第28話

「夏南、遅いね」

 美冬はテーブルに残された夏南分の夕飯を尻目に、この1時間の間に何度も繰り返した独り言を口にした。

彼女は今、薬局「彼岸堂」その奥にあるダイニングルームで夏南の帰りを待っていた。

陽は当に落ち、室内用のガス灯が放つ光にが狭い室内は照らされている。本を読むには十分な環境だが、今日に限ってそんな気にはなれなかった。手持無沙汰のまま、時折冷めた紅茶をスプーンでかき回して時間を浪費する。

「そうだな」

 対面に腰を下ろして新聞を読んでいるシィが、助手の独り言に答えを返した。

「その答え、これで5回目ですよ」

「そうだな」

「・・・今ので、6回目です」

 美冬は溜息を付いた、何度目かはもう数えてはいない。

 思い起こせば、今朝の夏南は珍しくまるで会社で働くような恰好をして、その顔は少し険しかった。

そんな兄が遅くなるとも言わず、夕飯の時間に帰って来ないとなれば、妹としては心配で好きな本を読んでも内容が頭に入って来ない。

テーブルの上に置かれたシャーレイの新刊の表紙を左手でなぞる。表紙の下の世界では、兄と妹が愛し合い結ばれる世界が記されている。だが、こちらの世界はお約束も何もない厳しい世界だ、兄が帰ってこないこともありえる。

本音を言うと私達と代わってほしい、それが過酷な重責を他人に押し付ける行為だとしても、願わずにはいられない。

それにしてもやはり、夏南は龍を追っているのだではないだろうか?

ここ数日の間に芽生えた疑惑が、ここに来て大きく膨れ上がるのをはっきりと自覚する。

二人でお使いに出た晩、そこで龍に遭遇してから兄の様子が何処かおかしい。

もう戦うような仕事はしない、この街に来てそう言ってくれた夏南だが、1年のブランクを感じさせない程の動きで私を守ってくれた。

夏南は私に嘘をついていた、そうとしか考えられない。

美冬は自身の考えに恐怖を覚え、頭を振って頭から追い出そうとした。

もう戦わないずっと美冬の傍に居る、そう約束してくれたのだ、妹の私が信じてあげなくてどうする。

夏南は私の体内にある龍の餌ー結晶を取り除く為に手を尽くしてくれているのだ、左手で自分の頬を叩いて自分を叱る。

テーブルの向こうから小さな笑い声、はっとなり物思いから現実に引き戻されると、シィの呆れ顔が新聞の端からこちらを覗いているのに気づいた。

家族といっても差し支えない身近な人間に痴態を見られ、耳が熱くなるのを感じ直ぐに顔を背けた。

仕事の失敗や自身の無知な所を見られるのはもう慣れたが、夏南絡みの行動は罪悪感や背徳感が混じっているので、些細なことでもまだ恥ずかしさを感じてしまう。

これは自分だけの感覚なのだろうか?

同じ女性であるシィ先生も、大切な人を思うと何か負の感情を感じることがあるのだろうか?

「シィ先生

あの大切な人って居るんですか?」

 思ったことが口から飛び出した、しまったと思った時には既に手遅れ、こちらに興味を失くし紅茶を飲もうとしていたシィが、時間が止まったように固まった。シィはゼンマイ仕掛けの人形みたいな動きで顔を上げ、怪訝な目でこちらを射抜いてきた。好きな人は居るんですか、きっと彼女にはそう聞こえたに違いない、イルタと暮らして1年彼女が恋愛に興味示したのは、恋愛小説がどんなものか知り田から貸して欲しいと言われたこと只一度、自分の質問は寝耳に水だろう。

