第32話
「この塀に術識の罠は仕掛けられていないようです」
私の力で知る事の出来る範囲ではと、美冬は自信なさげに呟いた。
「ありがとうな、美冬
もしもあったら、俺が何とかするから安心しろ」
彼女の額に浮かんだ汗を指で拭う、戦場で仲間を不安にさせる行為は厳禁だが、下手に誇張されるよりは幾分マシである。
それをやって父に殴られた経験があるので、正直に話してくれた美冬は、昔の俺よりはずっと頼りになるだろう。
懐中時計が示す時刻は午前2時。
シィと別れて今二人は、イルタ医院の正門から離れた所にある塀の前に立っていた。賊や敵から貴族の屋敷を長年守って来た壁は堅牢で、中の人間に気付かれずに破壊することは難しい。故に以前より侵入ルートとして目ぼしを付けておいた、この場所で塀を越える準備をしていた。
「まるで上総山みたいですね」
世闇の中で月明かりを受けて聳え立つ、くすんだ白い壁を見上げて美冬が感嘆の声を上げた。僅か3、4メルトルしかないのだが、写真や絵でしか外の世界を知らない彼女にとっては、連なる連峰に見えるのだろう。微笑ましいと思う反面、少し悲しくなったが気を取り直してロープの先を鍵爪にしっかりと結ぶ。
「ブルタリア島には大昔の戦争で出来た山がいっぱいあるから、いつか見に行こうな」
「え、うん、はい……」
彼女の話に乗った夏南だったが、帰って来た生返事で幾分肩を落とす結果となった。
まだ彼岸堂から遠くに離れることなど考えられないのだろう、今はこうやって着いて来てくれただけで良しとしなければならない。
完成した鍵爪付きロープが解けないか確認し終えると、美冬から少し離れてプロペラのように回し始めた。これは鍵爪を塀の先端に引っ掛けてよじ登る為の古典的な道具だ。術識が発達した世界では主流ではなくなった道具ではあるが、術識発動時に発する気配も発動後の痕跡を残さないので、諜報の分野では未だに使われる事のある代物だ。
ヒュン、鍵爪が勢いよく空へと飛び上がりると、壁の向こうに消える。金属音が響く、夏南はロープを数回引いて鍵爪が壁にしっかり引っかかった事を確認する。壁面に片足をかけると美冬に向って手を差し出す、それを見た彼女は驚きの表情を浮かべた。
「俺に掴まれ、一緒に昇るぞ!」
困惑して周囲をきょろきょろ見回す美冬、もう一度言うと恐る恐る近づいて来たので、細い腰に手を回すと抱き抱えた。
「重くはないですか?」
龍に接近戦を挑む者は皆体を極限まで鍛えており、その活躍も幾度となく話して聞かせているが緊張して忘れてしまったのだろう。それを目の当たりにしたのは、数日前に龍の赤子と戦った時だけなのだから無理はない。何より龍と一対一で戦える程強化された体にとって、人一人抱えることなど負担の内には入らない。
「重い、重いがちょっと軽いな
もうちょっと食べて太ってくれると、お兄ちゃんは嬉しいぞ」
素直に感想を口にした、少し痩せすぎだと以前より思っていたので、これを機に食生活を改めて欲しい。
「女の人に太れとは、もっと言葉を選んでください」
はいといつも通りの返事が返ってくると思っていたが、何故か美冬はそっぽを向いてしまった。
何か不味いことを言ったのか俺は?
少し気まずい雰囲気だが、夏南は美冬を抱えロープを手繰り寄せながら、白亜の壁を登った。
壁の上は人一人十分に立てる程のスペースがあった。立体的な軌道を描き戦う対龍戦闘で鍛えた夏南は、押されない限り落ちることはないだろう、いつもなら。夏南の隣に降ろされた美冬は、今子供のようにがっちりとこちらの腰に組み付いて来ている、彼女が下手に態勢を崩せば地面に真っ逆さまだ。
「は、早く降りましょう
潜入は、じ、時間との勝負です」
声が上ずっている、彼女が幽閉される前に木登りを進めて泣かれた事を憶えているので無理もない。それから現在まで、彼女が民家の二階以上の高い場所に美冬が登ったところを見たことはない。一緒に戦う以上、高所には馴れて貰うしかない、今回は龍が相手だ、きっと彼女を抱えて今以上の高さを跳ぶことになるかもしれないからだ。
夏南は片手で美冬を抱きながら、空いている手で鍵爪を外すとベルトの金具にロープを丸めてぶら下げた。
「使わないのですか?」
不安そうに美冬が訪ねて来たが、今思いついた降りる方法は絶対に反対されるので口にはしない。
「美冬」
名前を呼んで彼女の顔に顔を近づけ唇を近づける。突然のキスされる形となった美冬は、驚いた顔をして目と口を閉じた。チャンス、夏南は素早く美冬の体を両手で抱えると、壁の上から一気に飛び降りた。
「ひゃ!」
突然の浮遊感に腕の中の美冬が、思い切り背中に手を回して来た。我慢だ、我慢、これも社会経験だと胸の中で言っておく。家屋の二階程度の高さからの落下は直ぐに終わり、最後に二人分の体重が乗った靴底が地面を叩いて終わった。
「ご自分が何をなさったのかお分かりですか?」
怒りに満ちた美冬の低い声。
良かった、腕で殺した落下の衝撃でダメージを負わなかったようだ。
「相棒を抱えて病院の敷地に侵入した」
事実をだけを述べて、頬を膨らましている美冬を地面に降ろす。
「なら一言落ちると言ってから、降りてください、カメラが壊れたらどうするおつもりですか!
それにもう子供ではありませんので、高い所は平気です」
目を吊り上げて美冬が抗議の声を上げた、脚が少し震えているのは見なかったことにして謝る。
「後はこのような状況で変な気にさせるのも、禁止です」
最後にそういうと美冬は背中を向けた。
キス禁止宣言に少しショックを受け手がここはもう敵陣だ、これ以上ふざけるのは止めるべきである。
「行くぞ、美冬
俺の後に着いて来い」
彼女の横に並んで今までよりも一段低い声でそう告げる、横目で見た美冬の緩んだ顔が一瞬で引き締まるのが、月明かりの下でもはっきりと見えた。
夏南はそれを見届けると屋敷に向かって走り出した。
イルタ医院、あの中に事件の黒幕である龍が居る。
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