第5話

 翌日入山さんはアルバムやライブDVDを一通り持ってきてくれていた。

「ありがとう、こんなにたくさん」

 入山さんは相変わらず朝からこぼれるような笑顔だった。

「これで小夜子さんのことはほとんど網羅できます。本当に活動初期のものまでは手に入らなかったんですけど」

「わざわざありがとう。でも、昨日私も店に行ったんだけどひとつも置いてなかったよ」

「佐藤さん、それインディーズレーベルなんです。自主制作というか。だから一般流通はされていないんです。佐藤さんがテレビで観た曲は近々メジャーデビューでリリースされる予定です」

「そうなんだ」と言いつつ私にはまるでわからなかった。家帰ったらネットで調べてみようと思った。

「大切なものをこんなに本当にありがとう」

「いいえ。小夜子さんのファンが増えてくれて私も嬉しいんです。あと、これ昨日言っていたチケットです」

「わあ、ありがとう。あのいくらだった。私、あの手数料とか」

 私は財布をとりだした。料金と引き換えたチケットを財布にしまった。私に、プライベートで予定ができるなんていつ以来だろうか。

 のどが渇いたので休憩室にいくと部長がコーヒーを飲んでいた。

「佐藤さん、今日はいやに上機嫌じゃないか。入山さんとなに話していたの」

 私は「なんでもありません」と急いでマグカップに注いだ水を飲み干して席に戻った。

 その日の午後、経理の早間さんに呼び止められた。伝票の不備があったのだ。普通では考えられないミスだった。なにもなければ温厚なはずの早間さんは一度怒ると手がつけられない経理の女帝だ。

「ここに印押します」「いや、ここに印押しますじゃなくて」「ここのケタに線引いて訂正印ですね」「いや、線引いてじゃなくて」この言い方は母親と同じだ。母親も普段はなんでもないのにキレると取り付く島がなかった。母親の私に対する態度は私が高校生ぐらいからかわっていった。それまでの私は優等生で育ってきていたが一時期アニメにはまってしまい、それが母親の反感を買うことになった。大学に入ったときも就職が決まったときも、特別に喜んでくれることはなかった。確かに大学は三流で、会社も自慢できる企業ではない。それに反して妹は高校生までは本当にデキない子だったのに、誰でも知っている有名私立大学に推薦で滑り込み、同じ大学の彼氏をよく家に連れてくるようになったのだ。私は妹の彼氏がどうも好きになれなかったが、母親は気に入ってしまい、ますます私の居場所がなくなっていった。就職を機に私は家を出た。実家をでてしばらくして帰ってみると私の部屋はいつの間にか勝手に改造されて、アニメグッズは全部捨てられていた。私は家族とケンカする気も持たずにすべてを諦めた。

「あなたには期待をしているから言っているんですよ」

 経理の早間さんがそう言うと私ははっとしてうつむいていた顔をあげて早間さんを見た。本当に母親と同じことを言う人だと思った。中学ではその期待を裏切らないようにしてきたし、それが高校生になってプレッシャーになっていった。だけどそんなこと誰にも言えなかった。今だって言えるわけがない。

 私のために言われた言葉は、ひとつも私のためになっていない。

 早間さんは四十半ばだけど独身だ。そういうのだから今でも独身なのだと思うけど、私も結婚できる自信がないのでなにも言えない。

 窓にひとつひとつ水滴が落ちる。やめてくれ、また雨を降らせる気か。冬の雨は堪える。このまま腐らずにいられる自信がない。

 はやく一ヶ月が過ぎてしまうのを祈るしかない。コールドスリープはなんで開発されないのか。一ヶ月ぐらい、いいじゃない。

 

 指折り数えていたイベントの日がやっとやってきた。あれから小夜子のことはネットで調べた。ユーチューブの映像、プロフィール、ファンサイト。私と同じ歳だったということに驚きと共感があった。私は物置の隅で暮らしているようなものなのに、彼女はひとりで立派にスポットライトを独り占めしている。CDも何度も聴いて映像も繰り返し観ている人にこれから会いに行く。胸の高鳴りがおさまらない。

 ライブハウスの最寄り駅で入山さんと待ち合わせをした。入山さんとはすっかり仲良くなり休日にふたりででかける機会も増えた。私の知らない東京がたくさんあった。入山さんは私より年下なのによく知っていた。

