第8話   一日の終わりに

 今日は帰り際に厨房から呼び止められて、遅くまで明日のメニューの仕込みを手伝わされてしまった。おかげで定時より帰るのが遅くなったセシリアは、くたくたになった足取りで、夜道を歩いていた。


「まあ、仕込みやっとけば、明日の仕事が問題なく進むし、いいかな……ということにしときましょ。明日、わたしは休みの日だけど」


 サーカス国は、眠らない国だ。必ずどこかしか店が開いていて、お客が大勢入っている。そんな店の窓から漏れる橙色の明かりを尻目に、大通りから外れ、人がまばらのレンガ小路に入っていく。


 見えてきたアパートは、カラフルな建物が多いサーカス国では珍しい、灰色一色。三階建てで窓がまばらに付いており、まだ起きている住民の人数を、オレンジ色のカンテラの明かりで示していた。

 サーカス国の中心街であるにも関わらず、お家賃がとても安くて、入居希望者の倍率はかなり高かったそうだが、幸運にもセシリアは入居届を受理された。倍率のことを知ったのは、大家さんがポロリとこぼした、つい最近のこと。


 将来ずっと住み続けるには心配になるほど古い建物だが、夢と希望を胸にした若いセシリアには、夢の第一歩を着実に踏み出した瞬間のように、感じたものだ。


 今セシリアは、改めてアパートを見上げる。


「本当に、ボロボロの建物」


 入居したての数日間は、自分だけのお城のように思えていたけれど……疲れきった今のセシリアの目には、少ない街灯に照らされて、大きな蛾の影を壁に映し出す、不気味なアパートだった。


「いけないいけない、こんな暗い気持ちになるのは、疲れてるからよ……部屋に戻って、やることやって、しっかり休もうっと」


 自分に喝を入れるようにほっぺたをパンパンと軽く叩き、歩みを強めた。アパートの玄関扉を開けると、事務机に頬杖をついた気だるげなおじいさんが一人、セシリアの顔を一瞥し、無言でお辞儀した。


 セシリアも、軽く会釈する。


 このおじいさんとは、あまり言葉を交わせたことがなかった。セシリアが話しかけようとすると、椅子から立ち上がって奥の部屋へと移動してしまうのだ。初めの頃は、この大家の無愛想っぷりに戸惑ったものだが、今ではもう、こういう人なんだなと思うことにしている。


(この人だって、お家賃さえ滞納されなかったら、何も文句は言わないでしょ)


 セシリアは階段を使って二階に上がった。廊下が古いのと、防音機能は無いため、とても静かに歩かなければならない。無用なご近所トラブルは起こしたくなかった。せっかくの好条件のアパートなのに、追い出されたらたまらない。


 小さな肩掛けカバンから、自室の鍵を取り出しながら、一番奥の部屋の扉の鍵穴に差し込んだ。錆びてて開きづらく、何度か横にガチャガチャすると、ようやっと小気味の良い音が鳴った。

 鍵が開かなくて悪戦苦闘する際の騒音だけは、ご近所さんも大目に見てくれる。この階層の住民も、派手にガチャガチャ鳴らすからだ。


 取っ手を回して室内に入ると、廊下の明かりが太く差し込むほどに真っ暗であった。いつか買い替えたい、色あせた灰色のカーテンは、窓から入るわずかな街灯の明かりすら遮っている。


 昼間なら、このぶ厚いカーテンを開くだけで、まぶしく日差しが入る。けれど今は、外からの明かりをもらうだけでは足りない。


 セシリアは天井からぶら下がる大きなカンテラにマッチを擦って、灯りを点した。大家から購入できる油を注ぐと、このカンテラは部屋中を照らしてくれる。


「はあ……疲れた」


 ベッドにドサリとお尻を下ろして、しばし、うたた寝。


 はっと飛び起きて、立ち上がった。


 共同の洗濯場と浴室は、深夜には大家に鍵をかけられてしまう。網カゴに入れた汚れ物と、石鹸類が入った網カゴを重ねて持って、一階へと急いだ。


 部屋に戻ってくる頃には、もう瞼が重たくて仕方がなくなっていた。


 いつもは寝る前に執筆活動をしたり、講堂から借りた本を読み漁るのだが、今日はもう限界。


 下着の上から、寝巻き用の薄い羽織りをまとって、壁際のベッドに横たわった。ギッシリと大きな音が鳴った。部屋の壁紙も、備え付けの家具もボロボロで、住民の動作が乱暴だと、すぐにお隣さんから壁をドンドンされた。


「ああ……もう、明日謝ればいいわ……」



 ……体が疲れすぎると、かえってなかなか寝付けないことがある。今まさにセシリアが、それだった。


「疲れてるのに……眠れない」


 しばらくごろごろとベッドの上で、いろんな体勢で寝転びながら、最終的に仰向けになって天井を眺めていた。


「そうだ、明日書こうと思ってた手紙を、今書いちゃおうかな」


 きっちり書くのではなく、下書き感覚で。セシリアは起き上がると、もう一度カンテラを灯し、文机の椅子に座って、便箋と向き合った。


 この文机も足がガタガタと揺れまくるのだが、今のセシリアには家具を新調するお金はないので、机の脚の下に小石を詰めて、揺れないように調整して使っていた。


 傍らのガラスペンと黒のインク瓶を眺めながら、何を書こうかと頭に浮かべる。でも、いつも書いてる内容は同じだった。自分は元気にやっている、大変なこともあるけど、がんばっている……シスター・マゼンタを心配させそうな言葉は、書けなかった。


「やっぱり、もう寝よう……」


 眠い目をこすりながら、またベッドに戻っていった。


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