第29話
倒すしかない。
ランプの明かりだけが揺れる自室で、夏南は自分に言い聞かせるように胸中で呟いた。
普段着から対刃素材で作られた戦闘用の服に着替え終えると、胸の決意とは裏腹に夏南の体はベッドに腰かけ休息を取ることを選んだ、これからイルタ医院に乗り込もうというのに。
自室の窓から空を見上げる、まだ冬の名残が残る澄んだ夜空には月が煌々と輝き、疎らに浮かぶ千切れ雲が風に乗ってロンディニウムの上を駆け抜けていく。
イルタが生んだ龍と戦ってから今日で3日目。彼女に打ち込まれた毒は今朝、シィ女史から完全に無効化されたとの診断結果を貰った。あの戦いの後、家に帰るとダイニングで美冬がテーブルに突っ伏して寝息を立てていた、着替えを終えた後彼女を部屋へと運び何食わぬ体で夕食を平らげた、龍を追っていたことはまだバレた様子はない。
シィ女史は感づかれていると言ってはいるが、目の前に立ちふさがる連続失踪殺人事件に龍が関わっているのなら、それが終わるまでは何としても誤魔化し通さなければならない。
故郷から持ち込んだ対龍刀「水風(みずかざ)」と「火雷(ひらい)」はベッドの下にまだ隠している。時刻は夜の10時を回っているが、美冬が訪ねてくるかもしれないからだ。彼女に気付かれる事無く家を出たらイルタ医院へ直行、夏南の予想通りなら連続失踪殺人事件の元凶である証拠品を押さえることが可能で、それをイルタに突き付けて犯行の停止と身柄の拘束を迫れる。
問題は彼女が抵抗した場合だ、夏南が決意があるものの踏ん切りが付かないのはそこに原因がある。高登域術識者との戦いに二の足を踏んでいる訳ではない。イルタが抵抗するとなれば高い確率で龍との戦闘が待っているからだ。
その場合この国に来て初めて、成体となった龍を相手にすることになる。初見の龍、それを後方支援無しに倒す、正直かなり厳しい条件だ。戦闘訓練は欠かさず続けている、腕が鈍っていないことは幼体の龍二匹と戦い確信しているが、相手が成体の龍ともなれば死闘は必須、罠は既に医院内に仕掛けておいたが無力化後に拘束などやる余裕はない。
「今夜、この世界から仮面とはいえ善良な医者が一人消える」
そこまで考えるとミーリの死相とユイの泣き顔そして割ける女性の影が浮び、思わず独り言を吐いてしまう。
俺はまた人々の生きる希望を奪うのか。
龍に依存する薬利家の繁栄と引き換えに美冬を連れ出した、今度は格安で貧しい者を治療する医師に頼る者達からそれを奪おうとしている。
彼女の正体は3日前の戦いで確信へと変わった。それを承知であの晩、龍誕生の瞬間を夏南に見せた節がイルタにはある。軍や教会関係者ではないことは既に感づいているだろう、単独で動く自分を彼女は誘っているのだ、消されるかそれとも共犯者、兎に角犯行を止める気はない可能性はやはり高い。
美冬の安全を取るか、それともこの街に暮らす医者を必要とする者を取るか。
どちらを選んでも不幸になる人間が必ず現れる。
夏南は目を閉じた
1年前に久しぶりに牢から出た美冬の笑顔が瞼の裏に蘇る。
彼女はその時奇麗と言った。
何を迷う夏南、お前のやることは一つだ。
美冬と美冬が居る世界を守る、ただそれだけだ。
カッと目を見開くと胸の中から鉛のような重さは消え、希望と罪の意識だけが残った。
コン、コン
まるで夏南が決意を固めるのを待っていたかのように、部屋の戸を何者かがノックした。
シィ女史だろう、彼女だけに今晩イルタ医院へ行くことを告げているが共に行く予定はない。2日前にある協力を頼んだが、成功率が低く確約できないと断られてしまった。そのことを気に病んで激励にでもしに来たのだろう、軽いようで彼女は義理堅いところがある、だからこそ今もこうして信頼して共に生活しているのだが。
夏南はベッドから立ち上がると、部屋の扉を静かに開けた、こんなことで美冬を起こしたくはない。
「兄さん」
扉の向こうに美冬が立っていた。
思わず息を飲みそうになる。
今頃ベッドに居るはずだが、彼女は寝間着姿ではなく着物に身を包み、その両袖は襷で捲くられているのが、室内から洩れるランプの明かりを浴びて闇の中に浮かび上がった。
故郷では有事の際によくそうする人が多い、何の理由もなくする格好ではない。
自分の影になっても美冬の顔からは、何か尋常ならざるものを感じる。
「何かあったのか?
