第16話

年季の入ったロンディニウム中央警察署内は趣を感じるが、所々に隠し切れない痛みが見え、歩いていて楽しい場所ではない。長年靴底で削られた木製の廊下、打ちっぱなしのコンクリートの壁は至る所に修繕の跡が残る、薄っすらと誇りの膜が着いた窓から差し込む光に焼けたポスター以外、何の調度品も置かれていない殺風景な通路。お世辞にも金回りが良いとは言えず、工業の分野でアリカやルーシアの台頭にシェアを失いつつあるこの国の一端が垣間見える。

無言の行進は続き数度廊下を曲がった後、一行は裏口から警察署の中庭に出た。花壇にベンチが置かれた質素な庭だが、憩いの場とは別にこの警察署で一種の線として存在している。今出てきた建物は受付や交通課、生活安全課に会計課などの比較的市民活動に近い課が詰めており、殺人などの重い事件を扱う課はそこから更に奥にある。

クルトの足はそこから少しずれ、鑑識に検死課が入っている棟へと向かう。

「ヨォドじいさんが、シィ先に見せたいものがあるそうだ

遺体安置所まで行くぞ」

中庭から少し離れたところで人気がないことを見計らい、クルトが用件の一端を口にした。

 ヨォドとは、このロンディニウム中央警察署で古くから居る検視官の一人である。詳しい年齢は不明、医師免許を持ち解剖学の論文も定期的に発表している。息子夫婦が化け物に殺されたのを機に組織に参加した、そう話に聞いている。

一言でいうと死体安置所に寝泊りできる、変わり者の男だ

そうこうしている内に、遺体安置所がある建物の前に二人はやって来た。

その建物は4階建てで他の棟より背は小さい、おまけに周囲を樹木に囲まれているものだから、警察の敷地内の端にあることも手伝って一件すると廃ビルに見えてしまう。地下一階の遺体安置所と鑑識課の他に、古い証拠品を収める保管室や事件記録が並ぶ資料室などがある。どれも日の光を嫌う為、窓のカーテンは昼間だと言う降ろされ、中にいる人の気配を覆い隠している。

不気味だ。

何度もここに足を運んでいる夏南だが、始めに抱いた感想は、薄れるどころか来るたびに思い起こされ馴れる気配はない。

二人は入り口を潜り、踏む旅に悲鳴のような音を上げる階段を降りると、錆びた鉄の扉を開け死体安置所兼検死室室へと入っていった。

薄暗く血の匂いが満ちる部屋の中央、幾つも並べられた検死台の中、一人の小柄な老人がポツンと立っている。

「随分早いなクルト

シィ先生が警察署の傍に来るとはまずらしいな」

 こちらに気付くと老人ーヨォドは、持っていた書類を机に置いて近づいてきた。クルトは気まずそうに手を上げ横に移動、入れ替わりに夏南が前に出る。ヨォドの顔が露骨に嫌なものを見た表情へと変わる。

「ようこそせんせ……なんだ助手のボウズじゃないか、留置所から連れ出したのか?

シィを呼んで来いっていっただろう、お使いも満足に出来んのか」

「時間が無いといったのはお前さんだぜ、ヨォド

俺が忙しい先生を探してこの街を歩き回っている内に、また全部持ってかれてもいいのかい」

クルトの言葉にヨォドが眉間に皺を寄せ少し間を空けて「仕方ないか」と呟いた。

用があると言われ足を運んだ挙句の仕打ち、普段の夏南なら帰ることも考えただろうが、死体安置所に充満する違和感が気になってそれどころではない。

この部屋に運ばれて来る遺体は、現場検証とその場での簡単な調査を済ませて運ばれてくる。故に血液は凝固しており、臭いは腐敗臭に取って替わられている。今のように遺体安置所兼検死室が、新鮮な血の匂いに満ちるのはおかしいのだ。

