1
桜の花びらに、小鬼たちがぶら下がり、ひらひらと地に降りていく。地面に降り立った小鬼たちははしゃいで、桜の木に登る。散っていく花びらを捕まえてひらひらと降りていく。それを繰り返す様子を眺めていると、おばあさんがにこにこしながら僕を見ていた。
「綺麗でしょう、この桜の木」
桜を眺めていたわけではなかったが、確かに本当に立派な桜の木だったので「はい、そうですね」と答えた。すると、おばあさんは満足そうに笑う。
「実はね、この桜の木、私がこの高校を卒業する時に植えたものなのよ。こんなに立派に、綺麗な花をつけて。毎年嬉しくなるのよ」
「ああ、通りで」
さっきまで桜の花びらで遊んでいた小鬼たちが、おばあさんの足元に駆け寄り、歓声をあげたり、抱き着いたりしている。このおばあさんになついているのは、この木を植えた人だからのようだ。
「え?」
「あ、いえ、こちらの話です。それじゃあ、僕行きますね」
僕は少し駆け足で、これから通う学校の校舎へ向かった。
昇降口には人だかりができていた。クラス分けが掲示されているようだが、この距離からでは見えない。その人だかりの奥で「同じだね」とか「隣か~残念」とか言っている声が聞こえる。頼むから取り敢えずそこをどいてほしい。これでは自分のクラスにたどり着くのがいつになるやら…
「名前は?」
突然声をかけられ、振り返ると、見知らぬ女子生徒が立っていた。僕より少し低いくらいの身長で、切れ長の目、そして、肩ほどの長さの茶髪。
…いや、まさかね。
「あの」
「あ、はい、えっと」
「名前。苗字でいいから」
「あ、深海です。深い海で、深海」
「深海君」
女子生徒は遠くにあるクラス分けの掲示を眺めた。しばらく目を細めて「見つけた」と言うと、僕の手を引き、歩き始めた。
「あ、あの!」
「同じクラスだったから。深海、ゆめの君?」
「えっと、ゆのです」
「深海夢叶君ね。よろしく」
「よろしくお願いします」
詩織はこちらを見て少し顔をしかめる。何かまずいことを言ってしまったのか、探るように彼女の顔を見る。
「えっと、僕何か言いました?」
丁度教室についたころにそう言うと、彼女は手を放し、その手を組んだ。
「同い年でしょ?敬語の必要なくない?」
「あ、そう、だね。ごめん」
そう言うと、彼女は自分の席へと向かう。
「あ、あの!」
慌てて呼び止めると、彼女はきょとんとした顔で振り返った。その顔立ちに少し見とれていると、怪訝そうな顔をしたので、頭を振る。
「何?」
「いや、名前、聞いてなかったな、って」
「言ってなかった?」
「うん。多分」
「篭目詩織。よろしくね、深海君」
篭目さんは、一日中人に囲まれていた。それに引き換え僕は、誰とも関わらずに高校生活一日目を終えようとしている。帰りのホームルームが終わり、僕が荷物を片付けていると、篭目さんが僕に話しかけようとした。が、彼女はすぐに人の輪に埋もれてしまう。名前を呼ばれる気がしたが、聞こえないふりをして教室を出る。放課後の校舎は騒がしかった。全校生徒が一斉に行き来するのだ。鞄を前に持って人波をかき分ける。部活動に向かう人、下校しようとする人とは逆方向に進んで行くこと約五分、ようやく人込みから抜けた。そして目の前に閑散とした古い建物が現れた。入り口のパネルには『文化部部室棟』と書かれている。
僕の入学した「立花高等学園」は、運動部が功績を多く残している。競合中学から多く部活動推薦を取っており、この学園出身の有名スポーツ選手もいるらしい。それに対して、文化部は特にこれと言った成績を残していない。それに加え、吹奏楽部や演劇部の様な、広い練習場を必要とする部活動がないため、文化部はこのような建物に追いやられているというわけだ。だが、今年から美術部に新たな講師が赴任してきた。浦満芳子。彼女は様々な中学、高校を掛け持ちしており、僕の通っていた中学にも顔を出していた。僕がこの学校に来たのは、彼女に呼ばれたからだ。どうしてこの無名の学校に呼ばれたかは聞かずともわかる。僕が人とかかわることが苦手だからだ。この高校の美術部は、去年、部員が全員引退してしまった。つまり、今美術部は存在しない。部室があるだけだ。
ギリギリと重たい扉を開け、薄暗い通路を進む。美術室は二階、階段は通路の突き当りだ。通りすぎる扉の上にはそれぞれの部の名前が書いてある。だがどこも今日は休み、もしくは、すでに部員がいないのだろう。物音ひとつしない。突き当りの階段にたどり着くと、少し空気が変わった。空気、というよりは臭いだろうか。正体不明のそのにおいに不信感を抱くが、ここを上らなければ、部室にはたどり着けない。意を決して上り始めると、二回からどたばたと足音がした。踊り場から様子を見ようと駆け上ると、人がおりてきて鉢合わせしてしまった。
「うわっ!」
「うおっ!」
ぶつかる寸前で二人同時に動きを止めた。相手は男子生徒で、ずれた眼鏡をくいっと直した。
「ごめんね!大丈夫?」
「あ、はい」
「あれ、篭目さん?あ、篭目さんは女の子だって言ってたな。てことは体験?」
「い、いえ、僕は」
「違ったか!ごめんごめん引き留めて!」
そう言うと、どたばたと階段を駆け下り、走り去っていた。なんだ、あの人。気を取り直して、階段を上る。二階には三部屋しかないようだ。そして美術部の部室は、一番奥。二階の通路は日の光が入って、一階より少し明るい。一つ目の部屋のパネルを見る。
「海洋生物部、か」
なるほど、においはここからしているらしい。扉の向こうからは機械音がかすかに聞こえいる。ふと、体が震えた。あの鯨雲が目に浮かんだのだ。冷汗が噴き出してくる。空を悠々と泳ぐ鯨雲。その下には一人の少女。鯨雲は徐々に下降して、そして、僕の目の前に…!