また、怖くて眠れないのか」
平静を装って声を掛けた。
あの晩龍を見て、まだ恐怖に苛まれているのだろう、夏南は彼女を抱きしめようと手を伸ばした。
「兄さん、これから何をしようとしているのですか?」
返ってきたのは予想とは逆の張り詰めた声、夏南の伸ばした手が止まる。
普段の美冬にはどこかおどおどしたところがあった、それが今の妹からは感じられない。
彼女は気付いている、いつかのシィ女史のセリフを夏南は思い出した。
何かを察して今こうして自分の部屋へ来たのだろう。もしかすると彼女は龍を追っていることを、自分の口から話すことを迫るかもしれない。夏南は胸中でかぶりを振るう、これ以上美冬に負担を強いる訳にはいかない。
もし龍絡みのことでここに来たのなら強引にでも誤魔化して、部屋に追い返すのが得策だろう。
胸の中に新しい罪悪感が生まれるが、体が全快した今晩こそ、連続失踪殺人事件をもっとも早く終わらせる機会なのだと自分に言い聞かせて無視する。
「美冬、俺は今晩仕事で・・・・・・」
「兄さん!」
夏南が言い終わらない内に美冬が胸に飛び込んで来た。
「薬家に帰りましょう、出奔した罪は全て私が背負います」
予想外の美冬の言葉が落雷となって夏南の体を打ち据えた。
何を言っているのか理解できない。
美冬は外の世界を奇麗と口にし、こうして3人での暮らしも好きだと言っていたではないか!
「一体どうした!
薬屋に嫌な客でも来るのか、まさかシィ先生にいじめられでもしたのか!」
思い当たる節を全部口にすると、夏南は僅かに震える美冬の体を抱きしめた。
美冬を龍から守る事にかまけて、普段の彼女を気にかけるのを忘れてしまっていたのだ。
「欺かれております、一番身近な人に」
「先生に騙されて何か嫌なことでもやらされたのか!?」
彼女は高登域術識使いだ、以前騙されて研究中の術識の非検体にさせられそうになった事は記憶に新しい。まさか、美冬にまで手を出そうとしたのだろうか。このまま美冬をここに置いてシィの寝室へ踏み込もうかと思ったが、美冬が顔を上げるとそこには相手を責める非難の色が宿っていた。
「違います、先生は正直に話して下さいました」
責める声が落雷となって、夏南の頭からつま先までを一瞬で駆け抜けた。
秘密をばらしたシィに怒りを抱きかけたが、隠し通すのはもうそろそろ不可能だとここ数日何度も口にしていたことを思い出し冷静を保つ。
シィ女史はドライに見えて、身内となると判断を誤る程肩入れしてしまう情を胸に秘めている。彼女も限界だったのっだろう、耐えられずに喋ったのなら仕方がない。怒られるのは俺の方だ、きっと大きな貸しだと後で何かしらの請求が来るだろうが、そんな事よりも今は美冬に向き合わなければならない。
夏南は美冬の目を見つめると、彼女の肩を抱いて自室へと招き入れた。
ここ数日の調査に必要な物を出した後、録に整理などしていない夏南の部屋に座る場所など無く、仕方がないので美冬をベッドに座れせ自分は隣に腰かけた。何から話そう、いや美冬は何を話してほしいのだろう。チラリと横目で美冬を見ると、部屋に入る前に見せた剣幕が嘘のように俯いて口を閉ざしている、更にその顔は上気しているように見えた。
これは相当腹を立てているのだろう、改めて美冬の為を思って黙っていたことが、彼女を深く傷てたのだと思い知らされる。
「あ、あの、兄さん」
美冬が突然こちらを見た、やはり糾弾されるのだろう、夏南は一人覚悟を決める。
「幾ら兄妹とはいえ、深夜に二人きりでベッドに座らせるのはどうかと思います」
恥ずかしそうにそういうと、彼女は顔を向けた。場違いなセリフに耳を疑う。熱っぽい顔をしていたのは、恥ずかしかったからなのか。
