第4話   地獄の乗り心地・2

 現れたのは、ここいらでは珍しい銀色の髪。それが流れる水のごとく肩から腰まですべりおりて、優しそうな美青年が、主にセシリアの立っているほうに紫水晶のような色合いの瞳を向けて微笑んだ。


「初めまして! 本日一日限りの御者を務めさせていただきます、メルビアンです! メルって呼んでください!」


 薄い氷のように儚い雰囲気を、不自然なくらい勢い良くぶち壊す、はつらつとした大きな声だった。まるで、不安がっている皆の心を読んだかのように。


 セシリアたちはポカ〜ンとしていたが、やがて我に返って狼狽し始める。


 特にセシリアは、メルと名乗った青年の声に、聞き覚えがあった。


 教会にボランティアでやってくる講師の一人と、そっくりな声なのだ。子供の頃に会った講師は、サーカス国について教えてくれて、どのような舞台装置が存在するか、俳優や女優がどのように舞台で役柄を演じるのかを、幼いセシリアは知ることができた。セシリアは物作りに大変興味を抱き、あの講師の授業だけが、とても有意義で大事な時間のように思えた。


(まさかね……あの時の講師の声は、大人っぽくて、落ち着いた感じの喋り方だったもの。きっと別人よ)


 見たこともない馬。大好きな事をたくさん教えてくれた講師を連想させる声。セシリアは胸がざわついた。


 メルは優しい口調で馬に動かぬよう命令し、セシリアたちには馬車に乗るよう促した。


 むっきむきの筋肉質な馬が、漆黒の翼を何度か羽ばたかせて、綺麗に折り畳んだ。その風圧に何度も前髪が持ち上がったセシリアは、さすがに数歩ほど退いていた。


 普通の馬車を操っていた御者が、にやにやしている。セシリアはそれに気づいて、自分たちが試されているのだと察した。


 周囲の乗客は、何も言えず、足もすくんでしまっている。漆黒の馬車が放つ異様な圧に、警戒心が跳ね上がっている様子だ。


 セシリアは空気を動かさねばと思った。脚本家になるための足がかりを、ここで逃すわけにはいかない。地平線のかなたに飛ばされたパチンコ玉になった気分で、深呼吸した。


「わたし、乗ります!」


 若い女性が、あきらかに怪しい馬車に乗ると断言している姿は、周囲から見れば驚きの光景だったろう。


 獣人の老人が、剣をチャキッと鞘にしまった。


「儂も行こう」


 彼はセシリアよりも先に、馬車の開いた扉の中へと消えていった。


 セシリアも慌てて続いた。馬車には窓がなく、大きな木箱のような内装で、本当に何かを運ぶためだけの機能しか果たさない形をしていた。


 たった一つしかない、この扉を閉められたら、外に出られなくなる。セシリアは後ろからドカドカと押されて馬車に乗ってしまった。


 老人とセシリアの気っ風に煽られ、乗客がどんどんと増えてゆく。


 あっという間にぎゅうぎゅう詰めに。窓もないのでセシリアは息が詰まりそうだった。風か空を感じたいが、御者のメルが扉を閉めてしまった。


 息苦しい中、馬車が静かに動き出す振動が、乗客を揺らす。腰掛ける椅子はなく、ただ立っている状態。大荷物の客は、肩身が狭そうだった。


「まるで果物か動物を運ぶような扱いだな」


 老人がセシリアの横でつぶやいた。


「このまま養豚場へ運ばれ、まるまると太らされて喰われてしまうんだな」


「じいちゃん! 少し黙っててくれ!」


 老人の横にいた男の客が、神経質な声を上げた。


 馬車は今、どこをどう進んでいるのだろう。御者メルに大声で尋ねる者がいたが、返事がなかった。


 車体はそんなに揺れず、耳をすましても、あの大きな馬の羽ばたく音は聞こえない。


 ただ緩やかに、揺れる、ぎゅうぎゅうの馬車。


 静かに乗客の不安を掻き立ててゆく。


 どんどん馬車の室温が上がってゆき、男臭い中でセシリアも気分が悪くなってきた頃。