耳に続いて頬に熱が熱くなる、きっと彼女は腹を抱えて笑うに違いない。

「お前に決まっているだろう

安心して傍に置ける助手など、美冬意外私は知らない」

 イルタの顔や声にこちらを馬鹿にするものは一切無く、研究に没頭する時に見せる真摯さが宿っていた。

「あ、ありがとうございます」

 意外な答えに美冬は頭が真っ白になり、感謝の言葉を口にしてしまった。兄の協力者の物知り博士から、1年共に働き師弟として信頼関係を気付けたのだ、思わず胸が熱くなる。あ、信頼されている、兄の協力者、彼女なら夏南が何をやっているか知っていて、聞けば嘘偽りなく答えてくれるのではないだろうか。

私の疑問に答えてくれるであろう存在は、直ぐ側に居たのだ、思わず顔を上げシィ先生を正面から見据え熱い目で見つめてしまう。

「どうした、これ以上の賛辞の言葉を望んでいるのか

それとも寝不足か何かで体調が悪いのか?」

 こちらの様子に何を思ったのか、シィ先生は紅茶を一口飲むと眉を顰めた。

夏南は何をしているんですか、シィ先生なら知って何か知ってますよね。

その言葉は胸の奥から、口に昇る事は無かった。

シィ先生なら夏南を知っている、その考えが持つある可能性に気付いてしまったからだ。

シィ先生は私が囚われていた牢を破壊する為に、夏南が偶然知り合い協力を仰いだ女性である。報酬は、東の国から遥か遠くの国にある薬屋の手伝いであった。夏南が薬利の一族から追われるリスクを伝えた上で、何度も頼み込んで協力して貰ったと聞いてはいたが、どう考えても危険と報酬が釣り合ってはおらず、殆どの人間は聞き流して逃げるはずである。

他人に対して常に素っ気ない彼女が夏南に肩入れをした、何か特別な感情があるのでないだろうか、私と同じように。

そうであれば、夏南の秘密を共有して私に話してくれないのではないだろうか?

尊敬の念から一転、胸の中に黒い感情が渦巻く、苦しい、確かめなれば。

「あの、その、では夏南のことをどう思っているのでしょうか」

 美冬は椅子から腰を浮かせテーブルから身を乗り出すと、まるでシィを問い詰めるような声を投げかけた。言われた本人には、何の事か意味不明な質問に聞こえただろう。しかし、追い詰められた美冬はそれに気づくことはなかった。

もしも、シィ先生が夏南を愛していたら、私はどうなってしまうのだろう。

「夏南?

あぁ、あやつは助手、見習いだ

便利な奴だ、何時までも命の恩人と遠慮せず、使い倒した方がいいぞ」

 シィはまるで薬の効能を説明するかのように、素っ気ない完全な事務口調で言った。

望んでいた答えに限りなく近い返答、私はほっと胸を撫でおろせる筈であった。

「夏南は便利な道具なんかじゃありません

私の大切な人です!」

 夏南を道具扱いされ美冬の中で何かが爆ぜた、二人の関係を疑う感情が一瞬で頭の中から吹き飛んでいく。

怒鳴られたシィは最初キョトンとしていたが、やがて新聞をテーブルの脇に置くと真剣な目をこちらに向けた。

あ、怒られる。

そう思った瞬間背筋が冷えて頭が瞬間冷却される。感情に任せて、何と失礼な事を口にしてしまったのだろうか。私は怖気づくと静々と椅子に腰を下ろした、怒りを我が身に受ける為に。

「さっきから一体何を言っているんだ?

落ち着いて、本題から話てほしい」

 シィ先生は美冬の予想とは反対に、怒るどころか冷静になって話してほしいと窘めてくれた。

 美冬は恥ずかしさで耳が赤くなることを自覚したが、深く深呼吸をすると意を決した。

ここまでしてくれる人なら、隠さずに答えてくれるはず。

「夏南は一体、私に内緒で何をしているのですか?

シィ先生なら何か知っているはずですよね」

 信頼する師の目を真正面から見据える。

ここ数日、夏南とシィ先生がコソコソ話している光景が脳裏に蘇る。

私たちは家族同然、後ろ暗い秘密はない、はずである。

 ダイニングは再び静寂に包まれ、疑惑が解かれるのを静かに待っているかのようであった。

「美冬君には関係の無い話だ」

 シィ先生はそう素っ気なく答えると、新聞を再び読み始めた、二の句もない。

 え、それだけ?

