第19話

 薄暗く時折下水道のような臭いがする裏路地にを夏南は地図を片手に一人歩いていた、目的地は遺体安置所で見た女性―ミーリの家。区画整理などされていない道は曲がりくねり、獣道のように先が果てが見えない。低所得労働者を詰め込む為に建てられたビルやアパート、その間に貼られたロープには洗濯物が風に靡いている、見上げるとそれらは覆いかぶさってくるような錯覚に襲われる。

息苦しい、似たような場所に何度足を運んでも、空の無淀んだ空気に抱く違和感に馴れそうにもなかった。

 ここは欧州一栄えている都市ロンディニウムの一角に存在する人の流れの終着地点、すなわち貧民街の一つである。

掃除される宛ての無いゴミやガラクタが歩道に幾つも転がり、それを囲むように経年劣化で痛んだ建物の外壁が並ぶ、この街の至る所で見ることが出来る光景がここにもあった。

 昼は当に過ぎてはいたが夕方というにはまだ早い、時折すれ違う人は老人や子供に主婦が殆どで、仕事帰りと思われる人の姿は見かけなかった。そんな住人達からみれば、夏南は得体の知れない東国人に映っているのだろう。根も葉もない噂を思い出したのだろうか、すれ違う人の中には露骨に嫌な顔をして距離を空け、建物の窓からこちらの顔を見ると窓を閉じてカーテンを引く者が少なからず見かけた。

この様子だと聞き込みは難しいな。

情報提供者に握らせる金額が高くなる予感に、夏南はため息をつきたい衝動に駆られた。

低く安定しない仕事と賃金、街の衛星管理の行き届いていない劣悪な生活、階級社会の底辺に組み込まれた屈辱。夏南はこの街で働き彼等の暮らしを間近で見て来た。例え協力を得られなかったとしても、彼らを責めようとは思わない。

暴力に訴える手もあるが、相手が先に手を出してこない限りそれをしてはならない、そう夏南は胸に誓っていた。

どんな生活をしていようとも人は人である。

政治の場での権力争いの手札や龍の餌になど決してさせてはいけない。

夏南はペンで印が着いた地図に導かれるまま入り組んだ路地を進むと、やがて小さなアパートの前にたどり着いた。殺害されたミーリの部屋はこの3階にある。地図をズボンのポケットに仕舞うと、途中で調達した紙袋からバゲットの一部を外に晒す、食べ物持参で友人の家に遊びにきたといえば、アパートの住人に怪しまれても誤魔化せる。

アパートの外壁石造りで、周囲の建物と同じく補修されたが乏しく、触れれば崩れるのではないかと思うほど雨風に晒された劣化していた。見上げると窓は全て閉まってはいるが、カーテンを引いていない部屋が幾つか確認できた。入り口に目を戻す、やはり人の気配はしない。

被害者は娼婦と聞いて、よくある裏組織が女達を閉じ込め管理する為の建物を想像していたが、どうやらそれとは違うようで胸を撫でおろした。

遠くから子供の声が近づいてくる、このままアパートの前に突っ立ていては怪しまれる、夏南はアパートの入り口を潜った。軋む木造の床、痛んだ壁、採光用の窓のない入口ロビーは薄暗く空気が淀んでいた、人の気配は無い。集合ポストからミーリの部屋の番号を探したが中身は空であった、彼女が几帳面な性格だったのかもしくは警察が持って帰ったかのどちらかだろう。

夏南は左手手前にある階段を昇り3階を目指す、管理の行き届いていない階段は薄っすらと誇りが積もっており、その中央に最近出来たと思しき靴跡が幾つも確認できた。捜査に来た警察が足音と共に残して行ったものだろう。朝方踏み込んだという話であったが、さぞ大きな音を立てて上り下りをしたのだろう、これではアパートに残っている住人の殆どが今部屋の奥で息を殺して縮こまっているのも無理はない。

夏南は階段を昇り、3階にあるミーリの部屋の前へと到着した。彼女は一人暮らしだが、扉を軽く数回ノックする。彼女はもうこの部屋に帰ることはないが、通りかかった住人に怪しまれないようにする為のジェスチャーである。

返事は無い、無論あっては困るのだが。

夏南はドアノブに手をかけゆっくりと回すとドアを引く。錆びた蝶番が小さな悲鳴を上げて、扉が数センチほど開いた。警察は鍵を借りたはいいが閉めていかなかったようだ、錠前破りをする覚悟をしていたがその必要はないようだ、夏南の口から安堵の吐息が漏れた。