「留置所って、あんたまで俺を犯罪者呼ばわりかよ

今人を殺したような臭いの部屋に、一人でいるヨォド爺さんの方が留置所が似合うじゃないか」

 この臭いに耐えかねたのか、壁にもたれ掛かったクルトが煙草を咥え始める始末。この臭気に耐えられるのは、医療関係者、もしくは戦場で死体の山を見たような人間だけだろう。

「気にするな人間の物ではない

お前さんもいける口じゃろう、隠すな隠すな」

 ヨォドの顔が、話の合う友人を見つけたみたいな無邪気に笑った。慣れと好きは違う、言ったところで無駄であろうが胸の中で抗議しておく。それよりもこの血の臭いが人間のものではない、そう言ったのが気になる。

「それよりも用事ってのは一体なんだ?

シィ先生は薬屋だ、間違って殺した生き物を生き返らせる丸薬なんてないぜ」

「お前さんに、実験と間違いの違いを説明しても分かるまい。

それよりも事件の話がさきだ、興味深い死に方をした奴に話を聞きに行くぞ」

 ヨォドは質問の半分を無視すると、顎を引いて遺体安置所の奥へ着いてくるよう促した。

興味深いという言葉に夏南の背中に悪寒が走った。以前、解決した事件で極度に腐敗した死体を見せられ、丸一日憂鬱になった悪夢の日が脳裏に蘇る。助けを求めようとクルトを見るが「いってらっしゃい」とでもいうように、煙草を左右に振って見せた。

「調書があるだろう、それを見るだけにするよ

時間が経つと何処かに持って行くんだろう、だったら……」

「百聞は一見にしかず!

つべこべ言わずに着いてこい」

 痺れを切らしたヨォドが声を張り上げた、断りたいところだが、文章よりも実際に遺体を見て得られることもあるのは確かだ。昼飯抜きを覚悟すると、ヨォドの後に着いて遺体安置室の扉を潜った。ブーンという羽音のような音とむせ返るような血の臭い、遺体安置室は訪れた部外者に不快の塊を容赦無くぶつけてきた。

臭いの元は不明だが、音の正体は最近開発された大型冷却装置である。術識を使わず電気を使い蒸気圧縮機が冷蔵庫内の温度を下げるのだという。それ以上に詳しい仕組みは知らないが、この機材の導入を巡ってヨォドが警察上層部に噛みつき、無理やり導入させたのだという。

一体、どんな手札を切ったかについてはクルトすら知らない。小柄で枯れ木を思わせる姿だが、油断できない人物の一人である。

遺体安置室は検死室を一回り程小さくした広さで、奥に遺体保管用の冷蔵室が並び、そこから入り口まで、寝台やら医療器具が置かれた台が無秩序に並んでいる。勝手知ったる我が家、そういうかのようにヨォドは進み、ある寝台の前で足を止めた。慌てて小さな背中を追った夏南だが、目に飛び込んできた光景に息をのんだ。

寝台の上に掛けられた白い布は人の形に膨らんでいる。だが、腹を中心に布がクレーターのように陥没しており、布に隠された遺体の惨状の酷さを語りかけてくる。遺体の一部が欠損しているのなら外傷だろう、人体を内側から直すシィの見識が何処に必要なのだろうか。

夏南の沈黙を覚悟を決めたと見たヨォドは、白い布の端を掴むと一気に剥ぎ取った。そこには20代半ばであろう女性が眠るように横たわっていた。しかし、その顔は恐怖で歪み、腹から股間にかけて抉られたように削り取られ、残った胃や腸が肉と脂肪と乾いた血液の海の中から覗き、死の直前に彼女を襲ったものの悍ましさを否応なく訴えきた。

竜との戦いに身を置いていた夏南にとって、仲間の死体を見るのは日常であった。仲間以外にも龍によって非戦闘員が殺された現場に行き、同じような死体も数多く見た。しかし、幾ら見慣れようとも、その人の奪われた日常を思うと、吐き気を押しのけて怒りが静かに湧き上がってくる。

