第25話
ここは地獄だ。
夏南は独り毒を吐くと、己の首を絞め上げているシャツの第一ボタンを外して気道を確保すると、続いて全てのボタンを外してそのままシャツを脱ぎ深呼吸をした。
偽りの名前、偽りの身分、相手に取り入る為に口にした言葉、僅か数時間だがそれらに疲弊した心と体は、深呼吸程度では回復することはなかった。
潜入捜査は何度やっても馴れない、クルトが聞いたら意気地なしと鼻で笑うだろうが、こちらは刑事ではないのだと、胸中で誰にでもなく言い放つ。
一人言い訳を済ませると、脱いだシャツを丸めて岩陰に隠して置いた鞄の中にしまい込んだ。乱暴に扱えば美冬に見つかった場合、何かあったのかと感ずれる恐れがある。だが、「秋」とは今すぐに離れたかったので、そこは頭の中から直ぐに追い出すことにした。
夏南はイルタ医院から少し離れた所に見つけておいた、背の高い茂みの陰に身を潜めていた。陽は落ち始めている、後2時間もしない内に周囲の草花は夜に帳に包まれるであろう。イルタ医院はロンディニウム郊外にあり、主要幹線道路からも離れているので、ここに居れば人に見つかることはまずないだろう。
替えのシャツに袖を通すと、夏南は茂みの陰から小型の双眼鏡でイルタ医院の様子を監視する態勢に入る。
以前遭遇した龍の赤子は真夜中の12時頃に現れ、朝を迎える前に消えた。
もしイルタが連続失踪殺人事件の犯人で、全ての犯行が夜中に行われていたとするならば、日没から夜の始めり頃に屋敷を出れば、彼女の足なら犯行時刻までロンディニウムに着くことが可能である。
夏南はイルタが犯人だという確証も証拠も持ってはいなかったが、診察室で見つけた刀を打ち直して作られたメスを見て、彼女が龍に関わっている可能性が高いと目星を付けた。
メスに彫られていた模様の一部、あれは夏南が良く知る一族が掲げていた蓮洲葉花の紋様の欠片であった。小さな一族で、先代の薬利頭首に近づくまで里での地位は低かったと、夏南は記憶している。彼ら蓮一族は龍討伐に用いる武器の製造に長け、薬利家とその人脈に連なる者たちへと供給することで、ほんの僅かな時間栄華を享受した。
僅かな時間であった理由は、薬利家と対立したり失脚した訳ではない。
豊かさを享受すべき彼ら自身が、この世から一人を残して消えてしまったのだ。
事件後蓮の里跡地を調べて判明したことだが、彼らはより強力な武器を生み出す為に、龍の力を得ようとして、その報復により滅ぼされたと里で一時期話題になり、まだ生きていた母がふさぎ込んでいたことは今でも心に焼き付いている。
故に華国生まれのイルタが、蓮一族が生み出した希少な加工品を持っていることは不自然極まりなく、その生い立ちに龍もしくは龍と関わる者と深く関わりあった可能性が高い。
彼女は父の息がかかった追っ手だろうか、そんな妄想染みた考えが浮かんで来たが、時期が合わないと一蹴する。
夕飯までに戻るという美冬との約束を破ってまで、イルタを監視することを選んだのだ、くだらないことを考えて体内のブドウ糖を浪費するくらいなら、残っている謎について考える方が浪費としては質が良いだろう。
イルタが犯人と仮定、患者に細工を施して龍を召喚または生み出す触媒にしたとも仮定、ここまでは手品の種明かしのように証拠を集めれば解けるだろう。だが龍が跡形も無く消えたことはどう考えても腑に落ちない。龍をこの地に生み出すリスクを殺人を犯してまでやっておきながら、龍を利用した気配がないのは生み出した以上に異様である。
