第20話

リンゴン!

 夏南が鐘から垂れた紐を引くと、錆が沸いた鐘がその小さな姿からは想像もつかない程けたたましく鳴り響いた。夏南は今、イルタ医院の玄関前に立っている。この音量では近所迷惑ではないかそう思い辺りを見回すが、ここは町外れの古びた貴族の邸宅を改造した医院、周囲に民家は無く広い芝生が広がっているだけなので、その心配は無さそうである。

 玄関が開く前に、夏南は自分の格好におかしなところはないかチェックをする。革靴、紺のスラックス、少しよれたシャツ、その胸ポケットにはメモ帳と万年筆。零細新聞社の記者、この装いであれば、そう名乗っても疑われることはまずないだろう。

 昨日、ミーリの部屋で捜査を終えた夏南は、その足でイルタ医院についての事前調査と中に入る手だてを求めてロンディニウム中を駆け回った。

服装は依然仕事で使った服を使い記者に成りすますことが出来たが、イルタ医院の情報はを手に入れるのに陽が沈むまでかかり、今日の朝出向く羽目になってしまった。

外科 内科、そして産婦人科の免許を持つイルタ医院の医師―イルタ・ハーランドは腕は立つが、その不明な出自と女性という二つの特徴から、根も葉もない醜聞と学会関係者からの軽視という環境に置かれており、正確な情報を掴むのに時間と金を要した。

そのかいもあって、彼女は貧富を問わず女性の患者を受け付けていることが分かり、それについて取材を申し込む形で医院の中に入る手を夏南は選ぶことができた。

今の彼女なら夏南の申し出を受けてくれる確率は高いはず。

残念ながら階級社会が形骸化したとは言え、今だその残滓が色濃く残るこのロンディニウムでは女性というだけで不当な扱いを受けることは未だに起こっている。

女性の財産所持、参政権についてこの国―アルビオンでは既に認められている。だがしかし、両権利が認められてからまだ50年も経っていない。故に社会の隅々まで浸透しているとは言い難く、イルタが医学学会や免許を発行した厚生省から、半ば無視された存在であることを集めた資料から知り思わず同情してしまった。

彼女も自分に張られたレッテルを剥がす機会がほしいはず、取材を申し込めば受け入れてくれる可能性が高い。正直、人の弱みに付け込むやり方に夏南は抵抗を感じている。故に彼女を取材して得た内容は、同じように偏見に苦しむ人々の為にも、伝手を通じて出版社から何らかの形で出してくれるよう頼んでみるつもりであった。

偽善と笑われるだろうが、理不尽な環境で苦しむ人を見過ごすことはできない。

しかし、イルタ医師が夏南の推理通りの人物であった場合、それは胸に秘め決して口外してはならないもになる。

物思いに耽っていた夏南だが、人の気配を感じて顔を上げると、雨風に晒され漆が所々剥がれた扉がゆっくりと開いた。

「ようこそ、イルタ医院へ」

人一人通れる程空いた扉の端から、女性が顔を出して挨拶する。

「あ、えっと……初めまして」

 夏南は慌てて頭を下げた、慌ててどうする、俺。久しぶりの記者への変装、以前作ったキャラは忘却の彼方。思い出すよりも早く、口からしどろもどろの返事が飛び出してしまった。

 虚を突かれて自己紹介が口から出なかった事を後悔しながら、夏南は恐る恐る頭を上げた。

「男の人が産婦人科に来るのは、奥さんが居れば何も不思議じゃないわ

そう硬くならないで、当医院ではパートナーのケアも行っていますので」

 目の前の女性は挙動不審な夏南を見て、妻のことで相談に来た夫と勘違いさせてしまったようだ。こういった場面は馴れているようで、その顔には、嫌味の無い柔らかな笑みを女は浮かべている。残念ながら新聞記者と身分を偽り取材を申し込もうとしている夏南には、その笑みは罪悪感を掻き立て本題を切り出すのを躊躇わせる防壁にしか見えなかった。

 女性は笑みを崩さずに扉を開けると、夏南の前にその姿を現した。

背中の中ほどまで伸びた金色の髪、陽の光など知らないとでも言っているかのような白い肌。ゆったりとした白衣の上からでも分かる程豊かな胸。背は夏南よりも小さいが、女性としては高い方だろう。

舞台女優と言われれば、無条件で信じてしまいそうな女性である。しかし煌びやかな印象は、ある違和感によって直ぐに洗い流されてしまった。美冬に似ている、日の光をあまり浴びていない白い肌のせいだろうか、小柄で折れそうな印象の妹と同じ何かを感じた。

「それで今日は奥さんの事で、どういったことを相談しに来たのかしら?

年上の方で更年期障害の兆候でも?」

 こちらを気遣う女性を裏切るようで悪いが、直ぐにイルタ先生に取り次いで貰おう。夏南はスラックスのポケットから名刺入れを取り出すと、中身を一枚取り出し女性へと差し出した。

「私はフリーの記者で、名前は『秋』と申します

新聞社『デイズ』など複数の新聞社や出版社に寄稿させてもらっております」

 突然差し出された名刺に女性は驚いたようで、一瞬呆けたような顔を見せたると恐る恐るといった手つきで名刺を受け取った。

女性は訝しげに名刺を凝視しているが、それは前に別件の仕事で作った本物の名刺だ。大半の出版社や編集者には、専属記者の他にフリーランスの記者と契約している。情報を売り買いするだけの関係では機密が漏れる危険がある為、双方に利益が出る規約で契約を交わしている。

夏南は偽名を使って複数の中小企業と契約しているが、フリーランスの記者は数が多く、また一回きりの取引しかしないことが殆どで、中小の会社は管理が行き届いてはおらず、『秋』という人物もその名と泊っている簡易宿泊所しか把握してはいない。

