第23話
龍を見た。
瞼の裏にこびり付いたあの禍々しい姿を思い出すたびに、私はベッドの中で悲鳴を押し殺して嬰児のように体を丸め込み上げる恐怖に必死に抗う。
悶える人影、悲鳴、人影を食い破って外へと飛び出した大樹。大樹はうねると、その先端を二つに割くと自らを生み出した人影を一気に飲み込んだ。異様な光景と辺りに充満する血の匂いに脳が麻痺した私は、悲鳴を上げることすら忘れてそれを見ているしかなかった。
逃げなければ。
しかし振るえる両足は鉛のように重く動く気配はない。
大樹がうねり、人影を飲み込んだ口にしか見えない先端をこちらに向けた。次は私を食べるのだろうか、その思考はそのまま恐怖となって、私の麻痺した心を決壊させた。ようやく悲鳴を上げられた私の口は直ぐに閉じられた。
目だ、大樹の口の上に丸く赤い二つ宝石が、叫ぶことを許さぬというかのように、凄まじい殺気を放ったのだ。
あれの正体は分からないが、樹では絶対にない。
何時の間にか爪が皮膚を破る程強く握りしめていた拳が、一瞬にして緩み両手を垂らした。
次は私を飲み込むつもりなのだ。
そう直感した瞬間、口から乾いた笑いが漏れた。
それもいいかもしれない。
急に聞こえた人の声にふと横を見ると、そこには全裸の女性が1人立っていた。
その姿は薄汚いボロを纏い、顔は腫れ、身体の至る所に痣を恥ずかしげもなく晒している。
その時、頭上を覆っている厚ぼったい雲が風に千切れると、全裸の女性の顔をはっきりと夜の中に照らし出した。
私だ、もう一人の私がそこに立ってたのだ。
常軌を逸脱した光景に、奥歯が笑うように揺れ奇妙な音を鳴らし、逃げようとする意志を直ぐに溶かしてしまった。
そんな私の様子を知っているかのように、私がゆっくりと近づいてくる。
「あの人に殴られる生活は、ここで終わりにしましょう」
聞きなれた擦れ声、だが甘い響きに全身に電流が走った。
それは私の願いだ。
死への恐怖と甘美な救済が体の中でどろどろに溶け合い、気を抜くと発狂しそうになる。 気付くと、もう1人の私は、煙のように消えていた。
夢、だったのだろうか?
ドサ、地面に重い物が叩きつけられた音が鼓膜を打ち据え、私の意識が幻から現実へ引き戻された。
前を向くと、そこには大樹が蜷局を巻き硝子玉のうよな目をこちらに向けていた。
あぁ、これは蛇だ。
狂った世界は去っては居なかった、それどころか狂気はその姿をはっきりと現したのだ。
蛇からは押しつぶされそうな殺気を放っているが、こちらに襲い掛かる気配はない。
獲物がに逃げない、いや獲物が自ら口に飛び込んで来るのを知っているかのように微動だにしない。
私の脳は先ほどよりも冷静に事態を理解し始めている。
恐怖が振り切れたのではない、もう一人の私が言った言葉が、蛇から恐怖のベールを剥ぎ取り本当の姿を垣間見せたからだ。
「さぁ、終わりにしましょう」
無意識の内に私の口から、もう一人の私が言った言葉が漏れた。
もう一度、全身に電流が走った、そのお陰であれほど言う事を聞かなかった足が僅かに動いた。
私は逃げなかった、代わりに目の前の蛇に向かってゆっくりと歩き出す。
あぁ、神よ。
やっと祈りが通じて、今私の目の前に使者を使わされたのですね。
身体が嘘のように軽い、夫に殴られ蹴られた所は痛みを訴えてはいるが、目の前に現れた救いの使者の前では些細なことだ。
1歩、また1歩、私は救済へと近づく。
そして私は巨大な蛇の眼前に出ると足を止め、ゆっくりと両ひざを突いて祈りを捧げる。
神よ私をお救い下さい、首を垂れ胸の前で手を組み救済を待つ。
あ!
私は自身の体のある部分を見てしまい、神の使者の前だというのに場違いな声を上げてしまった。
少し膨らんだ自分の腹、そう私は妊娠していたのだ。
なんと言う事だろう、夫の暴力に耐えかねて家を飛び出し、そしてこの世の者とは思えない光景に出会うまで、私は我が子のことを忘れていたのだ。
ここで私が死ねば救われるが、この子はどうなるのだろうか。
その疑問は一瞬にして私を駆け巡り幸福を一掃した、再び不安と絶望が体を支配する。
「この子は救われるのでしょうか、え!」
顔を上げ、お腹の子の行く末を神の使者に問うとして私は絶句した。
目の前に大きな口が、夜の闇よりも暗い穴を広げているのに気づいたからではない。
僅かに見える硝子玉のような目に、私を嬲る時に夫が見せる嗜虐の光がありありと浮かんでいるのを見てしまったからだ。
ああ、何と言うことだろう。
目の前のこれは悪魔だ、神の使者が妻に平気で暴力を振るうような目の生き物を従えている筈はない。
私は悪魔に救いを求めてしまったのだ。
逃げなければ、ここで食われればお腹の子も地獄に落ちる。
私は気力を振り絞って立ち上がろうとした。 しかし、逃げる気配を察したのか、眼前の暗い穴は一瞬にして近づくき視界を覆った。
逃げられない、私は恐怖と自分の愚かさで滲んだ目を閉じることも出来ずに、穴に飲み込まれるのを待つしかなかった。
この子だけは、この子だけは。
視全てが黒一色に染まる、生臭い息が体を覆う、これで終わり、これで御しまいだ。
私は無駄だと分かっていても、手でお腹を覆いもう片方で目を塞ぎ終わりを待つ。
だがしかし、幾ら待っても終わりはやって来なかった。
手をどけて前を見ると、蛇の口がゆっくりと離れていくのが分かった。
何が起きたのだろうか?
理解できない蛇の行動に目を凝らすしかなかったが、そのお陰で蛇の首の付け根に何かが絡み着きそれが蛇の巨体を動かしているのが、月明かりの中でおぼろげに見えた。
木?
蛇の首に絡みついた木のようなものは、その枝先を無数に割くと、次の瞬間間蛇と蛇を生んだ人影の残骸諸共、跡形も無く喰らい尽くしてしまった。
悪魔が悪魔を食べたの?
私は異常が異常に喰われる瞬間を見てしまった衝撃に、遂に限界が来たのか意識が薄れ始めた。
雨だろうか、ポツリポツリと身体全体に生臭い水が落ちて来るのを感じる。
身体を冷やしてはいけない、この子の為にも。
私は蛇を飲み込んだ木の事など忘れて、立ち上がろうとする。
だが体は言う事を聞かず、道路に打たれた杭のように動くことを拒絶する。
この子だけは、この子だけは。
逃げなければ、やはり神の御手は私とこの子には届かないのだ。
「私が来たからもう安心よ」
突然、女の声が聞こえた。
泣き枯れた私の声とは違い、その声は耳に心地よく響くと柔らかな風のように私の体を包んでくれた。
顔を上げると、そこには一人の優しげな女性が立っていてこちらを見ていた。
天使だ、正真正銘の天使が来てくれた。
神を疑った事などなかったかのように歓喜したのも束の間、私の意識はゆっくりと闇の中へと溶けていった。
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