私は天地がひっくり返ったような錯覚に襲われよろめいた。

彼女は夏南の事情を知っていて、私が関係ないと判断したのだ。夏南にそう頼まれたのかもしれない。でも、この場で言わないと判断したのは紛れもないシィ先生の意思だ。

私たちは家族同然、先ほど胸の中で口にした言葉が急速に熱を失っていく。

「関係無いって、本当にそうなら私の耳に入っても別に問題点無いじゃないですか!

そうじゃなくて、二人で私に聞かれては困ることを話していたんじゃないんですか!」

 視界が滲む、何時の間にか美冬は泣いていた。

「何を向きになっているかは知らないが、ここ数日夏南から仕事の相談を受けただけだ

難しい仕事だが夏南ならやり遂げる、何かあれば私が支援するから安心しろ」

 シィ先生は、薬の相談を受け親身に応える時とまったく同じ顔で答えた。

普段の美冬ならここで引きさがっただろうが、溢れ出した負の感情は留まるどころか逆に荒海となり、疎外感に打ちのめされた美冬を一瞬にして飲み込んでしまった。

「やり遂げるって、まだ終わってないじゃないですか

話してください、私も夏南を手伝います」

 何故なら夏南を愛していますから。

流石にその言葉は口には出さなかったが、シィ先生に向けた視線にはその感情を乗せたつもりだ。

「例えばどんなことができる?

一介の薬屋助手が、外で働く男の役に立つとは思えんのだが」

 え!

 美冬はシィの答えに息を飲んだ。

シィ先生の目に悪意はない、ただ疑問をぶつけただけなのは分かる、だがその言葉は罵倒や侮蔑以上に美冬の心を切り裂いた。

手伝える、そう勢いで言ってしまったが、具体的な中身など考えてはいなかった。夏南の生活を支えて来たつもりだが、抱えている仕事に踏み込んだことはない。愛する夏南、その半分しか知らない、いや見せて貰えていない、ならそれはきっと。

美冬の頬を涙が伝う。

シィ先生は夏南の仕事について語った、二人の関係は男女のそれではないだろう。不安に駆られて関係を邪推した私は、何と汚れた心の持ち主なのだろう。

そして、夏南が命を懸けて挑む仕事、妹の私に話せず手伝う事もさせたくないものなど、一つしか思いつかない。

「あの夜出会った龍を追っているのですね」

 疑惑は確信を伴って口から出ると、ダイニングの中を当てもなく漂った。

 シィは何も言わない、言えない事情が何かは分からないが、彼女は秘密を軽々しく喋る人間ではない。彼女の判断を受け入れよう。美冬の疑惑が事実だとしたら、口止めされている彼女はこのままだんまりを決め込むだろう、それでいいのだ、後は謝って終わりにしよう。