イルタ医院の誰かが何処に秋という名の人間が居るか聞いても、登録の有る無しが分かる程度で、取材の真贋までは知ることは無い。

問題は時に悪辣な醜聞を書いてきたマスコミを、受け入れてくれるかどうかである。

女性が視線を上げる、その顔から笑みは消えていて、その目にははっきりと警戒の色があった。

「今日はどういう目的で、当医院にいらしゃったのでしょうか?」

 声から優しさが消える。

答えによっては、有無を言わさず扉を閉ざしてしまうだろう。

意を決して相手の目を正面から見つめる、そして事前に考えてあった話を切り出した。

「富める者貧しい者区別せず治療をする医師が居る、その話を聞いて今日この場に取材に参りました

読者が先生のことを知れば、根も葉もない噂で診療を避けていた自分の誤りに気付く筈です」

 嘘と本心の入り混じった言葉は、淀みなく夏南の口から放たれた。

女の表情は変わらない、だが僅かに視線を落とした、話の内容を吟味してしるのだろう。

沈黙、名誉回復を盾に取材を迫る手口に良心が軋む、野鳥の群れが一斉に羽ばたき近くの木が大仰に葉を鳴らした、それが合図かのように女がこちらを正面から見据えた。

「どの情報を信じるかは、結果も含めてその人個人のもの、それをどうこうしようとは考えてはおりません。

根拠の無い噂が幾ら立とうと、当医院は今だ何の損害も被ってはおりませんので」

 予想通り女性は取材を跳ねのけた。

やはりこの手を使うしかないのか、湧き上がる罪悪感を他所に、夏南は攻め手を相手の弱点へと変える。

「それは、この医院に限った話です

お金が無く行く病院も無い病人が、あなたの言う悪い噂によって、助かる道から遠ざけられてしまっているかもしれないのですよ」

 夏南の言葉に女性が大きく目を見開くと、奥歯を噛むのが分かった。。

この人は、患者の事を大切にしている人だ。

これまで何人も人踏み台にして私腹を肥やす人間を見て来た夏南だが、目の前の女性は少なくとも困っている人を見過ごせない人に見えた。

「立派なお考えをお持ちの方のようですが、時として人の口と手は別な結果を生み出します

病人を気にされているのなら、彼らが病床で喜ぶような記事を書くのがよろしいのではなくて?」

 女性は夏南の話をこの場限りの嘘と受け取ったようだ。以前に調子の良いことを言って、話を捻じ曲げて記事にされたことがあるのだろう。周りが全て信用のならない敵に見えてしまう、その心情をかつて嫌と言うほど味わったことがある夏南には、目の前の女性に首を縦に振らせる為には何が必要か瞬時に分かった。

これは美冬の為じゃない、俺の為だ。

「最近の新聞は読者を喜ばせる記事ばかり載せておりますが、真実を伝える使命を忘れた訳ではありません

同じ『異人』として、この街で働く人に手助けをしたいというささやかな気持ちもあります」

 夏南は決して切りたくはなかったカードを場に出した。

 イルタの経歴を調べると彼女がこの国の人間ではなく、東の華国から知人を頼ってこのロンディニウムにやって来たことを知った。そこで生薬を用いる華薬医学を学んだことは、華国政府の記録に残っているので信じていいだろう。ロンディニウムに漢薬医学を行う者は多くはないが存在する、それなのに女性というだけで必要以上に余所者扱いされたとなれば、同じような境遇の人間が目の前に現れれば親近感を抱く確率は高くなるだろう。

詐欺師の理論だ、こんな姿美冬には見せられない。

「華国の方ですか?」

 女性の視線から刺すような棘が幾分消える。

「その隣の東国で生まれました

この国の人には、どちらの国に住む人間も同じにようですけど」

 漢薬を扱う薬局に住んでいると、その辺を嫌と言うほど間違えらて来たので嘘には聞こえないだろう。

「私は逆ですわね」

 そう言うと女性は長い髪を指ですいた。まるで金の針の如き髪が陽の光を浴びて輝く。

「父の血の影響でしょう

この白い肌とこの髪の色のせいで、華国の人間と言うと大抵冗談と取られるわ

この医院を建ててもう5年も経っているのにね」

女性は記者と名乗る前に見せた笑みを、もう一度夏南へと向けてくれた。

夏南も釣られた振りをして笑う。

危うく大きなミスを犯すところであった。

イルタはマスコミに対して頑なに顔出しを拒否しており、巷に出回っているのは遠くから撮影した顔のよく分からない写真と、悪意に満ちた似顔絵のみである。

策が全て尽きた場合、何かと理由をつけて無理に押し入ろうかと考えていたが、そんなことを目の前の女性の前ですれば、イルタ医師に取材をする機会を永遠に失うところであったのだ。

 相手が身分を隠す可能性を考えておらず、夏南は一杯食わされてしまった。

「失礼ですが、貴女のお名前は?」

恥ずかしが混じり、声のトーンが僅かに上がる。

それに気づいたようで、女性が悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「イルタ・ハーランド

この医院で医師を務めております」

 女性ーイルタはそう言うと、白衣の裾を軽く持ち上げ貴族が社交界で見せるような恭しい会釈をした。

美冬に似ているという印象は一瞬で消え、入れ替わりに意地悪く笑うシィの姿がイルタに重なる。

イルタのマスコミ関係者に対する悪戯であってほしいが、もしあのシィと同種の人間なら、これからの会話でこちらの化けの皮を剥がそうとして来るかもしれない。

油断は出来ない、夏南は無意識に襟を正した。

その時一陣の強風が吹き抜けると、巻き上げた土埃を二人の体に容赦なく浴びせた。思わず手で顔を覆う夏南とイルタ。風が止み服に付いた土埃を払っていた夏南の髪へ、イルタの手が伸び絡まった砂を優しく払った。