罪人としての責め苦を覚悟していたが、男としての品位を責められるとは思っていなかった夏南は呆気に取られると、まず美冬から離れようとした。
『あ!』
互いの手が不意に触れ合い、同じタイミングで同じ言葉が口から漏れた。
龍との戦いに備え落ち着けた胸が、たったそれだけで嵐の中の海のように激しく乱れ泡立つ。居てもたってもいられず、夏南は立ち上がると、書籍に埋もれた椅子を掘り起こし美冬と向かい合うように座った。その間僅か5秒、病み上がりにしては上出来な動きだったと思う。
「シュリンガの小説」
椅子に乗った本を移動させた時に見られたのだろう、美冬はその中の一冊の著作を言い当てた。美冬が好きな恋愛小説家だ、どんな内容か気になって読んだが、兄妹の禁断愛を取り扱った一冊だ。正直面白かった、読んでいる最中ヒロインと美冬を重ねてしまい読破まで随分時間がかかったのが、唯一の不満であるが。
「美冬が好きみたいだから、興味があって買ったんだ
それよりも今日は本の話をしにきたのかい」
美冬の呆けた顔がはっとなると、みるみる真剣さを取り戻していく。
美冬を知る人間は彼女を真面目で堅物と言うが、自分の前では何処か抜けた手の掛かる女にしか見えない。
夏南の一言で緩みかけた空気が一変、手狭な部屋の中に剣呑な空気が戻ってくる。
美冬に真実を一方的に語ろうかと考えたが、騙されていた彼女の心境を慮ると、責め苦の」一つでも口から出るのを待つことを夏南は選んだ。
美冬は再び俯く黙り込んだ。
「兄さん……私の為に捨てたもの幾つありますか?」
数分の時間が流れたであろう、彼女は口を開くと夏南の予想もしなかった質問を躊躇いがちに投げかけて来た。
「そんなものは無い」
質問の向かう先が見えないなが、夏南は咄嗟に頭を巡らせて答えた。父から一族の闇を聞かされたあの日、夏南は里ではなく美冬を選んだ。夏南はそれを捨てたものに数えてはいない、薬利家は先祖が代々運営し里は龍から国を守る為に存在していた、その頂点に立つことを約束されていただけの身分だが、なっていたとしても罪で動くシステムに組み込まれていただけで所有とは程遠いものだろう。
「里に留まっていたら部下を指揮していた身、毎日仕事でこの街を駆けずり回って理不尽な目に幾度もあったと思います
辛くはないですか?」
「気に入らない奴は確かに多い、特に東国人という理由で見下してくる輩は、後ろを向いた瞬間殴りたくなることもある」
一端言葉を区切る、会話の行方が朧気ながら見えたからだ。
「でも、そんなことはどうでもいいんだ
美冬が居ないことが一番気にいらない」
言った後で恥ずかしい台詞と気付き、思わず茶化したくなったが、美冬の目を見据えて我慢する。
対する美冬は顔を赤くーはしなかった、ただ肩を一人落とした。目の前に居るのは、実の妹を手元に置いて置くために里を捨てた兄。1年間外の世界にふれ成長し、それが軽蔑の対象だと気づいたのだろう。
里のみんなを思って犠牲になることを受け入れる程美冬は優しい、そんな彼女だからこそ、何時までも一緒に居たいという夏南の我が儘に付き合ってくれたのかもしれない。
里を出てから未だ店の外に出られない後ろ姿を見るたびに、沸き上がった疑念が這い上がり心臓をゆっくりと締め付けた。
「やっぱり辛いか、ごめんよ美冬
でも里には返さない」
身を乗り出して膝に置かれた美冬の右手を握りしめる。
「俺が美冬に生きて欲しいと思って巻き込んだ
その胸の中の結晶を取り除くまで、辛抱して付き合ってほしい」
唇が震える、その後の言葉を口にすることを拒否する。唇だけではない、喉と肺も痛みを脳に与え抵抗する。錯覚だ、美冬を離したくないという俺のエゴがそうさせているだけだ、静かにしろ!
