一章 真実と代償、偽りの相貌
第1話 春の訪れ、未知の訪れ
平穏な日々は非常に退屈であるが、先人が築いた歴史があってこそ成り立っている。
新学期が始まって一週間足らずの昼過ぎ、国立第四都区中央高校では既に授業が始まっている。ここ、通称第四中央高校はありふれた自称進学校であり、進学実績は伴わないものの生徒に勉強を強制する規則が多々ある。だが、生徒達は辟易とする所か、いま自分達が勉強に従事できることへ感謝して熱心に取り組んでいる。
人間は生まれ持った才能が決まっており、人それぞれ優劣があるものだろう。もちろん、校内にも成績優秀者から落ちこぼれまで存在はする。だが、その差は定期テストの点数にして2桁に満たず、見事に足並みの揃ったスコアを叩きだしている。
これはこの高校に限ったことではない。幼稚園から大学、それ以降の社会においてもコミュニティ内で劇的な差異は生じる事なく、人類は史上かつてない程に真の平等へと近づいていた。競争心を万人が有し、生まれや肌の色等の先天的個性をお互いに尊重する。身心共に自由が保障され、幸福度は今世紀に入ってから毎年最高記録を更新し続けている。無論、これは特定の国ではなく、世界全体がひとつの対象とされた調査においてであるが。
退屈だと言わんばかりに、教室で授業を受けながらも窓の外を見て少女は思い耽る。織原莉乃おりはら りの、当校の二年生である彼女は年齢に不相応な程に端正な顔を歪め、手入れの行き届いた黒い長髪を空いた左手でいじる。授業は現代人類史。他の生徒は全員が手元のノートと、教鞭を奮う教師の映像が流れる教室前面の大型ディスプレイを交互に見つめている。窓際の一番後ろという特等席に座る莉乃には、このクラスの異様とも言える、だが当たり前の光景を堪能できる。
彼女は勉強が出来る。校内の学年順位は全科目一位、厳密には一位タイだ。彼女は運動も出来る。走れば女子100メートル走のタイムは校内一位。無論、これも一位タイではある。莉乃にとって、これらのことは少ない労力で達成出来る程度のものでしかない。しかし、この高校では全校生徒が日々のほとんどをそれらに捧げ、結果を掴みとっている。
両親や親戚、幼馴染らには「勿体ない、もっと良い高校に行けばいいのに」なんてことを耳にタコが出来るほど言われていた。それでも莉乃には届かない言葉だった。なぜなら、どこへ行っても彼女の退屈は確約されたようなものだったからである。
織原梨乃は記憶力、思考力、運動神経おまけに対人コミュニケーション能力さえも、彼女の短い人生ではあるが誰と比べても秀でていたのだから。何故なのかは莉乃自身にもわからない。考えて出る結論など「私が才能に恵まれているから」以外にはない。
才色兼備、この四字熟語の体現者たる莉乃がこの高校を選んだのは、たまたま自宅から近かったから、それだけである。それ故に、彼女は日々努力を弛まぬフリをして過ごし、両親の期待を裏切らぬ程度の成績を叩きだすことのみしている。
そんな莉乃から見ればこのクラス、いや世界の勤勉さはどれだけ滑稽に映るのだろうか。想像に難くない。
授業の終わりを告げるチャイムと共に映像も終わり、ディスプレイがスリープモードとなる。生徒達は一斉に立ち上がり、それぞれが雑談に興じる。雑談とは言えども、彼らの話すことは決まって勉学の話ばかりである。
「莉乃~、さっきの人類史でわかんない所あったんだけど~」
一人の女子生徒が莉乃に話しかけてくる。少し茶色がかったショートボブの釣り目な少女は、先程まで広げていたであろうノートを手元に広げながら、あからさまに困ってますという表情を浮かべて莉乃を見つめる。
「明美、人類史の内容でわからないなんてこと普通ある?」
「わかんないでしょ! なんで2020年に旧中東で争いが起こらなきゃいけないの!?」