「この時期の風は人が外に出ることを良く思っていないようね

取材をなさるなら、病院の中の方が良いですわ」

 彼女は扉を開け病院へと入ると、こちらに向かって手招きをした。

少し危うかったが、イルタに近づく第一関門はこれでクリアだ。

「あら良い匂い」

 扉を潜る際、イルタがすれ違い様の呟きを夏南ははっきりと聞いた。仕事柄、汗や油の臭いを指摘されたことはあるが、良いと言ってくれた人は美冬以外知らない。

夏南が何が良い匂いだったのか聞くか聞かないか迷っていると、イルタは玄関を閉め着いて来るよう言うと、一人建物の奥へと歩き出した。

夏南は疑問を胸に仕舞うと、彼女の背中を追った。


病院のロビーに足を踏み入れた夏南は、その大きさに思わず天井を仰いだ。元はサロンだったのだろう、軽く50人が座れるスペースがある。3階まで吹き抜けとなった天井は遥に頭上にあり、病院には不釣り合いな金の光沢を放つシャンデリアが幾つもぶら下がっていた。

 周囲に目を向けると、貴族が所有していた時代の名残がそのまま残されているようで、台に置かれた壺や壁に掛けられた風景画も年代ものが揃っており、とても病院には見えなかった。

事前調査でこの病院が戦前に建てられた貴族の屋敷を改築した物と知ってはいたが、街の個人経営の病院と比べて施設の規模は格段に大きく、それ以上に清潔であった。

だが施設の煌びやかさは直ぐに新鮮さを失い、替わりに人の気配が全くしない広い空間が、夏南の目に不気味な物へと映り始めた。

イルタが診察しているところを知りたくて平日に尋ねたのだが、 思ったほど繁盛していない病院ではないのだろうか?

「どうぞお気を楽にして下さい

さぁ、奥へとまいりましょう」

 経営状況を聞くかどうか迷っていると、イルタは緊張していると受け取ったのだろう、にこやかに微笑むと奥の扉へと歩き出した。

 疑問を胸に仕舞いイルタの背中に続く、扉を潜り長い廊下を歩いて行くと、彼女は応接室と表札が掛けられた扉の前で立ち止まった。

元貴族の屋敷、応接室が引き継がれていても不思議ではない、だが夏南は調査の為に来ている、当たり障りのない部屋を見たところで、目の前の女が連続失踪殺人事件に関与しているかどうかの手がかりは掴めない。

「診察室でお話を聞かせて頂く事は出来ないでしょうか

あなたが普段どんな場所で仕事をしているか知りたいです」

 少し強引な話の持っていき方だったか。

 夏南の提案にイルタは一瞬困ったような顔をしたが、

「診察をご希望かしら?」

 そう言うと蠱惑的な微笑みを浮かべた。

「生憎と体が丈夫なだけが取り柄なもので

診察室を見せて頂かなければ、好奇心が満たされず本当に病んでしまうかもしれません」

「この病院に来て病気を治すどころか、病気になったなんてことになったら大変ね

少し歩くわ、診察室は建物の反対側なの」

 彼女は笑うと今歩いてきた道を戻り始める。

 夏南は胸を撫で下ろしすと、再びイルタの背中を追う。

 応接室に罠が仕掛けてある可能性も考えていたので、イルタがすんなりと診察室へ入ることを許してくれたのは以外であった。

 しかし、小さなトラブルはあったものの話が順調に進み過ぎてはいないだろうか?

 ふと胸に浮かんだ疑念が警告を発した。

 自分がしているように、彼女も自分を調べようとしているのではないだろうか?

 イルタがこちらの疑念に察したかのように、突然振り返った。

「疲れているみたいね

何か悩みごとがあったら相談に乗るわよ」

 そしてまた微笑んだ。

 油断はならない、夏南は襟を正して息を吸い込んだ。

二人は来た道を戻ると再びロビーにやって来た。イルタに誘われた夏南は、先ほどとは反対側の扉を潜る。廊下に足を踏み入れると、先ほどとは違い明るく夏南は思わず目を細めた。

廊下を進むと殆どの窓にはレースのカーテンが掛けられていて、イルタは目の悪い患者が足元が良く見えて転ばない為だと言った。

廊下の扉側には小さな絵画が時折掛けられていて、残念ながら良さは分からなかったが、川や海に噴水など水に関するものばかりで、これを揃えたであろう貴族の嗜好の残滓がそこにはあった。

間もなく二人は、診察室と書かれた表札が吊るされている扉の前へとやって来た。イルタが扉を開けると、夏南もその背中に続いて室内に足を踏み入れる。ツンとこれまでに無い濃厚な消毒液の臭いに鼻を突かれ、夏南は思わず顔をしかめた。

「ごめんなさい

院内感染の危険があるから、いつも念入りに消毒してるの」

「良く怪我をするんで、消毒液の臭いが少し苦手なんです

気に障ったのならすみません」

 軽く頭を下げた夏南の姿を見て、イルタは小さく噴き出した。

「危険な取材もなさっている様ですね

それとも、やんちゃなだけかしら」

何かを見透かしたように微笑むと、イルタは部屋の中央に置かれた椅子に腰かけると、隣に置かれた患者用の椅子に座るように促した。夏南が腰かけると、クッションの薄い椅子が小さく音を立てた。夏南とイルタは向かい合う形で座っている、互いの膝と膝の間は30センチも開いていない、医者と患者ならよくある距離、敵同士なら1秒もあれば相手の息の根を止められる必殺の距離。