「全てが終わったら、俺は何処かに行ってもいい
だから、最後にもう一つだけ約束してくれ、外に出ることを諦めないって」
別離の言葉は夏南の心を切り刻みながら、声となって美冬へと向う。
これでいいのだ、その時が来ただけだ。
「……できません
勝手な言い分など、何一つ受け入れる事はできません!」
突然、美冬が大声を上げた。
その目は涙に濡れ、右手は大きく振られ夏南の手を容赦なく振り払った。
泣かれるだろうと覚悟していたが、怒られるとは思っていなかった夏南は、美冬の大声でシィが起きるかもしれないと考えられない程狼狽した。
「龍とはもう縁が切れた筈です
どうしてまだ、危険なことをなさっているのですか!?
この国では化け物と戦うのは、兵隊や神父さんのお仕事なのでしょう!」
この小さな体の何処にこれだけの怒気があるのだろうか。美冬は未だかつて見たことのない怒りを体全体から発し夏南を責める。彼女は軍や教会が化け物退治の為なら犠牲を厭わない、そのことを知らない。
「美冬の言うとおりだが、彼らに任せたところでその胸の結晶を取り除く方法は手に入らない
仮に美冬の事を離したら、危険な結晶を直ぐに消すためにお前を殺すかもしれない」
殺す、その言葉を聞いた美冬が僅かに震えた。
「俺が探すしかないんだ、例え命を危険に晒さなければならないとしても」
これは俺の我が儘だ、最後にそう付け加える。わざと強い口調で言った、脅すように聞こえただろう。胸に苦いものが広がるが、無視すると美冬が首を縦に振るのを待つ。
「そうやって、そうやって、いつも私を理由に死地に赴く
少しは私の事を考えてはくださらないのですか!」
美冬の声は怒気を孕んでいたが途中で萎み、最後には泣きそうに震えていた。
「美冬のこれからを考えたらこそだ
お前には体の中の爆弾に怯えることも、龍に命を狙われることもない人生を送ってほしい」
何度も言って来た言葉だが、まだ里を捨て生きながらえる道を選んだ罪悪感が受け入れるのを拒んでいるのだろう。
「人は誰も幸せになる権利を持っている
自分の運命なんかの為に、それを捨てないでくれ」
10歳の誕生日を迎えた日から抱き続けた願いだ。夏南は祈った、相手は神なのではない。目の前の大切な人へ向けてだ、人は変わることができる、お願いだ手を伸ばして幸せを掴んでくれ!
「はい」
暫しの沈黙を経て、美冬の手が夏南の頬に伸びる。そこで初めて、何時の間にか腰を浮かせ詰め寄るような姿勢になっていた自分に気付く。細く滑らかな指が頬を優しく撫でる、温かく心地がよい。
当たり前だ、この優しい手でこれから自分の幸せを紡いていくのだから。
「やはり私は、生きていてはいけないようです」
え、何を言っているんだ?
まるで龍の尾の一撃を受けたような衝撃が、鼓膜を中心に体を駆け巡った。
何を言ったのかもう一度聞こうと頬に置かれた手を握ろうとしたが、掴むよりも先に離れ今度は自身のスカートを固く握る。
「兄さんに命がけで守りたい人が居るように、私にもおります
その方がご自身の幸せを放棄する原因が私なら、この命と引き換えに開放せねばなりません」
夏南は弾かれたように、美冬のスカートを握る手を強引に掴んだ。大切な人が居る、その言葉に反応したのではない。大切な人の口から自殺する意志を聞かされ反射的に動いてしまったのだ、美冬の言葉全て咀嚼した訳ではない。
「死ぬなんて言わないでくれ
好きな男が出来たのなら、尚更幸せにならなくちゃいけない」
感情に任せて言葉を吐く、思考の伴わない言葉を正面から受け止めた美冬は驚いたのだろう、瞬きを忘れて大きく目を見開いた。
あれ?
俺が危険を冒すことと、美冬が好きな男の為に死ぬことになんの関係があるんだ?
