第26話

口に入った龍の血を唾と一緒に吐き捨てると、夏南は短刀を取り出した鞄を後方へと放り投げた。状況は不明、だが目の前で女の体を割いて龍が生まれたのは事実だ。抜きはらった鞘をベルトに引っ掛け、そのまま構えを取って大きく息を吸い込む。

生後間もないのなら鱗はまだ柔らかい、今なら短刀一本でも倒すことが可能だ。吸い込んだ血の臭いが脳内にアドレナリンを増加させ、身体機能抑制術識を全て停止する。夏南は橋を思いっきり蹴ると龍へと瞬時に肉薄、まだ濡れている龍の胴体へ短刀の柄の底を叩き込んだ。

成人男性の足程の太さしかない龍の子は、突如襲った衝撃に抗うすべもなく、悲鳴を上げてランプの明かりの外へと吹き飛んでいった。

夏南は龍を倒す絶好の機会を潰した事に歯噛みすると、その場に倒れている女性へと駆け寄った。

「大丈夫か!」

 割けた腹から腸や子宮がはみ出している、先ほどまき散らした血の量からいって、今すぐ高度な医療術識者と国営病院クラスの設備が必要だ、間に合わない。

 女の口が微かに動いた、何か言葉を発しようとしているが、肺もダメージを受けたのか、ヒューという風音にしかならない。

 女の手が上がり夏南が地面に置いた手を掴む。

「て、天使、さ、ま、私の子を……」

握り返そうとした瞬間女の手が緩んだ、もう何も掴むことはないだろう。

夏南は周囲を見回した、女は最後に自分の事ではなくお腹の子を案じた、応えねばなるまい。

「子供は何処だ!」

 女の周囲一面は悍ましい血だまりとなっており、破裂した内臓片や衣服の一部が極小の島群のように散らばっている。

女の子供は、龍が生まれた衝撃でその中の一部となってしまったのだろうか。

「殴っておいて心配するなんて、秋さんは結構酷い人なのかしら」

血なまぐさい場にはそぐわない悠長な声が、夏南の鼓膜を撫でた。

急に夏南ー彼女にとっては記者の秋が現れたというのに、驚いている様子は微塵も感じない、予め尾行に気付いたのだろう。

「どういう意味だ!」

声の主、イルタへ吠えた。

張り上げた怒号は、こちらを遠巻きに眺める血濡れた女を打ち抜いた、はずであった。

「言葉通りの意味よ

病院が汚れないようにせっかく川まで来たのに、あと少しところで生むのを我慢できないなんて、やっぱり人間て我慢弱い生き物なのかしら」

イルタは小首を傾げると、夏南が殴り飛ばした龍の子へと近づいて「そう思わない?」と、同意を求めるように声を掛けた。

「言葉遊びは止めろ

この女の子は何処へ行ったと聞いている!」

 その質問の答えは半ば想像が付いていたが、聞かずにはいられなかった。

「今生まれたこの龍の子が、ナイの子供よ

女ならサラ、男ならケインドにしたいと言っていたわ」

イルタが龍の子に手を当てると、そこを中心に大気が震える気配を感じた。

術識か、だがこの術量は一体なんだ!

イルタの右手が術識を放つ、その構成は人が使うものよりも明らかに複雑な構成をしている、適性が無いに等しい夏南には、生体細胞に作用する何らかの術識であることしか分からない。

女ーナイの死体を放置するのは気が引けたが、夏南は後方へと跳んだ。

最悪、生き物を分子分解するような術識を発動されたら、防御術識を張れない夏南などひとたまりもないない。

「笑っちゃうわね、サラ

秋さんは私の治療が怖いみたい、お注射が嫌いなのかしら?」

 警戒態勢に入った夏南をイルタは一笑すると、龍の赤子の体が大きく跳ねた。

治療の術識だ、代謝を促進したのか幹細胞を刺激して損傷した部位を瞬時に再生させたのだろう。

致命傷から蘇生された龍の赤子は、とぐろを巻くと飼いならされた犬のように頭をイルタに差し出し、命を救ってくれた右手の愛撫を受ける。

それにしても凄まじい術量と構成だ、術識使用者の頂点、高登域術識士クラスの治癒術だ。

これなら、夏南の悍ましい予想を現実のものにするのも簡単だろう。

「胎児をバラシて龍に組み替えたのか?」

 東国の術識理論では既に存在しており、夏南の受けた人体改造も一部にそれが使われている。それは高度な術識で、複数の高練度術者が念入りな下準備をした後に行われるものである。それが今、目の前で背中をさするように簡単に行使されたのである、正直理解が追い付かない。

「それは秘密よ

手品の種が知りたかったら、この場を生き延びなさい」

イルタの右手がコートの内側から小さな玉のような物を取り出すと、龍の子の口へと近づけ開かれた咢の奥へと押し入れる。

「そしたら、あなたの種と交換で教えてあげる」

種、何のことだ?