イルタに気取られずに、事件との関係を探らねばならない。

夏南は我知らずに、攻撃動作に入る前にするように小さく息を吸い込んだ。

「始めに一つ

もし取材の最中に患者が来たら、そちらの治療を優先させて頂きます」

 イルタの顔から笑みが消え僅かに鋭さが増す、この顔が医者としての彼女の顔なのだろう。

 優しいだけの医者ではないのだろう、夏南は小さく頷いて答えた。

 これからインタビューに入るのだが、夏南はメモ帳を上着のポケットから取り出しながら、素早く周囲に目を走らせた。

客間を改造して作られた診察室のようで、7、8メルトル四方の空間を窓とキャビネットや棚に囲まれた部屋だ。窓の向こうは中庭だが、廊下と同じようにレースのカーテンで仕切られ窺うことはできない。棚には様々な薬品のビンが並びその合間に書類が少し置かれている、キャビネットの扉には小さく文字が書かれている、ここからでは読めないが探せばすぐに患者のカルテが調べられそうだ。

入って来た入り口から見て右手に扉が一つ備え付けられている、見知っている病院の構造から考えると、厳重な保管が必要な薬が置かれている可能性が高い。

床下、壁の向こう、天井の裏、そこに人の気配は無い、奇襲の心配はしなくても良さそうだ。

少し気を緩める夏南、逆にイルタは髪を手櫛で解かすと唇を舐めた、余裕そうに見えた彼女だが緊張しているようだ。

「まず、この街に来た経緯を宜しければ、話して頂けないでしょうか?」

「そこから話さなきゃだめなの?」

「記事にはあなたの経歴も載せますので」

「スリーサイズは必要?」

 蠱惑的な声でイルタが囁く。

「医者を知るには必要ないでしょう

もっとも翼が這えているとか、脚が蛇だったら事前に知らせておいた方がいいかとおもいます」

 お伽噺が好きなのね、イルタは小さく笑った。

 もしやと思ったが蛇という単語には何の反応も示さなかった。

「華国って秋さんは知ってます?」

「人の噂や書物で知っている程度です

実際に行った事はありません」

 夏南の言葉にイルタは何故かほっとした顔をした。

「身寄りのない私が、生きるのに必要なものを全て与えてくれた国よ

そして、それを全て奪った国でもあるのよ」

 イルタの目が何処か遠くへと向けられる。

「綺麗な話じゃないわ

あなたの華国のイメージが壊れるかもしれないわ」

「これでも、国や家族へ幻想は経験住済みです

どうぞお気になさらず」

 夏南はイルタの言葉をさらりと流した。

 彼女もまた身近なものに裏切られたのだろう、気にはなるが下手に触れては内偵対象に情を抱いて捜査に支障がでかねない。

 イルタの青い目が再び此処ではない何処かへと向けられると、赤い口紅が引かれた唇が静かなに動き始めた。

 イルタは物心ついた時には孤児で、生きるために華国の各地を転々としていたという。

 

放浪の日々の果て、病に倒れた所とある山奥で一人の医師に拾われたことが彼女の人生の転機となった。医師は高齢の男性で妻も子も助手も無く、一人各地を廻りながら診療を行っていた。イルタは完治も医者の元に留まり、助手として彼をサポートしながら医術を学んだのだという。

 月日は流れ、医者の丁寧な診療は多くの人から評価されるようになり、イルタと医師も何時しか本当の親子の様な絆で結ばれ、幸せな時間が訪れたとイルタは優しい声で語った。

 しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。

医者は国内で起こったある紛争に従軍医として駆り出され、イルタの元へ2度と戻らなかった。

 よくある話でしょう、イルタは笑って話を締めくくった。

夏南は黙ったまま、肯定も否定もしない。

大切な者を失った悲しみを飲み込んだ者の目を前に、どんな言葉も意味を持たないことを故郷で嫌というほど思い知らされたからだ。。 戦士だろうが医師だろうが、日常的に死を見ている者でも親しい者の死を受け入れるには時間が必要なのだ。

ボーン、ボーン!

イルタの話が終わるのに合わせたかのように、何処かで時計が鳴った。イルタは、思い浮かべた過去の光景に浸るかのように瞼を閉じる。夏南はスラックスのポケットから懐中時計を取り出した、時刻は午後2時、2時間以上彼女の思い出話に付き合っていた、喉が軽い渇きを訴えていることに気が付いた。

話の最中に詰まる所や矛盾は見られなかった、彼女の経歴と突き合わせて検証する必要はあるが、大筋で嘘は言ってはいないように思われる。

それにしても絵に描いたような悲劇的だ。

苦境を乗り越えて人々の為に働いているイルタに、夏南は胸の中で称賛を送った。

口にしなかったのは、胸の底で微かに生まれた嫉妬をはっきりと意識してしまったからだ。

父から戦いを含め多くの物を教わった、だが母を犠牲にし妹を生贄にしようとしている事をしった時、尊敬の念は消え明確な敵となってしまった、思い出して笑うことなどできない。

