第22話

緑の迷宮を暫く歩くと、開けた平地にポツンと立つガラスが貼られたドーム状の建物が目の前に現れた。骨組みとなっている鋼材は所々塗装が剥がれ、はめ込まれているガラスは幾つも木製の板が混じっている。この庭同様手入れが行き届いてはいないようだ、富裕層の患者を多く抱えているようだがそこまでの稼ぎにはならないのだろう、あったとしてもイルタなら貧しい患者の為に使うだろうが。

「温室なんだけれど、ボロボロで驚いたでしょう

でも、中は多少奇麗にしてあるのよ」

「いえ、ドームを見ていたら故郷の障子を思い出しただけです

小さい頃、よく穴を開けては父に怒られました」

壁に穴を開けた、イルタが信じられ無いと目を丸くした。障子を知らないのだろう、部屋を仕切る格子戸に貼られた紙と説明した。あなたも貧しい出なのねと、何を想像したのかは知らないが、イルタが同情の目を向けて来た。

ズレた異文化交流を早々と切り上げ、イルタは着いて来るように言うと、1人ドームの扉の前に立った。

「可愛い子達よ

きっとあなたも気に入るわ」

 イルタがドームの扉を開けた、中から熱を帯びた空気が押し寄せ、背後へと緩やかな風となって抜けていく。

中で薬草を栽培しているのだろうか、少し甘くて後を引く独特の匂いが鼻に残った。

イルタに続いて夏南はドームへと足を踏み入れた。

外は風が吹くとまだ肌寒かったが、滞留した空気がガラス越しに降り注ぐ陽光で暖められほんの少し心地良い。

足元はレンガが敷き詰められた道があり、緩やかに蛇行しながらドームの奥へと続いている。その左右には幾つもの見慣れぬ植物が、鉢植えや地面から顔を出していた。こちらへと、イルタに促されドームの奥へと進む、途中幾つかの植物を指さして彼女が簡単な説明をしてくれた。

分からない事が幾つかあったが、奥にある本命に早く会いたいので曖昧な返事と相槌で誤魔化した。

そんな夏南の内面など知る由もないイルタの話は、更に温室の奥へと続くすりガラスの扉の前に立つまで続けられた。

「随分あるかせてしまったわね

貴方に見て欲しい物はこのこの奥にあります」

「まさか、ロンディニウムで持ち込みが禁止されている植物でも育てているのですか?」

「私に犯罪を犯す勇気などございません

大層なものじゃないわ、私と貴方に関係するモノよ

きっとこれからの人生に必要なことを学べるわ」

 ここに来るまでわざと聞くことのなかった見せたいものの正体を尋ねたが、曖昧な答えではぐらかされてしまった。罠である可能性は、これまでイルタの言動から見て低いだろう。だとしたら猶更この扉の奥は気になる、まさか庭師が居て何か説教を聞かされるのではないだろうか。

夏南の疑念を他所にイルタの手が扉を開けると、これまでとは一変した光景が目に飛び込んで来た。

これまで見て来た植物はどれも緑や色鮮やかな花を備えていたが、扉の向こう側ではどくどくしい赤や黄色の花や器官が緑の中から顔を出していた。

「生き物を遠目で見た第一印象だけで判断するのはよくないわ

それに近くでみると意外と奇麗よ」

 景色の変化に戸惑いを見せた夏南を窘めると、イルタは扉を潜った。

これが見せたい物なのだろうか、一目見ただけでは大半の人間は好んで近づくことはないように思える。為になる、イルタはそういったが専門家ではない夏南には、単なる草花にしか見えない。夏南は警戒色に溢れた部屋へと踏み込んだ、横目でイルタ見ると彼女は嬉しそうに後ろ手で扉を閉めた。

「植物にご興味をお持ちでしょうか?」

 イルタがまた先導して背中越しに質問を投げかけて来た。

「東国の季節代わりに咲く花うぃ幾つか憶えている程度です

後は、すり潰して傷に塗れる草くらいしかわかりません」

 1人補給も無く龍を追ってよく山に何日も籠った時に、幾つかの野草を食べていた経験があったが、幾ら漢薬に詳しいイルタでも聞けば眉を顰めて引いてしまうと思い口にはしなかった。

「もしかして医者嫌いなのですか?」

「また来たのかと医者のうんざり顔を見る機会減らせるなら、ある程度の努力は惜しまない子供だっただけです」

故郷の老医者の顔が脳裏に浮かんだが直ぐに振り払った。表向き父の後を継ぐために夏南は、危険な人体改造を断行した。かれはそれに最後まで反対してた1人であった、権力欲しさに命を危険にさらせる人間の治療などさぞ嫌だったのだろう。

