第29話 異常あり
――霧の七不思議、【幻影の怪物】。
霧の海を航海中、【第零異海】の調査員、56名は見た。
甲板で、操舵室で、倉庫で、様々なところで。
白い何かが、人のようななにかが、立っているのを。
誰かが、悲鳴を上げた。誰かは、物を投げた。
何も反応はなく、何もしてこない。
白い何かは、少し経つと消えていった。
それ以降、姿を現すことはなかった。
霧の海から出て、彼等は安堵する。
――調査員、55名の最終記録より。
以上が、オーシャン・ストレンジャーの異海調査員(ストレンジャー)による、調査報告……を真似た、お遊び雑誌の記述。その第零異海の古ぼけた雑誌は、アスカールで見たものだった。
過去の話だ。アスカールの友人と、一緒に見てたっけか。その後も何度か目を通し、完全に暗記してしまった。
そんなことを何故、思い出している。
甲板室に、立ち尽くしたままで。
「……」
俺は、動けないでいた。左手のひんやりした感触が、妙にぎこちなく。体全体が、ぴたりと止まっている。シャツとズボン姿のせいか、余計に寒さを感じて。
原因は、分かっていた。
俺の鼓膜に、階段から送られてくる音だ。
(足音だ。誰の)
響く一つの足音は、マリンでしかあり得ない。ラルドとフィルは外の船首上、船員達は見張りと護衛、となるとやはりマリンだけ。……いや、それにしたっておかしいな。
なんで、一つだけなんだ?護衛の足音は?
なんで、こんなに重々しく嫌な感じの足音なんだ?鼓膜と響くと同時に沸き上がる、不快な音を何十秒も聞かされたような嫌悪感。嫌に、速くなる心臓の鼓動。
それと反比例するかのように、足音は遅く音を刻む。
(遅い)
早く姿を見せてくれよ。安心させてくれよ。じらしているのかよ。……あっ、もしかしてこれ、マリンの悪戯か!そうだよな、普通に考えてそれしかない!
「は……は」
あほらしい。なにが、霧の七不思議だよ。確かに俺はロマンを求めちゃいるが、いくらなんでもな。有り得ない。流石にこれは……ちょっとな。
恐怖が、冒険心を浸食するのを感じた。
「おい、マリン!悪ふざけは止めろ!」
階段に向けて、そこにいるマリンに向けて、声をぶつけた。
「……?」
反応が返ってこない。静けさだけが返ってきた。……静けさ?
「足音が」
止まった。聞こえない。完全に。
それは、異常の停滞か。
――もしくは、異常の加速か。
「あっ」
白いなにかだった。
最初は薄ぼんやりと。徐々に濃く。
形が、だんだんはっきりしてくる。
「おいおい……」
冗談だろ。
そう思った、次の瞬間。
俺の右斜め前に。それは、現れた。
人型の、霧。
空洞が、目と口を形作った、幻影の怪物が。
「――――」
訪れる、静の時間。
集中状態か。体は動くか。ちゃんと行動できるか。きちんと対応は。ハンカチは持ったか、ちり紙は持ったか。いやいや、考えるべきなのはそういうことでは、無い。
迫る腕を――かわせるか――だろ?
「!?!?」
咄嗟だった。
身を屈めて回避、頭の上を風が通過。俺は部屋の左端に向けて、前転移動を行い、怪物から離れる。
(危なっ……!!)
ぎりぎりで躱せた!!髪を撫でた風を思い出し、ぞっと体を震わせる。もし当たっていたら、どうなっていた!?攻撃の速度は、そこまででもないが。
(あの体!あの異形ッ!)
俺は立ち上がり、中央テーブルを挟んで反対側に立つ、白い怪物を直視する。怪物は俺に目を向けているが、まるで動かない。
笑って、いるのか?なにが、おかしいのか。
霧のような体だ……。殴ってどうにかなるのか。いや、冗談じゃない。
――イレギュラーは、何故か使えなくなってる。先程から、力を感じられない。それに、あの得体の知れない存在に触るのは……!
(物を使って……あの雑誌の情報を信じるなら……効果無しか!?)
考えることが多すぎて、パンクしそうだ……!!こういう時に、自分の無能さが嫌になる!どれだけ経験積んでも、これかよ……!!
今、俺が、考えることは――。
(――マリン)
この怪物は、二階から来た。なら、彼女は。どう、なった。
「……クソがッ!!」
二階に向けて、走り出す。
走りながら、部屋の奥に飾ってある剣を手に取った。壁に取り付けた俺の剣、むき出しの白銀の刀身。玩具だが、打撃武器としては使えるだろ……!
●■▲
「マリン、聞こえるかっ!!返事をしてくれっ!!」
階段を下り、二階に足を踏み入れる。返事を期待するが、なにもなし。もっと近づいて……!