「お父さんのこと好きだったのですね」

 夏南は一瞬目の前の女を疑う事を忘れてしまうと、思ってもいない言葉が口をついた。

「最後までお父さんと呼べなかったけれどね

酒癖も悪かったし、借りた部屋は汚しっぱなし、何より腕は一流とは言えないわ、今なら分かるけど」

 それでも患者が信頼に値する医者よと、イルタが誇らしげに言った。

「家族にだけ見せる顔ってありますよね

それ程までに、あなたのことを信頼いたんだと思います」

 何処かで聞いた台詞を夏南は口にした。

 彼女から情報を聞き出すんだ、自分の過去など今はどうでもいい。

脳裏に浮かんだ父の顔を振り払う。

「話を聞いた限りだと、お父さんの患者さんは残っていると思うのですが

どうしてこの国へ?」

 長い話を終えたイルタへ休みを与えることなく、夏南は次の質問を切り出した。

「家族の話はお嫌いかしら?」

 イルタの言葉に夏南の心臓がドクンと一瞬跳ねた。動揺が顔に出てしまったのだろうか。イルタと目が合う、澄んだ彼女の目が陽光に照らされた刃の如く輝いたようなきがした

「すみません、父とは余り話した記憶がなかったもので

そのせいか、人が話す父親の話に乗りづらくて

これでは記者失格ですね」

 自嘲気味に笑って誤魔化した。

御免なさい、イルタは嘘交じりの話なのに直ぐに謝ってくれた、胸が痛い。

「父の患者は大勢いたわ、けれど私は医師免許を持っていない只の助手

資格を取ろうにも学費の宛も無い、そんな時に父の友人だった人から、この屋敷の前の持ち主を紹介されたのよ

医者に成れなかった夢を替わりに叶えてくれ、その期待には彼が病死する間際に果たせたわ」

夏南はメモを書く手を止め、イルタの顔を覗くとそこには憐憫しかなかった。

新しい家族とはいえ、自分では手の施しようがない病人と一緒にいたのだ、早く医者になろうと苦労したことは容易に想像できた。

 彼女の話は続き、医師免許取得後に相続した遺産を使い屋敷を病院に改築、父の意思を継いで貧富を問わない患者の治療を続け、こうしてインタビューを受けているところで終わった。

まるで小説のような話だ、生と死が同居した中で育った経験がある夏南でさえもそう思ってしまう程、彼女の話は苦渋と誇りに満ちていた。

それなのに話の中で威張るような様子は見られなかった。産婦人科、外科、内科など複数にわたる資格を有しているのに。もし夏南が同じ立場になったら、傲慢にならない自身は無い。

しかし疑問1つ残る。

ここに来る前に新聞、雑誌を可能な限り調べたが、話の前半部分である華国での生い立ちについて書かれたものは無く、夏南は今初めて知ったのだ。

「苦労されたのですね

珍しい話を聞かせて頂きありがとうございます」

「あら、私の生い立ちなんて今まで来た記者が散々書いてるわよ」

「華国の話は調べた限り何処にもありませんでした」

「当然よ、話していないもの

あたな以外にはね」

 そう言うと、イルタは蠱惑的に微笑むと乾いた唇を舐めた。

「信用して頂いた、そう受け取ってよろしいですか?」

「同郷の誼かしら?」

「国が違いますよ」

 この国の人間には東も華の区別はないわ、呆れた声でイルタが言った。

よく華国の大多数を占める華民族と間違われるので夏南は頷くと、どちらともなく小さく笑った。

そろそろ本格的に探りをいれても良いだろう。

昨日、夏南はイルタの身辺調査の途中で、今回の事件の被害者と思われるミーリ以外の人間について、ヨォドとクルトから情報を得ていた。調書は既に無く記憶に頼った情報だったが、何人かはイルタ医院に通っていたという。1人、2人名前を出してイルタ医院の評判を聞いたと切り出してみようか。

「秋さんもお1人でこのロンディニウムへ?」

 不意に彼女から質問が飛んで来た。

インタビューの時に逆に質問されることは希にあるが、大半は容疑者が痛いところを突かれての意趣返しである。

イルタの顔を覗くと笑顔は変わらずそこにあり、悪意があるようには見えなかった。

「いえ、弟と一緒に知り合いの家で居候させて貰ってます

 今頃、狭い店内で店番しながらのんびりしているところでしょうか」

 夏南は事前に用意していた嘘を付いた。美冬のことは話せない。イルタが事件関係者なら、ミーリとバロウが殺された現場に男女2人が乱入したことを知っている可能性があるからだ。

「それは残念ね、妹さんなら内で雇ってあげられたのに」

 そう言いった後イルタは1人頷くと、

「弟さんに、女にならないかと聞いてみてくれないかしら」

 冗談とも本気ともつかない顔でとんでもないことを口にした。

「華国で学んだ治療法はもうやって無いのですか?

あなたについてかかれた記事を読んでも、それらしいことは書かれていなかったもので」

 夏南は診療室を見回すと別な話題を切り出した。

「秋さんは、漢薬を見たことはおあり?」

「知り合いの薬屋でよく見てます」

「大半が光と湿気に弱い物で、隣の暗室と地下で保管しております

今も治療に必要な時に使っております」

 見せてほしい、夏南は頼んでみたがものの劇薬もあるのでときつめに断られてしまった。

漢薬には、この国で認可の降りていない物が多数存在する。シィも隠れて問い扱っていると言っていたが、同じように見せてはくてなかった。彼女の持つ漢薬の中に何か事件を解く鍵があればと思ったが、こう取り着く島もない様子だと、後日忍びこんで調べるしかないだろう。

「それは失礼

ただ、知り合いが嬉しそうに人の身体から作られた薬を眺める姿を見ていると、イルタ先生が同じようなことをしているなんて想像できませんので、薬を前にしたあなたを一度見て見たかっただけです」

 夏南は食い下がらずあっさりと身を引いた。

「人の身体?」

 イルタは夏南が冗談半分で言った言葉を、何故かおうむ返しに口にした。何か気にさわったのだろうか。注意深く彼女の顔を覗くと、眉間に皺を寄せ何か考え込んでいるように見えた。

「同じ人の身体から作られた薬を飲むことに、夏南さんは抵抗があるのですか?」

 イルタが小首を傾げた。

それが何であれ彼女に取っては単なる薬、効能以外を気にすることなど無いのだろう。

「体に良いと言われても、人の身体の一部を飲めと言われたら、私は良い気分はしませんね」

 夏南は以前、シィに言った返答を口にした。

 人由来の薬を飲むことは、人が人を喰うに等しいと思う。夏南は戦場で人が龍に喰われるのを何度も見て来たので、人一倍忌避感があることを自覚している。それは治療拒否だとシィに怒鳴られたが、美冬を助ける為と言われない限り曲げる気はない。

「自分の命が助かるとしても?」

 夏南は間髪入れずに頷いた。

 それを聞いたイルタは身を乗り出して夏南の頬に手を当てると、鼻と鼻が触れる程顔を近づけた。消毒液の臭いを押しのけて、甘い香水のような香りが鼻孔を擽る。息がかかる程の距離で彼女の目がこちらの目を除き込む。

 夏南は息を飲んだ。

 彼女の瞳には、人間を理解の出来ない異物として写して死んでいった人外達と同じ光を宿していた。

「死者は何も守れない

同族を食らってでも成さねばならぬ事がある、それが命ではなくて」

 沈黙、イルタの目が欺瞞を許さぬと言うかのように鋭く輝く。

命を救う使命を全うしてきた故の鋭さだろうか、夏南が気圧される何かをイルタからはっきりと感じる。

「犠牲を重ねて得たもので守ったとしても、それは幸せとは言えない」

 胸の底から言葉を掬い上げ、こちらを見据える鋼の瞳へとぶつけた。里を棄てたという罪悪感が疼く、人を犠牲にしてきた一族だ、そう自分に言い聞かせる。イルタの口の端が僅かに吊り上がると、その瞳に柔和な光が戻り彼女は椅子へと座り直した。

「ごめんなさい、意地悪な質問をしてしまったわ

あなたには、守らなければならないものがあるのね

聞かせてくれないかしら?」

 彼女がデスクに頬杖をついて微笑んだ。

 彼女の一言で話を聞く者とする者が入れ替わろうとしている。

イルタの意図は読めないが、ここで断っては信用を失い、今後情報を引き出す妨げになる恐れがある。

 夏南は容易して来た偽りの経歴をイルタに語った。弟と一緒に商社をやっている知り合いの家で暮らしている。薬屋と言えば、イルタが伝手を辿って調べられる危険があるので変えてある、その他は美冬の性別以外は弄ってはおらず、予想外の質問に応えても大きな齟齬はでない筈だ。

「秋さんは随分と弟思いの方なのですね

私も妹が居たわ

秋さんの弟さんと一緒で、内向的で体が弱くて危なっかしくて見てられなかったわ」

イルタに妹がいる、ここに来て出た新しい情報に、夏南は思わず身を乗りだしかけた。

もしも、彼女の妹がこの近くに住んでいるなら、姉の行動に怪しいところがあるのかどうか聞けるかもしれない。

しかし、イルタの語り口に引っかかるところがある。

「妹さんはご結婚でもされたのですか?」

彼女は過去形で語った、既に妹は彼女の庇護を離れたのだろう。

「結婚?

ルリアはそんな歳にもなれなかったわ」

「……すみません、嫌なことを思い出させてしまって」

「気にしないでいいわ

命ある者同士、別れは必ず訪れるわ」

 彼女の妹ーリルアと言う名の少女は既に亡くなっていたのだ。

正直落胆したが、顔色一つ変えずに語ってくれたイルタの瞳が、一瞬泣きそうな気配を見てしまい、顔に出ぬよう平静を装った。

「済んでしまったことはしょうがないわ

それよりも、生者はこれからを考えて生きるなければいけないのよ」

夏南は首肯すると、イルタは頬杖を止めて背筋を正した。

「私の話はこれでお仕舞

取材にもっと強力してあげたいけれど、どうやら診察しなければいけない人が来たみたいね」

 イルタが突然、インタビューの終了を切り出してきた。患者が来たら終了する約束であったので、ここで退室しなければいけい。夏南は周囲を見回した後、イルタへ視線を戻した、玄関の鐘は鳴ってはいない、彼女はどうやって患者の到来を知ったのだろう。

何らかの合図を受け取ったのだろうか、気にはなったが敢えて聞くことはしなかった。

このまま帰る振りをして、この屋敷を調べる為だ。

「では、私はこれで失礼します」

 夏南は椅子から立ち上がろうとしたが、逃さぬと言わんばかりにイルタが身を乗り出すとこちらの手を掴んだ。

「患者はあなたです、秋さん」

 この医者は何を言いだしたのだろう。

 予想もしなかった言葉を浴びせられた夏南は、思わずイルタの顔を覗き込んだ。

からかわれているのだろうか、だが彼女の目は笑っていないどころか、こちらの身を案じているのが一目で分かる程、憂いを湛えた真摯な光が宿っていた。

「酷く疲れた顔をしています

ここ最近、寝つきが悪いのではなくて?」

 夏南は取り合えず首を縦に振って答えた。

彼女の意図は分からないが、龍が現れてからというもの寝つきが悪いのは事実である。

「どうぞお構いなく

仕事に身を入れすぎると、よく寝不足になってしまうんです」

「ご家族の方も心配してらっしゃるのではなくて」

「弟からよく小言は貰ってます」

 イルタがふっと柔らかな笑みを見せた、だがこちらの手を掴む強さは緩まなかった。

「弟さんのことがよく話に出て来るわね

世話を焼かれるのを煙たがっているように見えて、弟さんのことを常に気にかけている

自分以上にね」

 顔を近づけたイルタが、蠱惑的に微笑んだ。

「何が言いたいのですか?」

「あなたが気付いていないこと

目を背けていることを言葉にしてあげようとしているの」

 イルタの瞳が怪しく冷たい光を一瞬放った。すると肌が泡立ち、部屋の空気が急激に下がったような錯覚に襲われる。幻覚や精神支配の術識をイルタが使ったのだろうか、しかし術が発動した気配は一切感じない。

「生憎、何処かから金を貰ってゴシップを書いた経験はありません

やましさを覚えるような仕事なんて、私みたいな泡沫記者には回って来ませんよ」

 夏南は身を引いたが、イルタの顔が直ぐに距離を詰めると耳に吐息を吹きかける。

「仕事じゃないわ

……あなたの弟さんのことよ」

 何を言っているんだ?

意図が分からず横目でイルタを見ると、見透かすような底知れぬ目がそこにはあった。

「あたなはいつも弟さんを気にかけている

仕事は勿論、プライベートも兄弟の為に費やしている

私の見立て、外れていますか?」

美冬の顔が頭を過る。

この街に来て1年、美冬に体内にある結晶を取り除く為に奔走して来た。その間、彼女の事を忘れたことはない。夏南は首を横に振って答えた、イルタが何を話そうとしているのか興味があった、しかしそれ以上に彼女がこちらの何事かを暴く為に、笑顔に隠された本性を現そうとしている気配を感じたからだ。

「弟さんが外に出ようとしないのは病気だからではないわね、もしかすると心の病ではなくて?」

「故郷では親のせいで外に出して貰えなかったんだ

まだ、この街に慣れていないだけですよ」

今度は否定する為に首を振った。

だがイルタの言った一言が、夏南の胸に染みのように広がり小さな動揺を生んでいく。

心の病、今までそう疑ったことはなかった。

「残念ながら現代医学では、人の精神の病理を取り除くことはできません

門外漢の秋さんには、弟さんに寄り添うことは出来ても、問題を取り除くことは無理があるわ」

 イルタのペースに乗せられ始めている。

そう本能が警告をするが、美冬の問題を取り除くことはできない、そう言われたような気がして、思わずイルタを睨んでしまった。

「怖い目ね

でもそれはあなたが弟さんを思っている証拠、

弟さんもきっと同じように思っているわ」

左手の指と指の間に、女の指がまるでうねる蛇のように絡まって来る。

「だからこそ気付かなければいけないわ

自分自身を縛る重荷の存在に」

 首筋に掛かるイルタの吐息、声音は甘く意思の弱い患者なら彼女の手に、言われるまま命を委ねてしまうだろう。

美冬の顔が一瞬脳裏を過った、慌てて息を吐いてかき消す。今の自分を見られてはいけない。いや、今彼女の事を思ってはいけない。

「締め切りに金欠、この街で生きる人間なら、大半が似たような不安を抱えている

気付いたからといって人生、自分の外側にある問題だ、直ぐに変わりはしないでしょう」

冗談めかした反撃、しかしイルタは構わずその体重をこちらに預けて来た。

「やりたい事がいっぱいあるのでしょう?

こんな健康的な体が、ちっぽけな存在によって窮屈な世界に縛り付けられているのなら、それはもう病と一緒よ」

 殺気を浴びたような錯覚、思わずイルタの手を払った。

彼女は一歩離れると弾かれた手を摩りながら、こちらを悠然と見下ろしている。

「家族を見捨てろというのか?」

 散々遠回りをして現れた医者の真意が、患者に大切な者を捨て去る決断を仄めかすもので、夏南は彼女が容疑者という事を一瞬忘れて目を見張ってしまった。

「そう極端に受け取らないでほしいわ

ただ、自分の今後を考えて欲しいだけよ」

言われなくても自分は、いや俺たちは自分たちの人生を生きる為にこの街にやって来た。

そうはっきりと言ってやりたかったが、嘘の経歴が綻びを見せ、妹の存在を隠したことを感づかれてしまう。

「窮屈な田舎じゃ俺たちは幸せにはなれない

自由に生きる為に、二人で幾つもの国と海を越えて来た

これからも一緒だ、捨てることはありえない」

少し怒気を含んだ声が喉から出た。

「それは共依存というものです

心理的に辛い環境が、貴方たち兄弟に歪な関係を結ばせるのを手伝った結果、故郷を離れても今度はそれが2人を縛っている」

夏南は歪な関係という言葉を浴びせられ息を飲んだ。

自分と美冬、互いに男女として見ていることは自覚している。キスを交わしあう仲だが、それはいたずらや冗談で済ませることができる浅いものでしかない。その関係の発端に故郷での2人の境遇が絡んでいることを改めて突き付けられてしまい、夏南は動揺を隠すことを一瞬忘れてしまった。

イルタが向けられた怒りに臆することなく、再び夏南に近づき手に触れた。

「私の元へ来なさい、秋さん

本当に必要なものは、手の施しようの無い患者なのではなく、あなたと共に未来を作ってくれるパートナーよ」

医者から患者への助言とは思えぬほど、イルタの声は濡れていた。心の病を治すために入院を勧めている訳ではない。言葉通りなら彼女は相棒として夏南を欲しているのだ。

誘惑されている、一体なんの為に?

イルタはまだ連続失踪殺人事件の黒幕候補から外れていない。ここで首を縦に振れば、真相に迫れるかもしれない。だが、その為には弟ー美冬を見捨てる事を宣言しなければならない、合理的に判断するなら答えは一つだ。

「相棒なら他を当たってくれ

俺たちは自分の人生を掴むためにここに居る

大切な人を見捨てたら自分が自分じゃなくなってしまう

そんなことをしたら、見捨てた相手どころか自分で自分を嫌いになっちまう」

 美冬は守る、事件は解決する、夏南は両方を取った。真相に至る機会を一つ逃すことになるが、美冬を不幸にする嘘はつけない。自分の覚悟は宣言した、さぁどう出るイルタ。

 夏南は臆することなくイルタを見据えた。

ここで本性を晒して消しにかかって来ても、その胸に突き立てるナイフは胸ポケットに忍ばせているぞ。

 重ねられたイルタの手が僅かに震えるのが分かった。次いでイルタの目が泳ぎ、これまで見せた事がない顔を見せると後ろへ下がった。そして、俯いて薄く紅の引かれた唇で爪を噛むと、一瞬こちらを睨むと俯いてしまった。

