幕間 根木颯太郎の憂鬱

 顧客企業との打ち合わせを終え、根木颯太郎はオフィスビルの外でようやく緊張の糸を解いた。


 先週の金曜日、菜園で自分が突然意識を失い、その間にトマティーヌとかいうトマトの精霊に憑依されていたという話。


 そんな荒唐無稽な話を全面的に信じているわけではないものの、いつまた自分が意識を飛ばし、得体の知れない何者かに体を乗っ取られないとも限らない。

 そう考えるとこの一週間、根木としては全く気が休まる時がなく、特に営業の仕事で人と会っている時は、不安と緊張のあまり打ち合わせにも身が入らなかった。


 しかし、とりあえずあの日以降、自分の意識が遠のいたり、無意識のうちに奇怪な行動をしたりということはないようだ。

 明日はまた菜園での作業日だ。

 それでまた自分がどうにかなってしまったら、その時は多重人格障害を疑って、カウンセリングでも受けようか、とも考えていた。


 駅へと着いて、帰社するための電車に乗る前に、一度メールをチェックする。


 届いていた新着メールは同期の尾倉香菜からのもので、明日農作業に赴くまでにセミナーの企画を練り直したいから、打ち合わせのフィードバックを今日中に送ってほしいということだった。


 いかにも事務的で無機的な文面に目を通して、根木の口からため息がこぼれた。


 当たりが強く、とっつきにくいと常々思っていたが、最近はごくたまに驚くほどしおらしく素直な表情を見せることがある。

 もともとが根木好みの外見をしているだけに、そんな香菜には途端に心臓が高鳴るものの、すぐに元のキツい雰囲気に戻ってしまうため、そのギャップに内心戸惑っていた。


 しかし、先週の菜園で、根木は目撃したのだ。

 裸眼だった尾倉香菜がメガネをかけた瞬間、彼女の纏う雰囲気ががらりと変わったところを——


(俺がトマトの精霊に憑依されたって言うんなら、あれだって一種の憑依なんじゃないのか……?)


 そんなことをふと考え、我に返って首を振った。


 那須田達にのせられてオカルト現象を信じるなんて馬鹿らしい。


 香菜の場合、企画部門のホープであると同時に、神崎社長の信奉者として彼の理念を体現するべく、セミナーの企画内容に一切の妥協を許さないという気概をもっている。

 ただでさえ若い女性という社会的偏見の見くびられやすいハンデを負っているわけで、上司だったり他部門の人間だったりとの擦り合わせにおいても、自分の企画した内容に絶対の自信を持って強気で渡り合わねば、相手の都合よく丸め込まれるのがオチだ。

 彼女の紅縁メガネは、必死で戦う彼女にとっては鎧のようなアイテムなのかもしれない。


 そう。

 純粋で素直な本当の自分を見せず、信念を曲げない強い女性であることを誇示するための防具──


(……だとしても、メガネをしていない時の方が、顔も性格も断然可愛いんだけどな)


 そんなことを思いつつ、「了解」との返信を送り、根木は到着したばかりの電車に乗り込んだ。


 吊革につかまりながら、なおも考える。


 彼女が鎧を必要とするのは、誰にも頼ろうとせずに一人で戦っているからだ。


 彼女の信念を支え、協力する存在がいれば、彼女はもっと素の部分を出していけるのかもしれない。


 営業部門という立場上、顧客に売り込みやすい “商品” としてのセミナーを自分は求めている。

 理念の体現を図ろうとする香菜とは事あるごとに対立する立場だが、もしもそんな自分がもっと彼女に寄り添っていけたら、彼女はあの刺々しいメガネを纏う必要がなくなるのだろうか。


(……なんてことを真剣に考えるなんて、まるで俺が彼女に特別な感情を持ってるみたいじゃないか)


 仕事にも恋愛にも常にクールかつスマートであることを自負する根木としては、トマティーヌの出現や香菜の豹変に振り回される最近の自分に納得がいかない。


 そんな心のもやもやを吹き飛ばそうと、根木はバッグから取り出したイヤホンをを耳に押し込み、お気に入りの海外アーティストの最高にクールなナンバーを聴き始めるのだった。




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