イルタの言葉に一瞬気を取られた隙に、彼女の手が持っていたランプを橋の下へと投げ捨てた、周囲が闇にのまれ彼女が後退する気配を感じた。

「待て!」

 離れていく人間にかける常套句が、無駄だと分かっていても口から飛び出した。

追いかけようと身を乗り出した瞬間、置き去りにされた龍の子の体が、負荷に耐えられずに切れたワイヤーのように橋の上で激しく跳ねまわり始めた。

 異常はそれだけに留まらず、のたうち回る度に龍の体が膨れ上がり、まだ乾ききっていない皮膚を突き破る。それは一度や二度では終わらなかった。まるで龍が成長する歳月を圧縮したかのように次々と繰り返され、脱皮の度に一段と高くなる悲鳴が、自然の法則に反した異常な事態だと訴えるように大気を揺らし続ける。

今止めなければ危険だ、そう本能が訴えては来るが、龍が振るう頭部と尾は無秩序に振られる極太の鞭に等しく、手元の短刀ではこの状況で急所を突くのは難しく動けない。

運よく龍に接近できても、闇に紛れこちらを窺っているイルタの術識攻撃で確実に隙を突かれる。

不利な二択をかけられ、夏南はただ龍の異常な成長を見守るしかなかった。

暴れる龍に木製の橋が、大型の地震に晒されたかと錯覚する程軋みを上げ始める。龍の周囲は頭部と尾に何度も叩きつけられ崩壊寸前。龍が橋の崩壊にのまれたところで攻撃開始、そう腹を括った夏南をあざ笑うかのように、龍の体が徐々に動きを緩め最後に頭部を橋に叩きつけて完全に停止した。

 死んだのだろうか?

幾ら龍とは言え、赤子が常軌を逸した成長を遂げて大丈夫だとは思えない。

夏南は龍の生死を確認しようと世闇に目を凝らしたが、折り悪く何処からともなく流れて来た雲が、唯一の光源である月を覆い隠してしまいはっきりとは分からない。

目だけを空に向ける、上空には幾つも雲が浮かび風に乗って移動していた、これでは次に月の光が射しても、また直ぐに遮られれてしまうだろう。

短刀を構えゆっきりと前に進む、危険だが近いて確認するしかない。一歩進むごとに龍の輪郭がはっきりと見えて来る。間近で見た時は大樹の枝程の太さだった体は、この短時間で都市部の地下を這う水道官程度の太さへと変容していた。両目は閉じられ、弛緩した口元からは先が二股に割れた下がはみ出している。死んでいるのか気を失っているのか判断できないが、脳に致命傷を負わせれば無力化できる、龍の鱗の繋ぎ目が月明かりでもはっきり見えるとの距離で止まり、夏南は短刀を掲げた。

振り下ろす瞬間、それに呼応するかのように龍の二つの瞼がパックリと割れ、見る者を圧倒する怒気を孕んだ赤玉を月明かりに晒さらす。赤玉の中心で黒い瞳孔素早く動いた。目が合った、そう感じた瞬間、夏南は体は橋を蹴り後方へと跳んでいた。

入れ替わるように龍の開いた顎が、夏南が立っていた場所を抉り、木片をまき散らした。術識も予備動作も必要とせずに、龍がその身に宿した強靭な筋肉だけ致死の一撃を放ったのだ。やはりもう赤子の龍ではない、夏南は認識を改めると、空中から龍の体を瞬時に計測する。

体長は約25メルトル、1トゥンキログラムはあるだろう。髭や鬣と手足は無く、赤い目から察するに水生の龍の一種だろう。年齢は100歳から300歳、第二次成長期を迎えていない若い水龍だ。

瞳孔を広げ光受容細胞である視細胞の感度を上げて得た視覚情報から判断、着地と同時に距離を詰めようと短刀を胸の前で構える。

橋が近づいてくる、夏南は着地の衝撃を和らげる為の態勢に入った。

それを理解したであろう水龍が、橋を蹴ってこちらに向かって跳躍する。

その動きは夏南の予想の範疇、故にカウンター攻撃を決める為に短刀を構えたのだ。

飢えに狂う赤い二つの瞳が迫る。

急激な成長で使い果たしたであろう栄養素を、直ぐに補わねば飢え死にするであろう、放つ殺気には生に対する渇望が混ざり迫力を増していた。

その水龍の口から異様な気配が放たれ、端から何かの液体が漏れ、空中に尾を引いている、毒液だろう。筋肉や神経を麻痺させ解かす毒液を獲物に注入、その後自らが最も得意とする水中へ引きずり込むのが、多くの水龍が取る捕食行動である。

靴底と床板がぶつかる、着地の衝撃を抑制する為に膝を折る、空を見上げると高速で迫る龍の大きく開け放たれ口から白磁の牙が伸び、こちらに向かって投槍の如く迫っているのが見えた。

畳んだで強力な発条となった脚を開放、迫る龍の鱗の模様が月下でもはっきり見える程肉薄、間一髪のところでもう一度後方へと逃れる。

ドン!!

龍は勢いよく橋に激突、まるで雷が落ちたかのような音を鳴り響かせた。着地をした夏南の体が振動で大きく揺れる、マズい。再度後方へと跳び橋から降りると、経年劣化と先ほど龍が暴れ回った衝撃で、耐久力の限界を迎えていたであろう橋が、煙と木片とまき散らしながら倒壊し始めた。

しまった、夏南は龍とイルタの攻撃に気を取られ、女性の遺体を橋の上に残してしまったことを思い出し、無駄とは分かっていても慌てて手を伸ばした。

この国の人間は緊急時に、生存者は助けるが遺体の回収は基本行わないが、その習慣に馴染めていない夏南は一瞬それに意識を奪われてしまった。

突き出した左手の向こうで、崩れゆく橋が上げた煙を突き破って何かが飛び出して来た。

イルタの術識か!?