夏南の気迫の籠った反発に気圧された訳ではないのだろう、であれば今口にした言葉の何かが彼女を傷つけたのだろうか。

「すいません

弟を見捨てろなんて、医者の口から聞かされるなんて思わなかったもので」

「こちらこそ出すぎたことを言ってしまったわ

少し似てると思って気持ちが入り過ぎてしまったみたいね」

イルタは椅子に座ると大きくため息をつくと、背もたれに倒れ込むかのように体重を掛けた。

「ルリアさんも病気か何かだったのですか?」

疲れ切ったように見えたイルタだが、夏南は追い縋るように質問をぶつけた。

彼女の誘いは明らかに強引であった。

似ていると言ったのが自分の境遇なのだとしたら、彼女の態度は腑に落ちる。

「優しいだけの人かと思ったら、結構厳しいところもお持ちなのね」

「一応これでも記者ですから」

 何が可笑しいのか、イルタは子供のような無邪気な顔で笑った。涙を指で拭う、途方も無く間抜けなことを言ってしまったのだろうか。馬鹿にされているのか、一抹の不安が胸のそこから込み上げて来たが、イルタの周囲を顧みない仕草を見ていると、どうでもよくなっていった。

自分は今、この人の笑顔を初めてみているのだろうから。

「私もまだまだね

きっと私も貴方の強さの半分でもあったなら、ルリアと一緒に居られたのかもしれない」

夏南は息を飲んだ、イルタが見せた本当の笑顔、それは感情の振り切れた者が見せる笑みであったのだ。

「妹ールリアさんを見捨てたのですね」

小刻みに体を震わせていたイルタが一瞬で硬直する。沈黙、部屋の空気が急激に冷えたような錯覚に陥る。イルタの顔から笑顔が剥がれ、鋭い瞳が刃物のような視線でこちらを射抜く。

怒りというより殺気に近い感情をぶつけられるも、夏南は視線を外すことは無かった。

勝負だ、今夏南はイルタが抱える者の核心を突いたのだ、ここで引いたら彼女は二度と話す機会を与えてはくれないだろう。

「そうよ

自分が、いえ一族の者が生き残るには見捨てるしかなかったわ」

臆する事も自分を卑下することも無く、イルタは答えた。

イルタはこれまでの話で、生みの親について一切語っていなかった。彼女の反応から察するに、触れてほしくはなかったのだろう。罪悪感が鎌首を擡げ、このほんの僅かな時間で築き上げた物が失われると告げたが、人の命がかかっている以上ここで止まる訳にはいかない。

「何処にでもある土地の所有権を巡る争いが発端だったの

私たちの一族は武門でありながら争い事が苦手で、人里離れた山奥でひっそりと暮らしていたわ」

 イルタは先ほど見せた殺気が嘘であるかのような穏やかな口調で、誰にも話したことのない過去を語り始めた。

身近な親族だけで暮らしていた山に、ある日領地と資源を求めて多くの人間がやって来た。侵略者達は交渉する素振りすら見せず、武力を持ってイルタの家族達を排除しようとした。イルタ達は抵抗したが、戦いに置いて侵略者達は一枚も二枚も上手であった。

忽ち戦況は悪化、撤退の決断を下した時には既に手遅れで、山から逃れようとしたイルタの家族達は一人また一人と、完成していた包囲網に掛かり命を落としていった。

大人たちからはぐれたイルタは、妹ルリアの手を引いて山を走り続けた。事態の拡散を恐れた侵略者達の追撃は苛烈を極め、幼い2人は追い詰められてしまった。逃亡の途中に怪我を負ったルリアの体力は、限界を迎えておりイルタは自らの命と引き換えに、妹を見逃して貰う覚悟を決めた。

しかしルリアはそれを拒否して、大声を上げると2人で死ぬか1人で逃げるかを姉に迫ったという。イルタは迷った挙句、1人その場を後にした。妹と一緒に死にたかったが、族長の娘として父から血を絶やすなと、一緒に逃げている間に交わした約束を破ることは出来ず、泣きながら逃げるしかなかったと、彼女は語り話を終えた。

「……他に逃げ延びた人は居なかったのですね」

イルタは静かに首を縦に振った。

「義父に拾われてから一度見に行ったけれど、村は廃墟と化して誰も居なかったわ

後から風の噂で、私たちを襲った奴らが龍の生息域に誤って入ってしまって全員殺されたと聞いたわ」

話の思わぬ結末に夏南は、かける言葉が直ぐには見つけられたなった。

幼くして家族親類と死別、突如降りかかった災難にそれをもたらした相手への怒りもあっただろうが、与り知らぬところで人知を超えた存在に無残に殺されてしまい、その行き場は失われてしまったのだ。

妹への罪悪感と命への執着、この数時間の内に彼女が見せた態度と経歴は、今の話が根底にあるのなら納得ができる。

「申し訳ありませんでした

あたなたが妹さんを見捨てた、なんて酷いことを言ってしまって」

夏南は頭を下げた、事件の真相を暴かねばならないが、その為に人の傷に触りあまつさえその口から語らせてしまったにだ。

「こちらこそ憶測だけで、あなたと弟さんを引き放そうとしてごめんなさい

それに今ので大分楽になったわ

あぁ私、全部ではないけれど自分の過去を受け入れられてるんだってね」

イルタが微笑むと、悲惨な過去で重くなった空気が一変する。

凄い女性だ、未だ過去を消化できてはいないようだが、そこから発する負の感情をある程度コントロールしている。きっと医師として揺ぎ無い何かを手に入れたのだろう。夏南は自身がイルタに嫉妬し始めている事に気付いた。

自分はまだ、妹を救うどころか一人で外を自由に出歩いてもらうことさえできてはいない。

「お茶を入れてきます

お互いに喉が渇いたでしょうから」

 イルタはそう言うと、返事を待たずに診察室を出て行った。

扉が閉まるのを待って、夏南は大きく息を吐いた。

さてどうしたものか。

診察室に1人取り残された夏南は、途方に暮れて天井を見上げた。

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