怪しげな生き物の生体組織が、薬や美術品としてロンディニウム周辺で流通した形跡は調べた限り見当たらなかった。
無論、大蛇を見たなんて噂話も確認されてはいない。
龍を生み出した触媒に使われた人間は龍の腹の中へ消えた、では龍は何処に消えたのだろう。赤子とは言え移動させるなら馬車どころか、軍用のエンジン駆動車が必要な程の重量を持っている。術識を使ったのなら美冬が必ず気付くはずだし、それ以前の事件で軍や教会の斥候が術識発動を察知して調査に乗り出していなければおかしい。
手口も動機もはっきりせず、犯人に繋がる証拠もないのなら、容疑者を監視して尻尾を掴む賭けのような調査に挑むしかない、そう考えて自分を鼓舞しておく。
夏南は双眼鏡のダイアルを弄り倍率を上げると、イルタ医院の正面玄関を舐めるように確認する、異常なし。イルタ医院の敷地面積は広大、前世紀の砦跡に作られた屋敷なので、周囲は高い塀に覆われている。そんな建物から出入りする人間を一人で監視するなど不可能である、しかし夏南はある細工を施すことで可能にしていた。
屋敷は石の壁に覆われており、出口は正面の門と裏門それに小さな出入口を含めて4つ。その内直接見張る正面入り口以外には、術識が埋め込まれた符を張っている。誰かが扉を開けるか剥がそうとすると符は破れ、それと連動した符も同じく破れて異変を察知できる仕組みだ。
足元に置かれた符を確認する、目立った変化はない。
少しばかり緊張して過敏になった肌を、春先の風に撫でられ夏南は片手で襟元のボタンを締める、まだまだ冬だな。強化の施された体は極寒の地域での活動にも耐えられるが、感覚器官は常人と変わらないのだ。おまけに里に居た頃は討伐対象の龍を寝ずに2,3日監視することもあったが、この一年美冬やシィと共に夜を過ごす時間の味をしめた体は、久しぶりの徹夜の監視に寂しさを訴え始めている。
かぶりを振るい、監視がバレれば奇襲されるぞと己に言い聞かせ、弛緩した心を強制的に引き締める。
こちらの心情などお構いなしに、相変わらずイルタ医院は静まりかえり、やがて陽が落ちると明かりを灯すこともなく、世闇のベールにその巨体は全て覆われたのであった。
夏南はその間、息を殺して監視を続けた。胸ポケットの時計を月あかりに翳す。時刻は夜の10時、今夜は動かないのだろうか。
イルタを犯人と思いたくない自分がいる事は、甘いと言われるだろうが自覚している。
彼女は自愛と冷酷さを備えた医者、あのメスについては夏南の勘違い、故に監視は空振り数日後に別な場所で犯人を見つける、というのが理想だ。
現実を理解したくない頭の考えた甘い夢を、俺の感があざ笑う、分かっているよそんなことは。
やがてイルタ医院正門の門に異変が起こった、おめでとう野蛮な感は夢見がちな頭に勝利する可能性を手に入れたのだ。
虚しい冗談を胸中で吐き捨て、双眼鏡を覗き込んだ。門は鉄板状の構造で成人男性以上の背丈がある、その下に人が通る為の小さな扉がある。それが今、ゆっくりと敷地内へ開けられ人影が二つ、夜闇の中に姿を現したのであった。
昼間聞いた話によるとスタッフは居なかったはずである、人の出入りも無いとなると、二人の内片方はイルタだろう。
ではもう一人は誰だ、入院患者だろうか?