「うわあ!」
積み重ねられた段ボール箱に倒れ込んでしまった。目の前を通り過ぎたのは、小さな半透明の魚だった。魚はふらふら宙を泳いで、窓から差し込む光の中へ消えていった。頭を振って立ち上がる。ほこりを払いながら段ボールを見る。ほとんどがへこんでしまっている。申し訳ないが、その場帆離れた。隣の部屋のパネルには何も書いていない。空室のようだ。そして、一番奥の部屋。パネルには「美術部」の文字がある。扉を開ける。その部屋は、ほこりっぽくて、薄暗い。小人がほこりと共に舞っている。部屋に入って、机の上に鞄を置く。棚を開けると、まっさらなキャンバスがたくさん入っている。一つを取り出して、それを眺める。気は乗らないが、鞄から絵の具を取り出し、絵を描く準備をした。
絵を描き終え、窓の外を見ると、日が暮れかけていた。もうすぐ完全下校の時間だ。キャンバスの上には、いつの日か河川敷で見た妖精たちがいる。出来はいいとは言えない。窓際にキャンバスを立てかけて、荷物をまとめて部屋を出た。通路を見ると、海洋生物部の部室の前に生徒が三人いる。見覚えのある人が一人、いや、二人?三人は同時に僕の方を見た。通路が暗くてよく見えないが、一人の顔は分かった。
「深海君」
篭目さんだ。どうしてこんなところに?
「シンカイ君?さっき話してた深海君?」
隣に立っていた男子生徒が言った。彼はさっき階段ですれ違った人だ。と、彼はこちらへ向かってくる。そして、僕の肩を思いっきり掴んで揺らした。
「君かぁ深海君は!海洋生物部にぴったりの苗字じゃないか!どうだい?入らないかい?海洋生物部に!」
「ちょっ、先輩、揺らしすぎ!」
彼ははっとして手を離した。「ごめんごめん」と頭を掻くが、こっちは視界がまだ揺れている。
「深海君、美術部に入ったの?」
篭目さんが尋ねる。くらくらする頭を押さえながら首を振る。
「えっ、でも今美術室から出てきてたよね?」
「ああ、浦満先生に呼ばれてこの学校に来たんだ」
「浦満先生って、美術の?じゃあ、絵を描いていたの?」
「うん、まあ」
「じゃあ、美術部ではない、ってことだね?」
男子生徒が満面の笑みで言う。その迫力に押され、首をすくめてこくこくと頷く。嬉しそうな男子生徒の後頭部を軽く叩くのはもう一人の女子生徒だ。
「先生に呼ばれたってことは、美術部同然じゃないですか?無理言っちゃだめですよ」
「しかし、正式にというわけではなさそうだし…」
二人は言い争いを始めた。仲が悪いというわけではなさそうだが。
「この二人いっつもこうみたい。今日こんなやり取り三回目くらいよ」
横で篭目さんが耳打ちをする。
「篭目さんは、海洋生物部に入部したの?」
「ええ。面白そうだし、意外と海の生き物って好きなのよね。鯨とか」
鯨、というワードを聞いて、また体が震えた。鯨の下にいた茶髪の少女…まさか、ね。言い争いを続ける二人を見る。鯨雲、茶髪の少女、海洋生物…
「あの!」
振り絞った声に、その場にいた全員が驚いた。もちろん、僕を含めて。自分で視線を集めてしまったことに、自分が一番驚いている。
「あ、あの、僕入ります」
「入ります、って?」
女子生徒が尋ねる。男子生徒はすでに察してるようで、ぱあっと顔を輝かせる。
「入ります。海洋生物部に」
目薬を忘れずに 月満輝 @mituki_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。目薬を忘れずにの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます