第27話
単なる水だと?
夏南は頬にはねた謎の液体を指で拭うと、鼻先に持って来た。滑っていて泥のような臭いがする。川の水だ、土手の上の歩道に倒れこんでいた夏南は、倒壊した橋へと振り返った。
イルタは術識で精製した毒液を降らせたのではなかく、目の前の川から水を吸い上げ一斉に降らせたのだ。その証拠に、先ほどまでイルタと戦っていた眼下の草原で、小さな魚が跳ねているのが確認できた。まんまと騙されたか、単なる水に怯え土手を獣のように駆け上がった我が身を振り返ると、情けなくて思わず笑いそうになってしまう。
もう一度、草原に目を向けると案の定、イルタの姿は氷の壁諸共姿かたちも無くなっている。気配も感じない、逃げた、いや目的を達成して引いたのだろう。だとすれば、この雨は攻撃ではなく、目くらまし兼証拠隠滅の為に降らせたのだろう。
濡れた草に足を取られないように注意しながら土手を降りると、周囲一帯にまき散らされていた龍の血は、奇麗さっぱり洗い流されていた。
夜が明けて事情を知らない第三者が警察に通報しても、この様子では化け物絡みの事件として上に報告はまず行かないだろう。橋の倒壊と合わせて化け物絡みと、警察上層部が判断してもイルタへ繋がる痕跡は何もない。あの女はこうやってこれまでの事件から、自分へ繋がる痕跡を消していったのだろう。
だとしたら何故、自分は無事なのだろうか?
夏南は持っている短刀を鞘に収めると、今の自分の姿を改めて確認する。スラックスとシャツは泥と水に濡れ肌に張り付き、不快感を押し付けて来る。体の方はというと、攻撃を受け破れた衣服の裂け目を血で染めているが、どれも出血は少なく骨折や内臓破裂とは程遠い軽傷、試しに軽く体を動かしても体の内側から何の痛みも感じない。
やはり誘われているのだろう。
目的は未だ不明だが、彼女は出会いから一貫して夏南に決断と行動を促してきた。昼間は、庇護が必要な家族を切り捨てさせようとした。ならばこの夜に起こした行動は、張り込まれていると気づきながら、連続失踪殺人事件の犯行の瞬間を敢えて目撃させ消える、これは追ってこいというメッセージだろう。
幾ら人間だとて、龍殺しは人に仇名す龍に与する者と知れば容赦無くその命を奪う。龍殺しの家名を口にして、それを知らぬというのは考えられない。悔しい話だが龍や化け物とばかり戦闘経験を積んできたので、急に命乞いをされてると先ほどのように戸惑ってしまう、その付け入る隙を前にしながら彼女は引いたのだ、これだけ証拠が揃えば間違いないだろう。
龍殺しを確実に殺せる罠を用意しているのか、もしくは、
「どちらが狩人でどちらが獲物か、証明したいのか」
夏南は短刀の鞘を指でなぞる。
最後に食らわせた一撃、あばら骨に阻まれる事無く皮膚とその下の腸を深々と切り裂いたことは、刀身にべったりと付着し乾いた乾き始めた龍の血、その上に新たに塗られた鮮血が証明していた。
術識使いなら感染症や出血多量を避ける為に、術識で即治療を行うはずだが、斬りつけてから今に至るまで術識が発動した気配はない。
「この国に来れば、運命を変えられると思ったのにな」
イルタの犯人とは別な正体が胸の中で確信に変わると、過去の自分が目指して縋った楽観的な見通しの甘さを現実に殴られたような気がして、吐かぬようにしていた自嘲が言葉となって口から漏れた。
気が付くと東の空が僅かに白み始めていた。
人が活動を始める時間が直ぐ目の前に迫っているのだ。
夏南は橋の袂に放り投げた鞄を回収すると、急ぎその場を離れた。
今からロンディニウムに帰れば確実に美冬に見つかる、何と言えばいいのだろう。
戦闘がもたらした高揚感が抜けると、事件とは入れ替わるように日常の問題が浮かび上がって来た。
1年前はこの街へ向かう自分の胸には、不安の粒子が混じった希望だけがあった。
しかし、今の自分には妹への言い訳を考えることへの罪悪感と、これからある決断を下さなければいけない重圧しか感じられなかった。
やがて空は明るさを増した陽の光で徐々に染まり、月と星々をその中へと飲み込んでいった。
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