第18話

「そんなことがあるのね?」

 夏南が話終えると、格子の向こうで少女が小さく首を傾げた。 話の内容を今一理解できない様子である。彼女は物心着く頃には、既にこの檻の中に閉じ込めていたのだ、外の世界の出来事を聞かされても遠い国の話にでも聞こえているのだろうか。

近くの沢で泳ぐ魚、裏の林の中に一か所だけある日当たりの良い小さな平地、父の部下がこっそり読ませてくれた海外の本、一昨日、友人と喧嘩したこと。妹の美冬が閉じ込められている牢の中には、何一つ存在しない。それを思うと口惜しさが込み上げてくるが、美冬に見せては編に気を使われてしまうので、顔には出さない。

少女ー妹の美冬は5歳になったのを期に、父たちの手によってこの屋敷の離れに閉じ込められてしまった。彼女には役目があり、それを終えるまでここで準備をしなければいけない。父は勿論、周囲の人間に理由を訪ねても同じ答えしか返ってこなかった。

龍を狩る一族、その次期頭首という立場にあると言っても夏南は9歳。一族の中では半人前、龍討伐の戦場に見学さえも許されてはいない。俺はまだ子供だ、美冬のことを思うだけで無力感に打ちのめされようになる。

訓練は毎日続けている、自分には力がある。そう自分に言い聞かせたいところだが、先月牢をを破ろうとして怪我をしてしまった。剥がれた両手の皮は術識で再生されたが、まだ少し痛む。それは父の耳に入り酷く怒られ、美冬の居るこの牢屋敷に1ヵ月近づくことを禁止という罰を受ける事で手打ちとなった。

良いことがあったとすれば、見張りの隙をついて美冬に会いにこれる程度には、訓練の成果を活かせるようになったことぐらいである。

「兄さん、手を見せて」

「手?

俺の手なんて見た所で何も面白くないぞ

そんなにみたいなら、自分のを見ればいい、二つもついてるから2倍面白いぞ」

 夏南は両手を背中に回して美冬の視線から隠した。

「手はもう大丈夫ですか?」

 美冬は身を乗り出して夏南の背中を覗き込もうとするが、格子が邪魔をされ目に薄っすらと涙を浮かべた。これは隠し通して誤魔化せば泣かれる。美冬のところに来たのは笑わせる為であって、泣かせに来たのではない。

 見せるべきかどうか、夏南は迷ったが美冬の目から零れ落ちた涙がその頬を濡らしたを見ると、直ぐに両手を彼女の前に差し出した。

「見せるから、見せるから、泣くな美冬」

 涙を拭った美冬の白く小さな手が格子の隙間から延びて、夏南の両手を優しく掴んだ。彼女はそのまま掴んだ両手を顔の高さまで持ってくると、濡れた瞳で食い入るように見つめる。

「やっぱり跡が残ってる、痛い?」

 美冬の指が手の平の皮膚に幾度か沈む、手と手の間から彼女の目がこちらの表情の変化を窺ってくる。

傷は完治に近い、もう強く物を握ったとき位しか痛みは感じない。鍛えていない美冬の力では、残念ながら傷には触ることをできない。

「治ったっていったろう、それに跡はそのうち消えるって医者に言われた

美冬が心配するようなことは何もないぞ」

 夏南は両手を引こうとした、しかしそれよりも速く美冬の両手が指と指を絡めてきた。絹の織物よりも滑らかな美冬の手、その感触に心臓がドクンと跳ねた。ドクン、ドクン、ドクン、鼓動は更に高く間隔は短くなり、夏南の全身に血液とは違う何かを送り体温を急上昇させる。

なんだこれは?

剣の師匠と試合をしているときのように心臓は動いている、だがしかし恐怖は感じない。

美冬が何か術識を使ったのだろうか、残念ながら術識の才がない夏南は発動を察することはできない。

 夏南は手をゆっくりと降ろすして美冬の顔を見た。赤い、まるで熱病にうなされているかのようだ。術識使いとして未熟な彼女は、力を使うと顔から血の気が引いて白くなる、この様子では術識を使ってはいないだろう。

思考が熱に乱されたまま、夏南は美冬と見張りが戻ってくるかもしれないことなど忘れて、ただ見つめ合い続ける。

やがて存在を忘れかけていた鉄格子に気付くと、夏南の胸の奥で眠っていた破壊衝動が膨れ上がる。今すぐ壊せ、炎のような感情が理性を押しのけようとするが何とか耐えた。ここで格子を破壊しようとすれば1ヵ月前の二の舞だ、これ以上無謀な行動を美冬に晒して心配をかける訳にはいかない。

「美冬、お前を必ずここから出してやる」

 格子の破壊を思い止まった夏南だが、口から決意が漏れる。それを聞くと、恍惚としていた美冬がその目を大きく見開いた。

「駄目!