 待ち合わせた入山さんはTシャツにパーカーを羽織っていて、チェックのスカート、アクセサリーを腰につけていた。

「そのTシャツかわいいね」

「これ小夜子さんのライブグッズなんです。今日は前物販なので中入ったらもう買えると思いますよ」

「前物販ってなに」

「ライブ前にやっている物販です。佐藤さんはもうほしいもの決めていますか」

「うん。でも見たらほしいもの増えちゃうかもね」

「そうですね。今日は楽しみましょうね」

 ふたりは小走り気味にライブハウスに向かった。私は入山さんの跳ねるポニーテールを見ていた。

 ライブハウスは開場していて何人かすでに並んでいた。

「佐藤さんドリンク代用意されていますか」

「ドリンク代ってなに」

「こういうところってチケットとは別に五百円ぐらいドリンクチケット代を払うんです。そして中で好きなドリンクと引き換えるシステムです」

「そうなんだ」

 私はもう入山さんに百回ぐらいそうなんだを言っている。

 狭い階段の地下へ降りると重低音の音楽が鳴っていた。ドリンクチケットを購入してロビーに入る。

「佐藤さん、最初に物販見に行きますか」

「うん、そうだね」

「あ、もう結構人がいっぱいいる。やっぱりテレビの影響かな」

「あそこだね」

 小夜子物販列最後尾と書かれたプラカードを持っている人の列に入った。

 私は列の隙間から売っているところを覗くと見覚えのある人がお客さんと話をしていた。

「えっ」と言って震える手でつい指さししてしまった。

「あれってもしかして本人なの」

「そうですそうです」

 入山さんは笑みをたたえていた。

「嘘でしょ。なんで」

「こういった対バンのイベントだと本人がああやって物販に立つこともありますよ。握手もしてもらえるし少し話もできますよ」

「どうしよう、そんな」

「小夜子さんは演奏だと激しいですけど、こういうところはすごく優しいから大丈夫ですよ」そう入山さんは私の背中を軽く叩いてくれた。

 先に入山さんがブースに入って新発売のグッズを手にとって会計をして小夜子と話していた。小夜子は入山さんのことを覚えているようで楽しそうに話していた。私はふたりの会話を聞かずに、グッズを片っ端から手にとってCDやDVDもすべて購入した。買い忘れはないか何度も確認した。列が進んで、私は、あれだけ何度も映像でしか観たことない人に目と鼻の先まで接近した。

「すごい、こんなにたくさん」

 目の前で確かに小夜子は私に話しかけている。この瞬間だけは特別に私だけに話しているのだ。

「あのCDとかここでしか買えないと思って。グッズもみんなかわいいし」

「菜月ちゃんのお友達なんだってね。こんにちは。はじめまして」

 小夜子は私に手を伸ばした。私はこれが握手を求められているとすぐに気がつかなかった。菜月というのが入山さんだと気付くのにまたさらに時間がかかった。震えている自分の手がひどく恥ずかしく思えたけど小夜子はしっかりと自分の手を握ってくれた。

「私、あのテレビで小夜子さんのこと見て憧れて、入山さんは会社の後輩で小夜子さんのファンで、私、それで入山さんと仲良くなれて、私嫌なこともみんな小夜子さんの歌を聴いてがんばろうがんばろうと思えてきて、小夜子さんは私と同い年ですごくがんばっていて。小夜子さんのおかげで。あれ」

 私は泣いていた。涙がもうあふれでてきた。今まで蓄積されてきたものが一気に崩壊してしまった。ひと目もはばからず泣いてしまった。だめだ、止まらない。零れ落ちる涙は物販品までぬらしてしまう。私は気がついて慌てた。

「ごめんなさい。商品濡らしちゃって。弁償します」

 私が財布をとりだそうとすると、小夜子はその手をさえぎって腕を私の顔をすべらせていった。すごくいい香りがした。

 小夜子は私を抱擁した。

「ありがとう。わたしのためにそんなに思ってくれて。大丈夫よ。私は嬉しいよ」

 小夜子は体を離すと微笑んだ。

「今日は楽しんでいってね」

 私は涙を拭いた。

「ありがとうございます。楽しみます。今度またイベントに来ます」

 そう言うと小夜子は手を振って、もう次のお客さんの相手をしていた。

 私はトイレに駆け込んで顔を拭いた。

 今までこれが現実じゃなくて夢だったらいいのにと思ったことがどれくらいあっただろうか。それが夢のような現実が確かにそこにあった。現実であってほしいって思えたことって今まであっただろうか。

 ロビーに戻ると入山さんが待っていてくれた。泣きはらした私には一言も触れずにいてくれた。

「飲み物引き換えますか」

 そう言って肩を抱いてくれた。

 ドリンクを飲んだら少し落ち着いた。バンドがひとつずつ演奏をはじめた。

 私はずっと上の空だった。

 フロアの明かりが消されてスモークが炊かれた。スポットライトが眩しく照らされると、小夜子がギターを抱えて立っていた。

「こんばんは小夜子です」

 小夜子はそう叫ぶとギターを一閃した。開場のボルテージが一気に盛り上がり、空気もスイッチを入れたかのように変わった。

 生で聴く演奏は映像とは比べ物にならないぐらいの迫力があった。激しい音とは引き換えに夢心地だった。私は残念なことにそのステージでの出来事はあまり覚えていない。終わったときに入山さんから肩を叩かれて、演奏が終わったことに気付いたぐらいだ。


 ライブハウスからでるとどしゃぶりの雨になっていた。視界の先がまったく見えないぐらいの雨だった。

「えー昼間あんなに晴れていたのに」そう言う入山さんに折りたたみの傘を渡した。

「大丈夫。私いつも傘を持ち歩いているから。私の傘もあるから、明日会社で返してくれたらいいよ」

 

 雨に降られることは慣れている、とはいえないけれど傘をさして濡れないようにするぐらいはできる。たとえ少しの水にあたろうとも、私はもう多分、大丈夫だ。

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小夜子 @tatsu55555

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