第5話
「美冬!
そこで待ってろ!」
「え?
ちょっと待って、兄さん私降りられない」
美冬が木の上から非難の声を上げるが、降ろしていては龍が公園の外に出てしまう。
「美冬、御免」
夏南は龍の後を追って木々の間へと飛び込んだ。
待ち伏せは考えなくていい、この地上に戦闘力で肩を並べる生き物が居ない龍は気配を殺すことなどしない。
夜の公園、追跡は困難に思えた、しかし龍が移動した痕跡は直ぐに見つかった。
巨体で擦られ樹皮が剥がれた木、折られた枝は辺りに散乱している、更に地面の草には尾を引き摺った跡がはっきりとあった。
これならガス灯や民家の明かりが至るところにある街中で、目の瞳孔を広げ感光を増やすリスクを背負う必要はない。
夏南は痕跡を目印に走り出す。
徐々に痕跡には龍の血液が付着し始める。奥に進むに連れて、乾き始めていない粘度の低い新しい血液へと変わり、龍との距離が縮まっていることを示す。
やがて、林の中で男女の無残に引き裂かれた死体に出くわした。
先程聞いた悲鳴の主だろう、飛び散った血は既に渇き始め、死後時間が経っている事を告げていた。
葬ってやりたいが、龍がこれ以上人を殺さぬよう捕まえるのが先である。
夏南は後ろ髪を引かれながらも、その場を跡にした。
もう直ぐ林を抜ける、木々の向こうにロンディニウムの夜空と立ち並ぶ背な高い建物がが見え始めた。
微かだがこの先で龍の気配を感じる、理由は分からないが止まっているようだ。
好機、夏南は加速しようとした。
だが次の瞬間、術識の発動、そして龍の気配が一気に膨れ上がるのを感じた。
俺に勝てないとみて、術識で強制的に体を成長でもさせたのだろうか。
させるか、夏南は木々の隙間から飛び出し、開けた芝生に出た。
着地をすると術識の攻撃を警戒して、地面を転がる、そして素早く立ち上がり構えを取り周囲に目を走らせる。
頭の中の地図では、ここは公園内の西にある芝生が敷き詰められた運動用の広い空間だ。
公園と外を壁で区切る壁は無く、道路脇の駐車スペースに車を止めれば直ぐに芝生に寝転がったり、このロンディニウムを流れる川の一つリウ川のせせらぐ音を堪能出来る場所と、市が発行するパンフレットに何の色気も無く紹介されていた事を思い出した。
その説明の通り、この周辺に龍の巨体が隠れるような場所はない。
公園の外に出たのであれば気配は移動したはずだが、今は感じる事が出来ない。
龍の気配は膨れ上がった直後、一瞬にして消えてしまったのだ、何かがおかしい。
龍の身に何かが起こったのだ。
夏南は我知らず唾を飲み下した。
龍をどうこう出来るそれは、龍と同等もしくはそれ以上の脅威だ。人知を超えた生き物や現象と一夜に二度遭遇するなど、脇差一本で相手をするのはかなり厳しい。それにもう時間も無い、公園の騒ぎを聞きつけた警察がそろそろ来る筈である。
不意に風が吹き植物の青臭さと、この場にそぐわない鉄のような異臭を鼻孔が捉えた。
鉄、いやこれは血の臭いだ。
人のものではない、故郷で嗅ぎなれた龍の血の臭いだ。
夏南は臭いのする方向へと足を進める。
臭いの元は直ぐに見つかった。
芝生の上に大量の血が蒔かれている。
靴の先で血溜まりを擦ると、粘性は低く乾き始めていない。
蒔かれてから左程時間は経っていないようだ。
血溜まりは直径5メルトル程の大きさで、所々に月明かりを受けて輝く何かの塊が見える。
塊の一つを、脇差の切っ先を使って器用に掬い上げる。血に濡れているがそれは小さく透明な破片であった。冷たい、指で触れるとそれは氷であった、それも血では無く水から作られている。
近くの川の水を凍らせて止血にでも使ったのだろうか。
念の為、川の近くへと歩いてみたが血痕は残されていなかった。
念の為、もう一度血溜まりを調べたが、血と氷以外のものは見つからなかった。
それ以外には、血の池の下、芝生に龍の爪ではない鋭利な刃物で切り付けたような跡を発見した。
