■8.山小屋を買います
山小屋の下見に行ってからの一週間。
仕事中でもずっと頭から離れないあの緑の扉の家。
玄関を開けたときのチリン、と鳴った可愛らしい鈴の音。
他の物件もネットで色々見てみたが、どうもピンとくるのは無かった。
新築で一から間取りを考えて作るのも考えてみたが、あの家以上に気に入る家が建てられる気がしない。
そして週末、また別の物件を幾つか見せてもらった。
今回の案内もまた、先週と同じく小林さんだった。
「今回はいかがでしたか?気になった物件はありましたか?」
「どのおうちも可愛くて素敵なんですけど、やっぱり初日に見せていただいた、緑の扉のお家が今の所一番好きです」
「あぁ、やはりそうでしたか。では今からまた見に行きましょうか?」
時計を見ると、まだ時間に余裕があったので、是非、とお願いをした。
今日も明るいうちに見ることが出来た。
この建物に入ると、何故だか落ち着く。
リビングから外を見ると、雑木林が見える。
近くに他の家も無いので、大音量でテレビや音楽を流しても、近所迷惑になることは無さそうだ。
つまり、ちょっと孤立している。
都会の喧騒に慣れた生活をしているため、こんなに静かな場所があるなんて、不思議な気持ちだ。
とはいえ、たまに車が通り過ぎる音もする。ほんとたまに。
「やっぱいいですね。この家」
小林さんはこちらをじっと見ている。
「決めました。私、この家買います」
「近くにコンビニはありませんし、都会と比べると、だいぶ不便な事が多いと思いますよ?」
「・・・そこは覚悟してます」
「分かりました。ありがとうございます。それでは、色々とご契約の方を進めさせていただきます。直しておいて欲しいところなどありましたら、お申し付けください」
その後、不動産のオフィスへ移動し、諸々の手続きを行った。
支払いは一括で、と言ったらとても驚かれた。まぁそりゃそうか。ふふ、小林さんの驚いた顔が忘れられない。
しかし大金なため、一括払いにするとそれはそれで手続きが更にあるらしいのだが、それは問題ない。
壁紙は数箇所だけ貼り直してもらうことにした。
主賓室とトイレ、それと洋室二部屋。壁紙の柄についてはまた後日決めることに。
地下室は壁紙じゃなくて塗り壁になっていたので、飽きたら自分で塗り替えを楽しんでみるのもいいかもしれない。
リビングと台所の壁は外観同様、丸太を組み上げたような見た目のため変更は無し。
というかここは変えられないよね?多分。
(でも本当の丸太で組み上げてあるわけではないので隙間風などは一切ない)
駐車場は最初からついていたし、あとは電気とガスの開通日はおいおい連絡をくれるらしい。
引越しする日も決めなくてはいけないが、家具とかも色々新調したい。
ある程度生活必需品を揃えてから引っ越そう。
やはり買い物は都会に住んでるうちに済ませた方が楽だ。
これからの予定をたてながら帰宅する。
今、家にあるものの殆どはそのままリサイクルに出すなり捨てるなりして処分しよう。
コーヒーメーカーだって安物だし、冷蔵庫も小さくてたまに不便に感じていた。
レンジはオーブンもついているので持っていこう。
たまにケーキを焼いたりして使っているのだが、使い勝手が気に入っている。
そんな事を考えているうちにマンションに到着した。
この狭い1DKの部屋ともあと僅かの付き合いだと思うと・・・うん、やっぱり名残惜しさよりもこれからのワクワク感の方が断然大きいね!
あの家に合った家具を揃えよう。
それだけでもう、胸がときめいてくる。
少しくらい散財したっていいよね?最初だけだし。
因みに、エアコン類は壁棚などにうまく隠されていて気が付かなかったが、取り付けられていた。
しかし、長い間使っていなかったらしく、使ったとたん埃などで大変なことになりそうだったので、全て新調することにした。
エアコンの取り付け工事や、壁紙リフォームの際には自分が行かなくても不動産屋さんが応対してくれるとのこと。主に小林さんが。
アフターサービスもバッチリですな!