美冬の予想通りシィは何も言わず、新聞を手に取り再び読み耽り始めた。

美冬はそんな彼女の態度に、知らず知らずの内に両ひざの上に置いた手がスカートをぎゅっと握りしめた。

家族や助手と大事にしても、夏南やシィ先生に取って美冬という人間は負担でしかないことがこれで分かった。

疎外された怒りや寂しさではなく、情けなさが激高が去った美冬の胸に広がった。

その時、ダイニングの壁に掛けられた発条時計が低く唸り声を上げた。時刻は夜の9時、

2時間以上不毛な会話をしていた計算になる。ちらりと横目で網傘が掛けられた夏南の夕食を見る、夏南が帰ってきたら温めなおさなければ。

もしも私が普通の体だったら、夏南は既に夕食を終え自室で好きな本を読んだ後は、ベッドの中で安らかな眠りを迎えるのだろう。

それは万に一つの可能性の無い世界だ、美冬の理性の指摘に、穏やかな世界は霧散する。

自分以外の誰かが龍の生贄だったら、夏南は薬利家の頭首を継ぎ、一族が龍に頼らぬよう父やその重臣達との政戦に挑んでいたと、その傍らで兄を見て来た美冬は断言できる。

夏南はきっとどんな世界であろうと、戦い続けるのだろう、己の信念の為に。

そんな人の爆弾となってまで生きる資格も価値も、どう考えても私には無い。

「きっと先生は夏南に協力を頼まれているのでしょう、私の中の結晶を取り除く為に

口外禁止も協力内容に含まれているのは分かってます」

 御免なさい、そう謝罪の言葉を付け加えてると、美冬は全ての元凶と言っても過言ではい自身の胸に手を当てた。

龍にとって最高の餌である結晶、それが心臓の直ぐ隣で静かに脈打っている、意識を集中すれば感じ取ることができる。今も美冬の生命力を吸い上げ成長し続けている。恐怖はもう感じない、いずれ体を食い破り龍の供物となるべく外へと飛び出す、その事実はあの牢の中でさんざん私を苦しめ、そして運命を受け入れた瞬間に心の痛覚が一つ死んだせいだろう。

今は故郷と多くの人を見捨てた事実、それを人に知られたら思う故と人と合う方が怖い。薬屋の店員としてなら人前に出られるが、それは客が個人的なことに踏み込まないことを知っているからだ。夏南が人に不用意に踏み込んで来る人はあんまりいないよ、そう言ってくれても罪の意識が私を掴んで離してはくれない。

だからこんな私には、結晶が許す時間だけ生きれればいいのだ。だが夏南は別だ、私の我が儘に付き合う必要はない。彼の人生は彼のものだ、死ぬまで寄り添う覚悟を決めていたが、それが彼を縛るのなら諦めなければなるまい。

この気持ちは胸の深いところに沈めてしまおう、そして曖昧なキスも御終い。

ううん、わたしがここから消えれば、夏南は自分の人生を生きれるはず。

一際大きな涙が頬を伝う。

「先生、私はね、残された時間を夏南と一緒に暮らせればそれで良かったの」

 涙が零れてスカートを濡らす。

さよならがこんなに辛いものだとは知らなかった。

一人で遠くに姿を隠せば、夏南は血眼で私を探し周るだろう。そんなことを夏南にはさせられない。そうさせない為には、完全に居なくなるしかない、それもこの世から永遠に。

「シィ先生、お願いがあります」

 美冬が決意が宿った凛とした声がダイニングに響き渡る。

これまで知らぬ存ぜぬと新聞を読んでいたシィが、こちらを覗き込むと怪訝そうな目を向けて来た。

最後に彼女の手を借りることは本当に申し訳ないが、私の血でこの部屋やロンディニウムの街を穢すことはしたくない。

「毒薬を一瓶ください。

人が簡単に死ねる・・・・・・」

「hdしゅc;lksんびひh!」

 その時、私の声を遮って人の言葉とは到底思えない叫び声が上がった。

 思わず耳を押さえる私、窓の外で野良犬と野良猫が奇声を上げて走り去る気配、そしてダイニングに舞う引き裂かれた新聞紙の破片、何が起こったのか叫び声に麻痺した脳では何も分からない。