龍が消えたことと関係はありそうだが、はっきりとした手がかりには出来そうにもない。
予想外の事態、現場に残された証拠の断片。
ここで粘って龍の行方を示す証拠を探すか、一旦引いて美冬の安全を確保するのが先か。
夏南の前に選択が突き付けられたが、悩む時間は与えられなかった。
警察の車両が発しているサイレンが夏美の耳に届いた。逃げた人間の誰かが、その足で警察に駆け込んだのだろう。
サイレンはまるで輪唱のように幾つも重なって聞こえる。出動した車両は1台や2台ではない、直ぐに警官がこの公園を囲むであろう。もし美冬が一人でいる所をみつかれば、事件現場に居た東洋人というだけで確実に拘束されてしまう。
夏南は脇差を鞘に納めると踵を返して走り出した。
「きゃー!」
「大丈夫か、美冬!」
夏南が美冬の隣に着地をすると、木の枝が大きくしなり、慌てた彼女が怯える子供のように幹へとしがみ付いた。
「お、折れたらどうするつもりですか、兄さん!」
「その時は、俺も一緒に落ちてやるから安心しろ」
「それでは心配事が一つ増えます」
不満を漏らす妹の体を、夏南は木の上で器用に抱え上げた。
「あの子を捕まえたのですか?」
「すまない、逃げられた
後は警察から連絡を受けた教会か軍が動くはずだ
それにあの傷で逃げ回れば、そう長くは持たない」
それを聞かされると、腕の中で美冬が目を伏せた。
気配が消えた事を夏南は敢えて隠した。
本来この北欧の血に居る筈のない龍が突然現れ、そして突然消えた。
裏に何かがある事を聞いたら美冬は、今夜の件を引きづる、もしかすると龍の子への憐れみから事件に深入りしかねない。
美冬の幸せの為に危険を犯すのは俺だけでいい。
夏南は自らの口から出ていった嘘の残留物を、一人飲み込んだ。
不意に頬に美冬の手が触れた。
彼女の目がこちらを見据える、嘘に気付いたのだろうか。
「酷い顔です、何処か痛いのですか?
やはり、怪我をしたのですね」
美冬の顔が一気に青くなり、手の届く範囲の夏南の体を触り始めた。
「やめろって、
かすり傷程度ならほっといても治るって」
「昔そう言って大怪我を隠して元気な振りして、1週間寝込んだ人の言葉など信用できません」
「よくそんなこと憶えてるな」
「5回も繰り返されたら忘れる事など出来るものですか」
美冬が出来の悪い子を叱る親のような剣幕で夏南に迫る。
彼女は夏南の体調の事となると見境が無くなる。
里を抜ける前はここまで酷くなかったのだが、この街に来て落ち着くと今のように有無を言わさず治療をしようとする。薬局で働き周りを見れる余裕が出てきたのはうれしい。お使いの帰りに龍に遭遇した日でなければのはなしだが。
どう断ろうか、目の吊り上がった美冬の顔を前に困り果てた夏南の耳が、幾人もの警官の声を拾った。
「美冬、話は帰ってからな」
「にいさん、だめ、、、キャ!」
夏南は美冬を抱えたまま地面に飛び降りると、公園の外へと向かって走り出した。
何とか美冬を守れたが、龍の行方は手がかりすら掴めなかった。まだ、安全とは言えない。
状況から考えて龍は逃亡、もしくは消滅。
逃亡なら傷が自然治癒するか術識で治すまで姿をくらますだろう。しかし、後者である消滅なら、それをやった犯人がいる。そうであれば、龍の出現と何らかの関係があるのは濃厚だ。
一年ぶりの龍討伐だ。
今の戦いで感は取り戻した、美冬に指一本ふれさせはしない。
夏南は、高速移動に怯える美冬を抱える腕に力を込めた。
「そういえば、少し太ったか」
「な、女性に向かって何をいうのですか!」
「いや、前に抱えた時よりも大きくなったような気がしてな」
「それはコートを二枚重ねで来ているからです」
「どうして?」
「コートを脱ぎ捨てた事を忘れたのですか!」
夏南は美冬の指摘に顔を赤くすると、夜のロンディニウムを無言で走り抜けた。
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