そういえば昼間、庭園へ案内された時に誰かの視線を感じたことを思い出した。
夏南は双眼鏡を覗き込んだ、二人は雨具のようなコートに身を包み、頭をフードで覆っていたので、月明かりの下では人相を確認することはできなかった。
網膜に干渉して猫科の生物のように、夜目を効かせる事も夏南の体は可能であるが、それには術識が必要で、今ここで使えば気付かれる可能性がある。
このまま行くしかない、夏南は地面に置かれた鞄を肩から下げると、夜の闇と草木が風に触れる音に紛れて人影に接近すると、茂みの陰に身をす。
「今明かりを用意するわ、これで夜道も安心です」
マッチが擦られ、次にランプの灯りが世闇に小さな月のように浮かび上がった。
間違いない、一人はイルタだ。
彼女はランプを掲げていたので、フードの端からその顔がはっきりと見えた。
もう一人は、残念ながらこちらに背を向けていたので顔は見えない。背丈は、イルタの170センチメルトルあるであろう体よりは明らかに低い。女だろうか、それにしてもコート越しでも分かる程痩せ細っている、お腹に両手を当てているようだが、内臓の病気を患っているのだろうか。
「ありがとうござます。
ですが天使様が隣に居て頂けることが、私にとって一番の安心です」
イルタのものとは違う擦れ声、夏南の予想通りもう一人は女であった。
それにしても天使とはなんだろう。
聖導教会の聖書には唯絶神ハルファエイの配下に、神の使いと呼ばれる存在は多く存在している。
イルタと女は聖教信者なのだろうか?
夏南の疑問を他所に、二人はランプの灯りを頼りに歩き始めた。方角は東、ロンディニウムの街へこれから向かうのだろうか。夏南も二人に合わせて移動を開始、すると横を向いた女の腹が不自然に膨れているのがはっきり見えた。
妊娠しているのか、街まで一時間以上かかるぞ!
医者が深夜に妊婦を歩かせる異様な光景に、夏南は思わず声を上げそうになった。
この国の夜は盗賊や後ろ暗い稼業の連中と鉢合わせする可能性は高く、街外れだからといって決して治安が良いとは言えない。
落ち着け、そう自分に言い聞かせる、下手に動揺すれば二人に感づかれるぞ。
イルタ医院の周囲は大半が草原で、人一人隠れられるような茂みや樹木は、道沿いに間隔を空けて並んでいる。街中なら気付かれそうになったら、直ぐに建物の陰に隠れられるが、ここではそうはいなかない。夏南は十分な距離をなかなか取れないまま、妊婦と医者の奇妙な夜行の後に続く。
「旧契にあるマザフ・シェシェールの白磁の夜の行進
きっとこんな感じなのですね」
「いえ、更新参加者は聖粉で出来たパンを食べたお陰で、体重は半分になり一行は流水に浮かぶ船のように軽やかで幸福だったと、ハルハ書にはあるわ」
聖導署の逸話と深夜の外出を重ね合わせたかったのだろう、女が残念そうに唸り声を上げイルタが笑う。
深夜に出かねばならない急用でもあるのかと考えていたが、二人はリラックスしていて会話からは何の緊張感も感じない。
二人の会話はその後も途切れることなく続き、話題は聖導書から衣食住へと飛躍すると、今度は薬草の話題へ変わっていった。
こうして見ていると、二人は医者と患者というより、長年付き合いのある友人同士に思えて来る。
まさか、友人を誘っての単なる夜歩きではないだろうか?
夏南の疑問など知る由も無く、イルタは女を先導して臆する事無く世闇の中を進んでいくと、微かに水の流れる音が聞こえて来た。
ロンディニウムを東西に貫くテム川へと続く支流の一つ、それがイルタ医院の北東にある事を夏南は以前の調査で記憶していた。距離と速度からざっくりと計算すると、あれから2、30分は歩いたことになる。妊婦の散歩にしては少々長すぎるのが引っかかる。
まもなく二人の前に橋が現れる、ここで引き返すのだろうと思ったが、予想を裏切って二人はそのまま進み続ける。本当に街に行くのだろうか。いやよりも橋の上に身を隠す場所がない、彼女たちが橋を渡り切るのを橋の袂で待つしかないか。
二人は橋を橋を渡り始めると、夏南は袂に移動すると橋と川へと続け傾斜の間に身を顰めた。
なんだ?
