東京編
■1.真冬のアイスコーヒー
「今まで気をつかわせて悪かったわね」
私は笑顔でアイスコーヒー(お砂糖とミルク入り)のグラスを傾け、彼の頭上からかける。
頭の上を旋回するようにグラスをゆっくり回しながら、コーヒーを彼の頭にかけてゆく。
垂れたコーヒーが、鉄板に落ちてジュゥッと音をたてる。
彼の向かいに座っている女は青ざめた顔で、でも何も言えずにただ私の顔を凝視している。
「そんなにこわばった顔しないでよ。さっきまで会社で私と笑顔で話してたじゃない。クリスマスは彼氏と一緒に過ごすんですか?羨ましいですーって無邪気に笑ってね」
他の客や店員がこちらをチラチラと見ているが、構わない。
クリスマス間近で外は今にも雪が降りそうなほど寒い。しかし、店内は暖房で心地よい暖かさを保っている。
私、
実家は東京都内とはいえ、23区外。通勤に多少不便なのと、一度は独り暮らしを経験した方が良い、という親の方針により、3年前から一人暮らしをしている。
アイスコーヒーを頭からかけられている男。
今は驚きのあまりか、コーヒーをかけられている間も全く動けないでいた。
何でこんなことになっているのか。
最近デートもマンネリ化してきたので何かサプライズで驚かそう!と思い立ち、どうせなら背も155センチと高くなく、童顔で全体的に子どもっぽい自分の外見を少しでも大人らしく磨く方向でと思い、エステの三ヶ月コースに通っていた。
エステシシャンの方たちとの雑談で大人ぽく落ち着いた雰囲気のお化粧方法なども教わったりして、とても楽しく三ヶ月はあっという間だった。
その最終日の帰り道だった。
会社から近いエステサロンだった。
エステが終わり、お世話になった方たちにお礼を言い、少し名残惜しくも満足した気分で駅に向かっていた。そこで見慣れた二人を見かけた。
件の彼、祐次と会社の後輩で、よくドジをする子のため他の後輩よりも面倒を見ていた、というか見ざるを得なかった
仕事のあがり時間が重なれば駅まで一緒に、というのも別に珍しい光景ではない。部署は異なるが、私を通して二人は知り合いでもあった。
こんな所で会えるなら、三人で食事をして帰るのもたまにはいいかな、と思った。その前に後ろから脅かしてやろう、というイタズラ心が湧いた。
紫はサプライズやイタズラが好きだ。もちろん悪質なものでは無く、ちょっと驚かせたりするくらいの。
少し離れた位置の後方から、二人に近づこうとした時だった。
どちらからともなく、二人が手を繋いだ。
え?と思った。目の前の光景の意味が分からない。何故二人はカップルのように手を繋いでいるのだろう。それも、とてもごく自然の仕草のようだった。つまりは今回が初めてではないのだ。
まさかそんな、そう思いながらも二人の後ろをついていった。
二人はそのままレストランに入っていった。
この店は値段のわりにボリュームがあり、味も良くて紫もお気に入りのレストランだ。コーヒーがとても美味しく、祐次は知らないが、紫はよくこの店に通っていて、オーナーとも仲良くなっていた。
個人経営のレストランだが、チェーンのファミリーレストランと比べても遜色ない広さがある。
自分もつい、レストランに吸い込まれていった。しまった、と思ったが、二人は既に着席しメニューを見ていて、こちらには気がつかない。
「いらっしゃいませー」
ウエイトレスの若い声が聞こえる。
「お一人様ですか?禁煙席と喫煙席がございますが、どちらがよろしいですか?」
「あ、はい、一人です、禁煙で…」
マニュアル通りの接客文句に無意識に応え、席に案内される。
薄い衝立の壁のような仕切りを挟んで二人の反対側に案内される。衝立が無ければ隣という位置だが、立ち上がらない限りお互いの顔は見えない。
「ご注文がお決まりの頃、またお伺いさせ…」
「あっ、アイスコーヒーください」
ウエイトレスさんの声に被ってしまったが、すばやくコーヒーのみ注文をする。思わず「アイス」と言ってしまったが、冷静になるにはアイスコーヒーでいいか、と思いそのままにする。極力こちらの存在を二人に気づかれたくないのだ。声色も少し低めに注文した。
「アイスコーヒーですね、かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい、とりあえずそれで」
注文を終えてしばらくすると、薄い衝立のような壁の向こうから二人の会話が聞こえてきた。
「何にするか決まった?」
「うーん、どうしようかなぁ。今日はすっごい疲れたから、ガッツリ食べちゃうかも」
「ハハ。お疲れ様。俺も今日は沢山食べようかな」
ものすごくどうでもいい会話だ。しかし美香のしゃべり方は職場では聞いたことが無いほど甘ったるい。
二人で注文を済ますと、美香が肩まである髪をくるくると指に絡ませながら口を開いた。
「ところで祐次くん、先輩にはもう言ったの?先輩、クリスマスは祐次くんと過ごせるって疑ってないみたいなんだけど。ぷぅー」
何が「ぷぅー」だ。同性に嫌われる仕草ベスト3に入るぞ。思わず立ち上がって頭をはたいてやりたい衝動を我慢する。まさかの「ぷぅー」発言で忘れそうになったが、「祐次くん」って名前呼びですか。そうですか。
「ほら、色々あるんだよ。俺だって色々気を遣ってるんだよ?最近連絡も少なくしてるし。少し距離を取るようにしてみたり。向こうが中々気づかないけど…」
最近すれ違いが多いと思ってたけど、わざとずらしてたの?寂しいってメールしたのに「ごめんな」ってメールくれたのは何だったの?