「何で死んだかは簡単に調べられたが、どうやったのか見当もつかん」

ヨォドは何時の間にか手に持ってた検死結果が記されたファイルを、夏南の胸に押し付けて来たので開いて目を通す。

女性の名はミーリ・ミラル。ロンディニウムの北西アリールランド出身で職業は娼婦と書かれている。逮捕歴は無く、街外れの低所得者層が集まる地区で一人暮らし、趣味は裁縫、将来は服飾の工房を開くべく生活を送っていたという。

短時間で調べたとは思えない情報が、ファイルには書かれていた。クルトが調べたのだろうか。どんな手を使ったのか直ぐに聞き出したかったが、ページを捲り検死結果を読むと、そこに書かれた一文がそんな興味を一瞬で吹き飛ばしてしまった。

死亡時刻は昨夜の深夜12時頃、死因は出血性のショック死。ライドパークの林の中で、体の一部が失われた状態で、駆け付けたにより発見される。あの悲鳴はこの人が発した断末魔だったのだ、頭の中で昨夜公園で聞いた悲鳴が蘇る。

「この短時間の間に、被害者の情報がそこまで揃っているんで驚いたようだな」

 振り返ると何時の間にかクルトが、遺体安置室の入り口の隣で壁に背を預けていた。

「そいつはヴァギが贔屓にしている娼婦だ

泣きながら教えてくれたよ」

 夏南の脳裏に先ほど絡んできたヴァギの姿が浮かぶ。事件の捜査に出られない鬱屈したところに、知人の死が覆いかぶさってきたのだ。背中越しに聞いた彼の声は、受け止めきれない程の感情に押しつぶされた者の悲鳴であったのだ。

 気を取り直して調書を読み進める。赤子の龍に喰われたのなら、この遺体の状態は腑に落ちない。幾ら急成長させれたとしても、喰っている途中の獲物を置いて、自発的に歩き回るのはおかしいのだ。

直接的な死因は子宮を中心に、幾つもの臓器の損傷による出血性のショック死と記されている。説明は続き、残された臓器や飛び散った破片を観察した結果、内部から破裂した可能性が高いという憶測で締めくくられていた。ヨォドにしては歯切れの悪い検死結果だ、人が内部から爆発したとしか考えられない異様な死体であれば仕方がない。

「俺が見てきた奴の中で、こんな死に方したのは初めてだ

これ以上は何も話してくれないのは寂しいのぉ」

 調書を読み終えると、ヨォドが同意を求めるように話しかけてきた。生憎、死体と話したかのような検死は出来ない。曖昧な返事をして流すと、部屋の隅に立っているクルトに似たような事件がないか聞こうとしたが、顔を向けると煙草を横に振って俺に聞くなとジェスチャーした。

急に飛び込んで来た事件が、昨夜遭遇した龍と接点を見せはしたがそれは細く、龍の存在を手繰り寄せる事はできなかった。

術識を使えば目の前の遺体と同じものを作り出すのは可能だが、龍が扱う術識の出力は人を遥かに上回る。遺体は飛び散り、こうして原型を留めてはいないだろう。仮に人間が犯人だった場合、国家機関所属クラスの高練度術者が夜の公園で、わざわざ制御の難しい人体に作用する術識を使ったことになる。

単に人を殺すだけなら、龍は己の牙、術者なら砲撃というもっと簡単な方法があり、術識での殺害の可能性は低いと言える。

これでは、犯行手口から当たるには得策とは言えない。

救いを求めるように夏南は調書の続きに目を通す。

被害者の体内から男性の精液が検出され、死亡する直前まで男性と居た可能性があると記されていた。現場に残された遺留品に男性の靴と帽子が残されていた事から、死亡当時男性と一緒であった可能性が高いことも書かれている。この内容からだと、男は龍に丸のみにされ、抵抗した際に帽子と靴を落としたのだろう。