その時、気が緩んだ隙を突くようにガチャリとドアが開く音が背後から聞こえた。

夏南は咄嗟にドアを閉めた。

一瞬部屋の中に飛び込むことを考えたが、借主が既に亡くなっている事をこの階の住人が警察から聞いたら、異変に気付いて踏み込んくるか、通報される危険がある。

そんな事をすれば事件関係者と思われ通報ら聞いている可能性がある。

夏南は、その場に留まりやり過ごす方へと賭けた。

「ミーリなら居ないわよ」

 女の気怠そうな声が耳に飛び込んできた、ミーリと名前を口にした、知り合いだろうか。声のした方へとゆっくりと体を向ける。廊下の左手、ミーリの部屋から見ると右隣の正面にある扉が開き、その陰から女が顔を覗かせている。

女はそのまま扉を閉めると、ヨレヨレのワンピースに身を包んだ全身を晒した。暗くてよく見えないが、年は夏南よりも少し上くらいだろう。ボサボサの髪は所々跳ね、目は充血しその周りは腫れているように見える、寝起きだろうか、それとも泣いていたのだろうか。

「そんな!

今日一緒に食事をしようって約束してたのに」

 夏南は大袈裟に驚いて見せると、その勢いで紙袋の中身が零れるのを止める演技をした。それを見た女にさしたる変化は無く、冷めた目を向けて来るだけであった。何か用事があって外に出ようとしたところ、ミーリ部屋の前に居る不審な男と鉢合わせしたというところだろうか。

「ミーリがいつ戻って来るか分かりますか?」

「分からないわよ、そんなこと

・・・・・・今朝警察が部屋を荒らしに来たから、あの子は暫くは戻って来ないかも」

 女はそう言った後「もう帰ってはこないかも」と、小声で付け足した。

彼女が死んだことをまだ知らないようだ、しかし、あの子と言ったことからミーリとは知り合い以上の関係だということを匂わせている。

詳しく話を聞きたいところだが、今下手に接触して怪しまれると、ミーリの部屋に入り込むのが難しくなってしまう。

出直そう。

「そうですか、なら日を改めます」

 大きく息を吐くと、夏南は踵を返して昇って来た階段へと向かう。

表で見張ってこの女性が外出するのを見計らって、ミーリの部屋に入るとしよう。

「ちょっと待って

いい、そこを動かないで」

 肩越しに振り返ると、女は髪を靡かせて自室へと駆け足で引っ込んでしまった。

逃げるか?

ミーリは娼婦をしていたという、であればこの街で商売をするなら裏の組織に所属するか、上納金を収める必要がある。しかし、裏の組織は大小様々な組織が乱立している。安全の為に組織と関係を持つと、今度は組織同士の縄張り争いに巻き込まれる可能性が出てくる。

今話した女は、ミーリの様子がおかしいこと睨んだ所属組織が送り込んだ監視員、その一人という可能性がある。

こうして待っている間に部屋の奥で、組織の娼婦が失踪した後に自宅にのこのこ現れた怪しい男を締め上げる為に、ボスに兵を送るように何らかの連絡を取っているかもしれない。

夏南は自分の考えにかぶりを振るう。

女を一目見て寝起きだろうと思ったが、その顔を覗くと僅かに憔悴しているように見えた。しょうがない待ってみるか。女とミーリの関係は気になるが、もし彼女も娼婦なら連続失踪殺人事件について何か知っているかもしれない。

それに、何の訓練も受けていない裏組織の下っ端など、幾ら束になっても払いのけられる、夏南にとってそこまで危険な選択ではない。

「お待たせ」

 5分も経たない内に、女が息を切らして部屋から飛び出して来た。

 窓から入り口を監視していた夏南が振り返ると、着替えをした女が立っていた。

髪はとかされ跳ねは無くなり、白地に薄紅色の淡い花柄模様のワンピースに身を包んでいた。部屋着で話すのは恥ずかしいので、他所行の服へと着替えただけなのだろうか。落胆する夏南、だが彼女の右手に小さな鍵束が握られているのが目に入った。