「ずっと続けている挨拶の口づけ
兄さんは私以外の人としたことはありますか?」
少しの沈黙を経て、美冬が場違いな話題を口にした。
生き死にから挨拶へ会話が跳躍、夏南は美冬の意図が読めずに困惑した。
「するわけないだろう
あ、あれは、本当に親しくて大切な人とだけやるもんだ
だから、その、お前とだけだ」
曖昧にしていたままの感情と向き合って、夏南は自身の顔が熱を帯びるのを確かに感じる。
「わ、私も兄さんと同じです
本当に親しくて大切な人、幸せにしてあげたい人としかしておりません」
美冬はというと、薄暗いランプの明かりの中ではっきりと分かる程顔を上気させてこちらを見ていた。
柔らかな橙色の光の中でゆれる宝石のような瞳、そこには自分の姿がはっきりと移り込んでいた。その姿に、鏡を見る度に現れる頼りない男の面影は微塵もない。清水が織り成す揺れる水面の中で、力強くそして優しい顔でこちらを見ている。
買い被り過ぎだ、そこまで出来た人間ではない。そう言おうとしたが、胸に生まれた安心感に気付いて止める。故郷では次期党首として見られ、時に息苦しいほどの重圧に苛まれたが、美冬の視線からは確かな信頼を感じる。
意図せず遠ざけようとしていた女性は、いつも見守ってくれていたのだ。
あぁ、自分の幸せすら分からない男をこの1年見守り続けて、美冬はさぞ辛かったことだろう。
「美冬、お前の気持ちは分かった、ありがとう」
妹の存在の優しさに改めて触れ、感嘆の言葉が口をついて出た。
「では、もう危険な真似はなさらないのですね、兄さん!」
気持ちが通じた、そう確信した美冬の顔が一気に綻び、それまで覆っていた悲しみを洗い流した。幼い頃から何一つ変わらない笑顔に、夏南も思わず頬が緩む。美冬の手を握る右手を、今度は彼女が両手で握り返してくれた。
きっと二人が龍とは無縁の男女であったなら、自然に出会って普通の恋人同士になれたのあろう。
「美冬、俺のことは忘れてくれ
龍殺ししか能の無い男だ、幸せなんてお前の体を元に戻してその時命があったら考える」
今度は美冬の手を振り払った、優しく痛みを与えないように。
美冬の笑顔が一瞬でひび割れ跡形もなく砕け散る。彼女の気持ちに応えるふりをして裏切ったのだ、無理もない。激怒して頬を張ってこの部屋を出て行ってくれればいい、信頼を踏みにじったのだ二度と口もきいてくれないだろう。
「今日はもう遅い、自分の部屋に戻って早く寝るんだ
俺はこれから龍の根城に踏み込まなくちゃならない」
美冬の顔から表情が一気に消え、糸の切れた人形のように別途に両手をついて項垂れた。夏南は立ち上がる、無理やり立たせて部屋から美冬を追い出す為に。父のように愛するものを失う真似はしないと誓ったが身だが、今この瞬間美冬という女性を失ったのだ、これも龍に関わった者の辿る運命とでも言うのだろうか。
いや、この別離は美冬を生かす為だ。
喪失感の広がる胸に使命の火を灯し、戦いを控えた身を奮い立たせる。
胸の内が顔に出ぬよう無表情を装うと、美冬に立つように促した。しかし、彼女の体は人形と見紛うばかりに弛緩し、動く気配は無い。仕方なく力づくで追い出そうと、彼女の方に手を置いた、その時異変が起こった。
美冬が体を捩って方に置かれた手を振り払うと、僅かに緩んだ着物の襟と襟の間に右手を滑り込ませ一気に引き抜いた。するとランプの明かりの中、彼女の手に握られたそれが鋭く光った。しまった、夏南の脳がそれの正体に気付いた瞬間、稲妻の如き速さで動くとそれを掴んだ。
「放して下さい」
自らに向けたそれが止められ、美冬がこちらを睨んだ。
夏南は首を横に振るい拒否する。
それー短刀の刃を握る左手に痛みが走る、斬られた皮膚と肉の間から血が染みだし数滴が美冬の着物に染みを作った。
美冬は自らの喉を短刀で突こうとしたが、その切っ先は夏南の左手に阻止され、数センチの所で止まっている。
「死ぬ気でここに来たんだな」
自殺しようとした妹を前に怒りが沸いたが、口から出た言葉は感情と裏腹に酷く落ち着いたものであった。