訝しがる夏南だが、直ぐにそれが龍だと分かると左へと跳んだ。

落下後、巨体に似合わぬ素早さで落ち行く橋を足場に跳躍したのだ。

夏南と龍はもう一度空中で交差、飢えた赤い目が直ぐ隣を通過、それに続く胴体へ体の回転を乗せた上から下への斬撃を放つ。

浅い!

腰の入り切ってはいない咄嗟の一撃は、龍の鱗を切り裂いたものの、その奥にある強靭な筋肉を断ち骨や臓器には届くことはなかった。

龍の頭部が砲弾の如く着弾、地面を抉り土煙をそこら中にまき散らした。

夏南は空中で更に体を捻り地面を転がる、お返しの一撃である龍の尾の先が、直前まで居た空間を通り過ぎ地面を打った。

無理な姿勢で落下したがダメージは軽微、そう判断すると夏南は素早く立ち上がった。

肩越しに背後の橋の向こうを確認、この短い時間に確実に隙を晒したが、イルタの攻撃は何一つ無かった。龍の勝利を信じて引いた、そう分かりやすい理由で動く女ではない。正体不明の水龍の相手をしながら、高登域術識者の気配に警戒もしなければいけないとは、短刀一本でこなすには少々荷が重い。

正面に視線を戻すと、土煙の向こうで龍がとぐろを巻こうとしているのが見えた。

夏南は地面を蹴って失踪、移動先を読ませないようジグザクに動くと、それに合わせて龍の顔が振り子のように揺れる。

龍との距離が5メルトル程の至近距離に踏み込むと、斬ると見せかけて右足で地面を蹴り龍の右側面へと高速で移動する。

予想外の動きに龍の反応が一瞬送れる、読み通りの動きだ、夏南は地面を蹴り自身を龍を狙う砲弾と化す。

左ひじの隣に水平に寝かせた短刀が月下に煌めく。狙うは龍の喉笛、首の付け根だ幾ら強靭な筋肉を有してしても、間接までは守れない。夏南の狙いに気付いた龍は擡げていた首を引いたが遅かった、移動した距離は短刀を握る腕が伸ばされた事で相殺、左首の鱗が裂け鮮血をまき散らした。

薄い手応えに夏南は振り返った、龍の咄嗟の回避が短刀の切っ先から喉を守ったのに気付いたからだ。

闇に紛れた龍の口から前回とは違う異様な気配が漏れた、喰われるだけと思った餌が致死の一撃を放ったのだ、激高するのは当然だろう。

夏南は着地すると弧を描いて再び龍と向かい合う、龍が飛び込んでくるのなら紙一重でかわして脳を破壊するまでだ。

しかし龍が跳躍する気配はない、ただ口内で発動している術識だけが異様に膨れ上がり、それが毒液以上の危険な術識であるという告げている。

その時、龍を風上に一陣の風が吹き抜けた。

自ら浴びた人の血液の臭いになれた鼻に、風は湯薬のような生臭いを運び、真冬のような冷たさで戦闘で発した熱を奪い去って行った。

真冬?

夏南は龍の口の周囲に目を凝らすと、無数の何かが夜光虫のように浮遊しながら小さく月光を反射しているのが見えた。

夏南は走った、龍へではなく歩道脇の草原へと逃げ込む為に。

理由は不明だが、前回遭遇した龍よりも目の前の個体は明らかに進化している。

以前の龍は水系統の攻撃しかしてこなかった。しかし、今目の前に居る存在は水に加えて冷気まで操っている。水と冷気、この二つが合わさる攻撃なんて一つしかない。

氷だ、距離があり視界が不良なら氷の雨を降らせてくるだろう。

土手の上から傾斜を走り抜ける背後で、風を切る音と何がが地面に突き刺さる音が次々と聞こえる。

人間の使う冷系術識ー氷連に相当する術識だろう。最新鋭の軍事兵器である戦車、その砲弾に等しき口径の氷を連続で放射する術識だ。術識で防ぐなら高温の炎の壁か術識干渉で相殺、物理なら要塞などの外壁に用いられる複合装甲クラスの盾が必要だ。

一介の薬屋の居候でしかない夏南は、そのどれも持ち合わせてはいない。

夜の草原に大質量の砲撃により抉られた土が、夏南が駆け抜けた線をなぞるように次々と上がる。

狙いは撃つごとにこちらの動きに対応して近づいてくるが、夏南はランダムに走る向きを変えて引き離す。

当たらないと分かったのだろう、氷の雨がぴたりと止んだ。

土手の上で鎌首を擡げていた龍が、胴を畳み姿勢を低く取るのが見えた。来る、夏南はとは反対方向へ移動を開始。逃がすまいと、龍が土手の上からその下の草原へと跳ぶとんだ。

龍の巨体が今夜何度目かの落下を迎える、振動と音は隙間なく這えるイネ科の植物が吸収したので、以前よりも小さかったが、闇夜の中でも落下地点は直ぐに分かった。しかし、その巨体は風に揺られ稲穂に殆ど埋まり、遠目だと殆ど肉眼で確認できなくなってしまった。一瞬にして地の利が龍に傾く、夏南の姿は目視出来なくとも、退化したとはいえ未だにその体に残る温度感知器官を使えば、人間一人をこの稲穂の海原から追い立てるのは簡単なことだろう。

夏南は土手へと続く歩道へ方向転換、背後で草原が不自然に大きな音を鳴らした。

その音は勢いよく夏南へと近づいてくる、植物が地面との摩擦を軽減してくれるのだろうか、夏南が走るよりも速く追跡して来る。

歩道との距離があともう5メルトルというところで、背後から背筋が一瞬で凍り付く程の殺気が一気に膨れ上がるのを感じ、地面を蹴って宙へと飛翔する夏南。

眼下を攻城用の破城槌となった龍が通り過ぎ、土が盛られ一段高くなった歩道に激突し破壊する。

それを最後まで見届けることなく、夏南は空中で回転、逆手に構えた右手を左手でしっかりと固定すると、重力に従って落下龍の尾の先へと刃を突き立てる。

シャー!