「私が一緒にご飯食べてあげる

こう見えても料理は得意なの」

 想像もしなかった女の言葉に夏南は眉を細めた。仲間が来るまで食事に誘って足止めをしようというのだろうか。女の顔を改めて見る、何か企んでいるようには見えない。

「ミーリの事を教えてくれるのなら構わない」

 夏南は真っ直ぐに切り出した、何かあったら窓を破って逃げればいいと退路は既に決めている。

「やっぱり、ミーリのお得意さんか

はいはい、御同業の客には手を出しませんよ」

 彼女は一人で頷くと鍵束を一度楽器のように鳴らして、その中から一本の小さな鍵を選ぶと、ミーリの部屋のドアに差し込んだ。鍵は掛かっていないと言いかけたが、女は自らが鍵を締めたドアノブを回して開かないと言った。気まずい沈黙、自らがしたことに気付いた女はもう一鍵を使い、ミーリの部屋の扉を開けた。

彼女は警察がミーリの部屋から引き揚げた後、一度も中に入ったことはないだろう。

組織の監視員という線は薄れた。

「親友だから大家に内緒で合鍵作って交換してるんだ」

 彼女がこちらを見て顔を赤くしながら言った。間の抜けた姿を見られた照れ隠しだろう、夏南は相槌を打って流した。

「私の部屋散らかってるから、ミーリのキッチンを借りてちょっと早めの晩御飯にしましょう」

「親友とはいえ、勝手に人の家の物を食うのはどうかとおもうが」

 女は夏南が抱えている紙袋を指さすと、グーと腹を鳴らして一人笑った。

狙いはただ飯か、夏南は肩から力を抜こうとしたが、笑いながらも彼女の目がこちらを値踏みするように見ている事に気付き思いとどまった。

 共通の知人が縁で開かれる晩餐、そう気楽なものにはなりそうにもない。

 女が扉を後に続いてミーリの部屋に足を踏み入れると、懐かしい香りが鼻孔を擽った。何の匂いだ、思い出そうとしたが前を行く女にせかされたので、記憶の隅に留めておく。短い廊下を進み、居間であろう小さな部屋に二人は足を踏み入れた。

質素な部屋だ、普段趣味の物を所狭しと自室に並べる女性達と暮らしている夏南の目には、正導教会の修道女が暮らす部屋に見えた。

人が2、3人座れる小さな椅子とテーブル、木目彫のクローゼット、辞書や化粧品が置かれた本棚、そして少し大きめのベッド。それはミーリと呼ばれた女性が、生きる為に生み出した一つの世界である。だが今はその世界は創造主を失い警察という侵入者に無残にも荒らされ酷い有様である。

扉という扉は開け放たれ、ベッドや椅子どころか床にまで中身がぶちまけられていた。女を見ると口に手を当てて絶句している。夏南は女の腕の中に食料が入った紙袋を押し付けると、床に落ちている服を拾い始めた。

「上手いサンドイッチを作ってくれ

部屋は俺が片付けておくよ」

 そう言っのだが、女は紙袋を置くと一緒になって部屋の片づけを始めた。

「あんた1人だけにしたら、何をするか分からないから却下」

 信用ならない人間を、親友の自宅に勝手に入れるて言う台詞かよ。やはり監視員じゃないのか。物を拾いながら横目で女の横顔を覗き見ると、僅かに唇を噛んでいた。

二人は片付けを続けた、会話は一切なかった。

警察に追われている友人を女は顔には出さないが心配しているのだ。だが、その友人はもうこの世にいない。いずれ彼女は知るだろうが、その時の事を思うと胸が痛んだ。

「やっぱりあなた1人にはさせられないわね」

 女の声に顔を向けると、こちらに刺すような避難の目を向けていた。え!何かしてはいけないことをしたのか。それが顔に出たのだろう、女は呆れた顔で夏南が手に持っている物を指さした。

下着です、下着でした。

女の今後を思い思案に暮れている姿は、傍から見ると下着をまじまじと見つめる変態的行為に映っていたのだ。

「ち、ちがう、これは!」

 下着を急いで衣類を纏めているベッドの上に置こうとしたが、それよりも速く女の手に横からひったくられてしまう。

「欲しいならミーリに言って買い取った方がいいわ

あの子はお金、あんたは好きな人の下着が手に入る、悪くない取引だね」

「す、好きとかそんなんじゃない」

好きな人と言われ、咄嗟に美冬のことを思い浮かべてしまった夏南は上ずった声を上げてしまった、恥ずかしい。

「気にすることはないわ

女性なれしてないお客が、私達みたいな商売女に惚れることはよくあるのよ」

何を勘違いしたのか、女は意地悪な笑みを浮かべる。

その後、片付けは直ぐに再開され、30分もしない内に床に転がっていた物は全て、ベッドや棚の上に纏められた。

「言っとくけど、下着を盗もうなんて思わないように

匂いを嗅ぐのも駄目よ」

 片付けを終えると女はそう言い残して、食料が入った紙袋を抱え片手にキッチンへと消えて行った。

「するわけないだろう」

 受け取り手の居なくなった反論は、部屋に木霊することも無く消えてた。

ほっと一息つきたいところだが、この部屋を片付けにきた訳ではない。夏南は気配を殺してキッチンへと続く扉に耳を当てる。包丁がまな板を叩く音が聞こえる、本当に料理をしているようだ、夏南は足音を立てずにその扉から離れた。

