THE BEAST 1-1

「────待てっ!」

「ひゃうわらなっ!?」

 カオナシの目が覚めた。

 いや、正確には時が動き出したとするべきか。

 唐突に変貌した景色は理解を拒ませ、ただ目の前で目を丸くする少女だけを認識させている。

「……君は」

「すす、すいません! なにか不手際が!?」

「あ? いや、ええと……っ───動くな! 私の問いに全て答えろ!」

 混乱する頭をなんとか動かし、カオナシは下半身を一切動かさず、ベルトでウエストの正面に挟んでいた小さな拳銃――ZIP.22と呼ばれる小口径小型拳銃だ――を抜き放ち、少女の首元へと向けた。

 その場で体を浮かせるほどに驚く少女を片目に、カオナシは平静を装いつつもフル回転させていた。ここはどこか、自分の姿勢はどうか、この人は誰か、他に脅威はないか、そしてなにより────マリーはどこへ消えたのか。抱き締めていたはずの体はなく、沈んでいた自身は何かに腰掛けている。辺りを片目で見渡す限りは……どうやら、内装からして教会の中らしい。配置を考えると、今居るのは祭壇の上だろう。

 それに気づいてカオナシは目を凝らすと、覚えのあるステンドグラスや柱頭があることがわかった。これらの装飾は基本的に同じ配置は無く、教会ごとに異なる物だ。総合的に判断するに、どうやらいつもの教会らしい。

「名前は。ここで何をしている」

「さ、サニア・ルルイラフ。ここには儀式をしに。……です」

「儀式? ……それは誰かを生贄にするとか」

「いいいいえっ! 召喚、召喚ですっ! その、貴方を」

「……私の他に誰か見なかったかね」

「なにもっ! 誰も!」

「…………即答、直視、反響無し。嘘ではないと思いたいが……」

 カオナシは銃口を揺らすことなく、ゆっくりと祭壇から体を降ろした。そのまま僅かに浮かせた足で、摺り足のように一歩ずつ、あと半歩で手が届く所まで少女に詰め寄っていく。

 いくら小口径の拳銃とはいえ、この距離でなら即死を狙える。まだ未成年だろう。華奢な体だ。おそらくは30メートル程度でも容易に致命傷は与えられるとカオナシは判断していた。

 それでも近づくのは真偽を確かめるが為。理解し難い情報を同時に与えられれば、それを確認するのが優先だ。

「ここは町外れの教会だな?」

「です、です!」

「……召喚とは、なんだ。悪魔でも呼ぼうとしたのか」

 ステンドグラス越しに見える木々の位置は以前と同じだった。陽の入り方もだ。この角度は日が落ちつつあるはず。

 なら、自身はここで気絶していた……とするのが自然だろうか。そんなことを考えながら、カオナシは残る疑問を少女へと投げかけた。

 彼の知る宗教的知識からして、召喚の類は数多くある。その対象に自分が? それは笑えないだろう。

「召喚は召喚ですっ。異界の生を呼び出し、繋ぎ止める術式……としか」

「それは本当に私なのか」

「そうとしか思えません! 精神感応……か、幻術か、なんにせよ貴方の顔が見えないんです。それに、その手に持った物を知りません。服も見たことが無いし……あと……」

 ───服。

 そう言われて、確かにとカオナシには疑問が生まれた。今さっき反射的に銃を抜いたが、それは訓練の成果だろう。服は普段の喪服ではなく、裁きを与えるときのキャソックだ。仕事着とも言える。

 祭服にしては絞りの効いたデザインに、各所にちりばめられた戦術的用途を前提とされた機能の数々。本当ならボタンで留められている体の正面だが、ついているのはダミーだ。機能はしていない。そこから手を入れ銃を抜いたのだ。

 もし本当に仕事着なら、他にもいくつかの武器があるはずだ。内側に仕込んである小物の幾つかは感触でわかるものの、ベルトに装備しているのも普段通りだろうかとカオナシは心配になった。

