第30話 チェスセット
スクランブルエッグとトースト、両方が完成。テーブルに並べてレアが降りてくるのを待つ。
一〇分、二〇分と待ったが、降りてくる気配がない。起こしに行くとしよう。
現在時刻は朝の七時。今までのレアなら朝食当番のある無し関係無く六時には起きてきていたはずだ。二階に上がり、レアの部屋の前へ。
一度目のノックは無反応。二度目のノックで、やっとドアが開いた。お馴染みの白いパジャマに身を包んだレアは寝ぼけ眼をこすりながら、不思議そうに俺を見てくる。
「どちら様?」
……昨日もそうだが、なぜ俺はこんなにも、レアの記憶から消えてしまった事にショックを受けてしまっているのか。
切り替えろ。これは任務だ。たった一ヶ月半の記憶が無くなっただけ。
寝ぼけているというのもあるが、昨日一瞬会っただけだからまだ印象が薄いのだろう。ここでもう一度自己紹介しておくか。
「引き続き、いや、今のレアからしたら今日からか。護衛として共同生活を送る朝日タクトだ。よろしく頼む」
「……そうだった。こちらこそよろしく、朝日。昨日任務についての書類に目を通したけど、確か同い年だったから名字呼び捨てでもいい?」
朝日、か。
最初に会った時、下の名前で呼び捨て合おうと提案してきたのはレアだった。今回は違うんだな。
「ああ、もちろん。何なら下の方を呼び捨てでもかまわない」
「あなたは何て呼ばれたい?」
「……そうだな。タクトと呼び捨てにしてくれるとありがたい」
「分かった。そうする。それじゃあ改めて。よろしく、タクト」
「ああ」
やっぱり、こっちの方がしっくりくる。
以前よりさらに記憶を奪われたせいか、レアはもう最初に会った時のレアとは違うようだった。
その事実を受け止め、踏まえて質の良い記憶を積み上げていこう。
なぜかチクチク痛む胸を押さえ、そう決意するのだった。
九月二〇日。
レアが俺との記憶を失って数日が経つ。
あの日から料理当番を決めたり入浴のルールを確認したりと生活リズムの整備を行い、ようやくそれが板に付いてきた頃。
そろそろ俺の方から仕掛けてみるか。
この数日間、レアが以前のように突拍子の無い事を言い出す事は無かった。
俺との距離をまだ計りかねているのが伝わってくる。
ここは以前のレアを知っている俺から歩み寄らないと。
そう思って何か提案をしようとしたが、記憶を失ってからのレアにしては珍しく、なんと俺の服の袖をクイクイと引いてきた。
動揺を隠しながらこの行動の意図を探る。
「どうした? 何か気になることがあるのか?」
「……あれ。わたしも水、あげてみたい」
レアが指さしたのは、庭にある小さな花壇。
一昨日までつぼみの状態だったが、今見ると、開花していた。
そうか、もうそんな時期だったか。
レアと俺とで植えたパンジーの花。人の顔のような模様。低い背丈。
俺とレアで交互に水をあげてきて、今日ようやく花開いた。
「じゃあ水やり当番を作るか。今日はレアの当番にしよう」
「うん。わたし、あそこに花壇を作った覚えも、花を植えた覚えもないんだけど、もしかして貴方が?」
「……そうだ。何も無い殺風景な庭だと思ってな。キレイだろう?」
「かわいいお花。好みだわ」
「それは良かった。ジョウロは庭の水場の裏に置いてあるから自由に使ってくれ」
頷いたレアは早速庭に出てジョウロを用意し、パンジーに水を与えはじめた。
記憶を失う前のレアは開花の瞬間を今か今かと待ち望んでいたな。
記憶を失った後のレアがはじめて自発的に何かしたいと言い出したのが水やりとは。
花弁からは水が滴り、陽の光を透過させ輝いていた。花が喜んでいるようだ、というのは詩的過ぎる表現だろうか。きっと数日ぶりのレアからの水やりで花も嬉しいのだ。
こういう風に、まるで花に感情があるのではないかと考えるようになったのはレアがきっかけだったな。
水をやり終えたレアはリビングへ戻ってくると、何事も無かったのようにソファで本を読みはじめた。
今日は俺から何か提案するのはやめておこう。自分からやりたいと言い出しただけで十分だ。これを機に今後また自分から何かやりたいって言い出すかもしれないし。
そう期待して五日経過。九月二五日。
レアが俺との生活に慣れて来たため俺が起こしに行く事は無くなり、レアが朝早く俺を起こしにきて突拍子もないことを言い出す事も無くなった。
今日は俺が朝食当番。最近は大体俺が料理を作り終わった頃に起きてくるレアが、今日は料理の準備中に起きてきた。
まだ寝ぼけ眼で、キッチンにいる俺をぼんやり眺めているレアの手には、俺が誕生日にプレゼントしたチェスセットがあった。
「タクト、これ……」
「ああ。チェスセットだな」
自分の部屋で見つけたんだろうな。
そろそろレアにチェスをしないかと提案しようと考えていたところだ。最初に会った時はレアの方から持ちかけてきてくれたけど、今回は俺の方から。
「チェスセット? 何をする道具なの?」
――――そうか。好きだったであろうチェスの事も。
「それはな、チェスっていうボードゲームをするための道具なんだ。一緒に住んでるんだし、せっかくなら二人で何かできたらいいかなと思って俺が用意したんだ。俺も初心者だから実力の差もでない。どうかな?」
「……それは、わたしに質の良い記憶を提供するため?」
「それもある。けど、それだけじゃない。こんな事を思うのはおこがましいのかもしれないけど、俺はレアと親交を深めたいと思っている。その方が任務を遂行しやすいから」
最後のセリフは慌てて口から出てしまった。
護衛任務に就いたばかりの頃は、護衛対象との交流は避けようと思っていた。けれど、レアからの提案、遊びの誘いに乗っているうちにそれが自然となり、いつしか俺もそれを楽しんでいた。
情けない話だ。今まで極力他人との接触を避けてきた俺が、たった一ヶ月半で自分の方から歩み寄るようになってしまっただなんて。
「……そう。じゃあ朝ご飯食べたら早速やってみましょう」
レアは以前と変わらない無表情でそう答えた。
レアがそんな俺をどう思っているかは分からない。煩わしく思っているのかもしれない。
声音や表情から探ろうとしたが、やっぱり何も読み取れなかった。
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