恨めしそうに頷く美冬、短刀には未だに力が籠められ握る手を緩める事ができないことに、彼女の本気を感じる。
彼女をここまで追い詰めてしまった、手の痛み以上に後悔が押し寄せてくるが、ここで取り乱しては取り返しのつかないことになりかねない。
「もう少し勢いがあったなら、俺の指は今頃床に転がって、これは喉に突き刺ささっていたな」
短刀が僅かに揺れる、家事を熟す美冬の腕力にしては力が籠っていなかったことを指摘されて、動揺したのだろう。
幾ら覚悟出来ても死は恐怖を伴う、彼女は無意識に力を緩めたのだ、まだ死にたくはないと。
「放して下さい、出ないと本当に指が、指が……」
「お前の為なら俺の体などどうなってもいい
成功率の低い強化手術も受けた身だ、術識で治る指など今更失くしても惜しくはない」
短刀が小刻みに揺れる。
夏南は右手で美冬の体を優しく抱いた、頬を寄せると小さい嗚咽が聞こえた。
互いの為に命すら捨てることを厭わない兄妹。傍から見たら異常だろうが、肉親以上の情を抱き合っているのだ、理解を得ようとは思わない。何よりも大事なのはこれからだ、離れる事が傷つけることなら二人が取るべき選択はこれしかない。
「俺の傍に居て欲しい
二人なら、龍だろうが運命だろうが乗り越えられる筈だ」
短刀が床に落ちた、握っていた美冬の手は血で濡れるのも厭わず、俺の左手に指を絡めて来た。
正直痛いのだが、彼女はこんな傷以上の痛みを胸に抱えながらこの1年、馬鹿な兄の隠し事を見て見ぬ振りをしてくれたのだ、止めさせる訳にはいかない。
「これからは本当に一緒ですよ、兄さん」
美冬が泣き声の混じった声で答えてくれた。そこには安堵の色が混じっていた。互いの溝が埋まりこれで終わった、いやここからが始まりなのだろう。
一歩前進できた、その思いが夏南の胸に僅かな解放感を生んだ。
「痛!」
嬉しかったのだろう、美冬が左手を握る手に力を込めたので、思わず声を上げてしまった。
「いけない!
今すぐ治療いたします、術識に使う符を取ってまいりますのでお待ちください」
美冬は着物の内に忍ばせていた手ぬぐいを割くと、夏南の左手に巻き付け止血をした。残り半分で自分の手を拭うと、パタパタと部屋を出て行ってしまった。自分がしたことに気付いて気が動転しているのだろうが、いつもの美冬が戻ってきたみたいで夏南は安堵の息を漏らした。
さてと、治療を受ける前に短刀を隠さなければ。何かの折にまた自決されては元も子もない。夏南は短刀を取り上げると、それは母の形見と美冬が譲り受けた物であった。
「やはり、そうか」
ランプの明かりに刃をかざすと、唾から数センチの所に小さな紋様が彫られていた。
それは東国で対龍用の武具を作っていたある一族が、自らが生み出した製品に刻印していた模様であった。
イルタが持っていたメスには、これと同じ模様の一部が彫られていた。
「イルタが母の故郷を滅ぼしたのだろうか」
母はその一族から薬利家に嫁いできた。
一族全滅の報を父から聞かされ、泣き崩れた母の姿が今でも鮮明に思い出される。あれほど取り乱した母を夏南は見たことが無かった。助けられなかった父も酷く落ち込んでいて、当時一族の裏を知らなかった夏南も暫く暗澹たる気分で日常を送ったことを憶えている。
イルタの話全てが真実だと、夏南はおもってはいない。彼女の話し方は、相手を孤立させ取り込もうという恣意に満ちていた。母の生まれ故郷を滅ぼしたというなら、追い詰めて吐かせるしかない。
墓前にすら二度と立てないと思った母、その無念を晴らせる機会が不意に飛び込んで来た。多分これは母にしてやれる最後の行為だ。美冬に話せば動揺して戦場で命取りになりかねない。
夏南は一人覚悟を決めると、短刀に着いた血を拭い鞘に納める。
部屋の外から美冬の足音が近づいて来る。
深夜だというのに、廊下をまるではしゃぎ回る子犬のように鳴らす。
これから戦場に連れ出して大丈夫なのだろうか?
夏南の心配をよそに、扉が開くと息を切らせた美冬が飛び込んで来た。
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