第2話:『人格なき学識』と『労働なき富』

「コウタ?」


 小さく開かれた扉の向こう側にいるサラは、銀色の前髪を揺らし、その青い瞳をコウタに向けた。


「昨日はすまない」


「なぜ謝るの? 後悔しているの?」


「そういうわけじゃない。ただ……」


 サラは小さくため息をつくと、「いいわ、少しだけ話をしましょう」と言って扉を開けた。

 テーブルに置かれたマグカップも、小さなベランダに干されている洗濯物も、今朝と何も変わっていない。まるで時間が止まったような空間に、コウタは夢の続きを見ているような不思議な感覚に包まれた。


「サラ、君はずっとこの街に住んでいるのか?」


「ええ、私の肌は白いけれど、この国の生まれよ」


「そうか……」


 コウタは後ろめたい気持ちに襲われつつも平静を装う。内戦調停を行った国連軍は、米軍を中心として、日本の自衛隊、中国陸軍、英国空軍などが参加していた。激化する内戦に手を焼いた国連軍は、アザニア人民機構の拠点であったこの街を徹底的に空爆したのだ。


「あなたがたの軍事介入によって、この国は一瞬で消え去った。それから四半世紀を経て、あなたたちは復興と称した先進国主導の傀儡国家を作り上げようとしている。まるで最初からそう望んでいたかのように」


 消滅した国、旧アザニア共和国に目を付けたのが、日系企業、田邊重工株式会社だった。汎用型人工知能を搭載したエンフォーサー、そして政治的意思決定支援システム『ミソラ』の試験稼働に、適度に人口が密集したこの無政府地帯を選んだのだ。


「ふふ。ごめんなさい、あなたを責めるつもりはないのよ」


 うつむくコウタに、サラはそう言って微かに笑った。


「人の意志決定には合理性が欠けるんだ」


「合理性?」


「人の意志決定には常に恣意性が紛れ込む。だからこそ、政策決定には『ミソラ』が大きな力になる」


「結局、あなたも向こう側の人間ね」


「この国をより良くしたいと願う気持ちは君たちと同じだと、そう思っている。実際、エンフォーサーが導入されてから、この国の治安は数年前とは比べ物にならないほど改善しているはずなんだ」


 窓の外にはストロナペスの夜景が揺れていた。それは確かに生活の重視がもたらした格差社会の象徴でもある。だがしかし、幸福な社会は、格差とは無関係ではいられない。比べること、違いを見ること、多くの幸福感は、格差に基づいているのだから。だからこそ、格差に対するには、ある種の倫理性が宿るのだ。


「あなたは何者?」


「国家情報調整委員公安部の刑事だよ」


「公安の刑事さん。コウタにはお似合いの仕事ね。もう帰っていいわ。昨日のことは気にしていないから」


「不快にさせてしまってすまない。でもこの国を豊かにしたい、僕はそう思っている」


 サラは微かな笑みを浮かべると「そうね」とだけ言ってコウタを玄関まで見送った。コウタが扉を閉めようとしたとき、「ねえ、あなたに大切な人はいる?」とサラが問いかける。


「ああ、大事な友人がね。彼とは長い付き合いなんだ。きっとこれからも……。サラ、また会えるかな?」


「あなたがそう望むのなら。様々な形で」


★☆★

「エンフォーサーの破壊は情報調整委員会への挑戦ともいえるテロ行為に近い」


 旧スラム街の中心にある石畳の広場には、朝から人だかりができていた。


「テロ行為ってスティーブ、それは少し大袈裟じゃないか?」


 広場の中央にある、水の枯れた噴水プールの周囲には、公安部の治安維持執行ヒューマノイド、エンフォーサーが無残にも破壊され、黄土色の地面に横たわっている。


「そりゃ、楽観ってもんだ。このありさまよく見てみろ」


 その数十二体。分厚い軍用装甲に守られ、高性能汎用型人工知能を搭載したエンフォーサーが、通常の治安維持活動において、人間によって破壊されるとは想定しにくい。


「犯人はエンフォーサーの構造をよく知っている。後頸部のアクセスポートは装甲が薄いんだ。そこにAK-47の弾丸を見事に撃ち込んでいる。プロの仕事だよ、これは」


「おいスティーブ……これを見ろ」


 コウタの目の前に横たわる一体のエンフォーサー。その左腕に装備されている小型端末が青白く光っており、モニターにはアザニア語文字が点滅していた。


「『人格なき学識』。人工知能に学識は在れど人格は宿らない……か。例の娼婦と肥満男の事件現場に残されていたのは『良心なき快楽』と『道徳なき商業』。もしかしたら……」


