第2章「女剣士ミウ」scene3 円月輪

…天も地も分からぬ、

深遠の暗黒の直中、







俺は、

俺という歴史の中の、

1つの断片に過ぎぬ存在として、

虚空に漂っていた………。







遠い昔…遥か彼方から…………






俺という名の記憶の断片が、





明日という名の未来の光に向かって、



まるで、雄大な大河のように、弛やかに流れている………。







…俺という名の断片が、




大河の中から、一掬い、




記憶の飛沫を掬い上げた………………。





…瞼の裏側に、

懐かしい光景が浮かび上がる………





『……ケルベロス、

そして、オルトロスよ。


これからしばらくは、この新しい街で、

身を隠しながら暮らしていくことになるのだが………。


この際、その名を捨て、

新しい名を与えようと思うのだが…………』




『でも、ベアリス様?

俺たちはこの名前、

とても気に入っているんですよ!


なあ、オルトロス!』



『うん!すごく強そうだもん!』



『ふむ…。

しかし、お前たちの名前は、

帝国に知れ渡ってしまっている故、

その名を使うのはとても危険なのだよ………。


いずれ、独り立ちするときには再び名乗るのもよい。

それはお前たちの自由だ。


ただ今は……

育ての親になる私の元にいる間は、

新しい名前を名乗ってくれまいか?』



『ベアリス様がそこまで言うなら…………



あ!ベアリス様!



俺、あの絵の、仏様の名前がいいです!

強いんでしょ?あの仏様!』



『…まったく…お前の選ぶ基準は、

常に、強いかどうかだな。


…ふむ。あの仏は、遠い異国の神である、

阿修羅、というのだが…………。


そのままというのも、些か、気が引ける。



…よし、決めたぞ、

ケルベロス。

お前の名前は………………』





飛沫が両の手から

こぼれ落ちていった……………










…俺という名の記憶の断片が、

再び、飛沫を掬い上げた……………。




『…おい、見ろよ。あの二人。』



『ああ、あれが、あの噂の兄弟か。』



『ああ。

相当出来るらしいぜ。…兄貴のほうは、ちと、性格に難があるらしいがな。

まだ見習いらしいが、二人が力を合わせると、実力以上の力を発揮するとか…』



『…後ろの女は…エンチャンターか?』



『うむ。

あの兄弟の力を最大限に引っ張り出す、

やり手の女らしいぜ。』



『にしても、兄貴のほうの目!

ありゃあ、相当の悪だな。狂犬の目だよ』



『だからかどうか知らねえがな。

誰が呼んだか、巷じゃあ、あの兄弟の事を、こう呼んでるらしいぜ。


ケルベロス&オルトロス、てな』




『くわばらくわばら!

係わらないほうが身のためだわ!


………うわ!

兄貴のほうがこっちを睨んでやがる!


やべえやべえ、行こうぜおい!……………』



…………両の手の平から、

飛沫がこぼれ落ちていった…………。










…俺という名の記憶の断片が、

三度、飛沫を掬い上げた……………。





『………シリーン!

シリーン!!



…だめだ、息をしてない!!



シリーン!!

頼む、息をしてくれ…!


目を開けておくれよシリーン…!!



…兄さん、何故だ!


何故、引かなかった!!?


たとえ、奴を倒せたって、

シリーンがこんなんじゃあ…………



…ああ…シリーン…

お願いだ、目を開けておくれよ……


お前がいなくなったら、

俺は…俺は…!




兄さん!シリーンが!!

シリーンがあ……





…?






兄さん…?







なぜ?







なぜ、笑っているの……?』










…飛沫が、指の隙間から、


こぼれて、落ちた。






…左手のガントレットに仕込まれた、

血の色をしたクリスタが、

淡く明滅している。




それは、まるで、

アスラムの深層意識の中に直接、

囁いているかのような淡い明滅だった……。






……おい、小僧。


てめえ、

こんなところでくたばってんじゃねえよ。



久し振りに、魂が震え上がるような

命のやりとりが出来たってのに。




いろんな屍を踏み台にしてきたからこそ、

今のてめえがあるんだろうが。




俺しかり、





あの女しかり、





何千、何万もの化け物共の屍、しかり…。





全部、お前の肩に乗っかってるてえことを、忘れるんじゃねえ。





最後の一人になるまで、

斬って斬って斬りまくる…





それが、てめえの唯一の道なんだよ。





だから、こうやって、

力を貸しているんだろうが。




てめえは、俺と同じさ。



相手の死の中でしか、

生きてる実感を感じとることができねえ。




相手の死と引き換えに、

生かされるしか能のねえ男なんだよ。






さあ、次の獲物が近付いてきたぜえ………?