犯人に繋がる証拠を急いで探さねば。

連続失踪の被害者の殆どは娼婦、リリムの話に出たシスターを一端除外すると、職業と貴族関係者との関係、後は女性であるということ。正直絞り切れない、そこで夏南は今回偶然遺体が残ったミーリの死因に注目した。それは腹を内側からの攻撃で破壊されていたと検死結果である、後から聞いたが事件が起きた時一緒に居た美冬は、龍に出くわす前に術識の発動を感じたことはないと言っていた。

何か仕掛けがあるはずだ、異常な成長を遂げた赤子の龍、その出現に繋がるものが。

音を立てないよう気を付けながら、部屋の中を調べ始める。開けっ放しの箪笥の扉、部屋の端に詰まれや雑誌や新聞の山など気になるところを片っ端から調査する。ミーリの仕事が仕事だけに、隠し金庫のようなところに証拠があったらお手上げだが、質素な賃貸物件なのでその心配は無いのは一応救いであった。

駄目か、女がキッチンに籠って10分、証拠となるような物は何一つ見つけることは出来なかきった。仕方がない、女と話終えたら今晩もう一度この部屋に来よう。夏南は侵入経路に使う為に窓に近づき鍵を開けた。

これで良し、後は怪しまれないように椅子に座って女を待つだけである。

窓際から離れようとしたその時、近くのベッドその枕元に見慣れぬ物を発見して、夏南は手を伸ばした。編みかけの小さな手袋。大人用ではなく子供―それも赤子ようだ。

ミーリに子供でも居たのだろうか?

しかし部屋を片付けている最中、それらしい物は何一つ見当たらなかった。

キッチンから足音が近づいて来る、捜査は一旦打ちきりだ。夏南は音を立てずに近くにあった椅子に座った。扉が開くと女が顔を出した、手にはサンドイッチが乗った皿とうっすらと湯気が上るカップ、それぞれ2つずつ載せたトレイを持っていた。

「お待たせ」

 女はそう言うと、テーブルに皿とカップを並べ夏南の対面に座った。

 淹れたての紅茶の香が鼻孔をくすぐる、夏南は軽く一杯口に含み舌で転がいて、次はサンドイッチからトマトを一切れ口に入れる。

「行儀が悪いぞ、頂きますが先」

 女が呆れた顔をする。

毒は入っていないようだ、夏南は何食わぬ顔で謝り毒味を誤魔化す。

「本当に良いのか?

勝手に部屋に入ってキッチン借りて、親友でも怒られないか」

「いいのよ

この部屋で2人、夕飯食べて酒を飲みながら愚痴を言い合うなんて結構あるから、半分私の部屋みたいなものよ」

 女はそう言うと笑って見せた、ミーリとはかなり親密な間柄なのだろう、上手く会話を運べば色々聞き出せるかもしれない。曖昧に頷き返す。女はそれを合図に皿の上の小さく切られたサンドイッチを口に放り込んだ、どうやら彼女も行儀が悪いようだ。

暫くの間二人は無言で食事を続けた、これまでの態度とは裏腹に女から話を振る気配はなかった。

「そう言えば最近、ミーリの周りで何か変わった事が起きたとか、そんな話聞いてない?」

 夏南は短刀直入に話を切り出した。

 捜査において、何気ない会話から入って徐々に本題へと話題の軸をずらしていくのが定石だ。しかし、ミーリについての情報が手元に殆ど無く、下手に会話をすればボロが出かねない。幸いにも目の前の女は夏南をミーリの客、それも相当入れ込んでいるお得意さんと思っているようだ、少々強引に斬り込んでも問題はないだろう。

夏南の読みとは裏腹に、それを聞いた女の目がスッと細くなりこちらを睨んだ。警戒の色が浮かんでいるが敵意は感じない。こちらの顔を舐めるように見ている、話すに足る人間かどうか値踏みしているのだろう。

「あんた、名前は?」

「夏南・薬利、この街で荷物運びなんかをやっている」

「カナン・クスリ?