イルタが橋を3分の1程渡ったところで急に立ち止まった、後ろを歩いていた女もその後すぐに足を止めた。
誰かと待ち合わせでもしているのだろうか、二人はその場で立ち止まったまま微動だにしない。
只ならぬ雰囲気を感じる、夏南はその正体を見極めようとランプの灯りに照らされた女二人を凝視する。
数分もしない内に女がよろめいた、咄嗟に足を踏ん張ったがその脚が震えているのが遠目にも分かった。彼女は背を丸めお腹を抱える仕草をすると、肩を大きく揺らした。産気ずいたのだろうか、肩の震えが電波したかの様に今度は頭を振り回し始めた。
イルタは何をしている、ランプを持つ人影に目を向けると、彼女は動く様子はなくただ目の前の光景を眺めているだけであった。
夏南は思わず橋の上に飛び出しそうな体を、橋の欄干を掴んで止めた。
今出て行ってどうする、イルタは驚いている様子はない。これがイルタの目的なら、このまま見ていれば、龍が出現するトリックが分かるかもしれない。理性が残酷な論理を広げる、同時に女が喉を掻きむしるような仕草を見せると、獣のような咆哮を上げる、それでも尚イルタは動かない。
夏南は欄干を飛び越え橋の上に降り立つと、木製の地面を足で思いっきり蹴飛ばし風となった。
イルタに尾行がバレる、その懸念は浮かんだ瞬間後方へながれる景色と一緒に消えた。
震えが悪化し、踊り狂う女の姿が急速に近づいてくる。もう少しだ、待っていろ。更に加速、こちらに気付いたイルタと目が合った。
目の前で人が苦しんでいるというのに、その顔に感情はない。
医者が苦しむ者を無視している、その悔しさに夏南が奥歯を噛み締めた瞬間、信じられ無いものが目の前に現れたのだ。
笑顔だ、イルタがこちらに気付くと、昼間幾度となく見せてくれた清廉な笑み浮かべたのであった。
罠だと本能が警告するが無視、踊り狂う女の元へと駆け寄るとその体を抱き抑えた。
「おい!
しっかりしろ、直ぐに医者に診せてやるから!」
医者が直ぐそばにいるのになんと滑稽なセリフだろう、間抜けな事を言っていることなど気付かない夏南は、態勢を崩した女の体が倒れそうになったのを止める。腕の中で女があおむけになる、月とランプの明かりに照られた女の充血した瞳と視線が交差する。意識はある、抱き起そうとした瞬間、女の手が夏南の腕を掴むと、その細腕からは想像もできないほどの力で締め上げた。
「……はなじで、で、でんし様しか、……私を、私を……」
痛みで意識が混濁し始めている、イルタがそこで見ていることを気付いてないのだろう。
「イルタ先生!
頼む、この人を助けてくれ!」
慈愛の医者、その仮面が完全に剥がれた女に向かって夏南は叫んだ。
治療の術識など使えない、情けない話だがこの事態を招いたと思しき女に縋るしかない。
「一度に二人以上の執刀はできません
それにこれは私自身の治療なのですから、中断は認められません」
イルタの口から、死刑囚に死刑執行を告げる執行人のような極寒の言葉が発せられた。
何を言っているんだ?
口調も内容も理解できなかったかった夏南は、女から目を逸らしてイルタを睨んだ。
「あーーーー!」
女が突然、これまで以上の悲鳴を張り上げると、夏南の胸を思い切り突き飛ばす。
脳の筋肉抑制機能が痛みで麻痺した女の突きは、意識の逸れた夏南の体を後ろに押しのけると、拘束を解かれて橋の上えと転がり落ちた。
夏南は慌てて抱き起そうと手を伸ばす。
「大枝折れたら、ゆりかご落ちる、赤ちゃん、ゆりかご、みな落ちる。」
イルタの口から、子守歌の一説がまるで聖歌のように紡がれる。
女の絶叫、生暖かい雨がその場に居る全員に降り注ぐ。
そして、一本の大樹が賢者の祝福を受けた聖人のように誕生する。
それは新たなる生命の誕生を祝福せよと謳うように、その濡れた体を月明かりの下に晒し、その頂点を天に向け高らかに伸ばしていた。
龍が生まれたのである。
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