やっぱり人間失格

ネコ エレクトゥス

第1話

 太宰治の晩年を題材にした映画かドラマが製作されているらしい。昔はよく太宰治を読んだのだがもうすっかり読まなくなった。若い頃の憧れでもあったのだがそれももう昔の話。だがその映像制作の話を聞いた後いろいろと太宰治について考えてみたので、そのことについて書いてみたい。


 まず太宰治について理解するのに『人間失格』なる題から考えるのが分かりりやすいと思う。彼はいったい何に失格したのか。そもそも『人間』なるものは何なのか?

 これについては簡単に答えが出てくる。文学好きなら、日本人ならおそらく一度は読んだことがあるだろう小説『走れメロス』、その中に答えが凝縮されている。

 『走れメロス』の舞台は意図的に古代ギリシアの文化圏であるシチリア島に設定されていて、メロスと彼の親友は間違いなく男性同性愛者、ゲイであり、古代ギリシアではそれは普通のことだった。

「僕は君の父であり、兄であり、教師であり、戦友であり、そして恋人である。」 そんな関係の中にこそ真実の『愛』は存在する。そんな生活をしていた人々が生み出した偉大な文化、そして民主主義に若き太宰治もまた理想を見出したのだった。彼の小説家としてのスタートが古代ギリシアから始まっているのは決して偶然ではなく、近代小説家なるものすべてが「あなたは古代ギリシアに対し一体どういう立場をとるのか」という問いを常に突き付けられていると言っても過言ではないと思う。

 ここまで書いてくると分かっていただけると思うのだが、若き太宰治や近代文化人にとって『人間』とは古代ギリシア人を意味し、ゲイであることを意味している。民主主義とその延長にある共産主義ではその構成員になるためには男になることが要求され、『同志』になることが要求され、彼らの間の愛によって民主主義、共産主義は成立する。

 ゲイであることを公然と認めていた小説家、三島由紀夫は古代ギリシアと死ぬことを決意した。そんな三島由紀夫は太宰治のことを『落伍者』と酷評した。古代ギリシアを理想としながらそこから逸れていった太宰治は三島にとっては『落伍者』そのものにしか映らなかったのだろう。

 ただいつしか太宰治は三島由紀夫が死ぬまで決して聞くことのなかった『音楽』を聞くようになっっていった。

「富士には月見草が良く似合う。」

 だとすると『人間』なるものはただの勘違いに過ぎないんじゃないのか?『人間』なるものから離脱することこそが正しい生き方であり、世界と和解することではないのか?『人間失格』であるということは決して弱々しいペシミズムから生まれたものではなく、むしろ勝利宣言だったのだ。『堕落』することで救われる。「悪人こそが救われる」という浄土真宗の教えもどこかで影響があったのだろうか。

 ここから太宰の晩年が始まる。


 ただ一つ気になるのは彼の死に方のあまりにジメジメとしていて惨めだったこと。禅僧のようにカラッとしたところがない。ってことはやっぱり彼には死ぬまで『人間』が残っていたのではないだろうか。あまりにプライドの高い男だったから。

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