第8話

「兄さん」

 突然妹の声が聞こえ、頬に小さく柔らかな手が触れた。

 もう少し寝かせてくれ。

 夏南は寝返りを打つ。

明かされた九頭龍一族の罪は容赦なく夏南の心を削り、その夜の疲弊した体は深い眠りを欲し貪った。

「兄さん、兄さん」

 自分をを呼ぶ声はそんなことなどお構い無しに段々と大きくなり、顔に触れる手の感触は徐々に熱をおび、意識を振り起そうとする。

今日は朝から美冬のところへ遊びに行く約束をしていたんだっけ。

夏南の意識が徐々に覚醒する。

今日はまず、この前戦った龍の話をしてやろうか。

この前?

 暗闇の中、まるで活動写真のように幾つもの光景が目の前に映し出される。

美冬との夜のお使い、そして公園での龍との戦い。

「美冬!」

 夏南は飛び起きた。

目を開けるが視界は白い光でぼやけ、脳のが軽い痛みを訴えている。

久しぶりの龍との戦闘、しかも美冬を守りながら。

自分の想像以上に体力を使ったようだ。

昨夜の戦闘の後、自宅に美冬を置いて龍の追跡をしようとしたが、怪我の処置を終えた美冬から外出禁止を言い渡され、そのまま自室のベットに押し込められてしまった。

 今朝の自分の体調からすると、彼女の判断は正しかったと言わざるを得ない。

 昨夜起こった事を人通り思い出した夏南は、安堵の溜息を漏らした。すると、反射的に刀を取ろうと伸ばした手が柔らかいものに触れていることに気付く。枕にしては暖かい。

 何だろうと、夏南は目を凝らした。

 はだけた寝巻、隙間からから覗く肌色をした大きな隆起。

 み、美冬!

 夏南は慌てて彼女の胸から手を離した。

 夏南が外に出ないように眠るまで見張ると椅子に座っていた美冬だが、何時の間にか夏南のベッドに潜り込んでいたのだ。

初めての龍との戦い、美冬も疲れたのだろう。

小さく寝息を立てる美冬の頬を撫でる。

起きる気配はない、この分では胸を触ったことすら気づいていないだろう。

 ほっと胸を撫で下ろした夏南、だが直ぐにある違和感に気付いて息を呑んだ。

 彼岸堂の2階にある夏南の部屋には、ベッドと机と椅子、その他には本棚とクローゼットという質素なものだ。しかし、今それら見慣れた光景の上には、複雑怪奇な幾何学模様が描かれた紙が所狭しと貼られている。よく見ると見覚えがある模様だ、これをやった犯人にも心当たりがある。

「美冬、まだこれを信じているのか」

 昨晩、美冬は自室からこの厄除け札を持ち出して、睡魔に負けるまで張り続けたのだろう。

 貼られている紙は術士である美冬謹製の護符なのだが、はっきり言って効果は無い。

 妹の腕が悪いのではない、今部屋中に貼られている札事態、何処にでもある民間伝承、つまり根も葉もない言い伝えから生まれたものであるからだ。。

 東国のある荒神を封じる神社に貼られた術符の一つだったが、人から人へ噂が流されるうちに厄払いの札へと姿を変えたのであった。しかし、美冬の乳母はその事を知らずに密かに入れ込んでいた為、幼い美冬にもそれを教えてしまい、何かあると夏南の生活圏内に現れるに至る。

 龍から受けた傷が悪化しないように、もしかすると手負いの龍が復讐しに来ないように、貼ってくれたのかもしれない。

 龍の行方の手がかりが掴めない以上、向こうから出向いてくれた方が手間も被害も小さく済む。だが、自身の安全を願う妹の気持ちを汲んで暫くは剥がさないでおこう。全て剥がすには半日かかるので、出来るだけ先延ばしにしたいのもある。

