第90話 覚悟
◇
ジェイドが感じた視線の正体はフロイドであった。彼はジェイドとミーナが仲睦まじくミーナの家へと帰る様子を視界に収めると、ゆっくり、ジリジリと後ずさり、そして街灯の灯りも届かぬ闇に紛れたところで走り出していた──。
「ハッ、ハッ、ハッ、……ど、ど、ど、ど、ど、どういうことだ。な、なぜあの男がミーナ先生の家にっ──」
なぜ私は走っている? なぜ私が逃げるように立ち去らなければならない? いや、そんなことよりなぜあの男がこんな時間にミーナ先生の家へと一緒に向かっている?
私はあてもなく走る。思考は今しがた見た光景に全て支配されてしまっていた。
「ま、まさか部屋に上がる気なのか? い、いや送り届けるだけだろう……。送り届ける? 昼間二人で過ごしていたということか? なんだ、なにがどうなっている?」
私の心中は困惑を極めていた。平静でなどいられるはずもない。なぜこんなことになったのか。私は日課である夕飯の前の散歩をしていただけだ。ミーナ先生の家の前を偶然通る散歩コース。ここで偶然ミーナ先生と会えば、夕飯でもいかがですか? と自然な流れでデートになることもあるだろう。もちろん、出会えることは滅多にない。というより、まったくない。だが今日は幸運にも会えたのだ。しかし──。
(──それがどうだ?)
視界に収まる天使の横に、黒い悪魔がいるではないか。しかも、まるで……まるで恋人のように仲良さげに歩いていたのだ。
「ハァ……、ハァ……。どういうことなんだ……」
気付いたら自宅に着いていた。外は寒いのに全身から汗が吹きだしベタベタする。気持ちが悪い。
「フロイド様、おかえりなさいませ。どうされたのですか?」
屋敷に入るとメイドの一人が出迎え、訝しげな表情で様子を尋ねてくる。今は誰とも話したくないし、放っておいてほしい。だから私は──。
「なんでもない。それより風呂に入る」
「畏まりました。では、その後夕食を──」
「いらん。今日は疲れている。風呂から出たら自室で休むから誰も近づけるな」
「……畏まりました」
メイドに対し、八つ当たり気味にそんなことを言ってしまった。だが、それを取り繕う余裕などない。
私はそのまま無言で風呂へと向かうと、さっさと湯を浴び、自室へ戻る。
バタンと少し強めに扉を閉め、息を一つ長く吐く。そして少し冷静になった頭で先ほどの状況をもう一度思い返す。
「ふ…………ふあぁぁぁああああ!!」
叫ばずにはいられなかった。目に入った枕を手に取り、力任せに引き千切る。中の羽毛が部屋中にぶちまけられた。
「ハ、ハハハ、まるでミーナ先生の羽のようだ……」
ひらり、ひらりと部屋中にたゆたう真っ白な羽はとても綺麗で幻想的だった。私はまるでミーナ先生に包まれているようで、恍惚とした気持ちになる。
カサカサ──。
そんな時だ。この時期にしては珍しく、黒い害虫が部屋の壁を這っていた。途端に怒気が沸き上がってくる。私はソレにゆっくりと近づき、履いていたスリッパをそっと右手で掴むと──。
「ムゥゥンッッ!!」
全生命力を集約し、ソレを叩き潰した。
「……フン」
黒い悪魔は跡形もなく消えていた。少しだけ溜飲が下がる思いだ。だが、この害虫は
コンコン──。
「あ、あのフロイド様? 大丈夫でしょうか? すごい声と、物音が──」
そんな折、近づくなと言ったのにメイドの一人が様子を見にきたようだ。なぜか分からないが、一瞬にして怒りが沸騰し、叫んでしまう。
「大丈夫なわけがあるか!! 私の天使を寝取ってみろ!! 絶対に……絶対に許さんぞ虫ケラがぁぁぁぁぁああ!!」
「ひっ!! あ、開けますよ?」
メイドが扉を勝手に開けてくる。そして一歩踏み入ったところでへたりこんだ。派手に散らばっている羽毛と片手にスリッパを持って立ち尽くす私を見て、腰を抜かしたようだ。それを見て、私の怒気は不思議と霧散した。
「……私は平気だ。下がれ」
そして私は平静を装い、穏やかな口調で床にへたりこむメイドにそう告げる。
「……は、はへ」
メイドは立ち上がることができずにそのままの姿勢で後ずさりし、部屋を出て行った。その際、パンツが見えた。薄い青、すなわち水色であった。
「いいだろう……ジェイド。認めよう。貴様は私の
私はその夜、部屋の中で一晩中高笑いを上げ、朝日が昇る頃ようやく魔力が尽きるかのように意識を失うのであった。
そして翌朝、私は普段通り支度をし、学院へと向かう。本日の目的は──。
(直接、貴様に聞くことだ。昨日どこで、誰と何をしていたのか、と)
その覚悟は一夜で固めた。もう私は逃げない。貴様如きから決して逃げないのだ。
職員室に着いた。すぐに視界にミーナ先生が映る。ジェイドもいた。特におかしな様子はない。いつも通りだ。
(これなら初夜を迎えたわけではなさそ──)
私は安心しかける。だが裏を返せば──。
(は、初めてではないのか!?)
もし、万が一ソレが常習化していれば、どうだろうか。いや、だがジェイドが来てからミーナ先生が内股になっていたり、頬を赤らめ照れくさそうにしているところは見ていない。ない、ないはずだ。
「ふぅー……」
私はそこで一旦気持ちを落ち着ける。真相が分からない状態で勝手に思い込むのは私の悪いクセだ。それを確かめるために覚悟を決めてきたのではないか。ニコリと笑顔に切り替えるとミーナ先生へと近づく。
「ミーナ先生、おはようございます」
「フロイド先生、おはようございます」
いつものミーナ先生だ。
「ジェイド先生、おはようございます」
「フロイド先生、おはようございます」
そうこの男に用があるのだ。天にも昇る気持ちが一気に失墜した。視界に収めるだけで、声を聞くだけで吐き気がする。しかし、それでも尚、私の決意は揺るがなかった。
「ジェイド先生、少し話がある。今いいだろうか?」
「あ、はい。朝礼まででしたら」
「あぁ、私も手短に済ませたい。着いてきてくれ」
「分かりました」
短く言葉を交わした後、私は踵を返し、小会議室を目指す。後ろから気配を感じるにちゃんとついてきているようだ。
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