「もう嫌だぁああ!」


 誰かが叫んだ。


「暑いよー! もう出してくれぇ!」


 馬車の壁を叩いて、叫び続ける。


 それに苛立った数人が、彼を無言で痛めつけた。なんの悲鳴も聞こえなくなった。


 セシリアは息が苦しくて、早く着かないかと、そればかり祈った。自分も今にも叫びだしそうだ。


(おかしいな……馬車に入ってからそんなに時間は経っていないはずなのに、もう半日はここにいるような気がする。苦しい……)


 冷たい水が恋しい。手汗がすごい。自分の体がどんどん湿っぽくなってゆく。動悸がして、耳の鼓膜が高音の耳鳴りを鳴らす。それがなぜだか原因がはっきりしない。猛烈な疲労感に襲われ、壁にもたれて、おでこをつけた。


 すすり泣きが聞こえた。誰かの弱音が、しゃっくりをあげながら延々と垂れ流され、セシリアは耳をふさいで、周囲に暴力を受ける誰かを見ないようにした。


 誰も庇ってあげられる余裕がない。体力と気力が、ごっそりとなくなっているからだ。


(みんなおかしくなってる……。となりのお爺さんだけが、平然としているのが救いだわ)


 オモチャだが武器を持っている隣のじいさんまで暴れだしたら、さすがにセシリアも反撃せねばならない。さもないと、付近の客も含めてタンコブだらけの大乱闘になってしまう。運動が得意でないセシリアにとって、なんとしても避けたい事態だった。


 その老人は壁に耳を当てて、何やら険しい表情になっていた。


「おかしいぞ。すさまじい早さで馬車が移動している。馬が運んでいるわけでは、ないようだぞ?」


「お爺さんまで、変なこと言わないでください。みんな気が立ってるんですから」


 セシリアはすぐ隣の老人に、乗客の怒りの矛先が向くのをおそれた。こんなに狭い場所では、絶対に自分も巻き込まれてしまう。


 早く着かないものかと眉間にシワを寄せて顔をおおっていた、そのとき、


「お嬢さんは気分でも悪いのか?」


 心配されて、セシリアは本当は気分がすごく悪かったけれども、首を横に振った。

 

「大丈夫です、がまんできます」


「人間には、新鮮な空気が必要だろうて。か弱い花には、なおさらだ」


 老人がおもむろに虚言の剣を抜いて、ほれ、と言って壁をスパスパッと切り刻んだ。


(え……? オモチャの剣が、壁を切った!?)


 壁が紙吹雪のごとく砕け散り、ぽっかり開いた穴から、ものすごく寒い突風が馬車内を掻き回した。


 雷鳴とどろき、稲光がセシリアたちを照らす。土砂降りの雨が馬車内にも入ってきて、セシリアたちはずぶ濡れになった。


「どこを飛んでるのー!」


 セシリアの声も、雷の音でかき消された。


 老人はというと、外に身を乗り出して前方を眺めていた。


「やはりな。御者と馬がおらん。この馬車だけが空を飛び、お目当ての場所へといざなっておるのだろう」


 人混みを掻き分けて、髪をびちゃびちゃに濡らした大柄な男が、老人の背中を押し始めた。


「この野郎を突き落とせ!」


「待ってください!」


 セシリアは老人の胴体にすがりついた。殺人事件なんて目の前で起こされては、この場の全員の心が、崩壊してしまう。それは絶対に避けねばと、セシリアは暴漢に立ち向かった。


「このお爺さんは、この中でいちばん、何かをよく知っていそうな気がします! 今、彼を失うわけにはいきません!」


 説得力があるような無いような。しかし、なんとなく納得したらしく、暴漢は悪態をつきながらも老人を押すのをやめた。


 セシリアはほっとして、おでこの汗をぬぐった。けれど、雨が激しく顔に当たるので、けっきょくびしょ濡れだった。


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