を賭け金として差し出す。
夏南は後者であった、かつて龍の先に美冬が居たので我武者羅に突き進んだ、龍を倒せない自分なら死んで良いとさえ思った。
しかし、今は背中の向こうに美冬が居る、心強さを感じるが前に進むだけでなは無く、引くことも出来なくなった。
だから龍を目の前居る時だけは、命を預けてくれた美冬の目に怯えた姿を映す訳にはいかないのだ。
一人と一匹の距離が10メルトルまで近づく。固唾を飲んで見守る美冬、符を握る手が我知らずに震える。次の瞬間、龍の背後で巨大な尾が振り上げらると、恐れを知らず危険に近づいてくる人間を叩き潰す為に振り下ろされた。
轟音、病院の中庭にまるで山崩れが起きたと錯覚させる音と衝撃が響き渡った。揺れる床に取られそうになる美冬、しかし悲鳴を漏らすものかと目を凝らし奥歯を噛み締め構えを維持。夏南は大丈夫、あんな攻撃にやられはしない。
龍が弾かれたように夜空を見あげる、美冬は期待を胸に破壊された窓に近づくと龍の視線を追った。そこには月光に煌めく刃を構えた人影が、一条の流星となって地に落ちようとしていた。
「兄さん!」
美冬はここが戦場であることも忘れて歓喜の声を上げた、それが戦いの第二幕を高らかに告げたのであった。
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