目薬を忘れずに

月満輝

 たまに、何も考えていないのに勝手に筆が動く。青をひたすら塗り重ねて現れた空に、白い雲を乗せる。やんわりと現れるそれは、次第に鯨の形に変化していく。鯨雲は少しずつ形を変えながら、一人佇む少女に迫っていく。そして、大きく口を開けて…

「待って!!」


 バリバリバリ!


 鯨は切り裂かれ、動きを止めた。手にはいつものカッターナイフを握っている。切り裂かれたキャンバスを、キャンバスの山の上に重ねる。それらも同じように切り裂かれている。いつからこの夢を見るようになったのだろう。鯨はいつも少女を襲おうとする。僕はそれを切り裂く。年を重ねるごとに増えていくその悪夢は、いつしか僕の心をむしばみ始めていた。息を整え、汗を拭う。荷物を片付け、準備室を出ようと扉を開けると、キャンバスの山が崩れた。慌てて拾い上げると、その中の一つに目が行った。少女がこちらへ手を伸ばしている。茶色の髪を揺らして、暗い瞳でこちらを見つめる。僕はそれを見なかったことにして、キャンバスを積み上げ、美術準備室を後にした。

 日の暮れた河川敷を一人で歩く。雨上がりの空は、黒い雲を残しつつ、西をオレンジ色に染め、北の空から群青色に染めていく。草に乗った露はわずかに輝いている。草の根元で、何かが動いた。しゃがんでよく見てみると、小さな妖精が二人、雨粒を運んでいる。兄弟だろうか。邪魔しないように、静かにその場から離れる。つもりだったが、どうしてもその様子を絵に残したいと思って、その場に座り込み、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。すると、その音に気付いたのか、一人の妖精が、もう一人の腕を引き、走り去ろうとした。慌てて声をかけようとするが、目に限界が来た。

「待って、ちょっとだけ」

 目が乾くのを我慢して、慌てて目薬を取り出す。目薬を点して視線を戻した頃には、妖精たちはそこにいなかった。辺りを見渡すと、必死に手を引く妖精と、こちらを何度か振り返る妖精が草の深い方へと走っていくのが見えた。その姿が次第に薄くなり、消えた。また夢を見ていた。ぼんやりとしか思い出せない彼らの姿を思い浮かべながら、スケッチブックの上に鉛筆を走らせる。小さな手に乗った雨粒、駆けてゆく小さな足、それらを頭に浮かべながら描く。見たままの景色を描けないのは少し惜しいが、誰にも見えない、僕にしか言えない景色を描く時が一番楽しかった。だが、最近では、夢の世界を思い描くたび、あの光景が思い浮かび、

「!」


 ビリビリ!


 手を取り合う妖精たちは、二つに引き裂かれてしまうのだった。そこに鯨はいないのに、破り捨ててしまう。スケッチブックから切り裂いたページを切り取り、小さくちぎって川に流した。水の精達が、せっせとそれを運んでいくのを、日が暮れるまでぼーっと見つめていた。

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