ヘンナ世界

青い言葉

:1

「ユミ、もう覚きる時間だよ。」

そう言われて僕は2LDKの狭い畳部屋の上で目を覚ました。時刻は午前4時頃だった。

「今日は何かあったっけ。」

「何も無いよ。」

「じゃあ如何して起こしたのさ、ナユ。」

「君とツトメテの色を見たかったの。」

見ると其の古めかしい銀の窓枠(サッシ)から覗く空の色はいつもと違って深い青色をしていたし、早朝の澄んだ空気が安アパートの薄い壁を伝って部屋の中を満たしていた。不意に、肺の奥から可笑しさが込み上げた。

「何処で覚えたの、そんな言葉。」

「昨日枕草子を読んだの。

とても面白かったわ。」

へぇ、と気の抜けた挨拶をした。

一体何時読んでいるのか。


斯の処、僕等はこの時間は寒くて布団に

包まって寝過ごすことが日課になっていて、

朝御飯を食べるには未だ早過ぎたから、

彼女の欲求通り少し歩いた処に在る水道橋迄行く事にした。一通り支度をして玄関を出ると、僕等は未だ目の覚めない街の、ブロック塀を抜けて行った。陽は未だ出ず、背丈に合った此の空気が死ぬ程肌を刺す。それでも僕は未だ眠くて頭を持ち上げられなかったが、彼女は一体何時起きたのだろうか、既に目は冴え、足取りも軽くなっていた。

「はやいよ。」と、僕は遂に根を上げた。

「でも鳥はもう飛んでいるわ。」彼女は

片足でするりと回って、

僕の方を向くとそう返して来た。

「そりゃ僕等は鳥みたいなモノだけど。」

するとその頭上を越えて2羽の椋鳥が飛んで行った。まるで私達の様だと呟いた。

尚も彼女の其れは軽く、其の様子はまるで宙に浮いた綿毛みたいだ。そう言えば、あの時は綿毛というのは余り見つからない物だったかも知れない。


其処に着くと僕等は丁度良い処を見つけて寄っ掛かった。青い空気と、其れに架かる紫の朝焼は頭を起こしに掛かっていた。其れを

擡げると白く伸びた水道橋の支柱は高く、

あのアーチの上には先程飛んで行った椋鳥が

止まっていた。本当に私達の様だったね、と

声が聞こえた。

其処から眺める空は絵に閉じ込めて仕舞いたく為る程で、僕等が立っている所は少し高かったから水平線が見えた。海の深い藍色と、

紫、橙を挟んだ空の青さが対比の様に目に飛び込んで来たから、視線は遠くに行って頭は不思議な心地に満たされた。

「未だ眠いかい?」

「いや、もう覚めたよ。」

「帰りにコンビニ寄ろうか、

朝御飯買いに。パンが良い?」

「うん。」

ナユの言葉はまるで魔法の様だ。

彼女以外の人間に言われると気に障る様な事

(そう、特に今みたいな事。)も、

其の喉の声帯を通れば何て異(こと)の無い、

当たり障り無い話題になるわけだ。

僕等は暫しの間、肩を並べた静けさの中で

東の方を見ていた。彼女の微かな息遣いが

小さな雲を作っている。


ナユが欠伸をしたのを見ていると、向うからランニングをしている男がやって来た。

こんな時間だ、珍しくも何とも無い。

男は僕等の近くまで来ると、

息を切らしながら開口一番こう言った。

「すみません、塵紙ありませんか。」

不用意な男だ。が、男というのは

そういう性質なのだ。ナユは一歩前に出て、

「はい、どうぞ。」と男に差し出した。

優しいかよ。

「有難うございます、恩に着ます。

このお礼は何時かします。」

本当かよ。

さて彼女は自分の方に向き、帰ろうかと口にした。流石に冷気が堪えた様だ。

すると又、しかし今度は先刻の男とは反対の方から、ランニングをしている男がやって来て、やはり息を切らして開口一番言うのだ。

「すみません、水、水下さい。」

阿呆かコイツ。図々しいにも程があるだろ。

況してやこんな天使に水を乞うなんて

身の程知らずにもいや全く程がある。

放って置けよ、と彼女に耳打ちしたが

いやはや此の天使は

偶然にも持っていたペットボトルを

(如何して持っているかは

聞かないで置いてくれ。)を彼に差し出し

「どうぞ。」と言った。優しいかよ。

やはり彼もお礼を述べて去っていった。


「良かったのかい?」

「ん?あぁ、今朝、水道で飲んでしまって

飲む気は無かったし、其れよりはあの人に

あげてしまった方が良いかと思ってね。」

僕は言った。「いや、そうじゃなくて。」


「あの人、黄泉戸喫にならないかな。」

刹那戸惑った彼女は、直ぐに吹き出した。

其れを視ると僕も笑った。彼女がコノー、

と言って僕を小突くと、擽ったいのと愉しいのが心の中でコロコロカラカラと

入り交じって増す増す可笑しくなった。

そうやって朝焼けの下で笑い合う僕等は

どんなに幼く見えたでしょう。

2人で一頻り笑うと僕は言った。

「下らない冗談だ。」

「でも笑ったでしょう?」

其れを聞くと復可笑しくなってしまった。

ところで、彼女が其の後で、


「うん、でもあの様子だと平気だと思うよ。

やけに静かだったからね。」


と口にした事には感想を述べないで置く。



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ヘンナ世界 青い言葉 @kotonoha-aneki

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