「先輩ってそういうの、にぶそうだもんなぁー。でも、クリスマスは私と過ごしてくれるんでしょ?」
「何言ってるんだ、当たり前じゃないか!取り敢えずあいつからは、合鍵を返してもらわないとなぁ。気づいたら家にいた、とか思うとちょっとホラーだよな」
私の体温がどんどん下がっている気がする。やはりホットコーヒーにするべきだったか。
「やだ、何それこわーい!!っていうか、先輩合鍵持ってるんだ。ずるい!私も欲しい!!」
「うん、あいつから返してもらったら、それやるから」
「えー!先輩のお古ぅ~?やだやだ、ドアの鍵ごと新しくしちゃおうよう」
「うーん、それもいいかもなぁ。返してもらうのも面倒そうだしなぁ」
鍵がお古?そもそもその男が私のお古だということに気が付け。そう思ったそのとき、注文していたコーヒーが来た。
「おまたせいたしました。アイスコーヒーです」
ガムシロとミルクを入れてよく混ぜる。一口飲んでみたが、味がよく分からない。
落ち着け、落ち着くんだ私。つまり何だ。私は浮気をされていたのだ。それも仕事でずっと可愛がっていた後輩を相手に。いつから?いや、そんなことはどうでもいい。ただ一つ分かること。それは、浮気をする最低男と気づかずに付き合っていた己の人を見る目の無さだ。
『一度浮気した男は、その後何度でも浮気をする』近所のトラ婆さんが言っていた。
つまり、私はこの男とこれから先も付き合うとしたら、ずっと浮気をされるということ。そんなのは御免こうむる。
寧ろ、ここで浮気しているのがハッキリして良かったと思うことにしよう。この男と付き合っていた3年半、気が付かなかっただけで実は何回か浮気されていたのかもしれない。ここで終止符を打とう。ただ、こちらが引き下がるだけでは腹の虫が収まらない。何か面白い事は無いか。今だけでもいい、何かスッキリできる事。
「お待たせ致しました」
二人に料理が来た。そして私は目の前のアイスコーヒーに目が留まった。ウエイトレスが下がったのを見計らってアイスコーヒーを持ったまま立ち上がり、薄い衝立のような壁の上から顔を出す。そして笑顔で話しかける。
「二人とも、とーっても仲が良かったのね。私うといから、全然気がつかなかったわ」
私の声を聞いてハッと驚いた二人の顔がとても愉快だ。
腰まで伸びた自慢の黒髪を軽く手で払う。
そして冒頭に戻る。
「先輩…」
「ああ、あんたは鍵が欲しいんだっけ?いいわよ?あげるわ。お古だけど我慢して?」
そう言って、熱々の鉄板の上に乗った料理の上に合鍵を落とす。
ビシャっと油がはねて、美香の洋服に飛ぶ。
「あら、ごめんなさいね?私ったらほんと、気が回らないから」
「お前っ…!」
「なぁに?美香を守るの?フフ、騎士みたいね。頑張って、コーヒーまみれの騎士さん。ああ、でもこのことを会社で言ったらどうなるのかしら?三年半付き合ってた元部下がいましたが、その後輩との浮気現場を見つかって修羅場になりました?私は別に構わないけどね?」
本当は構うのだが、そんなことおくびも顔には出さずに言う。訴えたいなら訴えてみなさいよ、と挑発するように。
「っ…!」
「そんな顔しないでちょうだい。コーヒーが少しかかっちゃったけど、料理もちゃんと食べてね。作ってくれた人に申し訳ないでしょ?それに今日は沢山食べるのよね?ゆっくり食べて行くといいわ。あぁついでに私のコーヒー代も払っておいてね、これで私は去ってあげるんだから、安いくらいでしょ?それじゃ、また明日ね」
そう言って私は出口へ向かう。その時、店の奥からお店のオーナーが出てきた。
ちょうどスタッフにオーナーを呼んでもらおうと思っていたので助かった。
「騒がしてすみませんでした。床や椅子を汚してしまいました。後日弁償するので私に請求して下さい」
と頭を下げて謝った。
するとオーナーは事情を察してくれていたようで
「気にすることは無いよ。床も椅子も拭けばすぐ綺麗になる。今度ゆっくり、一人でおいで。とびきりのコーヒーをご馳走するよ」
と言ってくれた。
オーナーの優しい言葉で初めて涙がこぼれそうになった。
店を出て、冬の空気を胸いっぱいに吸い込む。
すごくスッキリした!彼氏と別れたのに、こんなにスッキリしている。
こうして私は3年半の付き合いに終止符を打った。
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