気にすることはねえ、

向こうは、こっちを殺すために近づいてくるんだ……。




対等なんだよ。




だから、奪っていいのさ。





命尽き果てるまで、

果てても尚、



目の前の敵を……



最強を目指して………




立ち上がれ…………!





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






その気配は、

唐突にその場に沸き出でたかに感じた。




玄室を漂う、汚れたオドの霧を、

圧倒的なボリュームで押し退ける、

巨大な闘気。





放射状に広がった、それは、

濃厚な密度に圧縮され、

明白な殺気へと昇華されると、

室内を探索している、

男女ふたりにぶつけられた。




ミウが、殺気に当てられて、

ビクンッと体を反応させた。



『な、なに!?』



はぐれ猫が、シックルを斜に構え、

殺気の出所を正面に構えた。




……大型の肉食獣のような唸り声が、

闇の中から響いてくる…。



松明の灯りを反射して、

鋭い眼光を煌めかせ、

双眸が確実にこちらを凝視していた。



『……何かいる。油断するな………』





はぐれ猫の言葉が終わらぬうちに、

その獣らしきものは、ふたりを中心に、

時計回りに、物凄い勢いで走り出した。




速い………!




血溜まりを蹴り散らす、その水音を頼りに、なんとか、動きに着いていこうと体の向きを変える。



音が途切れた。




風切り音。



着地音。




4、5メートルほどの距離を、

一気に、それが縮めてきた。




なんという跳躍力……。



飛び石のように、

ジグザグに跳び跳ねて距離を詰めてくる。





『クワア………!!』




瞬く間に間合いを詰められ、

気付いたときには、

やつは、ミウのすぐ脇にいた。




『うわあ!!』



慌てて氷剣を楯変わりに持ち上げる。


幅広い魔氷の刃で、なんとか、

その一撃を防いだ。


が、凄まじいその圧力に、ミウの体が、

剣ごと後方に吹き飛ばされてしまった。



飛ばされた勢いもそのままに、

ミウは、石の壁にその身を叩き付けられた。


ゴウッと、肺の中の空気が全て外に出たかのように息を吐き、壁に寄りかかる形で崩れ落ちていく。


ミウは、意識を失っていた。



『グルル………』



獣は、喉の奥を正に獣の如く鳴らせながら、無防備なミウ目指して、歩みを進めていった。



ぬらり、と、右手で、

血に濡れた剣を抜き放った。



近づきながら、逆手に持ち変える。



ピクピクと痙攣を起こし、

うつ伏せに倒れる、ミウの背中目掛けて、


獣は、剣を突き立てた。





ドンッ!!




獣が、横に吹き飛んだ。



突き立てようとした剣は、辛うじて、

ミウの鎧の表面を削るに留められた。




獣が、床に手をついたまま、

怒りの形相で睨み付ける。




倒れ混むミウを守るように、はぐれ猫が

仁王立ちしてシックルを十字に構えていた。




『化け物め……』




構えている右腕の肩口から、

血が滲んでいた。


体当たりで獣を吹き飛ばした時、

離れ際に剣で斬られたらしかった。



………こいつはなんだ?