「君が敵じゃない証拠は」

「敵? えと……あっ、召喚の証拠ならまだあります! 指輪! 指輪があるでしょう!?」

「私は指輪なぞ」

 それよりも、と切り出すと、今度は念押しに新たな情報が飛んできた。

 少女が慌てて右手の薬指にある指輪を見せ、カオナシも釣られて自信の両手の感触を確かめるものの……。

「そんなものは邪魔だ、しない」

「いえ、首の方にっ」

「首?」

 カオナシが片手で首元を触ると、ボールチェーンに繋がれた十字架の他にもう1つ、知らない指輪が下がっていた。パッと見た感じではサニアと同じものだろう。

 これにはやや説得力があったのか、ほんの少しだけ銃口をずらし、狙いを肺へと移した。

「それは召喚者と対象を結ぶ印です。人型の召喚は聞いたことがありませんが……」

「……。妙な真似をすれば処す。今は……まだ信用できない。外へ出ろ」

「は、はいっ」

 人型の召喚は無いのに、なぜ指輪? なんてことを疑問に思いながらも、カオナシは背を押してサニアを外へ行かせた。サニアは開いたままの正門をゆっくりとくぐり、カオナシは辺りを見回して、更には片手でベルトをぐるりと触ってから外へ出る。どうやら腰回りの装備は全てあるようだし、確認した限り、目に入る場所に待ち伏せは居ない。ましてや殺気のある気配も無い。そうして得た僅かな安堵は、1秒と保たず驚愕へと変貌する。

「なんだ……これは」

 嗅ぎ慣れた草木の香り、葉の擦れる音と野鳥が大自然の即興を奏で、子供たちがソプラノを飾る。

 ……それが、カオナシの居た町だった。

「家が……人が、なにも……」

 教会は町外れの丘の上に建っていた。それ故、町を一望できたのだ。

 いつもなら。

「なにも…………無い……」

 家が無い。

 まるで爆撃でもされたかのように散り散りに弾け飛び、屋根のある建物は教会以外に存在しなかった。町を囲むように存在していた森から延びたのか、ツルや草が残骸を飲み込んでいる。

 人が居ない。

 走り回る子供も、観光者もいない。町がこの有様では、隠れ住んでることも期待出来ないだろう。

「なにが……」

「昔、ここで戦争があったそうです。その時にはもう人は居なくて……だから復興も。少し北へ行くと私たちの街があります」

「戦争……何年前だ。いや、今は西暦何年だ、政府はどうなった、国際情勢は、核の傘は、マリーはっ……!」

 わからない。

 自分が何者であるのか。それ以外の全てが謎へと変わり果ててしまった。

 眼下の残骸は配置に見覚えがある。カオナシの居た町だろう。だが、他は一切が闇に包まれてしまっている。

 その恐怖か、あるいは不安か……歩いても揺れることすらなかった銃口は、素人のようにふらふらと安定していない。

「戦争は私が生まれる前だそうです。セイ歴……? はわかりませんが、今は聖樹歴709年ですね」

「……本当に召喚とやらをされたのか、私は」

「と思いますが……。でないと、私が困りますし」

「悪魔だなんだと呼ばれきたが。ハッ。ついぞ召喚か。ハッハッハッ……笑えやしない。わけがわからん」

 カオナシは警戒を止め、銃をベルトの間に挟んだ。表情が誰に伝わることもないが、ふと、首元を雫が伝っている。

 カオナシがサニアの肩を叩くと、銃を向けたときのように体を浮かせて驚いていた。

「もういい。君は私の欲しい情報は持っていないだろうし、私を殺す事もできやしないだろう。不躾にすまないね」

「いえ……。あの、何処へ」

「辺りを見たいんだ。ここは、おそらく私の住んでいた町だと思う。召喚だなんだの真偽はさておき……気になることは潰しておきたい」

「あっ、あのっ、私も行きます」

「……見ても面白くはない、と言っておくよ」

「違います。私は貴方の召喚主ですから、監督の義務があります」

「なら、御自由に」

 カオナシは正門の横へ周り、壁伝いに歩いていく。不自然に壁から出っ張った小さな小屋の扉を開けると、ただ静かに溜息を漏らしていた。

 外に見える町と違い、教会は景色を変えることもなく、内装も変わった様子はなかった。ステンドグラスも曇っておらず、木製の椅子も腐食していない。なら、小屋にある道具はと見てみたのだが───

「……使い物にならないな」

 そこに転がっていたのは、柄の折れたスコップの残骸だった。他にも枝切り鋏や箒もあったのだが、そのどれもが壊れている。直せないこともないだろうと考えるものの、今はそこまでしている気も無いらしい。

「少々手間だが、仕方ない」

「あの、なにを?」

「……調べ事だ」

「え、ぁぅ……ですよね」

 再び壁伝いに教会の周りをぐるりと巡り、今度は裏口から中へと入って行った。いくつかの部屋を開けては覗き込み、何を調べることもなく次へと向かう。後ろからついているサニアも一緒に覗き込むが、小さな個人部屋のようにしか見えない。それを何度か繰り返し、カオナシはようやく1つの部屋へと足を踏み入れた。