「思想の違いってさっき先生が言ってたじゃん、もしかして寝てた?」
「寝てないよぉ。その思想の違いで争いが起こるのがわかんないの!」
莉乃に質問責めをするのは佐野明美さの あけみ、クラスメイトの1人だ。明美にとって、思想の違いは争いを起こすには動機として不十分といった見解なのだろう。
「そういうものってだけだよ、そこまで考えられるほど覚えてるなら十分じゃない。それでも気になるなら大学で研究でもしたら?」
「莉乃のいじわる! 知ってるなら教えてくれても良いのに~」
明美はムスッとした顔をすると自分の席に戻っていく。莉乃はため息交じりに鼻を鳴らしながら見送る。あんな質問をされても莉乃にもわからない。一般的な高校生の覚えるべき範疇を超えているからだ。ただ提示された事象を覚え、テストの答案に書きこむ。莉乃にとって勉学とはそれに過ぎず、ただ与えられる受動的なものでしかなかった。学びは記憶することであり、彼女の人生を豊かにするものでなく、ただ評価を維持する手段でしかないのだ。
日が西へ傾きだした頃、第四中央高校は五限まで終えて放課後を迎える。生徒達は部活動に励む時間へと移るため、教室はすっかり寂しくなる。閑散とした教室に莉乃は1人、放課後へ突入してもなお座り続けていた。彼女は立派に帰宅部である。運動神経の良い彼女は部活の勧誘も多く受けていたが、ことごとく断り続けていた。
莉乃の興味関心は高校には無いのだろう。友人も多く、何一つ滞りなく物事を進めてはいるが、彼女にとっての学生生活は作業をするかのようで、決して満たされるような日々では無い。
当たり前に出来ることをただ淡々こなす、だが他人からは健気に頑張っているように見せる。一見すると何も不自由のない生活はどれほど幸福かと思える。その反面、社会全体からポテンシャルを抑圧され、無意識化でそれを当たり前と受け止めて過ごす事は大きなストレスを抱えるものであろう。
織原莉乃は心のどこかで発散を望んでいた。この退屈な日々を抜け出せる、彼女自身が限界を感じるまで努力を要求される困難を強く求めていたのだ。
もちろん、そんな事は口にも表情にも出さない。例え、今のように誰もいない事を確信出来る状況下であっても漏らす事はない。それをしてしまえば、気持ちや言葉は反芻され、彼女の中で溢れるまで増幅してしまう。残酷なほど優秀であれど、年端もいかない少女なのだ。周囲の人間に反するようなことは自制する。それが正しくとも間違っていても。
「おい、お前が織原だな」
茫然としていた莉乃へ教室の外から男の声が投げかけられる。部活の時間だというのに、入り口から見つめる彼もまだ制服を着ている。
「そうですけど、アンタ誰?」
莉乃は椅子から立ちあがり、男子生徒の方へ歩みを進める。身体がしっかり出来あがっており、少しかがまないとドアを出入りする時に頭をぶつけてしまいそうな程に背が高い。2人が並ぶと頭ひとつ以上違うこともあって、まるで年の離れた兄妹にすら見える。
「3年の橘光希たちばな みつきだ。少し話がある、ツラ貸せ」
橘と名乗る3年生がぶっきらぼうに言い放つと、莉乃の返事を聞くまでもなく歩き出す。莉乃は少し怪訝な表情を見せるも、彼の後を素直に追いかける。
織原莉乃は容姿端麗である。黒い艶やかな長髪、物憂げな眼もとに端正な顔立ち。白い絹肌の四肢がスラリと伸び、華奢で女性らしさを感じさせる細長い指。敢えて欠点を挙げるならば、女性らしい凹凸の欠けるスタイルであるが、逆にこれを良しとする男子は多い。事実、これまでの学生生活で幾度か愛の告白を受けていた。その経験則から、彼女は橘の態度が今まで受けた告白のそれとはかけ離れている事を察知しただろう。
故に莉乃は素直についていく。つまらない日々から少しでも刺激を得られるなら、そんな淡い期待も込めるように橘の背中を見つめていた。
