第6話
質素な木製の扉、何度も潜りその向こうの景色を憶えてしまった女性だが、自分を待ち受けるであろう結果の重さを考えてしまい、ノブを回す手を躊躇わせた。
いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない、女性は意を決して扉を空けた。
私は強い、どんな理不尽でも受け入れられるはずだと。
扉を潜り白い診療室に足を踏み入れる。
部屋に入るなり、キツイ消毒液の臭いに鼻孔を刺された。部屋の景色に馴れても、この臭いだけは今だに好きになれない。女性は呼吸を浅くすると、患者用の椅子に向かって歩き出した。
部屋は白い壁紙と同じく白く塗られた天井に囲まれ、子供の頃本で読み空想したお城の一室を思い出すので、女性は密かに気に入っていた。
薬品や医療用の器具が治められた棚が、壁を隠すように幾つも並んでいるのは、持ち主の職業上仕方ないとはいえ、部屋の雰囲気を壊していると女性は考えている、できることならこの手で白く塗りたい。
部屋の中心には、書類棚の付いた金属製のテーブルと医者と患者用の椅子。その隣には医療用の器具が置かれた小さな台がある。その台の上、備え付けられたボウルには不快な臭いの元である消毒液が並々と注がれ、水底には一本のメスが沈んでいる。
今すぐひっくり返したい、あぁもっともっとどんなことでもいい、考え続けてアレを頭から追い出さねば。
「お座りください、ユツさん」
医者用の椅子に一人の白衣の女性が座っている事に、女性―ユツは改めて気がついた。
気が付くと拳を強く握り、手汗が滲んでいた。
ユツは2ヶ月に一度、胴元からの指示での性病の定期健診を受ける為に、ハーランド診療所、通称イルタ医院に訪れている。
早く良い結果を貰って、仕事に戻らねば。
何も無い日常に、アレの居ない日常に。
「け、結果はですか、イルタ先生」
ユツはぎこちない様子で椅子に腰かけると、目の前の女医―イルタ医師に話を切り出した。
声が僅かに震える、いつもならイルタと軽い雑談を交わすが、今のユツにそんな余裕はなかった。
「まず落ち着いて下さい
結果は全て陰性、お仕事を続けることが出来ますよ」
イルタはユツが娼婦をやっていることを知っている。彼女は職業で人を差別しない。慈母のようにその庇護を求める患者に、適切な治療と無為の微笑みを与える、この街の底に落ちた太陽だ、ユツにはそう見えた。
ユツの急かすような態度を気にする様子も見せずに、正導教会の尼僧とは違う血の通った優しい笑みを浮かべた。
「そ、そうですか」
ここ最近、衛生とは程遠い客を取っていたユツは、安堵から大きなため息をつくと、椅子に深く座りなおした。
病気となれば暫く仕事が出来なくなる、そうなれば自分が所属する地区の胴元に何をされるかわからないが、後2ヶ月は無事で済むようだ。
もっと稼がねば、金を手に入れてこの狂った世界から抜け出さなくては。
娼婦は罪人だ、だから神は自らが生んだ子に喰われる最後を用意したのだ。
「何かあったのですか?」
イルタの両手が肩に触れる。
そこで初めてユツは自分が震えている事に気がついた。
話してしまおうか、目の前の医師なら自分の話を酒が見せた幻と笑うことはないだろう。
「マ、マリが、友達のマリが・・・死んでしまったんです」
ユツは記憶の奥に沈めたこの世の物とは思えぬ光景を思い出してしまい、目の端に大粒の涙を湛えた。
「御気の毒に
神が良き人を傍に置きたくて、事故を起こして召上げる事があると聞きます
残されれた者に出来るのは、個人を思って祈りを・・・」
「事故じゃないんです!」
ユツの叫びが診察室に響く。
「殺されたんです、生まれる前の自分の子供に・・・龍に殺されたんです!」
イルタは一瞬動きを止めたが、直ぐにユツが膝に置いた手に優しく自分の手を重ねた。
「詳しく話して頂けないかしら
一介の医者に何が出来るか分かりませんけれど」
「信じてくれるんですかえている。
「ええ、勿論
貴女程敬虔なロテス信者を私は見たことがありませんもの」
イルタが笑みを浮かべるとユツは泣きだしてしまったが、やがてポツリポツリと話始めた。
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