私はテーブルの向こう側で、一人肩で息をしながら項垂れる女性を茫然と見続けるしかなかった。

「これだから人間はめんどくのだ

不条理、不合理、不協和音、不仲に不感症」

シィ先生がまるで幽鬼の様に振り乱した髪を手で掻き揚げると、そこには今にも牙を剥いて襲い掛かって来そうな剣幕の顔が覗き、私は思わず腰を引いてしまった。

彼女は声も出せない私を置き去りにして、一人倒した椅子を起こして座り、カップに指を入れて新聞紙の破片を摘み出すと、中の紅茶を一気に喉に流し込んだ。

「ストップ、美冬君

その先は口にしないでほしい、まず感情的にならずに落ち着いて話し合おう

さぁ君から話すんだ」

 シィ先生は先ほどの奇行が嘘のように、落ち着き払った様子で私に語り掛けて来た。

あ、今髪に絡まった新聞を手で払いましたよね。

「あ、あの、私が居ると夏南に迷惑がかかるので、その、毒を・・・・・・」

「ストップ、ストップ、美冬君」

「え、でも、今、話てと?」

「とーきーと、ばーあーい、後なーいーよーうーによる」

人差し指を突き出したシィ先生が、有無を言わさぬ返事を寄越した。

もう話を聞いてくれないという彼女なりの合図だ。

「まったく、東国人の気を回し過ぎる点は、未来永劫変わらないようだな

巻き込まれる身にもなってほしい、いい迷惑だ」

 眉間に皺を寄せてこちらを睨む、明らかに怒っている。

やはり私の存在は彼女に負担を掛けるのだろう。

「これで最後です、毒を一瓶・・・・・・」

ダン!

「そんな事をしてみろ、私は替えの効かない優秀な助手を失くし、そこら中に居る馬鹿の一人に、この星に居る限り追われ続けることになるんだぞ」

シィ先生は両手でテーブルを叩くと、身を乗り出して強く訴える。その目は恐怖に震えていた。馬鹿とは夏南の事だろう、彼に追われることに本気で怯えているのだ。

私が足元にも及ばない程の術識使いなのに。

「ご、ごめんなさい」

私は素直に謝った。

自分の事ばかり考えて、シィ先生のことを忘れていた自分が恥ずかしい。

「良いかい、美冬君

あの愚か者トップ1が命を危険に晒すのは、得られる物にそれだけの価値があるからだ

永世馬鹿代表のことを思うなら、愚劣・ザ・グレートにとって自分がどれ程大切なのか、今一度考えてみるんだ」

 美冬は絶句した。

自分が夏南の負担になっているとは感じていたが、彼が私の想像通りの事をしているなら、それは私を犠牲にして一族の党首になる事への反発感が、大きな動機だと思っていた。

知らず知らず唇を手で触れる。

荒れ切った胸が静まり、温かさが込み上げてくる。

子供の遊びの延長線上のキスの感覚を反芻する、薄々感じていた夏南の気持ち。男女のそれと受け取ってーいや受け取り続けていいのだろうか。シィ先生聞いてみようか、一瞬考えたが彼女は私達二人の事情は知っていても、互いに対する感情までは把握していない、はっきりとさせるまで相談するべきではない。

「その顔、少しは冷静に考えたようだな

今の言葉は聞かなかった事にしておく、以後死んでも死にたい何て口にしないでくれ」

気が付くと、シィ先生の顔から険しさが消えていた。

「私は君を優秀な助手だと思っているが、それ以前に家族同然と思って接している

これも海馬に刻み込んでおいてくれ、二度とは言いたくない」

そして、照れ臭そうに自分も大切に思っている事を付け加えてくれた。

普段の彼女からは考えられない言動に、私は冷や水を掛けられ一層冷静になると、一人で暴走してとんでもないことをしようとした自分が急に恥ずかしくなった。

「ごめんなさい」

 しばしの沈黙の後、美冬は勇気を振り絞って謝罪の言葉を口にした。

「君に非は少しはあるが、そこまで追い詰めたのは夏南だ、あいつが前面的に悪い」

心底うんざりしたのだろう、シィ先生は吐き捨てるように兄を非難した。

胸に小さな痛みが走った、この感覚は怒り?

「はい、悪いと思います

でも、先生も謝って下さい」

「は?何にだ美冬君」

「夏南を色々なあだ名で馬鹿にしました」

ガシャン!