「ここは……? ちょっと広いですが」

「泣き部屋。……と呼ばれることがあるが、ようは幼子と親が使う場だ」

「そんな場所が……」

「……他の教会には無いのか」

「はい。子供が泣くのは当たり前のことですから、誰も気にしません」

「そうだな。……本来はそうだ。が、しかし、周りが許しても親が遠慮する事もある。そうさせないための場だ」

「なるほど……。あっ、天上のあの箱は?」

 本棚に並べられた1冊を抜き取り開こうとしたとき、サニアが天上付近にある茶色い箱を指さした。

 正面には布が張られ、角についた小さなプレートに見慣れた家電製品メーカーのロゴがついている。

「スピーカー。聖堂での祈りが聞こえる」

「祈りが。不思議な物ですね……どんな魔術なんでしょう」

「君はスピーカーを知らないのか?」

「はい。おそらくですが、この教会は貴方の居た世界の物だと思います」

「その様子だと……電気そのものが無さそうだな、君の世界は」

 改めてカオナシがサニアの全身を流し見ると、見えない目線に恥じらったのか、細腕で体を抱くように守っていた。そんなことは知らんとばかりに1つ1つを注視していくと、どこにも電気製品の気がない。

 肩ほどまで伸びた混じり気のあるブロンドの髪は纏められておらず、布を織る技術はあるように見えるが、両手につけられた隙間だらけのガントレットは内側に連結用の革紐が見えているし、溶接痕も均等なサイズのリベットもない。動きやすさを重視したであろう服が寸足らずなのはさておき、スカートも端の折り返しを止めている縫い跡が目に見えて不揃いだ。ベルトにつけられたポーチも金具も歪な物で、現代工業の気配はしない。質の悪い職人の手作業で作られた物と見るべきだろう。

「…………これは読めるか?」

「……いえ、全く」

 カオナシは持っていた本を中ほどで開き、サニアに見せた。

 対してサニアは首を横に振り、苦笑いを見せる。

「文字は通じないのに、言葉は通じるか。……まるでファンタジーだ」

「異界からの召喚ではよくあることだそうですよ。だから、現実です」

「通じなさそうな単語も通じるんだな」

「言葉の意味はわかりませんが、何を伝えたいのかはなんとなく」

「それは都合が良い」

 まだサニアが見ていた本を戻し、カオナシは部屋の真ん中にあるテーブルを思い切り持ち上げ、雑に壁へ立て掛けていた。床に敷かれているカーペットも乱暴に引き剥がし、舞い散った埃にサニアが咳き込んでしまう。

「えほっ、けほっ」

「っと、悪い。思慮が欠けていた。……私も焦っているらしい」

「いえっ。このくらい……」

「君がよくとも私が気にする。これで口元を覆いなさい」

「すみませっ、けほっ」

 カオナシから渡されたハンカチを口に当て、サニアは部屋の隅に移動して眺めることにしたらしく、近寄ることなくじっとしていた。

 対してカオナシは素知らぬ顔で膝をつき、どこからか取り出した鍵を床に差し込んだ。

「どうやら、ここは私が知る所のようだ」

「なっ、なにを?」

「やや汚れてはいるが、私の知るままということだよ」

 カーペットの下から現れたのは、床下収納にしては明らかに過剰な、存在を隠す気が無いほどに物々しい鉄製の扉だった。

 鍵を廻すと同時に飛び出したレバーをカオナシがひねり、その重厚な鉄板は地下への口を開いて見せた。

 真っ暗とも思えるそこへ首だけをつっこみ、一瞥してカオナシは扉を閉じてしまう。

「貯蔵も十分。何者かが侵入した形跡も無し。戦争がない限りはしばらく保ちそうだな」

「そこには何があるんですかっ?」

「私の私物だ。秘密のね」

 なにとなしに言ってみせるものの、実の所は違っていた。確かに品々は彼の私物だが、本質的に答にはなっていない。

 教会の地下はカオナシが使う多量の武器等の備品置き場であり、その量や種類は個人の域を超えている。町民全員が武装できるだけの量が有るとか無いとか、そんな噂が町を流れた時期もあった。