通路の分かれ道を右に進み、俺は叫び続ける。こっち側の通路に、彼女の部屋が。
しかし、声は帰ってこない。
「くそ……!!」
嫌な予感が、どんどん膨れていく。なにか、あったのか。なにか。
「はっっ!はっ!!」
全速力で、マリンの部屋の前まで。奴は追いかけてきてるのか。振り返る時間すら使って、走る。
「マリン!!」
部屋の前まで、辿り着いた。ここまで来ても、返事はない。
「開けるぞ!!」
丸型のドアノブに触れ、開けようと力を入れる。
が。
「!?、固ッ!!」
回らない。鍵は、ないはずだぞっ!?ていうか、この固さは異常だ!時が、止まったみたいに――。
「な、に」
ドアノブに伸ばした腕に、腕が混ざる。
白い腕、霧の腕。
右前方、壁から突き出たそれが、俺の腕を掴んでいる。
「ああ、うああッ!?」
冷たさも、熱さもない。圧迫感すらなく腕を掴むそれから、反射的に腕を引いた。
「くっっ!?」
腕を、離すことには成功した。
成功したが、無事ではなかった。
(腕が、白くッ!?)
白く変色した腕、否、これは霧か……!?俺の腕の一部が、霧のように……!!問題なく動くが、これは。
凄まじい怖気が、体を走る。これは、やばい。どんな悪影響が、分からないからやばい。
「!?、ぐっ!!」
混乱している最中に、壁から姿を現した白き体躯。
幻影の怪物。
――間髪入れず、剣で首を斬り裂いた。
「しッ!!」
続けて、縦・横・斜め・切り上げ・ありとあらゆる方向から、攻撃を加える。壁や扉を傷つけて。
両手で、構わず何度も。
それでも、奴は。
(効果なし……!!怯んですら……!?)
傷一つ無い、斬っても、突いても、すり抜けてしまう。
怪物は、笑みを浮かべている。遊びを楽しんでいるかのような笑みを。
絶望する俺を、更なる絶望に突き落とそうと腕が伸びた。
「ごっっ!!がっっ!!」
首を絡め取られ、そのまま背後の壁に押しつけられる。
俺は必死になって、何度も剣を胴体に突き刺すが、全然だめだ。このままじゃ……!!
さっきとは違い、今回は確かな圧迫感が存在する。首を締め付けられ、更に。
(顔が……!!)
下目で見た、自分の顔、首付近が、霧に浸食されていく。ゆっくりとゆっくりと。このまま全て浸食されたら、どうなるんだ……!?
恐怖で剣を手放し、怪物の手を両手で剥がそうとするが、まるで触れない!すりぬけてしまう!こんな理不尽、ありかよっ!?
(これは、まずいッ!!)
息が苦しくなってきた。このまま行けば、窒息か、もしくは。
(――死の、危機)
それを感じた途端、急速に頭が回り出した。
【……員は、行方不明に……】
脳が俺を生かそうと、回っている。
その情報は、雑誌に書いてあった。
【最後の目撃証言は】
知識の中から、この状況を突破できそうなものを。
【黄色い服を、着て休憩に】
探し出せ。探し出せ。探して、掴め。
【その後、消息を絶った】
生存をっ!!死にたくないんだろうッ!!
(情報の真偽不明――行方不明・調査員・性別は?男性・休憩に入る時、黄色い服を・関係ありそうな情報・状況・俺との共通点・狙う理由は――遊ぶような、笑み)
俺は、加速する思考の中で、希望を探し。
それでも、危機は変わらず。
意識が、遠のき――。
――ズボンの左ポケットに、手を入れた。
――そこに入っている物体、更に中に入っているものを、怪物にぶっかけた。
(――ビンゴ)
怪物が、手を離し後退する。その姿を崩しながら、今にも消えそうなほどに。
床にばらまかれた水が、頼もしく見えた。いや、元凶でもあるのか。
この様子を見ると、当たりだったようだ。俺の、がむしゃらな予想は。
(……行方不明になった調査員は、休憩に入った時に、姿を消した。その時、調査員は水分補給の為に、水を手にしていたんじゃないのか。俺が左手に、水筒を手にしていたのと同じように)
だとすると、それが条件なのではないだろうか。こいつの【遊び】の。遊びだとするなら、それなりに負ける可能性がなくては、面白くないから。
(俺の右側に姿を現すのは、左手に、左ポケットにあった水を警戒していた……もしくは、弱点のヒントのつもりだったのか)
それの証拠に、怪物は笑っていた。今にも消えそうだというのに、口が裂けるほどの笑みを。
――最後に不気味な笑みを残して、幻影の怪物は空気に溶け消えた。
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