龍の喉から苦悶の悲鳴が夜空に上がる。

痛みに龍が尾を振り回す直前、夏南の手首が回転し短刀が鱗とその下の肉を抉り、鮮血をまき散らす。

夏南は後方へと素早く跳び龍が振り回す鉄鞭を回避。

 着地と同時に、不快感を殺して先ほど手に入れた切り札を、スラックスのポケットに押し込める。

「龍種の生息地域の外で、人為的に異常な方法で生み出された龍よ

恨むなら龍殺しの俺一人を恨め」

痛みで荒れ狂う龍へと、夏南は覚悟を乗せた言葉を言い放った、無論相手が人語を理解していないことは分かっている。

短時間で体は成長しても精神は赤子同然なのだ、ある程度経験を積んだ龍なら獲物を前に痛みに気を取られるようなことはしない。

人一人殺して生まれて来たのは罪だ、だが龍の生息域で生まれていれば人の血の味を憶えることも無く、人の手で殺される運命に晒されることは無かっただろう。

あの晩、助けを求める龍の為に泣いた美冬の顔を胸の奥底へとしまい込む。

「来い!」

 夏南の雄たけびが夜の澄んだ空気を叩き、龍の悲鳴を一瞬かき消した。

 それに応えるように龍の動きが止まり、体を折り畳み発条として力を蓄え、自身に傷を負わせた憎き獲物へと発射する。

龍が大口を開けその口内で本能に刻まれた術識を二連続発動ー水龍が好んで使う運動神経の働きを阻害するβ-ブンガロトキシン系と筋肉遺伝子に作用して自死させるミオトキン種系の毒が恒常発動、突き出した牙を濡らす。

二種類の毒が互いに干渉する可能性が抜け落ちた攻撃だが、龍のデタラメな出力で生み出された毒だ。並みの術者が生む毒よりも精度は高い。噛まれたらショック死、もしくは体の自由を奪われ、その後確実に丸のみにさえてしまうだろう。

龍は既に眼前、逃げるとう選択肢は命よりも先に龍の口へと飲み込まれていた。迫りくる死、夏南は怖気ずくことなく足と足を浅く開いて迎え撃つ。牙と刃、その二つがぶつかる直前、夏南の体が横に素早く移動、逃すまいと龍が顔を90度回転、首の動かし追い縋る。

夏南は左足を軸に半弧を草原に描くと、背中越しに龍の顎先を短刀で突いた。

「キシャー!」

龍の悲鳴が高速で背面左へと遠ざかっていき、その直後地面が大槌で叩かれたような爆音が大気を伝い鼓膜を揺さぶった。

 浅かったか。

夏南は通り抜けた龍へと向き直り、胸の前で構えた短刀を月明かりに照らす。龍の血は切っ先から刀身の中ほどまで濡らしている。開かれた口の顎先に短刀を刺したが一度抜けてしまった、再び刺した先は胴体で、狙う筈であった喉には何のダメージも与えてはいなかった。

まき散らされた血が月光を浴びて鱗粉のように輝く、その向こうで龍がとぐろを巻いてこちらに顔を向ける。この短時間で落下の衝撃を和らげる方法を学習したのだろう。強制成長の後押しがあるとはいえ、生後1時間未満の生き物にしては破格の学習能力だ。

龍の脅威はその強靭な体と人理を超えた術識ではなく、それらを従える頭脳なのだ。

本能のままに動き回る生き物であったなら、人はただ数と兵器で立ち向かったであろう。それならきっと、龍を殺す事に特化した人間など生まれはしなかった。

龍から術識発動を現す圧迫感が放射、次いでその周囲に氷の刃が幾つもの現れ浮遊する。

先ほど使った氷弾の連撃を繰り出すのだろう、受け身は憶えても攻撃パターンの改善まで気がまわらないのだろうか。

夏南の踵が、踏みつぶした稲穂とその下の地面を叩いて龍へと向かう。前回の攻撃は敢えて逃げて見せたのだ。氷弾の発射間隔は既に把握している、あの程度の密度なら間を潜り抜けて接近できる。

龍との距離は約30メルトル、身体機能拘束術識を開放、一気に空間を跳躍する。氷弾が発射される気配はなし。短刀は正眼で構える、最接近後顎へと刺突を放つ算段だ。

大きなる龍の姿、そこまで接近して視界の端の氷弾たちが、緩やかに回転しているのに気づいた。龍との距離が5メルトルまで近づいた時に、氷弾の異変に気付いた。龍の赤い目が嗤う、視界内の全ての氷弾が変形、漁師が漁で使用する銛へと変容したのである。

夏南は危険と脳が判断するよりも早く、左へと跳んだ。

氷弾が一斉に発射、慈悲泣き氷の豪雨は稲穂を割き、大地を抉り、それでは飽き足らずに互いにぶつかり合い、その身を砕くと高速で悲惨する散弾となって、草原とそこへ逃げ込んだ哀れな獲物の破壊を加速させていく。