「一応礼は言っておくぞ、美冬

ありがとう」

 夏南はそう言うと、眠る妹の頬にもう一度触れた。

 まるで上質の絹のような感触、正直何時までも触れていたい。

「ううん、兄さん」

 突然、彼女の薄紅色の唇が動き自分を呼んだ。

 夏南は指を伸ばして美冬の唇をなぞる。

二人きりならば、自らの唇で触れたい。

「何か用があるんじゃないのか」

 ドアの外、僅かに開かれた隙間からこちらを窺う不届き者に向かって、夏南は煽るような口調で言葉を投げつけた。

「東国では5歳を境に、兄弟でも男女の寝食を分けるという話を聞いたが、あれは嘘であったか」

 気だるい女の声、ゆっくりとドアが開く。美冬よりも頭一つ背の高い女性が姿を現した。彼 女の名はシィ、スーアン。

 夏南と美冬と共に生活している女性である。

 彼女は腕の良い医者であるが、今はその豊富な知識を活かして、薬局屋「彼岸堂」をこのロンディニウムで営んでいる。

 妹の美冬は、薬学の知識を買われ助手として働き、夏南は配達や薬の調達を担当している。

 シィはとの出会いは年前に夏遡る ィはあ南とある約束をを守ることを条件に換金されていた冬の解放に協力、自その後、身が住む遥か西の島国ロンディニウムへと逃れ今現在の共同生活に至る

一言でいうなら命の恩人で彼1年共に暮らしているが今だ掴めないところの多い

彼女は故東国から西にを隔渡った先にあるシア陸に、そこに存在する国家の一つ国の民族衣装、に身を包んでいる。上下が一体で体に張り付くような服で、地に黒のや白の絹で花幾つものの模様が描かれたている艶だが、艶やかな衣装とは反対に着ている人間の姿は酷い、中まで伸びる黒髪は遠々跳ねており、余り外を出歩かないのにやたら血色の良い顔は、の下に隈がを浮かべている。

 昨夜の頼み事を朝方までやってくれてのだろう、喉から出かかった悪趣味な覗きに対する罵倒は飲み込んでおこう。

「嘘じゃないが一部地域の風習だ

俺の居た所じゃ男も女も一緒だったぞ」

「なんだ

あの爺医者の御老体、検死以外のことはあまり当てにならんな」

 シィは知り合いの医者から吹き込まれた知識が間違いだと気付くと、ため息交じりの声を漏らした。

 華国の民俗衣装が似合う彼女がやると、ちょっとした仕草でも舞台女優のように気品がある

 騙されてはいけない、一仕事終えてストレス解消に夏南を弄りに来たに違いない、これまで過ごした時間から分かっている。

「この国と同じく、家族でキスを交わす風習もあると聞いたが」

 彼女の顔が悪戯っぽく笑ったものへと変わる。

「あ、あるかそんなもん」

 夏胸の内を見透かされたようなきがして、南は平少し上ずった声を上げてしまった

 夏南と美冬は自分達を遠い親戚、幼い頃からよく遊び兄と妹のような関係にあるとシィに説明している。

 夏そのせいか、南と美冬の関係を邪推してのからかうようなことを、シィは暇潰しで言って来る。血の繋がった実の妹に家族以上の好意を持った後ろめたさから、二人の本当の関係は話していない。美冬には東国人の兄妹と周囲に知られれば、追っ手に見つかりやすくなるからと口裏を合わせて貰っているが、いつまでシィの目を誤魔化せることやら。

 話声が五月蝿いのだろう、隣で美冬が寝返りを打った。

 龍との戦いで酷く疲れているだろうから、このまま寝かせておきたい。

 夏南は雑談を切り上げ、本題を切り出す。

「昨日頼んだアレの調査が終わったんだろう」

 シィは静かに頷き肯定。

 流石は専門家だ、一日経っていないのにもう調べてくれたのだ。

 しかし、シィの顔はどこか浮かない、何かあったのだろうか。

「色々面倒なことが分かった

夏南、お前の意見が聞きたい」

 硬いシィの言葉を受け、夏南は美冬を起こさぬようにベッドを降りた。

 正直なところ、いつか龍が自分と美冬の前に現れるような予感が心のどこかにあった。

 龍を救うにしろ殺すにしろ、美冬の人中にある結晶の存在を知られる前に、この事件を解決しなければいけない。

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