■2.公私は弁えるタイプです

2020/11/8 誤字修正

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彼、いや、もう「元彼」になった橘田祐次にアイスコーヒーをぶっかけた翌朝。

いつも通りの普通の朝がきた。昨日エステに行ったおかげで、化粧のりはいつもよりはるかに良かった。

しかしやはり、何かもやもやとした気持ちは残っていた。

昨晩はスッキリした気持ちだったのにな。

まぁ昨日の今日だし仕方ないか。


後輩の美香は同じ部署のため必ず顔を合わせることになる。それだけが唯一憂鬱ではある。自分直下の後輩として一生懸命面倒も見たし、色々教えもした。後輩の中で出来が悪いタイプだったので、じっくりゆっくり面倒を見てきた。その分、他の後輩よりも可愛がっている自覚もあった。


出社して出勤登録をすると、社用のメール連絡網に彼女の欠勤届けが届いていた。「風邪のため」と書いてあるが、はたしてそうなのだろうか。

まぁ、昨日の今日で顔を合わせないで済んだのは良かったわ、と思い、朝礼に出る準備をする。すると、私より一年先輩の佐藤さとう久実くみがススス、と近寄って来た。


「紫、おはようー」

「久実先輩、おはようございます。どうしたんですか?ニヤニヤして」

「ニヤニヤって酷いわね、ニコニコと言ってちょうだい。昨日のこと聞いちゃったのよ。でも紫いつも通りね。良かったわ。少し心配してたのよ?」


昨日のこと、と言えば夜のことぐらいしか突飛な出来事は無い。


「え…誰に聞いたんですか?」


会社で早くも噂になってしまっているのか、と少し焦った。考えてみれば会社から遠くないレストランだった事を思い出す。しまった、頭に血がのぼっていたとはいえ、あの場所はまずかったか。


「私の同期の桜井さくらい君。彼、ちょうど現場にいたらしいのよぉ。現場からメールがきて、『君の後輩が修羅場だよ!』って色々教えてくれたの」


なんと、全く気がつかなかった…。


「私としては、足引っ張りまくるあの子なんかより、紫が元気ならそれでいいのよ。桜井君には釘さしておいたし、うちらから昨日のことが広まることは無いけど、他にも知り合いが見てたかもしれないから噂が広がる覚悟だけはしておきなさいよ?」

「すみません、ありがとうございます。ご心配をお掛けしました」


先輩のありがたいお言葉に感謝しながら、頭を下げる。


「で、当のあの子はお休みなのね…風邪とか書いてあったけど、どーなんだか。公私くらい弁えて仕事しろってね」

「いなくて私はちょっとホッとしてますけどね」

「あはは、そっかぁ、まぁそうだよねぇ」

「それにしても、あんたの元彼って企画部の橘田係長でしょ?まったく、彼女の後輩に手を出すってどういう神経してるのかしらね。修羅場になるとかカケラも想像しなかったのかしら。まぁ、紫には悪くて言えなかったけど、あまりいい噂も聞かないし、別れられて良かったのかもね」

「え、何か噂があるんですか?私、今まで彼の噂って殆ど聞いたことがなくて」

「そりゃぁ、『彼女』にへたな噂話なんて出来ないでしょ」


いい噂なら問題無いと思うんですけどね。ということは、悪い方なのですね…。私本当に男を見る目が無いんだなぁ。

そんな事を話てると、朝礼開始のチャイムが鳴った。


「おっと、話はまた後でね」

「はい、ありがとうございます」


その日は何の障害もなく、一日快適に仕事をこなした。いつも面倒事を起こしているトラブルメーカーの美香もいないため、なんとも穏やかな一日だった。そうか、今まで気づかなかったけど、かなり足を引っ張られていたらしい。残業や休日出勤までしていたのも大方、あの子のミスを片付けるためだったような気がしてきた。後輩の面倒も仕事のうちだと思い、嫌だと思ったことは無いが。


結局その後、どうやら噂は広まっていないようだった。翌日には何事も無かったかのように、美香も出社した。「昨日は風邪でお休みしてしまい、ご迷惑をお掛けしました、すみません」って皆に言えてるあたりは私の教育の賜物だと思っている。最初はこれすらも言えない子だったのだ。


私には目を一切合わせようとしないが、これも当たり前だろう。私だって目は合わせたくない。でもそれでは仕事に支障が出てくるし、部署の雰囲気も悪くなる。仕事は仕事で割り切るべきだ。

ただ、今まで私が尻拭い的に手伝ってあげていた部分は自力でどうにかしてもらおう。


「美香、この書類ミスってる。付箋しといた場所ね。明日の会議でも使う資料なんだから、今日の二時までには仕上げて、再度私に見せなさい。いいわね?」


いつも通り…よりちょっとだけつっけんどんな言い方になってしまったけれど、これは許容範囲だろう。美香は私から話し掛けられたことに少しほっとした表情を一瞬見せた気がした。仕事は仕事だ。必要があれば祐次とだってしゃべれますよ、私は。出来うる限り避けたいけど。


「…先輩いつも手伝ってくれるじゃないですか、お願いしますよ」

「甘ったれてるんじゃないわよ?これくらい一人で出来なくてどうするの。付箋で印してあげただけでもありがたく思って。これから先もずっと私に手伝わせる気?こんなの、あなたより後輩だって簡単に出来るわよ」