信じられ無いものを見たような表情を先生は一瞬浮かべると、何故かその顔をテーブルに叩きつけた。

私の目の前に置かれたカップが振動で揺れ、零れた紅茶がテーブルを濡らすが、奇行を見せた先生から目が離せない。

「もう限界だ、もう限界だ、もう限界だ、頑張ったね私、ゴールはここ

お疲れ様シィ・スゥーアン先生、それと夏南さん、ごめんなさい」

顔を上げた先生の額の中心が赤く腫れあがっている、良かった鼻をぶつけたのではなくて。

「まったく、遠い親戚同士と聞いていたが、こう互いの事になると向きになる姿は兄妹みたいだな

夏南の件は謝罪する、すまなかった」

満身創痍としか言いようの無い先生の顔は気になったが、それ以上に兄妹という単語に胸を鷲掴みにされたような錯覚に陥り、夏南についてシィが謝った言葉が耳に入って来なかった。

私が夏南と血が繋がっていると知れば、互いが抱く感情が男女のものなら、幾らシィ先生でも軽蔑するだろう。

彼女は医学の知識がある、兄妹で子をなせば奇形児が生まれる可能性が高いことを知っているだろうからだ。

「夏南の秘密については、美冬君に隠し通せるところまでは守るというのが約定だ

今この瞬間がそれだと判断するので全てを話す、いいかい美冬君?」

「は、はい!」

 私は上ずった声で答えると、椅子に座りなおしてシィ先生に顔を向ける。

先ほどまで死ぬ気でいたのに、夏南の思いに気付いた途端、彼の子を産む妄想をしてしまう私の何と浅ましいのだろう。

「美冬君が今口にした疑問は全て事実だ

あの馬鹿は、この街に龍を持ち込んだ人間が居るという考えに基づいて、今方々を駆けずり回っている」

 シィ先生は心底うんざりした口調で私の疑惑を認めた。人に物を説明する態度としてはどうかと思うが、言葉の端に疲れた様子が垣間見える。夏南は強引な所があり、きっと先生は我慢して付き合ってくれたのだろう

ごめんなさいと胸の中で一人謝っておく。

 先生は続けて夏南がこの1年、私に嘘をついて結晶を体内から取り除く方法を探していた事も話してくれた。シィ先生は捜査過程で手に入った術具や薬剤と引き換えに、知識を貸していたのだという。私は思わず息を飲んだ、二人は自分を外の世界に連れ出してくれた他に、生きる時間を与えようとしてくれていたのだ。

勝手に死のうとした自分が改めて恥ずかしく思えた。

「私はビジネスと個人的な興味を満たすために夏南に協力している、気に病む必要ない」

思ったことが顔に出たのか、シィ先生が気遣うような言葉をかけてくれた。

 次に話は今夏南が追っている龍について、より詳しい内容へと移っていった。

この街でここ数か月の間に、人が前触れなく居なくなり人の仕業と思えない残忍な方法で殺される事件が起こっているという。警察とその上層部は事件を王党派の議員が関わっていると断定、事件を秘匿し捜査を進めているという。リリムが話してくれた行方不明事件もその事件に関係していて、正導教会は独自に調査をしているのだという。

「それで夏南は、リリムさんに協力しているのですね」

薬屋の奥で店番をしている私にとって、政治や役人の世界は雲の上の世界にも等しく想像もつかない。だが、故郷で生贄になろうとしていた経験から、人の命を平気で犠牲して生きながらえる組織があることは知っている。そんな世界に兄が居るのは心配である、しかし信頼できるリリムさんが側にいてくれるのなら、幾らかは安心できるというものだ。

私の夏南に手を出さないかだけが心配だけど。

「いや、夏南には私が個人的に付き合いのある連中が付いている

この国の政治や何やらに翻弄されてきた奴らだ、化け物の存在を秘匿する為なら目撃者すら平気で消す奴らよりは信用できる」

 だから安心していい、シィ先生は私の目を正面から見据えて夏南の安全を訴えた。

私は頷いて答えた。

一番の脅威である龍について先生は何も口にしなかったのは気になるが、慎重な彼女のことだ詳しいことはまだ調査中なのだろう。

「話は以上だ、詳しいことは帰ったら夏南に聞くといい」

そういうと、先生は急に頭を下げた。

「話した通り、美冬君の体内にある結晶の対処方はまだ見つかっていない

それについては以後も私の力の及ぶ限り協力するつもりだ

夏南とのこともあるが、君の延命を確約できないことを改めて謝罪する」

私は普段と違う先生の姿を目にして目が点になったが、直ぐに頭を上げて欲しいと言った。無理難題ということは理解している。結晶を取り除く方法を今も探してくれている、それだけで私の方が謝らねばならない、彼女に何の非もない。