「次は外だな……」

 散らかしたカーペットとテーブルを元に戻し、再び地下への扉を隠してしまう。

 他にはもう見る場所も無いのか、部屋を出てからのカオナシはやや足早で、後ろをついていくサニアは焦燥感のようなものを感じとっていた。

 無理もない。突然異世界に連れてこられ、さらには全てを失ったのだ。パニックにならないだけマシなものだろう。

「私的にこれを使うときが来るとは……」

「それは?」

「寄付金だ。重量分の価値にはなると思いたい」

 聖堂横の事務室にある金庫から袋を取り出し、サニアに渡してしまう。金庫には札束も転がっていたが、そちらには目もくれていなかった。

 通貨は相互理解がなければ価値も無い。そう見越して金属としての価値が有る硬貨だけを選んだのだろう。

「そっ、そんなに!?」

「作業で手が塞がる。悪いが持っていてほしい」

「……私が持ち逃げをするとは思わないのですか?」

「されても困らないし、君が私から逃げきれるとも思えず、そうする度胸もなければ私を置いて何処かへ行く気も無い。違うかい?」

「そう……です、けど」

 誰にも見えない顔が穏やかそうに思えるほどに、カオナシの声は優しく響き渡るのだった。

 なぜか上機嫌にすら見えるその素振りは凜としている。カオナシは右手の人差し指をピンと空に立て、謎の靄で見えない顔は天を仰いでいた。

「こういった相手の見極めは大切だ。君は私が手にした武器を知らない上で、自分が危険だと悟った。その感覚は生きる上で役立つだろう。……誰かを使うときにもね」

「は、はあ……。人を使うとき、ですか」

「然り。その点、君は長生きできるだろう。よいことだ」

「…………それは、難しいと思いますが」

「そう? 残念だ」

 本音ではなんとも思っていないかのように、カオナシは歩みを揺るがす事も無く外へと出ていった。慌ててサニアも追いかけるが、その後ろ姿から感じるものは異質だ。まるで本当に誰かがいるのかを疑うほどに、カオナシの背からは興味といったものを感じられなかった。

「理由、訊かないんですね」

「君がいつ死のうが勝手だ」

「勝手……。けれど、私が死ぬと貴方も困りますよ」

「へえ。それはまたどうして」

 淡々と丘を下り、瓦礫に変わった町へとむかうカオナシ。

 サニアはふいに横から追い抜き、覗き込むように靄に包まれた顔を見上げた。

「召喚者が死んだ場合、契約対象も死にます」

「────……脅迫をされるのは好かないな」

 サニアを見ていたであろう視線は外れ、目的の場所に着いたのか座り込んだ。

 崩れた家屋の近く、かつて道があったであろう辺りだ。

「私も好みません。けど、事実です。だからこそ召喚契約は成り立ちます」

「確かに。多くの生物は死を拒む、それ故命を賭けることになれば是非も無い。だが」

 カオナシは慣れた手つきで袖から大きなナイフを抜き、地面を掘り始めた。

 手で掘るよりは幾分かマシな程度だが、小さな範囲を少しずつ掘り下げている。

「それは死を拒む場合だけだ。私はいつ殺されてもおかしくはなく、自ら死ぬ理由がないというだけで生きていた、いわば動く屍に過ぎない」

 手のひら程の大きさを肘まで入る程度に掘り下げ、地表から順に土を捲り取っては確かめ、また次、次と手の中で崩しながら手触りを確かめている。

 何度か繰り返して満足したかと思いきや、今度は僅かに残る家屋の根元を同様に掘り始めた。

「なにより、召喚とやらのせいで、生きていた理由を失ってしまったからな」

「生きていた理由? 悪を倒す、とかでしょうか」

「それは趣味。私は誰かを救う気なんて無いし、民草を気にかけてやる気もない。……ああ、ここもか」

「趣味で悪を……。というか、先程から何を」

「地質調査。土の層を調べてる」

 カオナシは再び満足するまで土を掘り、移動して掘り始める。やや離れた、不自然に瓦礫の少ない場所だ。まるで何かが通ったようにそこだけが道の如く捌けている。

「ところで」

「あっ、はい。なんでしょう」

「君はどうして召喚なんてものを。私には怪しい目的に思えるが」

「そっ、そうです! それです! さっきは言いそびれてしまって……」

 そそくさとカオナシの正面に回り込み、サニアが顔を近づけ小さな声で告白した。

「英雄になっていただけませんか?」

「……………………茶化しているなら余所へ行ってくれ」

「いいえ、本当です。だから寿命を賭けて召喚をしました」

「寿命?」

 思わず手を止め、カオナシはサニアの瞳をしかと見返した。揺らぎのない視線はまっすぐにカオナシを射貫いており、そこに偽りがあるようには思いたくない。

 つい先程、召喚者が死ねば契約者も死ぬと伝えられはしていたが……。

「聖結晶を触媒に行われる通常の召喚は、時間制限がある代わりに召喚者が安全に契約が出来ます。ですが、自身を触媒に召喚すると、お互いの命を結びつける代わりに、制限無く現界させられるんです」