二人は淡々と歩みを進める。上へ上へと階段をのぼり、屋上へ出た。春の放課後16時過ぎ、日が落ち始めている中、校庭では各部活の掛け声が響き渡っている。気持ちの良い春の風が二人の間を駆け抜けるのを合図とするように、莉乃が口を開いた。
「それで、先輩は何の用でしょうか? 3年生の先輩が受験勉強も放って……」
「お前、いつも手を抜いているのか?」
橘の質問返しに莉乃は意表を突かれ、思わず声を漏らした。長い付き合いならいざ知らず、今日初めて顔を合わせた相手に彼女の秘密を急に射抜かれたのだから。
驚き戸惑う莉乃は否定する事も忘れ、肯定を前提に口走ってしまう。
「……なんでそれを?」
「体育祭だ。精一杯頑張って走ってますって顔、頑張って走ってる奴は出来ねぇんだよ!」
橘が話しているのは去年度の10月、莉乃がまだ一年生だった時の体育祭で行われた徒競争の事だった。莉乃はクラスメイトの走力は把握していたため、クラス内トップ程度の速さで走った。それが意外にも他クラスの選手より前に出てしまい、慌てて露骨な手加減をしたのだった。残念ながら織原莉乃に演技力は欠いていたらしい。
「織原お前、人の努力を笑っているだろ?」
「なんでそんな!? 先輩が私の何を――」
「わかるんだよ! お前は自分でぬるま湯につかって、悦に浸るクソ野郎だ!」
橘は怒気のこもった声で莉乃の言葉を遮る。その表情は負の感情に満ちている者の顔だ。莉乃はかつて無いほどに自身へ突き付けられたネガティブな気持ちに怯み上がり、あとずさる。
無理もない事だ。莉乃に限らず、多くの人々は深い負の感情を抱く事も無い。それは即ち、そのような敵意を向けられることなどあり得なかった。人類は強い博愛主義に目覚め、それが普遍と化していたからだ。普通ではない感情を放つ橘を前にして、莉乃は震えあがり萎縮する。
「先輩、それは良くないです……先輩が駄目になっちゃう……」
莉乃は学んでいた。現代倫理学において、怒りという感情を真に抱いてしまうと人間はわかり合えなくなってしまう事を。それは橘も同じであるはずだが、彼にその言葉は届かない。
「うるさい! 黙れ偽善者が! お前がいけないんだ!」
橘は敵意を剥き出しにし、莉乃に対して成人のスポーツマンにも劣らぬ巨体から腕を振りかざす。その腕は迷うことなく莉乃の顔へと一直線に吸い込まれる。
怯えきっていた莉乃に、それを避けることなど出来るはずなかった。その時、彼女は自身が暴力の対象になったと理解し、冷静な判断力を瞬時に取り戻す。
織原莉乃は優秀の一言では表せないものだったようだ。
橘の腕の軌道を読み切っていた。それでも、例え見切ったと言えど武道の心得もなく瞬発力を要する運動をする事もない、ただ運動神経が良いだけの莉乃に、素人が放つものであれこぶしを避ける等という芸当が出来るはずはない。
だが、その固定観念すらも彼女は超越して見せた。
無駄のない最低限の、まるで紙一重で躱すことを狙ったかのように避けて見せる。つい数秒前までいたいけな少女の表情をしていはずが、遠くまで見据えるように静まりきった穏やかな顔をして、空を切る腕の主を見つめる。
「先輩、これは正当防衛ですからね」
莉乃はそう一言、念を押すように橘へ語りかける。それが橘の元へ届いていたかは定かでない。それでも関係なしに、莉乃はまだ殴ったための慣性力が残る橘の腕へ手を添えるように捉える。身をひるがえしながら腕を強く引き、自分より数十センチも高い、何十キロも重いであろう巨体をコンクリートの地表にに叩きつけた。
「やっぱり……お前ってやつ――」
地べたに転がる橘は呻きながらも一層怒りを増し、一介の男子高校生とは思えぬ鬼の形相で立ちあがろうとする。