一切の油断を排し、

まばたきもせずに凝視しながら、

はぐれ猫は、獣の正体を探ろうとした。



…見た目は人だが、この気配、

間違いなく、魔の物……。


闇に呑まれた、冒険者の成れの果て、か。




しかし、その実力、

計り知れん…。




やらねば、出れんか。





『こい………!』




はぐれ猫の怒号に反応して、

獣が、玄室の空気を裂くように咆哮した。




『コオォォォ………!!』





両者が同時に床を蹴った。



はぐれ猫のスピードは、

獣のそれと遜色がないほど速かった。



みるみるうちに、

二人の距離が縮まっていく。




間合いに入った。



獣のほうが、手にした得物が長い分、

間合いに入るのが一刹那速い。



剣が横凪ぎに風を切る。


直線的な動きで前進してきた相手に、

一番効果的な一撃。



しかし、はぐれ猫の左側を狙った剣は、

そのまま空を斬った。



はぐれ猫が、前進のスピードそのままに、

空を飛んでいた。



対象もなく振り抜く剣。


はぐれ猫の体が空中で反転し、

獣の側頭部を目掛けて、蹴りを放った。



飛び後ろ蹴り。



トリッキーな体術で獣の勢いを利用し、

カウンターを狙う。


当たれば必殺の一撃だ。



しかし、獣の反射神経は、

人間のそれを凌駕していた。




ありえない角度で、

はぐれ猫の脚をギリギリかわす。



着地と同時に前転を数回。


十分な間合いを広げて、

はぐれ猫が立ち上がり、振り向く。



しかし、獣の刃は、

すでにはぐれ猫の目前に迫っていた。




人並み外れた、

その突進力を目の前にしても、

あくまではぐれ猫は冷静だった。



逆手に握った両手のシックルで、

獣が再度斬りつけてきた横一閃を受ける。



金属同士が擦れ合い、火花を散らした。




はぐれ猫は、逆手に握ったシックルの、

反り返る先端の鉤部を利用し、

獣の刃を、そこに引っ掻けた。


振り抜く力に逆らわぬよう、

脱力して動きに任せる。



はぐれ猫の両足が、踵から宙に浮き始めた。


頭が前に倒れこむ。



獣の剣を主軸のようにして、

はぐれ猫の体が一回転をした。



後ろから持ち上がってきた両足が、

そのまま、獣の頭を挟み込む。



ちょうど、肩車されている側の体の向きが逆になるような形で、はぐれ猫が獣の肩に乗っかっていた。



『!?』



予期せぬ行動に、さすがの獣も、

狼狽の色を隠せない。



はぐれ猫は、獣が暴れるその前に、

次の行動に素早く動いた。



頭を挟み込んだ両足を十字に組み入れ、

外れないようにすると、

全身全霊で後ろに倒れ混みながら、

体を360度、回転させた。





股の間から、



グジッ、とも、


ブチッ、とも付かぬ、



気色の悪い感覚が響く。



獣の首の骨が、折れた音だった。







体の回転による遠心力を利用して、

折れた首を引き抜くかのように、

獣を投げ飛ばした。



獣の体は空中で二回転半したのち、

強かに石畳に叩き付けられた。





シックルを構え、全力の臨戦態勢で、

はぐれ猫が獣にゆっくりとにじり寄る。


100%、絶命が確認されるまでは、

決して油断をみせない。

したたかな戦い方だった。





………はぐれ猫の、足が止まった。




……どうやら、

戦いはまだ終結していなかったようだ。




……獣の腕が、ピクリ、と反応した。



確実に脛椎を粉々に破壊したはずの相手が、朝を迎えて寝床から這い出るかのように、

ゆっくりと立ち上がる………。



………首だけが異様な方向に曲がっていた。



普通の人間なら、

間違いなく絶命している角度。



何かの冗談のように、

その顔が、ニチャッ、と、

血の糸を引きながら口を開けて、笑った。



足元に横たわる、怪物の骸に、

持っていた剣を突き立てた。



自由になった両腕で、

こぼれ落ちそうに傾げている、

自らの頭を掴む。






ゴギッ







ゴギギッ







常人なら失神しかねない、音と光景が、

はぐれ猫の前で繰り広げられる……。






折れた首を無理やりまっすぐに戻し、獣が、もう一度、胸の悪くなる笑顔を見せた。





『マタセ、タナ………』






初めて、獣が言葉を発した。


片言だが、間違いなく、

意味のわかる言葉を発した。



それが余計に、気味悪さを引き立てる。





『……………。』





しかし、どこまでも、

はぐれ猫の態度は沈着冷静である。


「猫」として訓練を受けた賜物か、

