第37話 ばったりこんにちは
「ふぁぁ……。今何時だ?」
珍しく深い眠りに入っていたようだ。俺は壁に掛けてある時計を見た。夕方六時である。
(結構いい時間だな。というか、そう言えば今夜は何時にどこかも聞いていないな)
今夜はスカーレットさんとミーナが飲む席に誘われているため、いやそれは若干の語弊がある。飲む席に半強制的に参加することを決められたため、当然向かうのだが、場所も時間も聞いていなかったのだ。恐らくスカーレットさんとミーナでそこらへんは決めているのであろう。
(まぁ、お隣さんに聞けばいいか)
そう、別に焦らずともお隣さんの部屋を訪ねて聞けばいい。何時にどこからですか、と。そしてこの時間まで呼びにきていないということはまだ余裕があるのだろう。
(準備するか……)
深い眠りだったため、少しばかり頭がボーっとするが、それで動けないことはない。冬と言えど布団に包まっていれば暖かく、少し寝汗をかいていたため、シャワーを浴びることとする。
「んむ、さっぱり」
十五分ほどでシャワーを済まし、外へ出る支度をする。あまり服に頓着はないため似たような服ばかりだし、数もそんなに沢山あるわけではない。悩むこともなくいつもの服を着た。
最後にもう一度自分の体を見下ろし最終確認をしてみる。特におかしなところはない。これならばミーナに怒られることもないだろう。
(さて、ミーナにこの吸い取る君も自慢しなきゃな)
俺は部屋の中央に鎮座する吸い取る君をニヤニヤと眺めた後、ウキウキとした気分で扉を開く。
ガチャリ──。
「「ん?」」
開いた扉の先、左側に顔を向けると赤髪の美人さんとバッチリ目が合った。見たことのある人だ。確か名前はスカーレットさんと言った気がする。宙に止まっている手の形を見たところ、隣の部屋の扉をノックするところだったようだ。
俺はひとまずペコリと会釈をしてみる。向こうもペコリと会釈を返してくれた。そして、そっと扉を閉めて部屋に戻る。
「…………ふぅ。あまりよろしくない気がする」
分からない。何がよろしくないかはあまりよく分かっていないが、なんとなくミーナに怒られる気がした。
そう言えば確か隣同士に住んでいるとバレたら退去させると言っていた気がする。となると次の部屋を探さねばなるまい。幸いにもここの不動産屋さんとは顔見知りになったのだからあの人に紹介してもらえばいいだろう。問題はベッドだ。当然物理的に出すことはできない。となれば、できるだけ近くの物件を借りて時空転送するしかないだろう。
俺は気持ちを前向きに切り替え、引越しの算段を立てた。そうと決まれば引越しの準備だ。俺は現実から逃避するために片付けをしはじめた。そんな時である。
コンコン。
扉がノックされた。ノックをしたのはどちらだ? あるいは二人一緒にいる可能性も否めない。俺は忍び足で扉まで近づき、恐る恐る覗き穴に目を置いた。
(スカーレットさん一人か……)
悩む。居留守を使うべきか。いやあそこまでハッキリ目が合い、会釈をした後に居留守は不可能であろう。そしてミーナが一緒にいないということを考えれば、ミーナの部屋に行く前にこちらを尋ねてきた可能性がある。俺は三回ほど深呼吸をしてからゆっくりと扉を開けた。
「……はい、どちらさまでしょうか?」
「こちらの部屋の隣に住む者の友人でスカーレットと言う。挨拶をしたいのだが、少しだけ時間をもらえるだろうか?」
「これはご丁寧に、えぇどうぞ。初めまして、私は昨日ここに越してきたディーズと申します」
「おや、そうだったのか。これは失礼、実は私の知人に瓜二つだったものでね。もしやジェイドという者に心当たりは?」
「……ジェイド。確かに生き別れた弟がジェイドですが、もしやジェイドの行方をご存知で?」
「なるほど、兄はディーズと言うのか。それとジェイドとは今日も会ったばかりだ。それに私より行方について詳しい者も知っている。今すぐ連れてくるとしよう」
「…………ちょっとお待ち下さい」
当然だ。こんな茶番で乗り切れるわけがない。これが例え双子という設定だとしても無理があるだろう。覚悟を決めてスカーレット先生と談合するしかない。
「……実は俺はジェイドです」
「知っているが?」
「……ミーナの隣に住んでいます」
「そうだな」
「それでですね、できれば知らなかったことにしていただきたいのですが……」
「なぜ?」
「ミーナに怒られて退去させられるので……」
「……ふむ、なるほど。あぁ、いいだろう。但し条件がある」
「……なんでしょうか?」
「それはだな──」