何度も止めてと頼み込んで、先生はようやく頭を上げてくれた。合理主義的を自称してはいるが、変なところで頑になることが多い人だ。夏南に似ている、きっとそんなところが二人を結び付けたのだろう、本人達がどう思っているかは知らないが、少し羨ましい。

シィ先生は席に着くと紅茶のおかわりを申し出た。私は直ぐに湯を沸かし、ティーポットにあらかじめ入れて置いた茶葉の上から注ぐ。何の事はない日常の動作、この数時間情報と感情の嵐に揉まれ疲弊した私の心が少しだけ楽になったような気がした。

夏南は今もこの夜の中走り回っているのだろうか、キッチンの窓から外を覗くが兄が居る筈もなく、裏庭を囲む壁と星空しか見えなかった。

「スッキリした、これで幾らか寝つきが良くなる」

 ダイニングに戻って二人分の紅茶を注ぐと、一口飲んだシィ先生が深いため息を漏らした。その表情からは険が取れ幾分穏やかに見えた。改めて夏南と私が負担を掛けていたことを思い知る、何時か何かの形でお礼をしなければいけないだろう。

私も席に腰を下ろすして、淹れたての紅茶で渇いた喉を潤す。チラリとテーブルの端に置かれた夏南の夕食に目を移す。どういう理由であれ私に嘘をついていた夏南には言いたいことはある、しかし帰って来たら温め直してお腹一杯にしてあげたい、それからお香を焚いて一緒に寝てもあげたい。

1年分の感謝にしてはささやかだが、足りない分はこれから考えることにしよう。

「それで美冬君、もう何をするか考えたかい?」

 え!

「は、はぃ~」

美冬は突然話しかけられて、上ずった情けない声を上げた。夏南と一緒に寝ようとしていることを感づかれたと、驚いたからだ。年頃の男女が一緒に寝ていることを先生は良く思わないだろう、時々一緒に寝ていることは夏南と私の秘密である。

「ええと、今のは無しで

一体何のことを仰っているのですか?」

人の秘密を暴いたのに、自分の秘密は隠す。

後ろめたい罪悪感に襲われたが、苦渋を飲んでとぼけることにした。

「龍討伐は基本、壁役や術識攻撃役など複数のロールを設けて集団で当たるのが定石だと聞いている

夏南は今単独で龍を追っている、幾ら専門家である薬利家の人間でも戦いになったら苦戦するだろう」

シィ先生はそこまで言うと押し黙った。

持ち上げかけたカップが乾いた音を立てる、先生の言いたい事は直ぐに分かった、分かったからこそ体が動かなくなる。

先生は何も言わず、私の目を射抜くように見つめる。

彼女は私が覚悟を決めるの待っているのだ。

このまま薬屋の助手だけでいるのか、それとも夏南と一緒に戦うのか。

逐電したとはいえ薬利家の娘、最低限の術識はわきまえている。前線で戦う夏南の補助位は出来るだろう、あの龍と遭遇した夜の様に。でもそれは一歩間違えれば私が龍に喰われて、手に負えない強力な存在へと変容されてしまう危険を孕む。

夏南の役に立ちたい、けれど負担にはなりたくない。

二つの感情が胸の中でせめぎ合う。

「改めて問う

美冬君はどうする?」

大きく息を吸い込む、唇を指でなぞり夏南のキスの感触を反芻する。

私の大切なものは生まれた時から決まっている、なら答えは一つしかない。

「私は・・・・・・」

夜のダイニングに、美冬の固い決意が声となって響き渡った。

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