第3話

「動かないで下さい

今、治癒術識を・・・・・・・」

 美冬の声はそこで途切れた。

 触れようと伸ばした手を、振り払われたからだ。

「この程度、怪我の内に入らないよ」

「でも、でも・・・・・・」

 夏南は美冬の両頬を抱えるように手を添えると、親指で両目から溢れ落ちる涙を拭う。

「泣き虫だな、やっぱり」

「あ?」

 今にも泣きじゃくりそうな美冬に向かって、夏南は安心させようと笑みを向けた。

「すまない

人と龍が戦う場面をお前に見せる事になってしまって」

 次の瞬間、夏南の体は美冬を抱き抱えると上空に舞い上がった。突然、重力から解放された美冬は思わず目を閉じる。瞼の裏にかつて何度も見た兄の怖くて寂しそうな顔だけが残った。

 バキ!バキ!バン!

 周囲の木々を弾き飛ばしながら龍の頭が何処からともなく飛び出して来て、夏南達が直前まで立っていた地面を抉った。

 隙を突いたつもりだろうが、戦闘経験の乏しい幼龍の奇襲など、夏南にはある程度予想はつく。

「気配を消せなきゃ、半人前だ」

 夏南は柔らかい芝生に着地、龍との距離は10メルトル以上をキープ、この距離なら体当たりも術識にも対応できる。

 奇襲が不発に終わり、赤い舌先を振動させて怒りに燃える赤い目で睨む龍、しかし夏南は龍以上の殺気を込めて睨み返す。

 人語を論理的に理解している様子は無いが、自分に向けられた殺気なら本能的に警戒して動きが鈍るはずだ。

その隙に美冬を逃がさなくては。

「美冬、立てるか?」

 そっと腕の中の妹に耳打ちする、返事はないが小さく頷いてくれた。

地面を離れる衝撃と浮遊感、その後に遅い来る落下の恐怖、それらを初めて体験したのだ、声が出なくなるのも無理はない。

 夏南は美冬を地面にゆっくり降ろす、念のため彼女の体を観察したが、服が破れたり何処かから血を流している様子は無い。

安堵の溜息をつきたいところだが、そんな事をすればこちらの様子を窺う龍が直ぐに襲い掛かって来るので我慢である。

「此処から離れた場所で待機してくれないか

術識を使われたんじゃ、捕まえるのにお前まで巻き込むかもしれない」

 嫌、と駄々をこねられるのを覚悟していた夏南であったが、あっさりと美冬は首を縦に振ってくれた。

その時、龍の気配に動きを感じた夏南は、再度殺気を込めた視線を放った、美冬の肩越しに。

しまった!?

「あ、あの、これ」

 美冬は恐怖に歪んだ顔を地面に向けると、コートの下から一振りの脇差しを取り出すと、震える手で夏南に差し出した。

「つ、使って、下さい・・・・・・」

 見慣れた柄拵、刃渡り30サンチメルトル程の脇差し。それは東国で龍討伐を銃後で支える者が主に帯びる武具。表向きは護身用だが龍と戦うには刃渡りが足りない、追いつめられた非戦闘員が主に自決に用いる刃物である。

 今、夏南の目の前にあるそれは、生前に母が美冬に譲った嫁入り道具の一つである。母の形見、自決する道具など里と一緒に置いていけとは言えなかった記憶がある。万が一、思いつめた美冬が手にしないようにと、夏南が家の倉庫の奥に隠していたのだが、無いと気付いた美冬が探し出してしまったようだ。

「母さんの形見だもんな

隠して悪かった」

 夏南は美冬の頭を軽く名撫でると、その手から脇差しを受け取った。

持って来た理由は聞かない、久しぶりの外出、夏南が思う以上に怖かったのだろう。

「必ず返す」

 美冬は俯いたま小さく頷くと、小走りでその場を離れていった。

「待たせたな」

 ズボンのベルト通しに脇差を一旦通した後、夏南はその柄を一気に引き抜いた。白刃が街灯の中で弧を描く。自死に用いる物とは言え、対龍兵装の主な原料である牙龍鋼をその身に宿す刀身、刃渡りが短かろうが触れれば強化されてない龍の鱗なら簡単に切り裂く事ができる。

 脇差の切っ先を龍へと向ける。

相手も牙を剥いたと見たのだろう、龍の小さく頭を引いて警戒を強めた。

仕掛けて来る気配はない。

夏南は脇差を突き出したままの姿勢で地面を蹴った。

 身体を何か所か斬りつけ出血させ、逃げ疲れたところを捉えるのが夏南の狙いである。

夏南と龍との距離は1秒にも満たない時間で直ぐに詰まった。

龍の鼻先が脇差の間合いに入る。

 脇差しを振ろうとした瞬間、龍が笑った、それまで閉じられていた口の端から僅かに術識が発動している気配と胃液のような臭い、そして透明な液体が漏れた。

口の端から漏れた液体は地面に落下、触れた芝生を一瞬にして溶かしてしまった。

 酸だ、それも王水クラスの強力なものだ。

 龍は夏南の殺気に当てられ動かなかったのではない、必殺の一撃を放つために小規模な術識を体内で発動、人一人余裕で溶かせる量の酸を産み出していたのだ。

 水槍のように圧力をかけて撃ち出すつもりなのか、口の奥で今度ははっきりとわかる程の術識が発動する。

 回避、いや下手に動けば美冬に当たるかもしれない。

 夏南は素早く脇差しを返すと、柄頭で龍の下顎を思いきり突き上げた。

 龍の顔が空へと向く、その勢いで口の端から周囲に酸が撒き散らされる。

夏南は後方へと素早く後退、しかし数滴の酸がコートやズボンに付着。酸は布を濡れ紙の如く溶かして皮膚へと殺到する。熱した鉄の棒の先を当てれたような痛みが、夏南の右腕と左脚を襲う。

思わず上げそうになった呻き声を、奥歯を力いっぱい噛み締めて殺した夏南は、再び脇差を構え龍へと斬りかかった。

 夏南の手が水平に振られると、地面から伸びる大樹のような龍の胴体の鱗が裂け血が吹き出した。

 シャー!

 龍は喉から悲鳴を上げながら頭を鞭のように振り回して、夏南を払い除けようとする。夏南は姿勢を低く取ると、更に2、3回斬り付けて後方へと跳ぶ。龍の目が怒りに染まると、逃さぬとばかりに牙を向いて夏南の後を追う。

 着地と同時に夏南は体を回転させ蹴りを放つ。

 夏南の脚は迫り来る龍の顔へと叩き込まれ、龍の体を近くの地面へと叩き落とした。

 龍の頭が地面に叩きつけられバウンドする。

 暫くは動けまい、そう思い掛けた夏南の視界の中で龍が瞬時にこちらを向くのが見えた。

 術識の反応、龍の口から水が漏れる。

 夏南は横に跳んで回避しようとしたが、代わりに龍の顔が横を向いた。その視線の先には何と美冬が居た。木の陰にから身を乗り出してこちらを見ている。

 龍の狙いに気付いたのだろう、防御の術識を展開しようとしているが、初めて実戦に立つ人間では受け止め切れないだろう。

 夏南は龍へと一気に跳躍すると、脇差しを口の付け根に突き立てた。

「許せ」

 そう言うと夏南は脇差しを振り、龍の鱗を首の根本まで引き裂いた。  

 苦悶の声と共に構成の乱れた術識が発動、水の槍が数条、夜のロンディニウムの空へと吸い込まれていった。

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