家を決めてからの週末は家具や電化製品を見てまわった。
気に入ったものもすぐには買わず、メモをとっておいて他のお店も見るようにした。
お金があるとは言え、無駄遣いをしたいわけではない。
平日は普段の仕事から今後の引き継ぎなども行った。
私がやっていた仕事は、美香よりも後輩の子に引き継いでもらうことになった。
とても優秀な子だが、不安があるらしいので久実先輩にフォローをお願いした。
そんなこんなで職場でも少しばたばたしていたある日。
私が仕事を辞める事を知った祐次が廊下で声を掛けてきた。どんな神経してんだ。
「仕事、辞めるって聞いた」
「はい、そうですが何か」
「俺…のせいだよな。お前に辛い思いをさせた」
はぁ?何が言いたいんだこいつ
「会社に何も言わないでいてくれてる事は感謝している。これも俺の為だよな。お前がそんなに俺のことを想ってくれてたなんて、気が付かなかった。すまない」
はぁぁぁあ????
「俺が傍にいると、俺のことが忘れられなくて辛いんだよな。でも、またやり直すことだって出来ると思うんだ。嫉妬でコーヒーを思わず掛けてしまった事は許してやるから、また俺の所に戻ってきてもいいんだぞ?」
何だろう。この勘違い野郎は。
こんな人だったっけ?いや、こんな人だったかもしれない。
「許してやる」って何??その切っ掛けとなった浮気をしたのはお前だろうが。
しかし以前の私ならきっと、私のために考えてくれた、とか勘違いしていたかもしれない。
一歩距離を取ってみると、こんなにも冷静に見られる。
思わずため息がもれた。
「橘田係長、あなたと私の個人的な付き合いは終わりました。そして今後、私的な付き合いをするつもりはありません」
「そんな意地をはることないんだぞ?」
あああもう!この勘違い野郎を誰か何とかして!
「これ以上話すことはありません。今後仕事に関係のあること以外、話しかけないでください」
このくらい言えば分かってもらえるだろうか。
さっと踵を返してその場を離れる。
ものすっごく疲れた。
もう二度と話たくない。
そんな事もありつつ、気がつけば二月もあっという間に終わりを告げようとし、会社に来るのも今日が最終日となっていた。
三月いっぱいは会社に属するが、有給休暇を全て充てさせてもらえたので出社することはもう恐らく無いだろう。
「村崎くん、今まで本当にお疲れ様。いなくなっちゃうのは寂しいけど、新天地でも君らしく輝いていることでしょう。村崎くんのこれまでの頑張りと、これからの輝かしい未来に乾杯っ!!」
部長の嬉しくありがたいお言葉のついた乾杯の音頭に、送別会に集まってくれた皆が一斉に「乾杯!」とグラスと笑顔を私に向けてくれた。
これまでお世話になった先輩方に上司、教育担当した後輩たちなど、忘年会に劣らず賑やかな面々が揃っていた。
もちろん元彼の裕二と、その現カノである美香はいない。
「ゆーかーりぃぃいい!寂しいよぉ!!これからも絶対遊ぼうねぇ!」
「久美先輩ーー!はい!というか明日も会う約束してるじゃないですか。忘れてないですよね?」
「それとこれとは別なのよぉ。来週から職場にあんたがいないって思うことが寂しいのよぉぅ」
「なんかそんな歌があった気がします」
「良いと思ったフレーズは日常に活かします」
「なるほど、また勉強させていただきました」
ぺこりとお辞儀をすると、二人でくすくすと笑いあった。
その他にも集まってくれたひとりひとりと別れと感謝の言葉を伝えた。
今日は招待された側だが、ゆっくり食べる暇はない。
これでもう会わなくなる人が殆どだと思う。
そう思うとやはり涙が溢れるのは止められなかった。
二次会まで行き、会は解散となった。
翌日は久美先輩とランチから楽しんだ。
そこで、山小屋を買ったことを伝えた。
落ち着いたら遊びに来てくれることを約束してくれた。
「でも紫、そんな山奥に引っ込んじゃったらもう中々いい出会いが無くなっちゃうんじゃない?」
「この間も言いましたが、本当に暫くは彼氏とかそういうのはいいです。独り身って楽なことに気がついてしまいました。それに、たまには都内に出てこようとは思ってますし。ホテルのエステコースとか行ってみたいので!」
「もしかしたら山の中で素敵な出会いもあるかもしれないし、しばらくはそれでもいいかもしれないわね」
「山の中の出会いですか?森のクマさんしか思いつけません」
「クマっぽい人も案外格好良かったりするものよ?」
「そうですかねー?」
久美先輩とこういう話をするのがいつも楽しかった。
これからもお互い連絡をし合う約束をして別れた。
明日からは転居以外何も決められた予定が無い。束縛の無い生活が始まる。
部屋に戻るなり、両手を挙げて「自由人だー!」と言ってみた。
そして静かな部屋にちょっと寂しくなったのであった。
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