「……つまり、君と私の契約は後者であり、どちらかが死ねば道連れと……そういうことかい?」

「ですです。なので、本来は聖結晶に封印される召喚対象───この場合は貴方ですね───にもかかわらず、こうして現界できています」

「随分と大きな代償だな」

 溜息を一つ漏らし、カオナシが再びナイフを地面に突き刺した時だ。カツン、と地面の中で何かに当たる音がした。

 まるでそれがなにか知っているかのように、カオナシは乱暴に周りの土を掘り広げ、ついぞ形を表した。

「石?」

「石だ。それと、コンクリートも」

「こんくりーと……?」

「ファンタジーは通じるのに、コンクリートはわからないのか」

「おそらくですが、私の知識に存在しないモノは、あやふやにすら通じないのでは、と」

「文明の差か。……いや、コンクリートは確か古代からあったか? それともセメントだったか……?」

 均等に切り出された石と、それをつなぎ合わせるコンクリート。土の下に埋まっていたのは、かつて町の中央を流れていた川だ。元々は自然のモノで、時代と共に補強され人工的なモノへと置き換わっていたが……どうやら、水こそ無くなっていても道は存在しているらしい。

「この町は……いや、この廃村は私が知っていると言ったね」

「そう聞きましたが……」

「ここは確かに私の居た町だ。地表こそ知らない土と植物だったが、その下はよく知る地質だった。おそらく随分昔に此の地はあって、私と教会だけが最近来たのだろう」

 カオナシは瓦礫の1つに腰を下ろし、サニアにも適当に座るよう促した。

「君には悪いが、どうやら私が知らない世界に来た……ということを、ようやく疑えなくなっているよ」

 言うに、サニアの呟いた”生まれる前に戦争があった”という情報から、地層を掘り返して確かめていたらしい。さらには、瓦礫の風化具合、植物の根付き、川の状態を調べ、おおよその時間を割り出していたそうだ。

 丘に茂っていた芝生はふもとでぱったりと途切れており、町全体を囲う森もほとんどが見たことの無い種類らしく、場所によって経過時間もばらばららしい。

「全く……こういう時ばかりは、この呪いに感謝したくなる」

「呪い? もしや、顔が見えないのは」

「呪いだよ。誰もが私の顔を見ること叶わず、私は誰の首をも見えず、死者達がニタリと私を見つめるのさ」

「それは……なんというか、精神的にくる呪いですね」

「うざったいだけで済むがね。…………さて、最早私に生きている理由は無くなった。私としては自殺もやぶさかでは────静かにっ」

 カオナシは人差し指をピンと立て、サニアに息を潜めるよう促した。長い銀髪が地に触れることすら厭わずに、地面に耳をつけて何かを確認している。

 ほんの数秒だった。それだけで何かを悟ったのか立ち上がり、キャソックの内側から先程とは違う明らかに巨大な拳銃と、掌大の筒のようなモノを取り出した。

「あの、なにを」

「獣への備えは」

「え? あっ、はい。一応」

「なら、いつでも逃げられるようにしておきなさい」

 森と町の堺、その一点を見つめるカオナシに釣られ、サニアも同じ場所を注視していた。

 何が起きるのか……そんなことを考える間もなく、ドドンッドドンと地響きが微かに聞こえてきた。広く響き渡る音で正確な方向はわからないものの、それはおおよそカオナシの見つめる場所からだ。

 まだ距離があるそこから飛び出してきたのは、獣と呼ぶには小さく、されど姿は小さくはない、つまるところの人間だった。その人は二人を見つけるなり途切れ途切れの声で精一杯に叫ぶのだ。

 ───逃げて。と。

「瓦礫を上手く使いなさい。あの子の保護を頼む」

「保護って……なにをするつもりですか!」

「夕食をステーキにしようってつもりだ」

 その人はただ声高に逃げてと叫ぶばかりだった。

 そんなことなど知らんと言わんばかりにカオナシは駆け出し、森から出てきた人影へと向かっていったのだ。

「来てはいけません!」

「女の所まで走りなさいッ!」

「ちがっ、あなたまで!」

「心配無用だ。畜生相手は慣れてる!」

 カオナシはすれ違い様に腕を掴まれたが振りほどき、逆に肩を押して逃げさせた。ここまで近づいてようやくわかったが、逃げてきたのはどこかで見たことがあるような服装の女性だった。