どんなイレギュラーが来ても臆することなく、淡々と事をなし得る、その胆力は、

驚愕に値した。




いまいち収まりきらない頭部のまま、

刺してあった剣を抜き取っているあいだに、

バック転を一度挟んで、

はぐれ猫が距離を広げた。



シックルを鞘に戻し、

腰の両側にぶら下げてある、

麻袋に手を突っ込む。


そこから、丸い、円盤型の刃物を、

1枚づつ取り出した。




円月輪。



相手に投げつけ、

その刃で切り刻む投擲武器である。



この手の武器は、

マナを感知する特殊な術式を施されており、持ち主の手から離れていても、

マナを利用して自在に操ることが可能となる。




真ん中の輪に指を入れた形で、はぐれ猫は、円月輪を手元で高速で回転させ始めた。




回る刃が、光を反射して妖しく煌めく。



十二分な回転を円月輪に与えたとみるや、

はぐれ猫は、それを獣に狙いを定め、

クロスした両腕を降り下ろして、

投げ付けた。




風を斬る甲高い金属音を響かせて、

二枚の円月輪が獣目掛けて飛んでいく。



『?』



獣は、自分の敵が投げ付けてきた奇妙な円盤を、首を傾げて見つめていた。


武器であることは認識している様子だが、

とてもそれが自分を脅かす程の威力があるとは思っていないようだった。




無用心に歩を進めて、

円盤の飛んでくる軌道から

体を外そうとする。




避けさえすれば、この攻撃は終わり。


その程度にしか考えていない、

油断した緩慢な動きだ。




当然、円月輪の攻撃が、

これで終わりなはずがない。



はぐれ猫は、両手の人差し指と中指を、

まるで、オーケストラの指揮者が捌く指揮棒のように、ゆらゆらと振って見せた。



指の動きに合わせて、

円月輪が流暢な金属音を奏でながら、

生き物のように自在に飛び回る………。




『……ガッ!』




避けたはずの円盤が後方でUの字を描き、

戻り様に、獣の両肩を切り裂いた。




オーケストラはまだ続く。



この武器の本質を悟った獣が、

慌ててどこかに逃げようとするが、

高速で飛び回る円盤の軌道が読み切れずに、焦りと怒りの表情を露にした。



円盤を目で追い掛けるのがやっとである。




実に器用に、実に巧妙に、

はぐれ猫は二枚の円月輪を操りきっていた。



獣の、素早いあの動きをうまくいなしながら、少しずつ少しずつ、体を削り取っていく………。




広い玄室にも関わらず逃げ場を失い、

獣は円月輪に切られるがままになっていた。



前のめりになりそうになれば、

その胸を切られ、



痛みに体を仰け反らせれば、

今度は背中を切られる。


決して致命傷ではないが、

断続し、周期的に訪れる痛みが、

獣の心を折ろうとしている。



血走った怒りの形相で、獣は、

指揮を振り続けるはぐれ猫を睨み付け、

吼えた。





……そして、あまりの怒りのために、

獣は、ひとつの異変に、

気がつかないでいた…………。






…闇を切り裂き、刃を煌めかせながら、

疾走する、一陣の風。




巨大な氷の刃が、

汚れた湿気混じりのオドを掻き分けながら、獣の体を目掛けて、その速度を増していく。




対面にいた、はぐれ猫が、

その姿を認めていた。


指先をクイとあげ、獣の目線の高さで、

円月輪を空中に静止させる。



獣の視線が、円盤に釘付けになった。



完全に、後ろの気配に気付いていない。



意識を取り戻し、二人の戦いを伺いながら、見つけ出した最高の好機だった。



踏みしめる足が、

一歩ごとにその加速をあげていく。




『おおおぉ…………!!』




氷刃を構える両腕の脇を絞め、

限界速度に達した体を、

そのまま獣にぶつける勢いで、跳んだ。




ミウの気迫に、獣がやっと気付き、

後ろを振り返った瞬間…………






ズドン!!




と、氷の刃が、獣の腹を貫いた。




獣の背中から飛び出した刃が、

内臓を切り裂き、

腸らしきものを外に引きずり出していた。




『ギギ………』




言葉にならぬ声を発し、自分の胸に顔を埋めるように深々と剣を突き立てるミウの頭目掛けて、力なく剣を振り上げる。




『俺に背を向けるな』






つぶやいた、はぐれ猫の指が動いた。



命令を受けた円月輪が、

再び金属音を奏で出す。




左右からすり抜けた円盤が、



獣の首を綺麗に撥ね飛ばしていた。























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