スカーレットさんの口角が釣りあがり、悪い顔をしているのは分かったが背に腹は変えられまい。俺はその条件とやらを聞くことにした。
コンコン。
ノックの音だ。ジェイドだろうか? スカーレットさんだろうか? 私は部屋の扉の覗き穴を覗く。ジェイドだ。私は扉を開いて顔を出す。
「ジェイド良かった。今日の時間と場所伝えてなかったから、そろそろ声掛けようかなって思ってたの。いや、もっと前に教えたかったんだけど、お昼過ぎたくらいに部屋に行ったんだけどいなかったみたいだったからね?」
「あ、あぁ。すまない、ちょっと買い物に行っていた。そ、それとすまない、店を聞く前に頼みがあるんだが……」
「ん? どうしたの顔色悪いけど具合が悪いの? それなら今日は無理して来なくても──」
「い、いや違う。実はトイレが壊れて使えなくなって、その我慢をしていて……トイレを貸してくれないか?」
「え? あ、えぇと、うん、どうぞ」
ジェイドが不意にそんなことを言うので一瞬戸惑った。
部屋は片付いているし、水周りもこまめにきちんと掃除している。今日だってスカーレット先生とお昼ご飯を食べて帰ってきたあと、ずっと掃除をしていたくらいだ。
見られて恥ずかしいものもないし、ジェイドに対してもちろん嫌悪感などないのだから家に招くのは問題ない。だが──。
(やっぱり気持ちの準備がね……)
そう、なんとなく怖いのだ。自分の部屋にジェイドを上げてしまうのが。もちろん変な意味ではなく。
だが、彼の顔色を見る限り冗談を言っている様子はない。冬なのに汗もかいているようだ。気持ちの準備がどうとか言っている場合ではなさそうだ。とにかくジェイドを家に上げ、トイレへと案内しなければ。
「こっち。はい、どうぞ」
「あぁ、本当にすまないな。ありがとう、助かった」
「う、うん。大丈夫だから、気にしないで」
扉が閉まったところでトイレの前から遠ざかる。
(まさか初めて部屋に上げるのがトイレを貸すためって……。ロマンもムードもまったくなくて、ある意味ジェイドらしいよね)
少しだけ可笑しくなってくる。自分の部屋に好きな男性が上がるって言うのに色気なんかあったものじゃない。いつかジェイドがうちに上がる時は──なんて想像してた自分がバカらしく思えてくる。
(って、それよりスカーレットさんと鉢合わないようにしないと……)
時計を見る。六時半だ。七時前にはスカーレットさんが家に迎えにくることになっている。現地集合で良いと言ったのに頑なに迎えにくると言って折れなかった。恐らく今朝の会話で私の部屋ないし近くにジェイドが住んでいると察して辺りを調べにくるのだろう。
(もう、スカーレットさんは普段は優しいし、先輩教師としてすごく尊敬できるのに、ジェイドのことだけは意地悪してからかってくるのがね……)
「あーもうっ」
「ん? どうした?」
「えっ、ジェイドもう大丈夫なの?」
リビングでそんなことを考えていたらいつの間にかジェイドが隣にいた。
「……トイレちゃんと流した?」
「当たり前だ。トイレすまなかったな、ありがとう」
水を流した音が聞こえなかった。というわけではなく、意識に入ってこなかっただけのようだ。
「ううん。気にしないで。って、まだ顔色悪いけどお腹壊したの?」
「あ、いや、大丈夫だ」
全然大丈夫そうに見えない。だがここで強がる必要や嘘をつく必要はないはずだ。何やら挙動がおかしいジェイドを見て、私は少しだけ訝しげな目をしてしまう。
「……何か隠してない?」
「……特には」
「ほんと?」
「……あぁ、ほんとだ」
私は小さくため息をつく。これは何もジェイドが嘘をついていることが分かってしまったからではない。彼がこんなにも分かりやすい人であることを嘆いてのため息だ。そして、嘘をついてまで隠したいのならあえて追求することもない。
「まぁそれならいいけど。じゃあジェイド、お店の場所と時間を伝え──」
そして追求をやめ、店の場所と時間を伝えようとした時だ──。
コンコン。
「…………」
私は固まる。音を立てずに時計をチラリと見た。六時四十分だ。スカーレットさんが来るには少し早い。だが、このくらいの時間であれば来てもおかしくないであろう。というより、このタイミングでの来訪者はスカーレットさんとしか思えない。
「黙ってついてきて」
私はなるべく小さい声で、されど切迫した状況であると理解してもらえるよう強い口調でジェイドにそう告げた。
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