変わった名前ね、一瞬薬局の人かと思ったわ」

「そう言って貰えて助かる

大抵の人間は名乗ると、飲むと気分が良くなる漢薬を売ってくれ、なんて俺を犯罪者呼ばわりするんでね」

 改名したら、女はそういうと同情の目でこちらを見た。

龍との関係を否定する為に、一族が昔九頭龍から変えた名字だと言っても分からないだろう。

「私はユイ、名字はないわ

家も家族も捨てたから」

 女ーユイはそう言うとサンドイッチを口に放り込んで視線を逸らした。名字を名乗らない理由を話したくない、というジェスチャーなのだろう。ともあれ名乗ってくれたので、値踏みは合格といったところか。

「変な事なんてこの商売をやってると毎日あるわ

ミーリは大人しいから変な客に引っ掛かる事が多くてよく相談されるの

それで結局は私が世話を焼く羽目になるから、正直何が変で変じゃないか分からなくなっちゃった」

 声には疲れたような響きがあったが、ユイの顔は何処か楽しそうであった。少々口は悪いがこのユイという人は、面倒見が良いのだろう。そのせいで、ミーリの身に起きた事を知れば酷く傷付くことになるのだろうが。

「俺もその変な客の一人かも」

「そうは見えないわ

だから、もっと稼いでもっと貢ぐのおすすめ

今なら、ミーリお姉さんの一番の客になれわ」

 ユイは拳を握りしめながら力強く頷いた、エールを送ってくれた。どうやらミーリの周りでは小さなトラブルが頻発していたようだ場末の娼婦を買う客は一晩限りの者が多い、その中から龍に襲わせる人間を探していた者など見分けがつかないだろう。

それにミーリ以外の被害者も龍に殺されたのなら、龍を御するか消さねばならない。そんなことを出来るには、強力な力を持った個人か何らかの組織に属している必要がある。娼婦の上前を撥ねる裏組織や客に該当する人物がいるとは思えない、もっとミーリの人間関係を聞き出さねば。

「努力してみます」

 思考に気を取られていた夏南は、気の抜けたような返事を返した。

「頑張れ少年」

夏南は吹き出しそうになった。

どうやらユイの目には、夏南の姿がかなり年下に映っているみたいだ。

夏南はもうすぐ20歳、ユイはそれよりも少し上だろう。東国人は他の国では幼く見えるようで、時折今のように子ども扱いされるされる事がある。それについては良い面と悪い面があるので厄介だ、今は前者でることを祈りたい。

「そんな消極的じゃ、あのバロウに勝てないわよ」

 ユイはサンドイッチを飲み込むと、こちらを焚きつけるように声を張った。バロウ?急に出て来た名前に夏南の意識は釘付けとなった。ミーリの客の一人だろうもっと情報が欲しい。

「そのバロウってのはミーリのお得意さんかい?

ペンを握る仕事をしているような奴なら、荷物運びをしている俺みたいなのを見たら、一目で逃げて行くから勝負にならないよ」

 プライドを気付けられ、少し興奮したようにまくしたてた。

「腕力に訴えるのは止めといたほうがいいわよ、相手は何と上院議員の息子よ

彼の頭の帽子一つ吹き飛ばそうもんなら、直ぐに街のゴロツキを送りこまれるわ」

 ユイがたしなめるように言う。

上院議員の息子、帽子、今朝見た調書の内容と符合する。ミーリの傍で発見された人体の一部、バロウのものかもしれない。ユイの口ぶりからすると2人の関係を良く思っていないようだ、嗜虐嗜好持ちの権力者や資産家が立場の弱い娼婦を死に至らしめた事件を2,3件知ってはいるが、それに類する関係だったのだろうか?

「帽子って随分シャレた男のようだな

だが帽子なんて、この街のどこでも売っていて誰でも被れる物だぜ」

「残念、ハール家が先代から贔屓にしているカールの店の特注品よ

あなたの稼ぎじゃ張り合うのは無理ね」

 ユイはため息交じりにサンドイッチを頬張った、擁立しようとした対抗馬の余りの低性能っぷりに呆れたようだ。

カール帽子店、この街がまだ王制だった頃から経営している老舗と聞いた事がある、この名前も調書に載っていた。昨夜、ミーリと居た男バロウで間違いないだろう。それにしてもハールという名を以前何処かで目にした記憶がある、行政が発行する機関誌ではなくもっと下世話で感情的な、そこまで考えると唐突に新聞売りのペパの顔が浮かんできた。