 変わらずに近づいてくる地響きはやがて姿を現し、森の合間に巨大な影を見せた。

 人の背丈を優に超える巨体。大きくはないが、人を突き殺すには充分な角。全身を覆う黒い長毛。巨大な蹄を携えた四脚。思うに、これは……。

「随分と大きなバイソンだな……」

 ヨーロピアンバイソン。本来なら野生など見ることすら不可能であろうそれが、明らかに異常な巨躯で迫っていた。

 大きな個体の体重は1000キロを超えるとも言われるが、最早その比ではない。3000か、それ以上か、推測すら拒む巨大が走る姿は、カオナシの脳裏に暴走するトラックを思い浮かばせた。

 つまるところ、轢かれれば死ぬ。

「骨まで届く気もしないな」

 互いの距離が100メートルを切った辺りで、カオナシは足を止めて巨大な拳銃を構える。間も無くトリガーを引き絞ると同時に森からは野鳥が舞い、対面するバイソンすらもステップを違えた。

 それもそうだ。カオナシが放ったのは中重量超音速完全被甲小銃弾───言ってしまえば、殺すためではなく貫くための弾だ。そこらの拳銃弾とは大きく貫通力が違う。

 後ろでは響き渡る発砲音に、瓦礫の中で隠れる2人すらも肩を震わせ身を寄せていた。

「肺と心臓を狙ったはずだが……タングステンコアの弾でも届かないのか。ポリマーかメタルチップの7ミリ、あるいはパーシャルジャケットくらいは必要そうだな、どちらにせよ正面から即死は無理だろうが」

 50口径くらいなら即死で止められるか。などと呟きながら、続けてトリガーを絞り発砲していた。彼の使う小銃弾用拳銃、PLR-16はライフルをそのまま切り詰めたような物。制御性はともかく速射が効くのだ。

 何度も弾を受けたせいか、巨大なバイソンの動きは止まらないものの、確実に速度は落ちている。それでも轢かれれば命はないだろうが。

 獣の突進は大半の人間が想像するものより機敏であり、衝撃は車ほどであるにも関わらず、機動性は比にならないほどに高い。その場で直角に角度を変えることすらありえるため、想像に難しいだろうが”突進を横に避ける”のはほぼ自殺行為と言える。それ故、もはや到達前に無力化する以外に助かる術はない。

「まあ、そんなことだろうとは、な!」

 一呼吸置いて銃声が鳴り響くと、唐突にバイソンは前足を絡ませ、芝生の絨毯を捲りあげるように滑り込んだ。再び放たれた弾頭は胸元ではなく、上下に動く頭を狙ったモノに思えた。しかし獣の頭蓋は頑強な上に曲線が多く、例え軍用の徹甲弾であっても貫くことは容易ではない。今もバイソンは鼻息を荒くしていることから、やはり適わなかったのだろう。

「殺せないなら、先に毛の処理からだっ!」

 カオナシは手に持っていた筒からピンを抜き、地に伏すバイソンの懐へと筒を投げ込む。

 ポシュン、と間抜けな音が鳴り響くや否や、バイソンを包むように雪のような何かが降り注ぎ──その巨大を焼き始めたのだ。

 雄牛よりも更に低く、恐怖を直接煽るような雄叫びが響き渡り、その振動は心臓にまで届きそうなほどに身体へ馴染む。断末魔と呼ばれるそれは、生物の鳴き声というよりは魂の咆哮だろうか、理性によって生まれる声ではない。

「血抜きもせずに焼くと不味いんだが、今回は仕方ない。仕方ないよな? ……ああ、仕方ないな。撃って殺せないなら」

 陸に捨てられた魚のように暴れるバイソンを眺めながら、カオナシが首筋を狙って撃ち放った。

 それでも尚止むことのなかった咆哮は、徐々に力を失っていき……やがて、完全に沈黙するまでそう時間は掛からなかっただろう。死亡確認のためかもう一発撃ち込み、ピクリとも動きがないのを見てようやくPLR-16を収める。