 やはり目ぼしい手掛かり無し。

夏南は溜め息混じりに調書をヨォドに返した。

「運の悪い嬢ちゃんだ

遺留品の帽子が、貴族様御用達のあるオートクチュール店の物だったもんだから、有無を言わさず上がやろうとしているゲームの手札にされちまった

上は恥じるどころか、これで貴族が絡んだ事件が一つ増えたと、攻撃材料が増えことを子供みたいに喜んでたよ」

 最後にクルトが心底あきれたと言った口調で、警察の対応を付け加えてくれた。

リリムから聞いた警察の隠蔽工作、その目的は事件を世間から隔離して、裏で貴族系役人へ取引材料に用いることにあったのだ。

警察とその上層部である内務省は、非貴族系の地方有力者の血を引く者や、平民からの叩き上げが多い。対して貴族は王から認証を受け、昔からロンディニウム周辺に暮らし政界の至る所で国を動かしている。二者の対立を夏南は知っていたが、その為に死体すら利用するのを目の当たりにすると、怒りを通り越して呆れてしまう。

「貴族様の間で連続殺人事件が流行ってる、こんな説明誰も信じないぞ」

「長年権力者の椅子に座って来た人間達だ

例え冤罪でも潔白を証明する為に、捜査を受けなきゃならん事ぐらい百も承知だ

避ける為なら、こっち側の交渉に乗らざるを得んさ」

 離れたクルトの表情は読めないが、その声には白けた響きが含まれていた。

「それよりも連続殺人事件の話はどこで聞いた?

箝口令が敷かれている上に、内務省が絡んでいる案件を喋った馬鹿でも知り合いにいるのか」

この件は組織でも俺とヨォドのしか知らない、そうクルトは最後に付け加えた。

「神様を信じている人間は至る所に居る

その一人が同じ信者が消え死体で見つかり、調べてみれば似たように失踪してはいるが、表ざたになっていない

そんな話を抱えていれば、昨日今日会った人間にも話したくもなるさ」

 リリムの事はぼかして教会筋から聞いたと伝える。

 殺人課のクルトが事件を召し上げられるまでに、何を知ったかは分からない。リリムを尾行されて、それが万が一ばれて彼女の父親に知られればややこしくなる。警察と教会、そして夏南達の組織が対立した所した挙句潰しあいが始まってしまえば、混乱に乗じて犯人が目的を遂げて逃亡する危険が高い、それは何としても避けねばならない。

「事件を巻き取ろうと教会がやっきになって、内務省や警察に掛け合っているのは知ってるが、組織内の下っ端の口を塞ぐのを忘れるとは、取り乱しすぎだな」

 下っ端といっても枢機卿の娘で、塞ごうものなら手を噛み千切られかねないけどな。夏南は呆れるクルトに胸の中で反論する。

「それでお前さんはどこまで知っている?」

「消えた信者とそので寝ている女の二人だけだ」

そう答えるとクルトは事件の詳細を、まるで教師のように丁寧に説明し始めた。強面の顔と行動からは想像も出来ない、こまやかさ。彼を慕う者が多いのもこれがあるからだろ。 事件の発生は半年前に遡る。

地下組織所属の娼婦や高級売春婦が、行方不明となる事件が散発的に発生、その内の何人かが後日体の一部が発見され連続失踪事件と一括りで扱われることになった。始め警察は夜逃げや組織同士の抗争で消されたと、本腰を入れて捜査を行わなかった。しかし、貴族筋から捜索願が出されていた数人の持ち物と、連続失踪事件に関係する現場に残された遺留品が一致する事を偶然発見すると事態は一転、上層部が事件を殺人課から取り上げ内務省へと管轄を移し箝口令を敷いたのでたったという。

「くだらない権力争いだ

殺された奴の事を何とも思わない馬鹿者どもだ、この際みんな消えてしまえばいい」

 いつの間にか近くの椅子座っていたヨォドが、頬杖をつきながら悔しそうに声を上げた。夏南が見た調書と目の間に横たわる死体、それも日が落ちる前に上が回収することも付け加えた。