氷弾の雨は荒れ狂い、夕立のように嘘のように短時間で消えた、時間にして5秒にも満たなかっただろう。

龍の周囲を氷の雨が残した破片が舞い、その視界を奪う。

龍は満足そうに笑う。

一迅の風が吹いた、開けた視界の中、自分に一太刀入れた獲物の無残な姿を想像していたであろう竜の瞳が固まった。

 視界に存在しなければならない、赤い染みが何処に無いのである。

「赤外線感知器官の使い方が甘い」

夏南の口から発せられた言葉は、まだ人語を理解できていないであろう龍の耳には単なる騒音に聞こえたであろう。夏南は短刀を捻り、龍の鱗と骨、その下の脳に更なるダメージを加える。氷弾に襲われた瞬間夏南は宙へと跳び、そのまま落下の勢いを乗せた一撃を龍の頭部へと叩き込んだのであった。

龍種でも視覚がそれ程発達しておらず、赤外線感知器官を併用して獲物を狩るのが水龍という生物である。

そんな生き物が、世闇の中で自らが生み出した氷で視界を覆うなど、龍殺し相手には自殺行為に他ならない。

龍が首を振り回して抵抗しようとするが、夏南の両手が素早く短刀の柄を回し、刀身が脳をかき回し更なる致命傷を与えると、龍の頭は地面へと落下する。

ドスン!

龍は下顎の先から草原へと落ちる、その衝撃は靴底から頭部へと一瞬で伝わるも短刀を支えに耐える。龍の左右の目が痙攣、別々にあらぬ方向を向き続け瞳孔が拡大、最後は閉じた瞼の奥へと消えていった。短刀を引き抜き後ろ足で龍の頭から降りる、暫くその場で警戒態勢を取っていたが龍が再び動き出す気配はない。

この国に来て初めての龍討伐成功、それは故郷に居た時は自身に強さの証明と、美冬開放に近づいたという高揚感を与えてくれた。

しかし今胸の中に渦巻くのは、橋の上で亡くなった女性以外に被害者が出なかった僅かな安堵感と、美冬がここに居なくてよかったというある種の後ろめただけであった。

体を食い破られた女性の仇を取った、その事実は死者を生き返らせることはも勿論、胸の奥のわだかまりを晴らすことさえなかった。

改めて龍の顔に目を向けると、舌を口の端から伸ばし割れた頭部から流れる血液がなければ、まるで眠っているように見えた。

朝日という存在を知る事無く終えた命。

本来の存在しない土地で生まれ、強制的に成長させられた後、極度の飢餓状態で身体を濡らす血の臭いに狂い暴走、求めた獲物に返り討ちに合う短い生涯。死んだ女性も年相応に行動し、世界に軌跡を描き何かを抱えて生きてきたのだろう。そしてお腹の子は生まれる事無く死んだのだ、全てはイルタという一人の女の手によって命が弄ばれたのだ。

湧き上がる怒りで、短刀を握る手に自然と力が籠る。

夏南は龍を憎んでいた、だが里とそして美冬と離れて今龍と向かい合い自身が龍の中に、人を喰らう事で人の人生に終わりという形で関わり、平然としている傲慢さを見出し憎んでいたのではないのか、そう思い始めていた。

夏南は頭を振い意識を現実に戻す。

龍の死体の始末、そして橋と共に消えた女性の遺体の埋葬、そしてイルタをどうするか決めなければならない。

やるべきことは多い、新兵のように感傷に浸っている場合ではない。

まずは龍の死体をどかそうと、一歩踏み出そうとした瞬間視界が揺らいだ。直ぐに踏ん張って態勢を立て直す。その時初めて全身が小さな痛みを無数に訴えているのに気付く、極小の氷弾の雨を浴びた体は無傷ではなかったのだ。

「医者に診せた方がいいかな、あんた以外のな!」

夏南は高速で回転、背後に接近した気配へ短刀を叩き込んだ。

「あら嫌われちゃったかしら」

 むせ返る程血の臭いが充満する草原に、場違いな程涼し気な女の声が響き渡る。

虚しく空を切った刃先の向こうで、コート姿のイルタが、月光の下で幽鬼のように立っていた。

「今ロンディニウムで起きている連続失踪殺人事件、犯人はお前だな!」

 目の前の人間が単なる記者でないことはとっくにバレている、もう「秋」は必要ない。

「折角この国の偉い人が秘密にしているのに、ばらしちゃだめよ」

 イルタが人差し指を口に当てて、夏南を窘める。高登域術識者―東国なら帝から位を授かるであろう実力から来る余裕なのだろう。夏南は龍との戦いは重ねて来たが、人相手には実戦形式の模擬戦を行った経験しかない、イルタの態度はまるでその事を知って嘲笑っているかのように思えた。

夏南は卑屈な妄想を頭の隅に追いやると、一歩一歩イルタへと足を進める。

美冬を救うと心に決めた以上、手の内の分からない格上の相手とは言え引く訳にはいかない。

「洗いざらい吐いてもらう」

「インタビューの時間は終わったのよ」

 夏南は地面を蹴り加速。

相手は術識使い、術を使われる前に接近戦に持ち込むのが定石である。

イルタが夏南を迎えるように両手を広げ術識発動、手の先に渦巻く水の奔流が出現、水は飛散すると幾筋もの槍となりこちらへと一斉に襲い掛かる。

夏南は姿勢を低く取ると水槍の群れに飛び込んだ。無秩序に放たれた攻撃を、反射する月光の明かりを頼りに回避。頬に鋭い痛み、眉間を狙う水槍を首を傾けてかわした際、皮膚とその下の肉を削り取られたのだ。