 その頃には炎も収まり、焦げ臭さと巨大な肉だけが残った。

「肉が硬くなっただろうなあ、これ」

「お、終わりましたか……?」

「大丈夫だ、肉は確保した」

「肉って……貴方はデタラメ過ぎますっ。バイスーンは通常の成体でも地方騎士団が総出で狩りを行うというのに、あんな巨大なのを一人で倒してしまうなんて」

「……バイスーン? バイソンではなく?」

「? ええ。はい」

「まあ、発音の違いか……。というか、この世界でもデカいのかアレ。……それで、あなたは大丈夫かい? 森の中を走ってきたようだが」

「ひぅっ!?」

「───……あー……」

 瓦礫の中に隠れる2人にカオナシが近づくと、サニアに抱き寄せられた件の人物が小さく悲鳴を上げた。

 これにはカオナシも慣れていたのか、両手を見せながら数歩下がり、やりどころのなさを頭を掻いて誤魔化している。

 腿にまで届くような白金の長髪は地面につき、サニアと比べても白すぎる肌をしている。未成年には見えないが、発育の良いだけとも思え無くない、中途半端な外見だ。どちらにせよ、40を過ぎるカオナシよりは年下に思えるが。

「私の顔はこんなだが、君に危害を加える気は無い。安心はしなくていいけど、多少の信用はしてほしいな」

「大丈夫ですよ、この方は私が異世界から召喚した存在です、貴女を襲うことはありません。ここに契約の証も」

「合意した覚えは全く無いがね」

「不安を煽らないでください。……なにがあったのか、教えてもらえませんか?」

「えっ……と、はい。まずは御礼を言わせてください。命を救ってくださり、ありがとうございました」

「そんなに畏まらないでくれ」

 地に両手をつけて深々と頭を下げられ、カオナシは慌てて制した。あくまでなりゆき、意図したものではないと主張するものの、女性は”なりません”と聞きやしない。

 2.3繰り返して諦めたのか、カオナシも片膝をついて聞く姿勢になった。

「あれは狙われたら死ぬような相手なのかい?」

「貴方ほどの強力な魔術を扱えれば助かりましょうが、あの大きさともなれば、地方では街の一大事であると思われます」

「魔術? ……いやまあ齟齬はさておき、そんな規模なのか。ただの大きな獣にしか見えないが」

「あの大きさの猛獣でしたら祭りの催しにもなりますが……あれは魔獣と呼ばれる特殊なものの、さらに希薄な巨大さです。天災にも近いやもしれません」

「知らん言葉が増えてきたぞ……」

 思わず頭を抱えるカオナシを見て、二人は魔獣について詳しく語ってくれた。

 魔獣とは、生息する獣が長期間魔素に触れることによって適合し、魔力を帯びて強力になった個体を指す言葉であり、種族というよりはある種の突然変異に近い。多くは魔力を扱えるわけもなく、ただ周囲へ垂れ流し己を強化するだけの、異常に力が強く並の攻撃では傷がつかないというだけの獣……ではあるが、元の肉体が強靱である獣が魔素を得れば、それは個体により街一つを破壊しかねないものらしい。

 生態系が変わるわけではないため、草食性の魔獣は敵対さえされなければ安全なのだとか。

「つまり、あなたは安全と思っていた草食魔獣に狙われて、ここまで逃げてきたと」

「その通りです」

「……過去のことは言いたくないが、油断しすぎだな」

「返す言葉もございません……」

「まあ、いい。怪我をしているだろう? 見せなさい」

「えっ。…………あ、ええと……その」

 理解することを辞めたのか、カオナシは話を切り替えた。

 よく見ればどこぞの司祭のような服に思えるが、いかんせん袖や裾は枝葉で切れており、滲んだ血は肌だけでなく長い髪までところどころ染めている。話も落ち着いてそれに気がついたのか、どこからか掌大のポーチを取り出し傷を見せるように促したのだ。

 対して女性はほんの少し驚きを見せたかと思えば、何かを迷っているような声を漏らしている。

「貴女は神聖魔術師ですよね? 傷を癒さない、ということは聖力がもうありませんか?」

「はい……逃げる際に身体強化で使い切ってしまって。ですが、その……怪我の手当てをしていただけるのは、大変ありがたい申し出なのですが……」

「慈善が過ぎる、か?」

「……すみません。身の上の事情もありますが、あなた方には助けていただくばかりで、なんのお返しもできないもので……」

「確かに、この姿は利益目的でないと怪しさしか感じませんね」

 サニアがカオナシを見て苦笑していると、釣られて女性も笑みを溢した。

 自分のことを言われているのも、その姿から怪しまれるのもわかっているらしく、またもわざとらしく両手を挙げて見せる。

「……私は肉が欲しかった。食材にな。そうしたら、どこからか巨大な肉が登場したもので、これは僥倖と狩ることにした次第だ」

「ですが、わたくしには受けた恩を返す義務があります。どうかお願いします」

「と言われても……。礼は私の望むものならいいのかい?」

「はい。わたくしにできることなら」

 苦も無く返事をしたが、この質問にはサニアがカオナシをにらみつけていた。

 どうやら意図を曲解されたようにも思えるが、見た目故に悪事にしか聞こえないのはご愛嬌か。

「あー……なら、君が何をしていたのか、何故ここへ来たのか、そもそも君は誰なのかを教えてほしい」

「わかりました。そうですね……異界の方とのことなので、細かく順に。わたくしはエレイン。今わたくし達が居る国、アイラストリアに伝わる神に仕える神官を務めさせていただいております」