それも束の間、憤怒に燃える彼の顔面に一発の蹴りが入る。他ならぬ莉乃の足蹴りだ。彼女は橘が立つ前から助走と跳躍をし、芸術的な弧を描いて綺麗な回し蹴りを彼の顔面へと容赦なくぶち込んだ。これが彼女の人生初めての回し蹴り――ひいては対人戦における蹴り技――と言われても信じられる者は少ないだろう程の出来栄えであった。
蹴り飛ばされ、再度地べたを這うはめになった橘は恐怖していた。彼が先程まで怒りの矛先を向けていた相手は、ついさっきまで子犬のように怯えていたはずだった。それが気付けばこぶしは寸前で避けられ、投げられた挙句に回し蹴りまで決められた。それも年下の女子にとなれば、彼の自尊心が決壊してもおかしくない。
「なんなんだ……なんなんだよお前っ!」
「私はただの――」
「良いね織原ちゃん、予想通りだ」
莉乃と橘の問答に、塔屋の上から横やりを入れる声が投げかけられる。
2人が声の主へ目を向ける。塔屋に座る少女もまた制服のまま放課後を送っており、栗色の髪はお下げをふたつ携え、ニコニコと笑って二人を見下ろしていた。
「こんなん聞いてないぞ! どうなってんだ!」
栗色髪の少女を目視すると、橘は震える声で叫ぶ。少女は橘の問いに答えることなく塔屋から降り、莉乃の前まで歩み寄る。
少女は莉乃より一回りほど小さく、それほど身長が高くない莉乃を見上げるように顔を上げた。
「初めまして織原莉乃、私は1年の野比瑠奈。よろしくね、織原ちゃん」
「一年生、先輩には敬語を使うものよ」
瑠奈と名乗る少女は握手を求めて手を差し伸べるも、莉乃は一瞥するのみで手を腰に当てて深い溜め息をついた。
「おい!無視するんじゃねぇ――」
「かませ犬は黙っとけや」
瑠奈が橘の方へ手をかざす。すると、蹴りを入れられてなお吠える余力を残していた橘が、何の前触れもなく唐突に呻き声をあげ倒れ込んだ。その雄叫びは短く、だが純然たる苦痛を感じさせる声のみを残して腹臥位で静止した。
「ちょっとアンタ! 一体何を!」
「織原ちゃんと同じ。私もなんだよ」
「何を言ってるの!? わかる言葉で話しなさいよ!」
傍から見ても支離滅裂の一言に尽きる瑠奈の返事に莉乃も思わず怒声を上げる。何もせず、触らずとも人が倒れたのだ。橘は意識を失ったのか、あるいは死んでしまったのか。ただ、声を上げ倒れる人の姿を見て気持ちのいい人間はいないだろう。莉乃もその例に漏れず、先程の落ち着いた表情から、またも一転して青ざめた顔色をしていた。
「何って……疎いねぇ織原ちゃんは。自覚ないわけ?」
「だからわかる言葉で――」
「『超能力』、かつて日本が研究した異端の兵器……。私『達』は同じ星の元生まれた運命共同体ってわけだよ」
理解を超えた瑠奈の答えに、時が止まったように莉乃は硬直する。否、彼女自身に思い当たる節はあったのかもしれない。異様な程の記憶力、運動神経。今さっきの人間離れした動きの数々。これまでの彼女の人生でも、似たような経験はしたことがあったものだ。
「だからさ、織原ちゃん」
戸惑いか恐怖か。理解の追いついていない莉乃を構いもせず、瑠奈は語りかける。
「私と一緒にプログラムに参加して、刺激的な毎日に身を投じようよ」
瑠奈が再度差し出した手から、莉乃は目を離すことが出来なくなっていた。
いきなり現れた謎の少女こと野比瑠奈は、ただの女子高生として人生を退屈に歩んでいた織原莉乃の世界を一転させようとする。奇しくも、それは莉乃が強く望んでいたことだった。
しかし――
「アンタの言うことわけわかんないよ……ッ!」
莉乃は混乱していた。急に現れた小さな一年生は、三年生の先輩を触れずに意識を奪い去り、超能力だ等と言いだしたのだ。誰がどう見てもこの状況を呑み込めないのに無理はない。
「織原ちゃん、もしかして力を抑えてるね?」