二人は道なりに敷かれたレンガの上を歩いていく。

奥へ進む程周囲の植物はその異相を際立させていく。形状は肥大し夏南の胸まで背を伸ばし、一部は温室の骨格に蔦を伸ばして天へと手を伸ばしている。色も赤や黄色、緑に青とレパートリーを増やして濃厚な色へと変わっていく。

視覚以外にも鼻からも違和感を感じる、何か腐ったような臭いが濃くなっていく、こんな香りを放つ植物があるのだろうか。

イルタが足を止めた。

目の前に、子供一人収まりそうな窪みを中央に備えた赤と黄色の花が、幾つも咲き乱れていた。

花の窪みには何らかの液体が揺れていて、その一つに小さな野鼠の死骸が浮いていた。

彼女は気付いているのだろうか、横目でイルタを見ると、熱っぽい目をそれに向けているようであった。

これが彼女が見せたかったものだ、夏南は不吉な予感と共に理解できてしまった。

「ブード科の植物のアンプラリアの亜種よ

常緑性の植物で、花に見えるのはが変形したものよ

養父から引き継いでから、仕事の合間に品種改良したの、ようやくここまで大きくなったわ」

 イルタが自慢げに語ると、アンプラリアの傍で膝を折りその禍々しい葉を撫でた。

「これからの人生に必要な物があるって話

まさかこのアンプラリアっている植物を、一株貰って育てろっていうのですか」

初めて自分の過去を語れるほどの信愛の証に、手塩にかけた観葉植物をプレゼント、なんて単純な女ではないだろうが一応聞いておく。

「この温室の植物は、まだ私の手を離れてこの地に根付ける程、強さを獲得してはおりません

もし貴方の手に渡すのなら、このロンディニウムの寒さに耐えられるようにしなければいけないわ、5年はかかるわ」

まるで子を撫でる親の顔から一変、イルタの顔が冷たく変わる。

「あなたの弟さんと似たようなものよ

1人ではこの街で生きられない」

 急に兄弟の話が飛んで来た、一瞬葉の窪みに落ちた鼠に視線が行ったが、すぐに目を逸らした。

「1人で生きられないのは弟だけじゃない

貴女と私も同じです

私の仕事は、記事を読んでお金を払ってくれる人が居て成り立っています、貴女は……」

「患者が居なければ成り立たない

健康な人間には必要とされない、そういう職業に就いていることは自覚しています」

イルタが振り返りこちらを見た、その目に怒りは無かった、ただ静かに微量な憐憫を浮かべているだけであった。

「このアンプラリアも含めて、ここにで育てている植物は全て食虫植物

大地に張った根の他に、こうやって身体の一部を変形させてそこに溜まった体液に虫を誘い込んで溺れさせる、後は体液か微生物の力を借りて消化して取り込むのよ、逞しいとは思わない」

