第3話 地獄の乗り心地・1
再び馬車に揺られてゆく、セシリア
湿った衣類の不快感から逃れるように、セシリアが空を眺めていると、雨が穏やかになり、しだいに雨雲の隙間から光の柱が下りてきた。
「観光なんて嘘だ」
突然、獣人っぽい老人が寒空を切るような鋭い声でつぶやいた。小声だが、みんなにも聞こえる声だった。
さらに彼は、大きなマントの下の背中にごそごそと手を入れ、やがてチャキッと音を立てて、一本の抜き身の剣を、皆の前で取り出した。銀色に鈍く光る刀身に、皆の顔がぼやけて映りこむ。
剣など、兵士か夜盗の持つ物。みんなが騒ぎだし、セシリアは馬車から飛び降りて逃げることも考えたが、ぎゅうぎゅう詰めの馬車で身動きが取れず、椅子から立ち上がれなかった。
老人が自身の手の甲に剣を当てて、鋭く引いた。
血は流れなかった。
「これは儂の父が創った特別な剣だ。人を斬り殺すことはできんが、使い方を間違えればどんな悲劇も生み出せる。名を『虚言の剣』という。世に二本のみ存在するが、ここには一本しかない。剣は互いに呼び合うよう創ってある。この剣が言うには、相方はサーカス国の住人の手に、収まっているという」
老人は大きなマントの中に剣をしまいこんだ。チャキッと音が鳴った。それはマントの下に隠していた鞘に、剣を納めた音だとセシリア含めて何人かの乗客が気づいた。
老人がセシリアを見下ろして笑う。
「どうだ、よい話のネタになるとは思わんか」
「ええ、機会があれば、取材をさせてください」
セシリアの声は、不覚にも震えていた。
たとえ舞台の小道具のように、切れ味がなかったとしても、こんなに人が密集している中で、剣を抜くとは悪い冗談だ。棒きれだって、狭い場所で振り回せばケガ人が出る。
「ここで会ったのも何かの縁だ、もしもこのような剣を見かけたら、儂に教えてほしい」
老人はそう言ったが、広大なサーカス国で剣を見かけることはあっても、見比べる暇などないだろうと思われた。
「ああ、もう一つ。柄のどこかに、儂の名前が彫ってある。儂の名前は――」
御者の男が、もうすぐ着くぜー、と声をかけた。
セシリアが外を見ると、なんてことのない、見通しの良い一本道だった。古ぼけた木の看板だけが立っている。
馬車は看板付近で停車した。
「着いたぜ。降りな」
セシリアたちは戸惑った。サーカス国へは、行き方を知っている御者に頼めば連れてってもらえるとだけ聞いていたから、毎年サーカス国へ出稼ぎに出ていた若者を、大勢乗せて帰るこの御者を選んだ。きっとこの先も馬車の乗り継ぎを繰り返し、海原をわたり、長旅になるだろうと、セシリアたちは覚悟していた。だから、この付近にサーカス国なる国があるなんて、聞いたことがない。
御者に冗談を言っている雰囲気はない。
「お客さんたち、降りた降りた」
「あのー、ここでですか?」
「次の馬車が来る。そいつに乗ってってくれ」
セシリアたちは、とたんに不安になった。
「俺らを田舎者だと思ってバカにしてるのか!?」
「運賃だけ巻き上げて置き去りにするつもりか!」
血の気の荒い男たちが、御者に食ってかかるが、御者はにやにやしているだけだ。
「そぉら、今に来るよ、次の馬車がな」
そうは言っても、見通しのよい一本道の、後にも先にも、他の馬車は見えない。
ふと、鳥の羽ばたきのような音が近づいてきた。セシリアがいの一番に、青空を駆ける不気味な黒い馬車を見つけて悲鳴をあげた。黒い馬車は、黒い有翼の馬二頭に引かれている。
「なんだ、ありゃ」
老人が芝居がかった大げさな仕草で空を指さし、馬車をひらりと飛び降りた。
よく外に出る勇気があるものだと、セシリアは唖然とする。
黒い馬車の接近とともに、みんなたまらず外に出てきた。
御者は相変わらず笑っている。
「あの馬車だよ。初めての人はみんな怖がるけど、あの馬車じゃなきゃサーカス国には入れないのさ」
「お、俺は行かねぇぞ! あんなの乗ったら、もう二度と戻ってこれねぇよ」
先ほどまで御者に食ってかかっていた若者の一人が、首をぶんぶんと横に振った。その気持ちに同情しつつ、セシリアは踏ん張っていた。
獣人っぽい老人は、例の切れない剣を構えている。構えこそかっこいいが、それはオモチャの剣である。
黒い馬が上品に、道の上に蹄を着けた。
馬車の手綱は、黒い外套で全身を覆っている怪しい御者が握っていた。セシリアたちが警戒し、絶句している様子に気づいたのか、頭のフードを取ってみせた。
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