高速で撃ち出した水の中に、ダイアのような高硬度の研磨材が混ぜて、ウォーターカッターの亜種をイルタは瞬時に作りだしていたのだ。

背中に軽い悪寒が走るが、構わず致死の雨の中をジグザグに突き進む。

イルタとの距離が5メルトルに縮むと、彼女の攻撃が緩んだのがはっきりと分かった。

自分へ被害が及ぶのを避けたのだろうが、それは命取りだ。

夏南はイルタへの腰から左肩を一直線に両断するべく、下段に構えた短刀を跳ねあげた。

だがイルタの姿は一瞬の内に消え、必殺の一撃は虚しく空を斬る。

見失った―訳では無い、イルタは空へと跳躍、夏南の背後へと着地をしてのけた。

 人体強化の術識も使えるのか!

彼女は短刀の刃が触れる直前に、人体強化の術識を高速発動させ、更に予備動作も無く人一人越えられる程の跳躍をしてみせたのであった。

夏南は急停止すると高速反転、もう一度イルタへと向かう。

致命傷を避ける為に彼女を斬る瞬間、軌道を変えようとした隙を突かれた、手加減して勝てる次元の相手ではなかった。

イルタを間合いに捉える、相手はまだ背中をこちらに向けている、構う事無く斬撃を放つ。イルタが後方へと弧を描いて跳び回避、斬られたコードの端が舞う。夏南は降り抜いた右手を戻すよりも距離を縮めることを選択、着地したイルタの左足へ蹴りを繰り出した。

イルタの左手が下がり蹴りを防御、足への直撃は免れたが勢いを殺す事はできず、女の細い体はやや前のかがみという不自然な姿勢のまま左へ弾き飛んでいった。

手加減しなければいける、そう思ってもいい筈の夏南は右足に残った衝撃に眉を顰めた。

まるで鉄の柱を蹴り飛ばしたみたいだ。

イルタの人体強化の術識は、筋肉や運動神経は勿論、骨格にまで及んでいた。

人を超える強靭な体に獣のような軽やかな動き、夏南が命を賭して得たものを高登域術識者は、術識を使うだけで手に入れてしまえるのか。

渋い顔をする夏南とは対象的に、イルタは昼間見せた笑みを浮かべているのが、蹴った瞬間見えた。

ここから先は遊びじゃすまいぞ。

イルタは着地と同時に、両手を広げ術を使う気配を見せた。

夏南は加速、刺突を放つもイルタは踊るように身を翻して回避、すれ違いざまに右肘で後頭部を狙ってきた。夏南はしゃがんでかわすと、左手を地面に着いて回転足払いを放つ。イルタは後ろに下がって蹴りの範囲から逃れるも、続いて繰り出した下から上へと飛翔する刃を左二の腕に受けてしまう。

 二人の間に血の雫が幾つか舞う、その向こうでイルタの笑みが割れ、驚愕に目を見開いたのが見えた。

幾ら体を強化しても、戦闘経験までは術識で得ることはできない。

技から技へ繋ぐ連撃に、イルタは完全に対応できないようだ。

後ろへ下がろうとするイルタへ、今度は頭部を狙った斬撃を繰り出す。イルタは半身を引く最小の動きで回避、夏南の腕を掴もうと右手を伸ばしてきた。足の力で慣性に逆らい後方へ下がりながら、逆にイルタの腕を左手掴む。

乾ききっていない龍の血で滑らぬよう左指に全てに力を込める。イルタの顔が苦痛に歪む、そのまま腕を引いて重心を無理やり前に移動させる。女の体は前につんのめる、夏南は左手を軸に回転、短刀を逆手に持つた右手をイルタの後頭部ーではなく右肩へ向ける。

回避も防御も術識もこれでは使えまい、そう思った次の瞬間、イルタが小さく跳び体を宙で回転させた。左手が捻じ切られそうになり慌てて女の腕を放す。イルタのブーツの踵が下から夏南の右手を打ち据え、五指から抜けた短刀が空へと飛んだ。

右拳に走った衝撃に思わず後ずさりしかけたが、踏ん張り耐えるとこちらに背を向ける形で着地をしたイルタ、その肺の下付近に両手の掌打を叩き込んだ。

くぐもった声がイルタの口から洩れる、彼女の細い身体は弾かれ龍の亡骸へと激突、軽くバウンドして踏み荒瀬れた稲穂の上へと俯せに落下する。

夏南は空から落ちてくる短刀をキャッチ、そのままイルタ向かって地面を蹴る。

筋肉や骨は強化できても、内臓までは弄れまい。イルタはこちらの接近に気付き、立ち上がろうとするが腕が震えているのが遠目で分かった。これで決める、少々痛いだろうが人を殺した報いだろ。

疾走、振るえる腕で体を仰向けにするイルタの直ぐ上で担当を逆手に構える、後は右肩へと振り下ろすだけだ。

「お願い止めて!」

 突然、イルタが悲鳴を上げると右手で顔を覆った。反射的に体の動きが一瞬止まる、しまった。右手の隙間から覗くイルタの口元が醜く歪む。

「敵の目の間で止まっちゃだめよ」

右脇腹に鋭い痛みが走った。

視線を落とすと、いつの間にかイルタの左手が伸び、小さな注射器を夏南に突き立てていた。良く見ると、注射器に収められているガラス管には、透明な液体が揺れている。まずい、夏南は後方へ跳び注射から逃れる。