目の前の明らかに異常な死に方をした人間、それを殺人事件扱いする警察の態度に耐えかねて、組織を通してシィ先生に解決策を二人は求めたのだろう。

夏南は事件の輪郭を捉える立場となって、改めて肩を落とすクルトとヨォドに見る。見る者が見れば情けない姿に見えるだろう。しかし、彼らは彼らの立場で精一杯戦った末に、化け物が殺したとしか思えない死体を確保してた上で、組織を頼ったのだ。

街の治安を守る役割を果たしている、責められるいわれは無い。

夏南は静かに拳を握りしめた。

美冬の身の安全を先手を打って守り、あわよくば龍の餌である結晶を取り除く手段が手に入れば良いと考えていたのだ。殺された女性、一緒に居たと思われる男性、そして事件解決から外されてしまった人達の苦悩。想像はしていたが実際に見るまで、彼らの事を二の次三の次に置いていた自分、それは事件を弄ぶ警察上層部や内務省と同じだったのだ。

夏南は事件解決を改めて決意する。

シィは組織とも協力関係にあり、条件として解決手段を明かさないことを約束させている。それは裏で夏南が動き、美冬を救う手段を発見した場合に独占する為である。それを知っているのはシィと夏南だけ、この場にいる二人は知らないので決意は口に出せない。

「分かった

この件は必ず先生に伝える」

 夏南の言葉に二人が静かに息を吐く気配がした。肩の荷が少し下りたのだろう。だが、事件を肩代わりした夏南は大きく息を吸い込んだ、ここで得た情報だけでは犯人を追う事はできない。

今までの犯行現場は既に警察の手が入り、何も残っていないだろう。調書ん写しをヨォドが取っていたとしても、これまで遺体の一部しか見つかっていないのなら、目の前の死体以上の情報は得られそうにないだろう。犯人に繋がる手がかりが残されているとすれば、被害者達の自宅や身辺だろう。

殺された人間達にある共通点がある、必ず見つかる筈だ。

「娼婦が多いと言ったが、これまで殺された人間達は、女性もしくは女性と一緒だったという事でいいのか、クルト」

「その通りだ、被害者必ず女が絡んでいる

閉鎖的な職業に就いている人間が多くて、警察が身辺調査してもはっきりとした交友関係は分からなかった」

 この街での女性の地位は低く、差別の対象となることが多い。警察に駆け込んでも、訴えを撥ねつけられる話をよく聞く。故に事件解決に警察が動き出しても、形だけ捜査して終わらせるだろうと協力を得られないケースがある。

クルトの言い方では、これまでの被害者の家や職場を当たっても何も出てこないだろう。

やはり、目の前のミーリなる女性の身辺を調べるしかない。

「この女性の家はもう調べたのか」

「上はもう既に終えている、形だけな

伝手を辿って聞いた話だが、ネズミの巣みたいな小さなアパートの一部屋を、30分程荒らして引き上げたそうだ」

 一週間もしないうちに大家に圧力をかけて、部屋を片付けさせる、クルトはそう話に付け加えた。

「分かった、そこに寄ってからシィ先生に事件を持っていくよ」

「事件現場には昼間は寄るなよ

監視している警官に見つかったら、問答無用で刑務所行きで、俺じゃ助けられんからな」

「事件解決よりも、上への点数稼ぎには熱心な奴が多い職場みたいだな」

 少々刺のある言い方だったが、気にする素振りも見せずにクルトは壁から背を放した。

「俺の出る幕はここまでだ、何かあったら言ってくれ

連絡手段はいつもの通り人伝で、家を見張っている怖い人に見つからないようにな」

「なんだ、家賃でも滞納したのか?」

「見張りだよ、事件を取り上げらた事を噛みついて休暇を貰った後、何時の間にか湧き出した

あいつらは今も俺が自宅でくつろいでると思ってる、まぁ見つかっても警察に私物を取りに来たとでもいうさ」

 クルトがポケットから父の肩身のペンを取り出し振ってみせた。顔は笑っているが、警察署でヨォドから聞いた話をシィの所に持っていく危険を冒している。それほど事件の扱いに怒っているのだ、彼の信頼には何としても応えたい。