莉乃の芳しくない反応を見た瑠奈は覗きこむように彼女の顔を見ると、差し出していた右手を彼女の頬へゆっくりと伸ばす。
「やめて! 触んないで!」
莉乃は瑠奈の手をはじくと激高した。怒り以上に困惑の表情が見て取れる。その手が何をしたのか、どんな感情を抱いて認識しているのか瑠奈は理解していないのか、あるいはそれをわかった上での行動なのだろうか。瑠奈は目を見開いて驚いてみせる。
「随分嫌われちゃってるなぁ、私ってそんな怖い?」
「気味悪いに決まってんでしょ……帰るからどいて……」
はじかれた手をヒラヒラとしながら、瑠奈はヘラヘラした態度を取っている。莉乃はそんな彼女と目を合わせず、躊躇することなく足早に去ろうとする。
「良いの? また明日から退屈な学生ごっこ。」
瑠奈は表情を引き締め直し、屋上を後にしようとする莉乃の背中をまっすぐ見つめて語りかける。その言葉を聞き、莉乃の足はピタリと止まってしまう。
「織原ちゃんにはこの世界が窮屈に感じないわけないって、私わかってるんだよね」
退屈な日常からの解放、それは他の誰でも無い莉乃が心の奥底で望んでいたものだ。先程の瑠奈が見せた不思議な光景も、不可解で気味の悪いと口にしてはいたものの、莉乃の本心では長らく待っていた非日常の到来を歓喜していたのかもしれない。
莉乃は振り返らなかった。だが、彼女の本当の気持ちを考えれば、帰路につかず足を止めることも容易に理解が出来るだろう。それは瑠奈にとっても同じことである。
「やっぱり、身体は素直ってやつじゃん……。それじゃあ少し、退屈しない昔話からさせて貰おうか」
「気色悪いこと言うんじゃないわよ。昔話だなんて何を勝手に――」
「歪められた史実、この世界の真実を知る所からプログラムは始まるの」
瑠奈は不敵に微笑み、手を後ろに組んで屋上の端へ歩き出す。春の夕暮れ、学校の屋上から見える景色は青春を感じさせるのに十分過ぎる。一年生と名乗る瑠奈にとってこの景色は、高校入学を果たし、これからの学生生活の好感触を予感させるはずだ。しかし、暮れの街並みを望む彼女の表情はあまりにも年不相応で、艶めかしいものであった。
莉乃は身体を向き直すと、今度は彼女がまっすぐと瑠奈を見つめる。その眼は敵意を感じさせるぎらついた印象を抱かせるも、それ以外の確固たる興味も感じさせる眼差しだった。
「2100年、世界は絶望の淵へ落とされた年――」
「いいえ、2100年は世界結束の年。旧日本の平和主義が成就し、全ての垣根を超えた世界の統一と平和が急速に行われた。高校入試以前、小学校から社会で習う事よ」
瑠奈の語りだしに対して、莉乃はすかさず口を挟んだ。
彼女達の言う2100年という年は、莉乃の答えたように世界平和成就に全世界が尽力した年である。急速に平和協定が乱立、協定締結が異例のペースで進み、国単位での合併が繰り返され、一年も経たずして世界はひとつになった。冷戦や紛争、政治的軋轢で混沌としていたはずの21世紀は、日本の輝かしい活躍と各国の寛大で博愛的対応によって全て解決した。この年の偉人は非常に多く、学生がテストや受験で頭を悩ませるポイントのひとつになっている。これが史実、世界共通の歴史的真実として行き渡っている。
だが、それに対して瑠奈は天を仰ぎ、首を横に振った。
「駄目だねぇ織原ちゃん、それじゃテストは満点でも馬鹿丸出しよぉ?」
「テストで満点の何が悪いのか、ご高説願いたいものね」
瑠奈から馬鹿にされた莉乃は不機嫌そうに言い放つ。この世界で満点を取ること、完璧であることの重要性は言うまでもなく高い。本来、馬鹿にされる道理はどこにもないはずである。
「織原ちゃん、私達は管理された家畜になってちゃいけないんだよ。世界を変えた力を持つ私達はね、それに相応しい在り方をしなきゃいけない義務がある」