「注射器の中身は毒液か?」

 イルタは立ち上がると、注射器を月にかざす。

中身は半分程無くなっているのが遠目でも分かった

「直ぐに答えはでるわ、死ななかったらね」

イルタがこちらを見た、顔には勝利を確信した笑みを浮かべている。

「ぐはっ!」

 右脇腹に激痛が走り、思わず地面に膝をつく夏南。体内に埋め込まれた解毒用術識が発動、脇腹に更なる痛みが生まれる。発動した術識から察するに、神経系の毒を注射されたようだ。

「こんな毒何処で手に入れた、この威力まるで……」

「龍の毒よ

私なりに改良を加えてみたけど、東国の龍討伐御三家縁の人間には効かないみたいね」

 彼女はさほど残念には思えない軽い口調で二の句を継ぐと、馴れた手つきでケースに注射器を入れ、コートの奥へとしまい込んだ。

「もう使わないのか、今なら動けない俺に止めを刺せるぞ」

 龍討伐御三家の話を無理やり逸らす、美冬の事を悟られてはいけない。

「安い挑発に乗る趣味はないわ

そう言って近づいたら、グサリなんでしょう?」

 夏南は相手の用心深さを嗤うようかのように、命一杯邪悪な笑みを浮かべた。

「そう思わせる為のブラフ、かもしれないぜ」

 イルタが一瞬きょとんとした表情を見せた後、笑うーことは無かった。

「メインディッシュに満足できなかったら、相手をしてあげるわ」

彼女は余裕たっぷりな口ぶりとは裏腹に、夏南を警戒しながら大きく迂回をして、龍の亡骸への傍へと近づく。

「龍をどうする気だ」

 イルタが何をするのかは予想もつかないが、人一人殺した直後に善行を行うとは思えない。

止めなければ、感覚が徐々に失われていく下半身に力を込めるが、立膝になるのがやっとであった。

「筋肉を壊死させるミオトキシン系、それも即効性に改良してある毒を受けて動けるなんて

あなたやっぱり、東国の薬利か雨露崎の強化人間でしょう」

 龍討伐御三家が非公開に人体強化に手を染めていることを、イルタは驚どころか嫌悪感を微塵も感じさせることなく、さらりと言ってのけた。

「随分物知りだな

人体実験紛いの行い、医者なら多少なりとも眉を顰めるが、あんたは違うようだな」

 そこで一端、言葉を区切る。

「それはそうだろう、自分でやって感覚がマヒしているんだからな

いや、もしかするとそんな倫理観は、端から持ち合わせていなかったって落ちかな」

 嫌味たっぷりに、イルタの悪行を暴いて見せたる。

「そうだとしても証拠はないわ」

 イルタはそこでようやく振り返った、その顔には未だに余裕があった。

「その龍の死体があれば、少なくとも軍は動く

一国の軍相手では、幾ら高登域術者でも勝ち目は薄い」

軍をこの事件へ介入させる気はない夏南だが、ある謎が解けるかと思い大きくかまをかけた。

「証拠が残れば、でしょうか?」

 女の顔がこちらを嘲笑う邪悪な笑みを作ると、その右上が激しく痙攣した。

右腕、それ自体が嵐に揉まれて荒れ狂う雲のように伸びると、物理法則に反して体積が膨張、皮膚を割いてまるで天へと幹を伸ばす、樹木のようなシルエットを月明かりの下に晒した。

「生体変化術識士か」

 術識士の中には、生物細胞や機能に干渉する術を使う者達がいる。物理現象を扱う術識とは違い、生体変化術識は生命活動を担保するか、生み出さねばならない。故に多系統の知識や経験からかけ離れた技術体系となっており、使う者はそれほど多くなく、高登域クラスの術者となるとその数は更に絞られる。

「疑似生命なんて、短命で一時しか役に立たない偏屈共と私を一緒にしないで頂戴」

 イルタは怒気を孕んだ口調で、夏南の言葉を否定した。

それはおかしい、術識を使わずに腕を変化させる事など、只の人間には不可能である。

現に、腕が変化する瞬間、はっきりと術識発動の気配を感じた。

イルタはこれ以上話すことはないというかのように、龍の亡骸に顔を向けた。その右手だった物が内側から幾つも枝を伸ばして、巨大なバラ科の植物のような影を作る。

待て、思わず叫ぶと夏南は一歩前に踏み出した。体内術識と強化された免疫機能のお陰で、幾らか動けるようになった。二歩目を踏み出そうとした次の瞬間、イルタの右腕から伸びたそれが一斉にこちらを向いて、その枝先にはめ込まれた幾つもの赤い瞳が輝くの見てしまい、思わず足を止めてしまった。

龍だ、イルタの右では龍から小さな龍が無数に生えるという、生物学を完全に無視した異形へと変容していたのだ。

 龍を術識で産み出すことは可能だ、しかしその脅威を再現する為には莫大な術力と、高度な制御技術を要する。古い文献で幾つか術識実験の記録を見たが、全て失敗し制御不能となった龍は全て討伐されているか、術識切れで自壊している。産み出す龍の個体を安全に狩れる程度に落とすことは可能だが、それでは術識として使うメリットは無く、龍の人を喰らう本能は術者をも餌と認識し気を抜けば襲いかかるので、龍を産み出す術識を使う者は皆無であるはずであった。