「後はお……シィ先生に任せて休暇を楽しんでくれ

くれぐれも巻き上げ過ぎるなよ」

「カードの世界で勝ちすぎは嫌われる

勝った分は奢って帳消し、後は貸付けてここぞという場面で返済を迫るのが賢いやり方さ」

 クルトは休日を趣味のカードゲームに費やしている。もっともそれも裏カジノに出入する為に覚えたものだという。それを知らず四六時中賭博場に出入りする警官、それを尾行することになる内務省の役人は何を思うのだろうか。

 クルトは不敵に笑うと、煙草の煙を揺らしながら遺体安置所を跡にした。

手を貸そうと彼は言わない。

シィや夏南を信用していることもあるが、術識や化け物相手に無力なことを身に染みて理解しているからだ。

 クルト出ていく時に開けた扉が大きな音を立てて閉まる、遺体安置所は再び静寂に包まれた。

 昨夜遭遇した龍の赤子、リリムから聞いた連続失踪事件の繋がりは朧気ながら見えた。

纏めると、この件は内務省と上層部の手中にあり、正導教会は手を出せる立場にない。遺体や物証は残されていたが、目の前の死体以外は夏南の手の届かぬところにある。彼らよりも先に証拠を見つけるか、見落とした証拠から犯人を探し出して、始末をつけるしかない。

「ヨォド爺さん

この死体は明らかに人がやったものではないということで、組織を通じてシィ先生に話を通そうとしたのは分かる

今日まで動けなったのは、これまでの死体が人がやった可能性が高かく、第三者が見て判断つかなかったってことななのか?」

 ヨィドに組織を通じてシィ先生に事件を託すことを提案したのは、いつも通りクルトだろう。彼は過去の事件に言及しなかったのは、目の前の死体からのみ、今回の事件の犯人を追う事ができると考えてだろう。だから以前の被害者のことを詳しく話さなかったのだ、しかし夏南は今回とそれ以前の差異にも何かあるような気がしている。

「その通りだ

ここまではっきりとした死因が分かる五体満足な死体は、今回が初めてだ

これ以外は切断された腕や足で、猟奇殺人犯がやったようにも見られるものばかりだった

その死体は幾ら再現しようとしても無理だったんで、やり口が分かったらこっそり教えてくれ」

 このミーリが昨夜の一件被害者で龍が犯人なら、遺体の隠蔽を行おうとして何かイレギュラーな事が起こったと見て間違いないだろう。

ん?

今、この検死官殿は再現したって言わなかったか!!

「あんたまさか、他の死体を爆破でもして原因を探ろうとしたのか!」

 夏南はヨォドに詰め寄る。

 この部屋に立ち込める濃すぎる血の臭いも、それなら説明が付く。

「生きた人間ならともかく、彼らを爆破などするか!」

 見てみろと、ヨォドが死体安置所の一角を指さした。そこは背の低い木の板で囲われているスペースがあった。周囲の機材が放置されているそう思って見落としていた、夏南は慌てて駆け寄った。

そこには、人一人軽く入りそうな金属の箱が横たわっていた。閉じた蓋の間から血が流れた跡がある。近づくと、僅かな金属臭を帯びた臭いが鼻を突く、夏南は中身を見てはいけないという本能を無視すると、蓋を開け放った。

血と内臓の残骸が、箱のそこに大釜で作ったスープのように溜まっていた。開けた蓋の内側にもびっしりと血と内臓がこびり着いている。まだ乾ききってはいない、夏南とクルトがこの部屋に来るほんの少し前に、何らかの方法で四散して出来たものだ。

思わず後ずさる夏南の足が何を踏んで転びそうになる。足元を見ると、それは工業用で使われるガスボンベであった。これを遺体に何らかの方法で注入して破裂させ、ミーリの遺体と同じものができるかどうか試したのだろう。

幾ら犯人を捕まえる為とはいえ、関係のない遺体をこんな実験に使っていい筈はない!