穏やかな口調で、囁くように口に出したそれは、莉乃に向けられた言葉でありながら瑠奈自身への自己暗示を思わせるようだった。
「2100年が地獄の年となった経緯、超能力――『超人類発現計画』は2048年まで遡る」
野比瑠奈は織原莉乃へ語った。この世界の真実、超能力者による世界制圧という隠された歴史。今享受している日常が歪んだ平和であること。世界は、日本と名乗っていた国に支配される以外の選択肢を潰されてしまった事実を。
「……面白い作り話ね。アンタ、小説家とか向いてるんじゃない?」
瑠奈の話を聞き終えた莉乃は鼻で笑う。あまりにも支離滅裂な、これまで学んできた人類史との矛盾の嵐に笑わずにはいられなかった。
「仮にそれが真実だとして、なんで世界は仲良しできるのよ。そんな無理やり抑えつけても反発は起こる、世界平和になる以前の紛争がまさにそれじゃない。」
「だからさ、超能力――って、見せた方が早いよねやっぱ」
懐疑的な目を向け続ける莉乃に対して、瑠奈は睨むように視線を飛ばし、莉乃へ飛ばすようにパチンと指を鳴らした。
「やっぱり付き合った私が馬鹿だったじゃない。もう帰――え……?」
帰路につく前に捨て台詞をくれてやり、長い黒髪を掻き揚げる。すると、莉乃は強い違和感に襲われた。癖でよく髪を掻き上げる彼女だが、いつものようには髪が手を離れない。
それも無理はない。先程まで胸ほどまでだった綺麗な長髪は、地面を目指す様に伸び出していたのだから。
「髪!? 私の髪!?」
「良い反応ありがとっ! ホイホイ人に使わないから新鮮な反応は楽しいねっ!」
愕然とする莉乃を見て瑠奈は大笑いして茶化した。莉乃の髪は地に着くとピタッと伸びるのを止め、そこにはスーパーロングヘアーの日本式妖怪を彷彿とさせるような莉乃の姿が出来あがっていた。
「ね? こういうこと。私の能力は『成長促進』、対象生物の成長を司る」
瑠奈は自身の人差し指を口に添えると、その爪をスッと額の位置まで伸ばして見せた。
「た、橘先輩はなんで――」
「あぁ、あのゴツい先輩は急激に筋繊維の成長を促してやっただけだよ。身体が異常な反応出して失神、って所かな?」
「じゃあ先輩を殺したわけじゃないのね……」
「殺しぃ? やだなぁ織原ちゃん、私みたいなキュートな美少女が人殺しなんてするわけないでしょ! むしろ起きたらあの先輩、ムキムキになって私に感謝感激よ?」
くるくると回りながら瑠奈は愉快そうに答えた。莉乃はそれを聞くと胸を撫で下ろし、自分の異様に伸びた髪の毛を手に取り見つめていた。
「織原ちゃんにもあるんだよ、力」
驚嘆しながら髪を弄る莉乃に、瑠奈は今までの明るい雰囲気とは違う優しい声をかける。莉乃はその声に顔を上げた。その顔は期待と希望に溢れた、好奇心旺盛な少年を思わせる明るい表情だった。
不安を一切感じさせない爛々とした目に、声をかけた瑠奈も少し驚いてはいたようだった。
「瑠奈、私を連れてってよ」
今まで、16年強を退屈に過ごしていた織原莉乃はそこにいなかった。未知へのこの上ない好奇心、非日常への憧れ、世界の真実をねじ曲げる力の保有。これだけの材料があって彼女がときめかないわけがなかった。
「刺激的な毎日ってやつ。違ったら怒るからね?」
満面の笑みを浮かべる莉乃に、瑠奈は彼女へ向かって走り出し抱きついた。頬を赤らめ、微かに涙ぐんだように見えるが、彼女もまた眩しい笑顔であった。
「約束するよ……私達、もう運命共同体だもん……」
夕焼けを背景に2人の少女は、その柔らかな細い身体で抱きしめ会う。
ここから始まった彼女達の物語は輝かしい希望に溢れた物語か、あるいは凄惨で目も当てられない程の悲劇か。まだ知る者は誰ひとりとしていない。
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