 話が飛躍した意図は掴めないのが、食虫植物については勉強になったので素直に頷いておく。

「逞しいとは思いますけれども、この国の寒さに適応できないのであれば、そこまでのものとは思えませんが」

美冬が1人で生きられない、そう面と向かって言われたので口調が少し荒くなる。

「それは見方の問題よ

本来適応できない環境で、どんな状態であれ生存している事実が逞しさの証明よ

私が疎まれながらも患者の治療を出来ている、それと同じよ」

 こうしてインタビューをしている秋さんもね、と彼女は話の最後に付け加えた。

痩せ細った大地で貪欲に咲く花に自分たちを重ね合わせて、重荷を背負う夏南を鼓舞しようというのだろうか。

人の精神を治す治療法の一種だろうか、それにしては何処か宗教の領域に足を踏み込んでいるような気がする。

「理由はどうであれ、こうして生きているだけで自分は強い、そう考えて暮らしていけというのが、医者から見た私に必要な治療ですか」

「麻酔を打っても、患部を切除しなければ治療にならないわ

私達には自らの力を使って生きる権利と義務があるのよ」

 イルタが立ち上がると、何かの信念が燃えているような熱い瞳でこちらを見据えた。

「弟を捨てろ、弟は俺を喰らい生きる生き物だと言いたいのですか」

 やはりイルタは、夏南が家族を捨てることを諦めた訳ではなかったのだ。

「早とちりはよくないわ

生き物の生存には適切な保護者が必要だということを、実例を持って知ってほしいだけ」

 今度は弟ー美冬が夏南の手に余るとでも言いたいのだろうか。夏南は我知らず拳に力が籠る。彼女は遠回しに弟を引き渡せと言ってきているのだ、受け入れられる筈はない。

美冬の傍に居て助けられるのは自分だけだ、少なくとも結晶を取り除けるは自分以外に適役などいない、はずである。

「弟は入院が必要なほど酷くはありません

外出に関しては、これから2人で少しずつできるようにしていきます」

「それでは前にいった通り、あなたが擦り切れてしまう

そう邪険にしないで、私は弟さんと同じくらい貴方を救いたいのよ」

 イルタが一歩こちらに踏み出した、診察室で見せたようにこちらの身体に触れながら説得しようというのだろう。

「なぜ、私をそうまで私に肩入れをするのですか

今日会ったばかりの記者ですよ」

 彼女が患者に接する所を見たことはないが、家族に心労の原因となる人間を抱えた人間への態度にしては、その親切さは度を越しているようにしか思えない。

「匂いかしら

私と貴方は何処か似ているような気がして、ほっとけなくて

この街は異国人に冷たいから、変に気持ちが入っちゃうのよね」

医者失格かしら、彼女はそう付け加えると夏南の隣に並び肩を寄せた。

拒みはしない、向かい合っては分からない彼女の中の何かが、こうして肩を並べれば見えるかもしれない一縷の望みがあったからだ。

「命はどんな過酷な環境でも生きなければならない

それは自らの遺伝子と記憶を後世に伝える義務を背負っているからよ

どんな代価を払っても遂げねばならない」

「義務を背負ったとしても、他人を犠牲にすることが許される筈はない

それにその言い方だと、犠牲になった人間も義務を背負っている事になる、貴女の言っていることは矛盾している」

彼女の中で、命はそれのみに価値があるのではなく、背負った義務を遂行する為に存在しているのだろうか。

何て窮屈な人なのだろう。

彼女がそんな歪なものを抱えながら、人々の為に手を尽くしていたのを目の当たりにして、夏南の中に同情の念が小さく生まれた。

「人間には、いえ私には人を救う知恵と経験があります

弟さんを預けて頂ければ、この部屋にある草花のように生きられる環境を与えてあげられる」

イルタの手が夏南の右手に指を絡める。

「病室で暮らせと言うのですか?

外の世界を見せる為にここまで連れ出したのです

鳥かごの中に押し込めるような真似は、例え高名な医者の助言でも私にはできません」

夏南はきっぱりとイルタの提案を断った。

妹を弟と偽った嘘がばれるからではなく、外に出たいが上手くいかない人間に諦めることをしようとする意見を飲むことはできない。

「ペンを握る仕事だけすることができますのよ

もう暴力を振るわなくていいのですよ」

 彼女の細い指先が、右手の拳打によって厚くなった皮の一部を優しくなぞった。

「手袋でもしてくれば良かったですかね」

「清濁を併せのんだ結果なら、埃はしても隠す必要はないわ」

正体がバレたのだろうか、いや家族の為に暴力沙汰に首を突っ込む記者であることは分かっている、そう言いたいのだろう。

「確かにあなたの言うとおりにすれば、楽に生きられるかもしれません

でも、2人で新しい人生を掴むって決めたんです、まだ変えられないって決まった訳ではありません」

夏南は右手を引いた、捨てることを肯定する女の手を取る訳にはいかない。

「ここまで愛されるなんて、あなたの弟さんはきっと幸せなのね」

「あたなも妹さんを愛していたのですから、多少は幸せにしてあげられたと思います」

 夏南はイルタから離れその姿を正面から見据えた。あれだけ凛々しく見えたその姿が、今は頼りなげに咲く花のように見えた。彼女が兄弟の中を割こうとする理由も、今ならある程度推測できる。

「だから、自分と同じ人間を増やす必要はないと思います」

 それを言った瞬間、夏南の中からイルタが容疑者だという事実が完全に消失していた。

虚を突かれたようにイルタの顔が呆けたが、直ぐに柔和な笑みを取り戻す。

「ありがとう

でもこれが私の生き方なの、走り出した以上止まらないわ」

 乾いた、今にも泣きそうな声。

しかし、その青く澄んだ瞳には見る者を威圧するような決意が、荒れ狂う海のように溢れ、何か言葉を掛けようとする意思を打ち砕いた。

彼女はこの事件の中心に居る、代わりに確かな核心が夏南の中で生まれたのであった。

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