ストロナペスへの断罪

星崎ゆうき

第1話:『良心なき快楽』と『道徳なき商業』

 地上に出た地下鉄メトロは、荒廃したアザニアの中心地を駆け抜けていく。薄暗い車内に乗客は少ない。

 長瀬ながせコウタの向かいには、一人の女性が座っていた。うつむきながら眠っている彼女は、いつもこの時間、同じ車両に乗っている。銀色のショートボブから覗ける彼女の肌は透きとおるように白い。


 やがて列車は終着駅のホームに滑り込む。減速する車内に慣性の力が働き、彼女の右手に握られていた一冊の本が床に落ちた。列車が完全に停車すると、彼女はゆっくり瞼を開ける。その青い瞳は一瞬だけコウタを捉えたが、落とした本に視線を向けることなく、彼女はホームに降りてしまった。

 コウタは車内の床に残された灰色の本を手に取り、急いで彼女を追いかける。


「あのっ。この本……」


 コウタの声に振り返った銀髪の女性は、彼の手に握られている本に気づくと、踵を返して駆け寄ってきた。

 ずしりと重たい灰色の表紙には、アザニア語でタイトルらしきものが書かれている。しかし、コウタにとってその文字は異国の言語だ。その言葉の意味を理解することは適わない。


「大事な本をありがとう。私はサラ。あの、御礼をしたいのだけど……」


「いや、そんな。たいしたことじゃない」


「それくらい意味のある本よ。私にとってもあなたにとっても」


「僕にとって?」


「ええ、きっと。そうあってほしいと願うのは、私のわがままかしら? あなたの名前は?」


「僕は長瀬……。いや、コウタでいい」


「コウタ、不思議な名前ね。よかったら少し遅めの夕食でも一緒にどうかしら。もちろん、おごるわ」


 コウタは左腕に装着したウェアラブル端末を確認する。時刻は午後八時。コウタにとって、それは遅い夕食というより、むしろタイミング的には早い方だった。


「じゃ、少しだけ……」



 アザニア復興の中心地であるこの街は、人口も多く駅前はにぎわっていた。メトロの駅は、旧スラム街に位置しているため、近隣には貧困層の居住エリアが広がっている。しかし、街の中央を貫く通りの先には、アザニアの象徴、ストロナペスと呼ばれる超高層ビルがそびえ立っていた。

 施工は日系企業の田邊重工株式会社。同社のオフィスビルとしだけでなく、アザニアの政治中枢としても機能しているこのビルには、国家情報調整委員会の本部と、政治的意思決定支援システム『ミソラ』の管理中枢が存在する。


「あのビル、こうしてみると綺麗だな」


 舗装が行き届いていないデコボコの地面を歩きながらコウタが呟く。街には他に高層の建造物がないため、ライトアップされたストロナペスは、宵闇に浮かび上がる天空城のようだ。


「そうかしら。まるで、格差社会の象徴のよう」


 ストロナペスの周囲には、旧スラム街とゴーストタウンと化した商業区画が広がっていた。半世紀に及ぶ内戦で、市街の主要建造物は、その多くが消失してしまったか、あるいは瓦礫の山となってそのまま放置されているのだ。


「ここよ」


 サラはレンガ作りの小さな店の前で足を止めると、正面のガラス扉を開けた。そのまま店内の奥に進むと、小さなカウンター席に腰かけ、二人分のビールを注文する。


「それは、どんな本なんだい?」


「本はそれ自体に意味があるわけじゃないわ。本に書かれているのは文字でしかない。そこには作者の伝えたいメッセージだって存在しないの。どんな本なのか、それは読み手自身が決めることよ」


 運ばれてきた安物のビールに口をつけ、サラはゆっくりと息を吐き出した。列車の走行音が振動となって、木製のカウンターをカタカタ揺らしていた。


★☆★


 翌朝、コウタは端末のアラーム音で目を覚ました。隣りに寝ていたはずのサラの姿はない。既にどこかへ出かけた後なのだろう。テーブルの上には飲みかけのコーヒーが入ったマグカップ一つだけ。小さなベランダに干された洗濯物が風に揺れていた。


 サラの住んでいる部屋は、スラム郊外のアパートだ。その外壁には無数の弾痕があり、内戦の傷跡が生々しく残っている。対照的にサラの部屋は几帳面に片づけられており、余計なものが一切なく極めてシンプルだった。

 コウタはベッドの脇に脱ぎ捨ていた自分の服を着ると、狭い台所で顔を洗い、口を軽くゆすいだ。



 アザニアのシンボル、ストロナペスの裏手に広がる商業区画は、旧スラム街よりもさらに荒廃している。薄汚れたバラックテントひしめく狭い路地を、足早に駆け抜けたコウタは、ようやく同僚のスティーブを見つけた。


「おい、コウタ。遅いぞ」


 スティーブとは学生時代からの付き合いだ。共に工学系出身で、田邊重工株式会社に入社後は、産業用ヒューマノイドの開発に携わっていた。彼らが手掛けたヒューマノイドは、エンフォーサーと呼ばれ、今ではアザニア中心地の治安維持活動を展開している。


「すまない。昨夜は少し飲みすぎた」


 国家情報調整委員会 公安部異動の辞令も同時期だったから、かれこれ十年以上の付き合いになる。


「遊びは大概にしろ」


 スティーブはそう言うと、キープアウトを書かれた黄色のテープをまたぎ、正面に建つ古びたアパートに入っていった。手袋をはめながらコウタも彼に続く。


 狭い廊下を抜け、半開きの扉から部屋に入ると、鉄くさいにおいが鼻を衝く。コウタはポケットから取り出したハンカチで口元を覆いながら、飛び交う羽虫を払いのけ、部屋の中央に置かれたベッドに歩み寄る。飛び散ったであろう血液が、部屋の壁や天井をまだらに赤く染めていた。


「お楽しみ中のところか……」


「コウタ、お前もこうならなきゃよいがな」


 ベッドの上には、仰向け横たわる全裸の女性と、その上に積み重なるようにして倒れている肥満した男性の遺体。ほぼ原形をとどめていないほどに弾丸が撃ち込まれていた。


「この男、白人だな」


「まさか身内じゃないだろうな。公になったら、暴動の火種になるぞ。治安維持部門は深刻な人手不足だってのに……」


 スティーブはそういって遺体の顔を覗き込んで顔をしかめた。後頭部から撃ち込まれている弾丸は頭蓋骨を貫通し、顔面を破壊し尽くしている。


「AK-47。汎用型人工知能による軍事兵器が当たり前の時代に、この国では前世紀の、それもロシア製の武器が現役だなんて」


「オーバーホールしてメンテナンスすれば高く売れるぞ。コウタの国では、こういうの結構人気なんだろ?」


「さあ、少なくとも僕は骨董品に興味はないよ。それよりもスティーブ、これを見てみろ。アザニア語だと思うけれど、なんて書いてある?」


 コウタは窓際の床に、血液で書かれたと思しきアザニア語の文字を指さした。


「『良心なき快楽』と『道徳なき商業』。なんだこれは……」


 お手上げだ、というようにスティーブが首をひねる。


「自分の体を金で売る女と、それを買う男……。そう言うことか?」


窓から湿気を孕んだ生ぬるい風が差し込んで、血にまみれたカーテンが揺れた。

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