 無数の龍頭は動かなくなった夏南に興味をなくしたのか、回頭して地面に横たわる龍の赤子の亡骸へと伸びると、その巨体を絡めとり夜空へと高く掲げた。

「美味しい、と良いんだけどね」

 まるで新しい菓子を前にした子供のようなことを、女は自らを喰らうかもしれない危険な従者を軽々と操り、なんの躊躇もなく口にしてみせた。

 次の瞬間、絡み付いた幾本もの龍頭に力が込められ、掲げた龍の鱗や筋肉に内蔵、そして鋼鉄よりも硬い骨を一気に砕いた。

 死した龍の口から大量の血が地面に撒かれる、瞳孔が既に開ききった深紅の両目は頭蓋骨が砕かれると、眼孔内から飛び出し伸びた神経の糸の先で揺れる不気味なオブジェとなった。

 それを見上げるイルタが満足そうに一度頷くと、龍となった右手が縦に割れ多くその質量を増すと、潰れかけた龍の亡骸を一気に飲み込んだ。

 龍となった右手は大きく膨らんでは萎み、また大きくなるという動作を行った。あの右手は龍の口だ、その証拠に骨を砕く耳障りな音と閉じきらない部分から血液が、放物線を描いて幾筋も地面に落ちている。異常な光景に夏南は動けなかった、龍が同族を喰らうことはあるがそれは緊急事態に限る、何より自己組織を別種へ変容させる術識使いの殆どは、生理的嫌悪から味覚を遮断している、しかし目の前の女は明らかにそれらを逸脱している。

やはりイルタは想像した通りの人間ーいや生き物なのだろう。

夏南の中で生まれた一つの疑問に、眼前の光景が一つの答えを示し確信に変える。

「ちょっと香料が効きすぎたかしら、次は別なテイストで試してみましょう」

 常軌を逸脱した景色の中、イルタは美食家のように感想を一人語ると、その右手が咀嚼を終えると龍を経て元の人型へと形を変えた。

「何が目的だ!」

 夏南は思うように動かない脚に力を込め、一歩踏み出す。止めなければいけない、今此処で。この女のしている事は最早災害、放置すれば経過時間に比例して多くの命を必ず奪う。

「教えてあげたいけど、今夜は遅いからこの次ね」

イルタは夏南の怒りなど我関せずとでもいう態度で、両手を広げるとまるで月に手を伸ばすかのように高々と掲げた。

更に詰め寄ろうとしたが、イルタの両手に膨大な術識が紡がれる気配を感じ立ち止まった。

何をする気だ、夏南はイルタから目を一瞬だけ放すつもりで空を見上げた。

 あれは水か、いつの間に。

夜空を覆うように水の膜が、低い雲の如く夏南達の頭上を覆っていた。

毒液か!

素早く接近戦に特化した夏南に近づいては危険と判断したのか、動きを止めての広範囲攻撃をイルタは放とうというのか。

「何をするかは知らんが止めておけ」

夏南は一歩踏み出した、イルタとの距離は10メルトル、体内の毒はまだ残っているが、一瞬で女の懐に飛び込むことなら何とか可能だ。

イルタがこちらを見据えた、その顔から次に取る行動が簡単に見抜くことが出来た、警告は無駄だったのだ。

夏南はふらりと前に倒れるように前傾姿勢を取ると、音も無く地面を蹴り一気に加速、踏み荒らされた稲穂の上を、獲物を狙う猛禽類の如く舐めるように高速移動し女へと迫る。

一瞬、人が瞬きする程の短い時間で、二人の距離は、手を伸ばせば触れられるものへと縮める。夏南は左腰の下へ寝かせていた刃を真横に振う。狙うは右脇腹、今腕を振り下ろしても防御は間に合わないだろう。

圧縮された時間の中で、短刀の切っ先が獲物の急所へと空を切り進む。これで決まりだと思った瞬間、イルタの右足が僅かに動くのが見えた。眼下で術識発動の気配が爆発、氷の壁が極小の時間で生成され、夏南とイルタを分断する。

たかが氷、夏南は構わず目標も変えず手加減もせずに、短刀を振りぬいた。強化された龍殺しの一撃に耐えきれず、氷の壁が砕ける。右腕に人を斬った感覚、砕け飛散し視界を塞ぐ中、イルタが両手を降ろすのがはっきりと分かった。肉を切らせて骨を断とうというのか、夏南はまだ砕けずに地面から伸びている氷壁の下半分に蹴りを放つと、突進の勢いを殺して後方へと無理やり進路を変更した。

頭上に浮かぶ大量の液体が、術識の支えを失い重量に引かれ一斉に落下して来る。

急な加速と慣性がGとなって内臓と三半規管襲う。間に合え、悲鳴を上げる臓器の警告を無視して、急ぎイルタから離れようと加速。自然の法則に人間の力で逆らう夏南を嘲笑うかのように、イルタが生み出した謎の雨は草原に殺到、龍が死んだ跡はおろか周辺の踏み荒らされた稲穂全てに降り注ぐ。

台風に巻き込まれたみたいだ、大量の雨に押しつぶされる直前、夏南は捨てたはずの故郷の記憶を思い出した。

龍を追う途中で嵐に合い、一人手近な洞窟で夜を明かした。

美冬開放を胸に戦っている筈なのに、どうしようもなく孤独だった。

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