記憶が蘇る、そこに先ほどベッドの枕元で見つけた小さな手袋が重なった。

「随分金回りの良い男みたいじゃないか

その口振りからすると、身請けの話がもう出てるって噂は本当だったんだな」

 夏南は自棄になった振りをして、乱暴な手つきでサンドイッチを口の中へと放り込んだ。紅茶で胃へ流し込む、ユイを盗み見ると顔から笑みが消えていた。

「その話、誰から聞いたの

まさか元締めの連中?」

 ユイの目の端が一瞬にして吊り上がる。身分の違う得意客と小さな手袋、かまをかけたが当たりのようだ。彼女の目には微かに恐怖の色を浮かんでいる、やはり彼女たちはこの地域の裏組織の下で商売をしているようだ。

身請けとなれば当然娼婦を辞めることになる、そうなると組織に入る金も減ることになる。支配地域が広く収入の安定している組織の場合、幾ばくかの手切れ金を払えば穏便に身請けが済む。だがしかし、泡沫組織にとって収入低下は手痛く、辞めた娼婦の後を追い抜ける人間が増えれば、組織は弱体化し何処かの組織に取り込まれかねない。

同僚と客の関係を察して報告しなかったとして、報復を被ることをユイは恐れているのだろう。

「新聞売りの知り合いからだ

ここ最近似たような話を幾つか聞いて、身分を超えて真実の愛って興奮してた

それを思い出したんで、もしやと思って言ってみただけだよ」

「真実の愛?

その人随分子供みたいね、アレはそういう奇麗なものじゃないわ」

彼女は目を伏せた、どうやらミーリとバロウ間に結婚の話が出ていたのは事実のようだ。

動かない彼女を尻目に、夏南はサンドイッチを租借しながらバロウという人物についての情報を記憶の底から掘り起こした。

バロウ・ハール、この国の上院議員アムガ・ハールの1人息子。

2人の名を知ったのはある事件を新聞で読んでいたからだ。

 半年前、アムガ上院議員はこの国と遥か南の植民地イーディアとの貿易に関する関税について所属していた党が二つに分けれ対立した際、イーディア政府から賄賂を受け取った事実が露見して失脚した政治家の1人であった。

対立勢力の旧貴族や王族派の一部がそのコネを使って集めた証拠を、タイミングを見計らってマスコミ各社に送ったのが専門家の見解であった。夏南はその推理に近い意見を持っていたが、世間は事実の確認よりも熱狂にたる話題を求めた。マスコミによる真相究明が行き詰まりを見せ始めると、今度は議員とその家族の私生活暴きに奔走するようになった。

取り分けゴシップ主体の3流新聞社は酷く、真偽の裏付けもされていない情報を事実として紙面に載せた。マスコミと報道を鵜呑みにした市民は賄賂疑惑に名を連ねた者達を容赦なく追いつめた。辞職を選び身を隠せた議員はまだ幸福な方だろう、ある者はストレスから精神の均衡を崩し荒れた生活を余儀なくされ、それに耐えられなかった者は入院、そしてある者は自ら死を選んだ。

 アムガ上院議員は原因不明の体調不良で入院、その1人息子は親を看護せずに商売女と遊びほうけている、そうペパから買った新聞には書いてあった。

親の不祥事で精神的に追い詰められたバロウが、一時救いを求めた娼婦に本気になって結婚を考えるに至った、今までの話からすると2人の仲はこの推理に近いものだろう。

「私達結婚するって、ミーリが言ってたのよ

あの子素直だから、幸せにするなんて言葉はベッドの上の寝言だって気付いてないの

一度でもあの男と話したら、そんなこと分かりそうなものだけどね」

「バロウって奴に直接会った事があるのか?

それでどんな奴なんだ?」

「意志薄弱、薄っぺらい笑顔、良く回る口、以上」

 バロウの特徴を吐き捨てると、ユイは汚れた口を洗うかのように乱暴に紅茶を飲んだ。

彼女の怒りの中に、親友の身を案じる以上の何かを感じる。下手に聞いて黙られては困るので夏南は気付かない振りをした。それに男女の間の話であったなら、今日会った程度の人間に話すことはないだろう、聞いても返す言葉を持ち合わせてはいないのだが。

「だから、あんたは貢いで貢いであの子の特別になりなさい」

 ユイは身を乗り出すと、ハムが挟まったサンドイッチを夏南の目の前の皿に置いた。激励のつもりだろうが、子供扱いされたようで微妙な気分だ。ここまで心配してくれる人が居たミーリは、ある点において幸せだったのだろう、夏南はハムサンドイッチを頬張ったが何故か他よりもしょっぱく感じた。