「…」


こちらを若干睨みながら無言でパソコンに向かい始めた。もっと前からこうしていれば良かったのかもしれない。私がつい手伝ってしまうから、この子の成長が遅いのもある気がする。そこは素直に反省しようと思う。

と、そこへ部長が声を掛けてきた。


「村崎くん、28日の忘年会の幹事だよね?場所どこだっけ?部署の皆の出欠は取った?」

「部長、場所は駅前にある居酒屋の『まほろば』ですよ。今のところ経理部は全員参加予定です。合同で忘年会をすることになっている人事部は田邉たなべさんが出欠を取ってくれてます。」


と言うと、あっ、と言って美香がこちらに近寄ってきた。


「すみません、忘年会なんですが、私その日の夜に新幹線で実家に帰ることになったので、不参加でお願いします」


部長がすぐ横にいるためか、ぺこんと頭を下げた。


「そうか、川端くんは実家が大分だったっけ。帰省かぁ、いいねぇ。僕も村崎くんも東京出身だから、そういうのちょっと憧れるよね?ね?」


部長が何か同意を求めてくるので「はぁ」と適当に相槌を打っておいた。美香は忘年会に来ないのか。実家への帰省が本当かどうかも一瞬疑ってしまったが、私には関係の無いことだ。彼女がいないことで大分気分も楽になる。忘年会は幹事だが、これで変に気まずい思いもしないで済む。幹事ながらに楽しませてもらおう。


そして忘年会の日、部長の乾杯の音頭で忘年会は始まった。居酒屋の二階部分、1フロアを借り切っているため、他のお客さんを気にしないで飲める。三十人以上いるため、場所の確保が幹事として一番大変だった。そしてこの居酒屋は社内でも美味しいで有名なお店だが、少し値段がはる。しかし今日は会社から忘年会用として経費が出ているため、みんなのお酒を飲むペースに躊躇いは無い。


無事に忘年会が始まったことに安堵し、自分の席に座ると、久実先輩が自分のジョッキを持ってやって来た。

「よっ!幹事お疲れ様!」といってジョッキこちらに傾けたため、私も手に持っていたジョッキを先輩のそれにくっつけ「あざますっ!乾杯っ!!」と言ってグイッと飲んだ。この喉越しがたまらんのです!

プハーっ!と一息ついていると、先輩が聞いてきた。


「で、その後どうなのよ。美香とは大丈夫そう?仕事を見てる限り平気そうだとは思って見守ってたんだけど」

「今まで、私が甘やかしすぎてたことに気づいたので、少し厳しめに教育することにしました。その方が彼女のためにも、会社のためにもなりますしね」

「紫は公私が弁えられて偉いね。私だったら私情のまま、ただただ辛くあたっちゃいそうだもん」


そう言ってグイっとビールを飲み干す。


「いやぁ、私情挟んだら、いじめしかしなくなると思いますよ~。自分がそんな底辺に落ちたくないだけなんですよ。自分のためなんです。正直顔見るのも本当は嫌なんですけどね…部署が違うとはいえ、元彼にだって結構会っちゃいますしねぇ…」

「そうだよねぇ。でもあんたは偉いよ。私の誇りの後輩よっ!」

「先輩、酔うのちょっと早いですよ、少しペース落としましょうね?」

「まだまだ!全然酔ってないですよー!んまぁ、あれよねー。宝くじでも当たったら、仕事辞めて気分一新して、海外に移住とかー?海外に引っ越したら私を招待してねー。『現地に友達が住んでるのでホテルは取りません』とかなんかちょっと格好良くない?一度言ってみたいわぁ」


話がずれた気がするが、女性同士の会話なんてこんなもの。友達同士なら話の軌道がずれたことに突っ込みを入れることもあるが、先輩だし、飲みの席だし、おとなしく話しを合わせる。


「ああ、宝くじ。いいですねー。冬の宝くじ買いました?実は私、買ったんですよー!そうですね、当たったら会社を年始早々に辞めようと思います!そして贅沢三昧して暮らして『自堕落万歳!』とか言いたいです」

「嗚呼、身に余るお金は人をダメにする…。紫は宝くじ当たったらダメな子かもしれん」


そんな捕らぬ狸の話をしていると、後輩たちがビールを注ぎに来てくれた。そうだ、私も部長や係長にご挨拶に行かなくちゃ。どうやら久実先輩も同じ思いだったらしく、後輩たちと少し話した後、二人して上司たちのご機嫌伺いに向かった。

途中企画していたビンゴ大会では大賞をまさかの部長がゲットして部下からブーイングが発生していたが、悪酔いして暴れる人なんかもおらず、終始楽しげに忘年会は進み、そして無事に幕を降ろした。


「二次会に行かれる方は、ハメを外してニュースにならないように気をつけてくださいねー。それではみなさん、良いお年を~」


と、年末らしい挨拶を交わし、解散となった。


「村崎くん、幹事お疲れ様ね。気をつけて帰るんだよー」

「はい、ありがとうございます。部長も良いお年をお迎えください」

「うん、村崎くんも良いお年を~!」


部長はカラオケが好きなので、どうやら二次会に参加するらしい。

二次会に行く人は集まってどこの店にするか話している、私は帰宅組と駅へ向かった。元々お酒は強い方ではないので、これ以上飲んだら明日が辛そうだ。二日酔いはなるべくしたくないので無茶はしない。

明日と明後日は独り暮らししている部屋の大掃除、そして大晦日は実家に帰ってそれから正月三日までゆっくり実家で過ごそうと思っている。

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