夏南はヨォドに殴りかかりそうになった、だが視界の端で血と肉の海が崩れ、あるものが目に入ると思いとどまった。

蹄だ、黒い蹄がよく見ると幾つか浮いている。

「今朝、肉屋を叩き起こして豚を何匹か買ってきて『実験』してみたが、何をやってもあやつのようにはならん。

ガスや薬品ではこうはならない、かといって片手で人間を捻り殺せる化け物が、腹だけ器用に削り取るとは考えにくい」

 料理人は食べる為に殺し、自分は犯人を捕まえる為に殺した、そこに違いはないとヨォドは話の最後に付け加えた。

ヨォドは夏南が来る前に、人の手で犯行が不可能に近いことを確認してくれたのだ。大きく息を吐いて怒りを鎮める。動物実験を夏南は知らぬ訳ではないが、素直に割り切れぬものではない。

「動物がこんな殺されたかをしてそんな反応をみせる、ということはお前さん故郷で狩人でもやっとったんか?」

 ヨォドの目が鋭く光ったのが遠目に見えた。

「互いの過去は詮索しない

それがこの組織の掟じゃなかったのか」

「すまん、忘れておった

生きている人間に深入りしては身が持たん、そうだった、そうだった」

まるで道化のように自嘲すると、ヨォドは壁際のデスクに移動するとペンを走らせ始めた、夏南に背を向けて。

これ以上、今話すことはないということだろう。

夏南はズボンのポケットから懐中時計を取り出す。時刻は2時を過ぎている。情報はある程度揃った、ここから先は自分の目と耳で集めなければいけない。

「ありがとう、俺はもう行くぜ」

「終わったら、いつも通り殺し方だけ教えてくれればいい」

 ヨォドが振り返る事無く答えた。今回の事件も犯人には興味が無いようである。人に深入りはしない、ヨォドらしい返事である。

夏南は遺体安置所を出て行こうドアの前に立ちノブに手を掛けた。ふと後ろが気になって肩越しに振り返った。そこには薄暗い電灯の下、背中を丸めて座る初老の男が居た。そういえば、ヨォドとはこの遺体安置所以外で会ったことは無い。

幾ら人嫌いの検死官とはいえ、淀んだ空気に長く浸って体に良いとは思えない。

「根詰めすぎのはよくないぞ

たまには外に出て歩いた方がいい

死体は教えてくれないものを、生きてる人間は結構知ってるぜ」

「生きてる人間よりも死人の言葉の方が好きだ

助けて、死にたくない、殆ど似たようなことしか言わんが、嘘が無いだけ気楽で良いわ

分かったらさっさと消えろ」

 ヨォドの拒絶、生きている人間よりも死体との時間を優先する理由に、仕事以上のものがあるようだ。死んだ、息子夫婦に何か関係があるのだろうか。聞くわけにはいかない、興味本位で踏み込んで来るなと拒否されたのだから。

誰にだって触れてほしくない秘密や過去を、一つや二つは抱えている。美冬に内緒でこれから危険に飛び込もうとしているので、痛いほど分かってしまう。きっとそれは美冬にもあるのだろう、それは連続失踪事件の犯人も同じだろう。

夏南は無言で遺体安置所を後にした。

廊下に出ると、血の臭いがしない新鮮な空気が肺を満たす。一人生き返った気分だ。

軽くなかった足取りで建物の外に出る、空を見上げると、陽は頂点を過ぎこれから落ちる準備を始める位置にあった。

日差しはこの季節にしては強く、薄暗い遺体安置所で冷えた心と体を温めてくれた。

時折、冷えた風が吹き抜け体温を奪おうとするが、夏南にはかえってそれが心地よかった。

 きっとヨォドが死体安置所に籠る様に、夏南にも息を殺して存在していける場所はあるのだろう。

だがそこで美冬と一緒に笑う事は出来ないだろう、故郷である九頭龍の里がそうであったように。

 夏南は一歩踏み出す。

前に進まなければ自分の幸福どころか、美冬の命すら守れないと知っているからだ。

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