「いくら同じ武器が使われていたからと言って、あの事件と関連があるとは思えない。それに、この国にAK-47なんてありふれている」


「コウタ。お前、本は読むか?」


「本って、あの紙の束のことだろう? ネットワーク上でいくらでも情報を引き出せる時代だぞ。そんなもの持ち歩こうとも思わないし、ペラペラ紙をめくるなんて僕の性に合わない」


――これはそれくらい意味のある本よ。私にとってもあなたにとっても


 コウタの頭の中でサラの透き通った声が反芻されていく。


「たまには紙の本を読んだ方がいい。不安定な感情を調整してくれる素晴らしいツールだ。まあ、ちょっと付き合え」


 そう言ったスティーブは、コウタの肩を軽く叩くと足早に車に乗り込んだ。


★☆★

 ストロナペスの巨大な地下駐車場で車を止めたスティーブは「降りるぞ」とだけ言って、奥のエレベーターホールに向かって歩き出した。


「どこへ行くんだ?」


 コウタの問いかけに、「まぁ、ついて来い」と言った彼は、エレベーターを降りた先に延びる薄暗い廊下を歩いていく。突き当りの扉を開けると、地下とは思えない巨大な空間が広がっていた。

 壁は全て書棚となっており、隙間なく大小さまざまな本で埋め尽くされている。


「旧アザニア共和国の英知。この国に存在した、ほぼ全ての本だ」


「ストロナペスの地下にこんな空間があったとはね」


「国立図書館としてアザニア政府と共同管理を行っているそうだ。ちなみにすべての書籍内容がウェブ上にアーカイブ化されていない。つまりネットワーク上では入手できない情報ってわけだ」


 広い館内に人の気配はない。高い天井に反響した二人の靴音だけがこだましていく。


「なぜ電子化されないんだ?」


「アザニア語を訳すのは簡単なことじゃない」


 そう言ったスティーブは、茶色の書棚の前で足を止めた。


「きっと、このあたりにあるはずなんだが……。ああ。これだ」


 スティーブが手に取った本の表紙を見てコウタは言葉を失った。不自然なほどの心拍数が血管を押し広げ、頭痛を感じたコウタは無意識にこめかみを抑える。


「その本は……」


「知っているのか?」


 灰色の表紙にアザニア語文字。それは紛れもなくサラが大事に抱えていた本だった。


「いや、なんとなくどこかで見たような、そんな気がしただけだ」


 サラと初めて会話した日、コウタと彼女を巡り合わせた本。その日の光景がコウタの脳裏にフラッシュバックしていく。


『それは、どんな本なんだい?』


『本はそれ自体に意味があるわけじゃないわ。本に書かれているのは文字でしかない。そこには作者の伝えたいメッセージだって存在しないの。どんな本なのか、それは読み手自身が決めることよ』


「スティーブ、それはどんな本なんだい?」


 コウタはあの時と同じ問いを口にした。たとえ凡庸な問いであっても、それが切実に響く瞬間がある。人はなぜ生きているのだろうか。そう問うのと同じように。


「旧アザニア共和国の国王だったチャンドラ・エマーソンの『七つの社会的罪』という本さ。チャンドラはアザニアの英雄と崇められている」


「七つの罪……」


 スティーブはページをめくりながら話を続けた。


「そう。えっと……ここだ。理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰の七つ」


「それって、まさか……」


「ずっと、どこかで見たような気がしていた。そう、犯行現場に残されているメッセージだよ」


 サラがこの事件に関わっている。コウタはそう直感した。何かの間違いであってほしいという感情が、その直感をスティーブに伝えるべきではないと訴えかける。

 直観の否定、確信への懐疑。そんな矛盾を孕んだ心情に対して、コウタは微かな希望を祈ることしかできない。


「念のため公安本部にも連絡しておこう」


「しかし、なぜこんな手の込んだことを……」


「旧アザニア統治機構の残党は未だ存在する。むろん彼らは田邊重工や、僕たち国家情報調整委員を快く思っていない。詰まるところ、これは平和を語った国家の占領に他ならないからね」


「断罪のつもりか……。しかし、それによって国が豊かになれは、そこで暮らす人々は幸せになれるのでは」


 コウタはカトリックだ。日曜の礼拝は欠かさない。アザニアのスラムにも小さいながら木造教会があった。

 彼はそこで祈る。この国が豊かに、そして人々に幸せな生活が訪れるようにと。


「だからお前は日本人なんだよ。豊かな社会が必ずしも人に幸福をもたらすわけじゃない。君の祖国の自殺率が、国際的にみても異常に高い数値をはじき出しているという事に、もっと自覚的でいるべきだと思うけどね」


 その時、スティーブのウェアラブル端末から緊急連絡の通知アラートが鳴り響いた。


「コウタ、悪い予感は当たりそうだ。国家情報調整委員会執行メンバーの一人、チャン・スングンが殺害された。遺体の脇には『労働なき富』だそうだ」

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