第6話 カードを返しに行った日の話
今日は、さっちゃんから借りたカードを返しに行った日の話をしようと思います。今回はタロットの話はまったく出てきません。
◇
「まず最初はドイツのフランクフルトに行ってね、ライン川の古城めぐり。あゆみはローレライ歌うって気合い入ってる」
「先輩、街中で突然歌い出して警察につかまらないでくださいね」
麻衣子先輩はいつものオカルトな雰囲気とは違う邪気のない笑顔でいいました。普段は割と不機嫌な顔をしていることが多い麻衣子先輩ですが、笑顔の先輩はヤバさが抜けて、普通に明るい素敵な女子大生です。
「あとどっかで千の風になっても歌いたいんだって」
先輩とあゆみさんの女声二部合唱はなかなかきれいなハーモニーで、一聴の価値がありました。あゆみさんがソプラノ、麻衣子先輩がアルトです。麻衣子先輩がハーモニカで伴奏することもありましたが、これもなかなかあゆみさんの声とマッチしていい感じのものでした。
「いや、選曲には異論ありませんって。TPOをわきまえてくださいって言ってるんです」
「ふふふ。ゆうすけクンにはマルセイユタロット買ってきてあげるね」
だめだ。すっかり頭が文字通りトリップしてる……。
出発の前日にサークルの控室で麻衣子先輩と話をしながら「舞い上がってる麻衣子先輩も悪くない。むしろ、いつもこうだったらかわいいのに」と思いました。
十月も半分すぎたある日、先輩はあゆみさんと文学部の二年生の女の人と三人でヨーロッパに旅立って行きました。
僕は課された宿題の重さに眠れない日々を重ねます。
結論なんて出ています。
手段なんて限られています。
考えることなんてほとんどありません。
必要なのは決断だけ。
それは遅くなればなるほど不幸を招くことになるのです。
◇
それから数日過ぎたある日の夕方。
僕は本屋で買物をした後、ノーアポでさっちゃんのマンションに行きました。
玄関のオートロックで部屋番号を押すと一瞬間があって「はい」とさっちゃんの声が聞こえます。
「ごめん、いきなり来て。今いい?」
「なんだ、ゆう君か。今開けるね」
さっちゃんは特に訝ることもなく玄関のロックを外してくれました。僕はエレベーターに乗って彼女の部屋まで行きます。
玄関で呼び鈴を鳴らすと、今度はすぐ扉が開いてさっちゃんが顔を出します。さっちゃんは部屋ではコンタクトレンズを外して眼鏡をかけています。
彼女は少し微笑んで「どうぞ」と部屋の中に僕を通してくれました。部屋に入ると小さなダイニングキッチンがあり、その向こうにベッドと机があります。机の上には「人文学基礎演習」という一般教養の講義の教科書と彼女が愛用している水色のコーヒーカップ。そこからは湯気が上っています。コーヒーの香りが部屋に拡がっていて鼻をくすぐります。どうやらコーヒーを淹れたばかりのようです。
「コーヒー飲む?」
そう聞いてくれる彼女に「いや、すぐ帰るから」と断りを入れて、僕は立ったままタロットの本をリュックから出して彼女に向かって差し出しました。
「これ、返しに来た。それと……」
「……」
さっちゃんは、うすうす感じていたであろう僕が彼女の家に突然来た目的を確信したのでしょう。すっと緊張で顔色がなくなりました。
僕は「決心が鈍ってはいけない。最初に結論だけを言え。何度も家でシミュレーションしてきた通りに話すんだ」と自分に鞭を入れて言葉を発します。
「別れ話を……しに来た」
できるだけ機械的に。できるだけ無感情に。できるだけ僕だけが悪者になるように。
「……紗月、俺たち、別れよう。友達に戻ろう」
みるみる彼女の目には涙がたまっていきます。唇をかみしめる彼女の姿は痛々しいなんてもんじゃありません。でも、僕にはそれを見届ける義務があるのです。
大声で泣かれるか。それとも詰られるか。ひょっとすると麻衣子先輩との仲を誤解して謗られるか。いろいろなパターンを想定していました。さっちゃんに限って取り乱したり暴れたりということは考えづらかったのですが、何を言われても僕は黙って聞くつもりでした。
―――しかし。
長い長い沈黙の後、さっちゃんは手で涙をぬぐいながら、僕のシミュレーションにまったくなかった言葉を発しました。それは、あまりにもさっちゃんの口から出てきてほしくない言葉でした。
「……ゆう君、私、つまんない女でごめんね……」
ああ!
なんで!なんでだよ!
なんでさっちゃんが謝るんだ!
悪いのは僕なんだよ!
詰ってくれよ!
殴ってくれてもいい!
自分のことをつまんないなんて言うのやめろよ!
僕は咄嗟にさっちゃんを抱き寄せそうになるのをぐっとこらえます。僕にそれをする資格はもうありません。もう、ないんです。
「……私、ゆう君と友達になんて戻れない。ごめんね……」
彼女は両手で顔を覆って泣き続けました。僕も泣きそうです。やっぱりやり直す道を選んだ方が良かったのか、と後悔しました。でも、ここでくじけてはいけない。
僕は少し迷いましたが、さっちゃんの両肩に手を置きました。さっちゃんは泣き顔をあげて僕をみつめます。
「紗月、元気でな……」
「……」
「ずっと、応援してるから……」
僕はやっとのことでそれだけ言うとさっちゃんの部屋を後にしました。
◇
その帰り道。
僕はまっすぐ自分のアパートに帰らずに、川沿いの公園のベンチに佇んでいました。どれぐらいの間そうしていたのか。時間の感覚がまったくなくなっていました。夜の川は暗く、十月の終わりの川風が僕の頬の涙の跡を冷たく撫でます。
さっちゃんの泣く顔なんて見たくなかった。自分を卑下する言葉なんて聞きたくなかった。
でも、このまま付き合い続けても、もうそれは誠実ではない、と僕は思っていました。いずれそう遠くない時期に、もっと不幸な形で、さっちゃんと道を分かつことになるのは間違いなかったことでしょう。カードは明らかにそれを示唆していました。しかし、たとえカードに出ていなくても、僕はそれを自分の中で確信していました。
せめて、僕がまださっちゃんを好きなうちに。
せめて、僕がさっちゃんのことを疎ましく思うようになる前に。
それでも……。
……それでも、今、別れる必要があったのか。
……今、彼女を泣かせる必要があったのか。
……今、別れ話をするのは僕のわがままでしかないんじゃないのか。
何度も何度も考えたことなのに、いつまでも答えはみつかりませんでした。
「これで、良かったんだろうか……」
僕はリュックの中にある二か月前にさっちゃんから借りたカードに向かって問いかけます。
さっちゃんには本屋で同じカードを買って、その新しく買った方を返しておいたのです。僕は例え同じものであっても、さっちゃんから借りていたこのカード以外では占いができる気がしなくなっていました。
◇
あの日から干支一回り以上の月日が流れました。
さっちゃんの痕跡は時間の流れとともにだんだん僕の身の回りから消えて行き、今ではほとんど残っていません。
しかし、僕の手元に残る、さっちゃんから借りたこの二十二枚のカード。
時計台で二人で写った写真と、この二十二枚のカードがある限り、さっちゃんと過ごした十八歳と十九歳のあの時間を、僕が忘れることは絶対にありません。
さっちゃんはどこかで今も物語を書き続けていることを、僕は信じています。
そしてその物語が楽しいお話であることを、僕は心から祈っています。
十九の僕の、わがままに対する謝罪の意をこめて。
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