頃合いか、夏南はユイにある質問を切り出さねばならなかった。バロウとその父が龍に関与しているとは思えない。なら、もう一つの線を手繰らねばならない。

それはユイの勝手な期待を裏切る事になる。

ここで躊躇すれば犠牲者が増える事になりかねない。夏南は覚悟を決める。故郷の期待を裏切り、美冬に嘘までついた、目的を遂げる為ならもうどんな誹りを受けても構わない。

「生憎期待には応えらえそうにないな

さっきベッドで網掛けの手袋を見つけたんだ、

多分赤ちゃん用のやつだ

……ミーリとバロウはそこまでの仲なんだろう?」

 ユイの体が一瞬落雷に打たれたかのようにビクンと跳ねた。彼女は大きく肩を落とした。まるで空気が抜けた風船のように萎み、ユイの姿あ一回り小さく見えた。

「あんた、自分で言っといて随分冷静ね」

「手の届かない人を好きになるのは、馴れっこなんでね」

 一瞬頭に浮かんだ美冬の姿をかき消すように、夏南は演技を忘れ乾いた笑いを浮かべた。

「……その通りよ

まったく、あんな男相手に夢見てるんじゃないわよ」

 そういうとユイは両の拳を叩くようにテーブルにぶつけた。衝撃で皿が乾いた音を立てる。バロウに対する怒りだろうか、それとも自ら不幸へと進むミーリへの憤りだろうか、それを見ながら何も出来ない自分への失望がそうさせたのだろうか。

暫くそっとしてやりたい、だがミーリが妊娠していた事実を前に、無為に時間を浪費することなどできない。昨夜あの場にもう一人居たのだ。何の罪もない赤子が、肉片一つ残らず龍に食われたのだ。

「ミーリが自分を不幸だと思っていたら、生まれてくる子供の手袋なんて編まないよ

それに彼女は一人の人間だ、忠告を無視して進むんだ、覚悟は決めているのだろう」

 胸の内に燃え上がる怒り抑えて、夏南は2人の仲を肯定する言葉を口にした。

先の事は誰にも分からない、不幸になる可能性を秘めた決断を下すのは勇気がいる。

ミーリは持っていたのだろうか、それともユイの言う通り盲目的に選んだのだろうか、今となっては知る術は無い。

 ユイの目が燃えるように殺気立ち、こちらに射殺すような視線を向けて来た。大切な人と未来を夢見た人間を悪くは言いたくなかった。そんな感傷混じりの言葉は、友人を心配する彼女の耳に軽薄な言葉として入ったに違いなかった。

その顔は険しくこちらを睨み付けていた。嫌われたかな、娼婦としての彼女の価値観を真っ向から否定する言葉をぶつけたので無理もないだろう、ささやかな昼食もこれでお開きだろう。

「商売女と客の関係おはいいえ、あんた随分冷たいわね

あんたやっぱり、ミーリが逃げたと思って組織が送り込んだ下っ端でしょう

残念でした、ここには何もないし、私が引き止めても消えたあの子はもう戻ってはこないですよ!」

 ユイが大声でまくし立てた、その声は悲鳴にも似た響きがあった。

どうやら彼女は自分を組織が差し向けた追ってと勘違いしていたようだ。ミーリの部屋で2人きりになって、彼女の行方を知る手がかりでも聞き出そうとしたのだろうか。思惑が外れた挙句に自分がしていう事を否定されたのだ、怒鳴りたくなるのも無理はない。

これ以上この場に居ても彼女を傷つけるだけだろう。もうじき日が暮れる、そろそろここを出なばなるまい。娼婦であれば性病の検査を受けていた可能性がある、そして妊娠していたのならそこの医師に相談していても不思議ではない。

腹を内部から破壊されたような形跡がある、ヨォドの調書に書かれた一文が、ここに来て更に得体のれないものへと変容しようとしていう気配を感じる。医者なら被害者の体に何らかの細工を施すことが可能である。そうであればこれまでの被害者に、娼婦が多く含まれていることも説明が付く、急がねば。

ユイならミーリが通っていた病院の名を知っているのだろうか、彼女を見るととテーブルに体を投げ出すような姿勢で突っ伏していた。小さな嗚咽が聞こえる。この分では聞き出すのに時間がかかるだろう。