そんな事をまたやったら、夏南が死んじゃう!」

 美冬が叫んだ、優しく絡められていた指が夏南を放すまいと手の甲に食い込む。美冬の静止を振り切り格子を壊そうとして、防御術識に弾き飛ばされた記憶は薄れていないのだろう。皮膚の下、治りきっていない傷が痛みを訴えるが夏南は笑顔を浮かべると、格子越しに身を乗り出した美冬の額に、自分の額を優しく押し付けた。

「来年、10歳の誕生日に父さんの正式な跡継ぎにしてくれるって、この前言われたんだ

その時に頼んでみるよ」

 一呼吸おいて美冬の指からが抜ける。

無茶をしない、それを分かってくれたのだろう。

「本当に出られるの?」

 しかし、今の言葉を完全には信じてはくれなかった。

無理も無い、牢に入れられて1ヶ月の間、外に出たいと抵抗する度にお目付け役から怒号と暴力を容赦なく浴びせられ、今では自分からその望みを口にしなくなったのだから。

世話係の乳母以外はいつかその罪を償ってもらおうと、夏南は既に心に決めている。

「本当だ

九頭龍家の次期頭首になれれば、周りの大人たちもきっと言う事を聞いてくれる」

 父はこの里を治める九頭龍の頭首、この国でいう帝のように皆を纏め、年得て強力な力を持つ龍が現れれば戦士として部下を率いている。そんな人の跡を継ぐのは大変なことぐらい、今の夏南は理解していた。それに相応しい人間になるべく、龍討伐の訓練や学問の習得に出来る事をすべてやってきた、全ては役目を果たす日が来るまで、美冬を牢から解き放ち一緒に暮らす為に。

「また一緒に暮らせるのですね」

 夏南は重ねていた額をゆっくりと離すと、美冬が目に大粒の涙を湛えこちらを真っ直ぐに見つめていた。

 涙の奥の瞳が僅かだが輝きを増していることに夏南は気が付いた。

 信じてくれたのだ自分を、いやこの牢の外の世界にもう一度触れられることを、堪らず格子越しに美冬の体を抱き寄せた。

「あっ……」

美冬のか細く熱の籠った声が耳を撫でると、

先ほどと同じように心臓が早鐘を打った、構うものかどうなろうが彼女を二度と離しはしない。美冬の両手が背中に回される互いの距離が更に縮まる。布越しに彼女の体温が肌に伝わり、香油の甘い香りが鼻孔を擽る、得も言われぬ感覚が体を駆け駆け巡り時間という概念を溶かしていった。

「もし誰に何を言っても美冬をここから出してくれないのなら、いつか必ず俺がこの手で美冬をこの牢から出す」

 夏南は沈黙を破りもう一つの約束を切り出した。美冬が小さく頷き先を促す。正直迷っていたが今日美冬の顔を見て決心が付いた、自分にとって一番大切なものはこの手で守るしかない。

「その時が来たら俺と一緒に来てくれるか」

 何処に行くの?

御役目はどうするの?

美冬にそう聞かれる事を覚悟で、夏南は約束を口にした。正直今の自分はこの里とその周囲の野山と遠くの都しか知らない。だが、必ず美冬が幸せになれる場所がきっと何処かにあるはずである。

確証はまだ無く誰にも言ってはいないが、母は美冬を生んだ後、里を守る役目に就いてその直後に亡くなっている。もし美冬が担う役目が母と同じものならば、彼女もまた死んでしまうのではないだろうか。絶対に嫌だ、母はどうだったかは分からないが、一人の人間から自由を求める意思を奪わなければ守ることが出来ない里などに、美冬を好き勝手させる訳にはいかない。

無言で美冬の答えを待つ。

長い沈黙、それを打ち破るように何処か遠くで雷が鳴る音が微かに聞こえた。

気が付くとあれ程降り注いでいた陽の光は陰り、時折吹いていた風は少し冷たくなり、雨の到来を予感させた。

「はい」

 雲の中で岩が転がるような音が響くなか、美冬は凛とした声で返事をしてくれた。寄せていた頬を離す、雷鳴、それを合図に美冬が嗚咽する。

夏南はもう一度顔を近づけ、頬でも額でもなく今度は唇を重ねた。

やがて、夏南の背後から降り出した雨が地面を叩く音がし始めた。堰を切ったように二人は互いの頭に手を伸ばし唇を貪り合った。唇と唇の粘膜が擦れる音、酸欠に喘ぐ喉から洩れる甘い吐息、全ては雨音に呑まれ消えていった。

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