「その服はもしやと思ったが、なるほどな」

「異界にも似たものがあるのですか?」

「正しくは違うが、私の服は同じ意匠を持つものだ。見た目の近いものもあった」

「これが……」

「なんと禍々しい……」

 カオナシは軽く腕を広げて見せ、興味津々な2人をよそに瓦礫の1つへと腰掛けた。

 口から零れる感想からして、2人は黒い祭服を初めて見たらしく、随分と前のめりに注視している。対するカオナシは全く動じておらず、女性2人に寄られているというのに、イヌが臭いを嗅ぎに来たくらいにしか思っていないようだ。

「失礼しました。話を続けますが、わたくしは大地への感謝を捧げる祈祷を行うために、奥の森へと向かっていたのです」

「で、襲われたと」

「お恥ずかしながら」

「本来、あの……魔獣? は、その辺りに生息しているのかい?」

「いえ、目的地の更に奥です。なので戦える方も一緒におらず、逃げるばかりで……」

「人里に降りてきた例は」

「冒険者組合で稀に報告を聞きますが、あの種類で被害が出るのは珍しいような」

「教会でも、最近で襲われた報告は覚えがありませんね。魔獣となっても温和な性格のようです」

「ぼ、冒険者? ……また増えたな」

 サニアが慌てて言葉を付け足し、冒険者についてを説明しだした。

 アイラストリアには大きく分けて3つの勢力があり、国の持つ治安維持を目的とした騎士団、教会の持つ人々への奉仕を目的とした神官、己の利益のために動く冒険者が存在する。どうやら騎士団は基本的に孤立しているらしいが、神官は信仰を深めるため、あるいは布教するために冒険者と行動を共にすることが多いそうだ。また、神官には直接戦える能力を持つものは居ないとか。

「ともかく、事と次第はわかった。これで魔獣の礼は終わりだ。いいね?」

「いっいえ! 命を助けていただいたのです、この身を捧げることも───そうです! わたくしの全てを以て、ようやく釣り合いが取れるというもの。とすれば肌を見せるのも禁には触れませんし、先ほどのは怪我の手当てへの前払いということで……ですがわたくしの全てを捧げるならば、事をお伝えするのは当然のこと。ではなにを御礼としてさしあげれば…………」

「あの、エレインさん? エレインさーん?」

「ここが異世界であると確定だな。これだけ異常が揃うと」

「えっ、無視するんですか、これを」

「いつの世も、人は思い込みが進むと言葉が通じないものだ。諦めたまえ」

 自身の体を抱きしめて身悶えているエレインを意にも介さず、カオナシは情報の整理を。サニアは頭痛に顔をしかめている。

 少ししてすべきことに優先順位をつけ終わったのか、カオナシはふと切り出した。

「エレイン、君は再び祈祷へむかうのかい?」

「はい? 孫の名前ですか?」

「一代とんでもう孫まで妄想してるのか、逞しいな。祈祷には再び向かうのかと訊いてる」

「失礼しました。可能であればそうしたいのですが……」

「とのことだが、どうする」

 カオナシはサニアに話題を振ったが、妙にニヤけた顔で受け止められてしまった。

「きっと、貴方も同意見なんじゃないですか?」

 バレていたのかと言わんばかりに短く溜息を吐き、またも頭を軽く掻いていた。

 どうにも、カオナシは言葉に困ると頭を掻く癖があるらしい。

「報酬は無いと思われるが、冒険者としてはどうなんだい」

「私は血も涙もない利益主義者ではありません」

「……そうか。それを聞いて安心した」

「あの、ところで1つよろしいでしょうか?」

「うん?」

 話も纏まり次の行動が決まろうとしたところで、エレインが手を挙げて割り込んできた。

 特に阻む理由も無いため、カオナシはどうぞと促す。

「旦那様の御名前は?」

「色々飛躍してるのはさておき、名乗ってなかったか」

「そういえば私も聞きそびれてました」

「……以前はカオナシと呼ばれていたが、あまり好きな呼び名じゃない。そうだな、できれば―――」


「カインとでも呼んで欲しい」

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