この地域で働いている娼婦に行きつけの病院を聞いて虱潰しに当たった方が早い、それでも駄目ならもう一度ユイに会いに来よう。

「俺はユイさんが考えているような組織の人間じゃないよ

ついでに客でもない」

 夏南はそこで一旦言葉を区切ると、大きく息を吸い込んだ。

ミーリの身に起きた事をこのまま知らなければ、ユイはきっと心配して行方を捜し続けるだろう。

「ミーリと会ったのは今日の朝

場所は警察の遺体安置所だ」

 ユイがゆっくりと頭を上げる、赤く濡れた目は大きく見開かれていた。嘘でしょうと、無言で訴えて来る。夏南は小さく首を振るう、彼女の顔から表情が消える、急に友人が死んだと言われたのだ無理も無い。

「バロウも一緒に殺された

警察はこのことを隠蔽して政治のカードにする気なんで、それに反対する連中から依頼を受けて俺はここに調査に来た」

 ユイが震える手でカップを持ち上げると、紅茶を一口飲むと軽く飲んだ。

無理もない、友人の死、それが政治の取引に使われるなんて話を聞かされたら、誰だって直ぐには飲み込めないだろう。

「ねぇ、私どうすればいいの?」

 涙に濡れた小さな声が部屋に響く。

夏南は小さく首を振るう。

死者に出来ることは何もない、口から出かかった言葉を夏南は飲み込んだ。彼女は死と隣り合わせの人生を送ってはいない。受け入れられない人の死を、胸の隅に置いて生きることはきっと言葉では伝わらないだろう。

「ミーリの家族は何処に住んでいる

全てが終わったら俺から話す」

「居ないわ、あの子捨て子だから

家族は私だけよ」

 家族への報告という重荷を背負う必要は無くなったが、入れ替わりにユイの言葉の後半が胸に重しとなって入って来た。

嫌な事件だ、嫌じゃない事件など立ち会ったことは無いが。

「遺体は共同墓地に埋葬するよう手配する

あんたはこれ以上関わらないほうがいい」

わざときつい言い方をして、ユイを突き放した。返事は無い、彼女の虚ろな目は夏南の背後にある窓を見ている。次に進む為に必要な情報は手に入った、これ以上会話を続けてもユイの傷口を嬲るだけだろう、夏南は静かに席を立った。

「捕まった犯人はどうするの?」

 ユイの横を通り過ぎようとした夏南は足を止めた。

「警察に引き渡す

それが無理ならきっちり代償を支払わせる」

 夏南とユイの視線が肩越しに絡み合う。彼女の視線からは刺すような敵意しか感じない。夏南はそれを振り切るかのように一歩踏み出した。

「これを持って行けば、先生から詳しい話が聞けるかもね」

ユイの手がテーブルに置かれた、その手には小さな手帳が握られていた。

夏南は手を伸ばして受け取ると、それは医師が妊娠した女性に発行する診察記録帳であった。

イルタ医院、青一色の下地に白い文字ではっきりとそう書かれていた。

確か数年前に郊外の貴族屋敷を改築して出来た病院である。外国から移住してきた女性医師が、医院長を務めているとシィから聞いた事がある。富裕層は勿論、所得の低い患者も良心的な値段で丁寧な診察をする事でも有名な病院とも聞いている。

この事件にイルタという医師が関与しているのだろうか?

「ありがとう、事件が終わったら必ず返す」

「返さなくていい!

もう二度と私の前に現れないで!」

 ユイの叫びが夏南を打ち据えた。

テーブルに置かれた拳が震えている、やり場のない怒りが暴発したのだろう。

「御馳走様」

その言葉を残して夏南は部屋を後にした。

強い人だ、友人が死んだと言われて嘘だと聞いては来なかった。

もし美冬の身に何かあったら、自分は取り乱して現実を否定し続けるだろう。

廊下の中ほどで、床に無造作に置かれたガラクタの中に鉢植えが置かれていた。よく見ると東国で見慣れた植物の葉であった。しゃがんで広い匂いを嗅ぐ、名前は思い出せないが嗅いだことがある匂いだ、この部屋に入った時に感じた匂いの正体はこの葉だろう。

夏南はハンカチで包みポケットに入れた。

名前は思い出せないが、たしか高温多湿の地域でしか生息できず、このロンディニウムで自生は不可能だったと記憶している。

事件と何か関係があるのかもしれない。

 ミーリの部屋を出た夏南は、振り替えることなく建物から外に出た。途中、女の泣き声を確かに聞いた。しかし、今の夏南にしてやれることなど何もなかった。

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